砂漠の薔薇 01


ひとりの旅人が、一面の砂漠の中を歩いていた。容赦なく照りつける日差しは旅人の体力をじわじわと奪っていく。連れ立って歩を進めるラクダも、さすがに疲れたようで段々と歩みが鈍くなり始めていた。長い睫毛を揺らすラクダの首を撫でてやりながら、旅人は幾度目かも分からない溜息をついた。

――早く、オアシスのある場所へ。

地平線の向こう側に、目的地である砂漠の国が見える。見えてはいるのだが、先程から一向に景色が変わらない。近付くごとに街が遠のいていくような気にさえなる。まるで何か大きな力が、旅人をこの砂漠へと閉じ込めようとしているのではないかと思うほどに。けれど、きっとそれは錯覚だ。街が遠のいているのではない。街へ近付こうとする自分の体がゆっくりと機能を低下させているのだ。
水を求める気持ちばかりが逸って体がそれに追いつかない。喉がからからに乾いている。ラクダの背に提げた水筒は、もう大分前から空のままだった。
口元の布をぐっと引き上げて、遠くに見える街を見据える。あと少し、あと少し。あそこへ行けば水がある。何度も自分に言い聞かせながら、重たい体を引きずった。




「じゃあ今回は、そちらの布と交換ってことでいいですよ」
「本当かい!?もうすぐ税の取り立ての時期でさあ、現金の手持ちが欲しかったんだ。助かるよ」
「いえいえ、こういうのは助け合いが大事ですから」
「ありがたいねえ。これでしばらくは水に困らなそうだよ。……それじゃあマコト、達者でやれよ」
「はい、お客さんもお元気で!」

水樽が乗せられた荷車を引いてく客を見送って、マコトはひらひらと手を振った。今日予定していた取引はとりあえずこれで終わりだ。ふと空を見上げると、太陽は南中を少し過ぎて僅かに日差しを緩めていた。しかし雨は降りそうにない。思わず小さな息が漏れた。

ここは四方を砂に囲まれた砂漠の国である。埋蔵する資源は乏しいが、各地に点在するオアシスの恩恵を受けていくらか産業は栄えていた。
マコトはこの国で商人をしている。何を売るかは決まっておらず、とにかく取引の相手次第で何でも用意するのが店の流儀だった。精巧な刺繍が施された絨毯、細微まで丁寧に彩色された壺、掘り出し物の怪しい骨董品もあれば、なんてことはない日用雑貨まで取り揃えている。
そして忘れてはいけないのが水だ。表向きは何でもありの雑貨屋だが、その実、マコトの店で行われる商売のほとんどは水に関するものだった。この国では常に水が不足しており、数少ないオアシスも金持ちに独占され、庶民が自由に水を手に入れることは難しい状態にある。マコトはオアシスを管理する富豪と取引をして水を買い付け、それを一般の商人などに売っているのだ。この仲介役の仕事は中々に割が良く、本来の雑貨屋業よりもむしろこちらの方が生活の支えになっていた。

庶民は恒常的に水不足に悩まされているというのに、富裕層は水を好き放題使っている。一部の有力貴族や富豪たちは、この国をして「水に愛された国」と呼んでいるらしい。なんとも皮肉な話だ。
しかし、とある一点においてなら「水に愛された国」という表現は真実だった。この国には、世界中の誰よりも水の神に愛された人間がいるのだ。この世で唯一、「命の水」と呼ばれる特殊な水を生み出すことができる存在。民衆からは「水の神子」と崇められる奇跡の体現。
「水の神子、かあ……」
マコトはひとりごちて、小高い丘に佇む宮殿を見上げた。白の大理石で作られた荘厳な宮殿は、この国の王族と有力貴族たちの住まいだ。そして、「水の神子」もそこにいるという。下町でしがない生活を送るマコトのような庶民には縁のない話だ。……今は、もう。

なんだか無性に虚しくなって、マコトは視線を地面に下ろした。庶民は庶民らしく慎ましやかに生きればいい、そう思って店の中へと戻ろうとする――が。
「ブベエエエエエエエエエ」
「……え?」
振り返るや否や、耳に突き刺さる大きな鳴き声。目の前に広がる長い睫毛と獣の顔。生ごみをこねくり回したような酷い悪臭を放つ吐息。マコトの目の前に、至近距離でラクダが立っていた。これでもかというほどマコトの眼前に自分の顔を近づけて。
「ひ……っひあああああ!?」
マコトは思わず情けない悲鳴を上げながら飛び跳ねてしまった。この国においてラクダなど珍しいものではないが、さすがにここまで顔が近いと驚かずにはいられない。しかも振り返るまで気配すら感じなかったのだから尚更である。もしやこのラクダは隠密行動の訓練でも受けているのか?とマコトはありもしない想像をしてしまった。

大きな深呼吸をした後、マコトは冷静さを取り戻してラクダを観察し始めた。どこにでもいるヒトコブラクダだ。この辺りの住人は、自分のラクダだとすぐ分かるよう首にタグを付けているのだが、このラクダにはそれがない。そもそも背中に載せている荷物からして、砂漠越えをする旅人のものに違いなかった。しかし肝心の主人の姿がどこにも見えなかった。マコトは思わず首を傾げる。
「なあ、おまえ、どこの子だ……?」
「ブオオオオオオオ」
「あっ、ちょっ、裾食べるなってー!」
ラクダはまた一声大きく鳴いて、今度はマコトの服の裾を引っ張りだした。腹でも空いているのかと思ったが、ラクダは裾を噛んだままずりずりと後退を始めた。マコトはこのラクダの行動に心当たりがあった。自分が荷運び用に飼っているラクダも、何か行きたい場所がある時は決まってこの行動を取るのだ。
「……もしかして、ご主人のところに連れて行こうとしてる?」
おっかなびっくり尋ねてみると、ラクダはブオオオオオオ!!と勢いよく鳴き声を上げた。ご名答!と言わんばかりだ。人語を解しているのかは定かではないが、非常に利口な子だ。

ラクダに案内されるがままにマコトは後をついていく。商店の並ぶ通りを抜けて、薄暗い路地に来た。――果たしてそこに、旅人らしき人間が倒れ伏しているではないか。
「わっ……わあああ!?ちょっと、大丈夫ですかー!?」
マコトは慌てて駆け寄り、行き倒れの旅人を抱き上げた。ぐったりとして青ざめた顔をしているが、一応息はあるようだった。
こんな緊急事態においても商人の性は働いてしまうもので、マコトは咄嗟に旅人の服や装飾品を一瞥した。どこから来た旅人なのかは定かではないが、身に纏う布はどれも上質なものだ。とりわけ青い布は、この国ではあまり出回っていない素材のようだった。華美な宝石類はないものの、腰に提げた曲刀は一見しただけでもかなりの逸品であることが分かる。ただの旅人というには違和感がある。
僅か数秒の間にそこまで分析したマコトだったが、とりあえず今はこの人を助けることが大事だと思い直し、気を失っている旅人に声をかけながら肩を揺する。すると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。

「あっ……」
旅人の目は、どこまでも透き通ったアクアブルーだった。目を覗きこんだ瞬間、その深い青に吸い込まれそうな錯覚をおぼえる。マコトは思わず息を呑み、瞬き一つできないまま硬直した。
旅人はまだ意識がはっきりしないようで、瞳の焦点が合ったり合わなかったりしていた。瞳の奥で青がゆらゆらと揺れている。やがて自分を抱きかかえているマコトの存在に気付いたのか、僅かに唇を開けた。
「み…………」
「み?」
かろうじて聞き取れた音をマコトが復唱した。旅人は億劫そうに唇をぱくぱく動かして、なんとか息を声に乗せようとする。掠れた吐息は、やがてひとつの単語を形作る。

「み、ず…………」

やっとそう一言呟いたかと思うと、旅人の青は再び閉ざされてしまった。目の前にいるマコトへ、全ての祈りを託すように。





2013/10/20



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