夏の獣


夏の獣は獰猛だと人は言う。しかし自分が最近見た動物といえば子猫くらいで、牙を向いて襲い掛かってくるような凶暴さはなかった。どうせ言い伝えられている「夏の獣」も、この暑さにやられてへばっているに違いない――そんなことを思いながら、石造りの階段を一人で上る。
始まったばかりの夏はいよいよ蒸し暑さを加速させていた。夕暮れ時の今でもなお湿った空気が纏わりついてくる。部活動を終えたばかりでまだ乾ききっていない髪が、港から吹いてくる海風を受けて微かに揺れた。

玄関の引き戸に手を掛ける。この地域では家を空ける時も鍵をかけずにいるのが普通だった。現在は実質一人暮らしの七瀬家も例外ではなく、予備動作なしで扉がからからと開いた。そのまま何の気もなしに敷居を跨ぐが、瞬間、ひやりとした空気が頬を撫ぜた。外は昼間の熱をまだ引きずっているというのに、家の中に入った途端まるでそれら一切の熱が遮断されたような感覚を覚える。遙は玄関先で一度立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回した。居間のクーラーは今年に入ってからまだ一度もつけたことがないし、扇風機も家を出る時にきちんと止めてきたはずだ。冷蔵庫の扉を閉め忘れたわけでもない。
――あとで一度家の中を見て回るか。
そう考え、肩に掛けたバッグを持ち直して家に上がる。階段を上って2階にある自室に来ると、外と変わらない熱気が舞い込んできた。空気が冷えているのは下の階だけらしい。荷物をベッドの上に置き、部屋の窓を開けて換気をした。塩気を含んだ生温かい風が部屋の中を流れる。普段は不快なだけの暑さが、この時ばかりは柔らかな安堵を遙にもたらした。

部屋着に着替えてから再び1階に戻る。おかしなことに、先程感じた冷たさは掻き消えて、外や2階の暑さと変わらない空気が出迎えた。冷蔵室へ足を踏み入れた瞬間のようなあの冷気はどこへ行ったのだろう。遙は廊下に立ち尽くして首を傾げた。もしかしたらあの違和感は単なる勘違いだったのかもしれない。そう、夏の獣のことなんて考えているから。
なんだか急に何もかもが馬鹿らしくなって、溜息を一つついた。どうでもいい。家の中の異変よりも、今はこの後の夕食の献立を考える方が大事だった。冷蔵庫には確か一昨日スーパーで買った豆腐と油揚げが残っていたから、そこにワカメを加えて味噌汁でも作ろう。あとは鯖だけで充分だ。凝ったものは何もいらない。

暖簾をくぐって台所に入ると、流し台の蛇口から僅かに水が零れ落ちていた。ぽたん、ぽたん、一定の間隔で小さな水滴がシンクめがけて落下する。朝に食器を洗った時はしっかり蛇口を閉めたはずだが、何かの拍子に緩んだのだろう。よもやこれが先程感じた違和感の正体ではあるまい。無言で流し台の前に立ち、蛇口を右に回した。鈍い音と共に栓が閉まり、水が滴り落ちる音も止んだ。
――その刹那、再びあの感覚が遙を襲った。ひやりとした空気が背筋を這い上がる。まただ。何なんだこれは。不気味さよりも苛立ちの方が先立って、勢いよく背後に向き直る。

「……え?」

振り返った、その先。居間から続く縁側に、ひとりの背中が見えた。見慣れたあの黒いジャージには「鮫柄学園」と金の刺繍が施され、遙とは違う学校の名を背負っている。赤い髪は夕陽の橙を受けて少し彩度を落としていた。すらりと伸びた背筋からも、がっしりとした肩からも、何ひとつ迷いなど見いだせない。
心臓が止まったかと思った。姿を見た瞬間、少なくとも自分の周りの空間だけ時間が2秒ほど停止したはずだ。呼吸も忘れていた。果たして、自分はありもしない幻想を見ているのか。それとも、目の前に現れたこの背中は本物なのか。急激に跳ね上がった鼓動を誤魔化すように、遙はその名前を一度だけ呼んだ。
「りん、」
息が喉の奥に詰まってうまく吐き出すことができなかった。何歩分も離れたこの距離では届きそうもない。だが、その背中は前々から呼ばれることが分かっていたかのようにゆっくりと振り向いた。長い睫毛に縁取られた瞳が遙を見る。

「……ハル。」
にこり、と。目を細め、頬を緩ませ、歯を少しだけ見せて、笑った。まるでお手本のような微笑みだった。遙の記憶にある笑顔とはどれも合致しない。彼はもっと顔をくしゃりと崩して笑うのではなかったか。眉尻をこれでもかと下げて、大口を開けるのではなかったか。幼い記憶の中に大切に閉じ込めた笑顔とはかけ離れていた。こんなに綺麗な笑い方を遙は知らない。
遙が呆然としている間に、彼は胡座をかいていた脚を解いて立ち上がった。そのまま居間を横切って遙のいる場所へと近付いて来る。遙は狼狽して一歩後ずさった。しかしそれ以上体は動かず、彼との距離はどんどん狭まっていく。
「なんで、お前……ここに、」
どうしてここにいるんだ。投げかけようとした問いは途切れ途切れにしか出てこない。すると凛の顔をしたそれは、何度か瞬きをして立ち止まった。
「なんでって、ハルに会いに来たからだろ。……心配すんなって、ちゃんと外泊届けは出してきた」
笑い方は似ても似つかないのに、そうやって首を傾げる仕草だけは妙に懐かしさを感じさせた。まるで断片的に記憶を繋ぎ合わせたような。

――違う、そんなことが聞きたいんじゃない。
頭の中で何度も否定する。欲しいのはもっと根本的な答えだ。お前は誰だ、何故そんな姿でここにいる。いくらでも言うべき言葉はあるのに声にならない。陸へ打ち上げられた魚のように口をはくはくと動かして酸素を取り込むことに必死だった。息が喉の奥で詰まったままいつまでも出てこなかった。……さっき蛇口を閉めたからだ。あの蛇口と自分の喉は繋がっていて、完全に蛇口を閉めたことで喉も息を吐き出せなくなった。自分で自分の生命線を断ったも同然だ。そうに違いない。
馬鹿げた仮説で自分を納得させねばならぬほど、遙はいつになく恐慌していた。目の前の現象が何ひとつ信じられない。だって、凛がここに来るわけがないのだ。凛はあの突き放すような眼で、もう二度と共に泳ぐことはないと告げたのだから。そんな彼が自分から会いに来てくれるはずがない。

「なあハル、今日の夕飯なんにする?おれは稲荷寿司がいいなあ。」

……ましてや、そうやって当たり前のように笑いかけて、当たり前のように日常を紡ぐことも、きっとない。
頭では分かりきっているはずなのに、それとはまったく別の部分が意図しない言葉を吐き出していく。
「稲荷寿司なんてあるわけないだろ。味噌汁と鯖で我慢しろ」
「鯖ぁ?ハル、おまえいつもそればっかだよな。まぁおまえらしいけど。」
「文句があるなら食べなくていい」
「ちょ、食べないなんて一言も言ってねえだろ!?いいぜ今夜は鯖で。」

――なんだこれは。何なんだこの会話は。お前は知らないはずだろう、俺が鯖を毎日のように食べるなんてことを。「いつもそればかり」と呆れることができるほど食事を共にしたことだってない。「おまえらしい」という言葉は、俺の何を見て出てきた?
疑念と不信と、僅かばかりの恐怖。問い質すための言葉は喉に搾り取られて出てこなかったが、代わりに遙自身の意志を無視して他愛のない戯れの言葉ばかりが零れ落ちていく。まるで別の意志を持った何かに喋らされているかのようだった。
ちがう。これは、違う。ぴくりとも動かない体に苛立ちながら、頭の中でだけ首を大きく横に振る。目に映る綺麗な赤髪を否定することで更に喉がきつく締め上げられても、遙は拒絶を繰り返した。こんなものは、ちがう。

「どうした、ハル?気分でも悪いのか?ちょっと顔見せてみろ」
凛によく似た何かが、俯いたままの遙を心配そうに覗き込んできた。柔らかな光を宿した赤い瞳が見つめてくる。遙をいたわるためだけに向けられた視線だ。きっと自分は、こんな目を彼に向けてほしかったのだ。激しく突き刺すような敵意の篭った目でもなく、行き場を失くして縋りつくような弱々しい目でもなく。ただ、昔のような眩しさで笑いかけてくれるあの目で。――今はそんなものを望めるはずがない。遙は自らの手であの眩しさを壊してしまった。

「……お前は、凛じゃない」
ぽつりと絞り出された一言が、体の自由を取り戻していく。遙は両手で彼の肩をぐっと押しやり自分から遠ざけた。凛によく似た何かは、その拍子に体をよろめかせて何歩か後ずさりした。表情が一瞬だけ色を失くしたが、すぐさま肩を竦ませた。
「なに馬鹿なこと言ってんだよハル、俺は俺だろ?」
優しく柔らかく、心から遙を思いやる目で微笑む。とても綺麗な笑い方だ。こんなふうに笑いかけてもらえることを、心の底でずっと望んでいた。だからこそ。

「今のあいつは、そんな顔で笑えない」

受け入れるのだ。変わらない過去と、変わってしまった現在を。たとえそれが自分を傷付けるだけだとしても。
凛によく似た何かは、遙の肩に伸ばしかけた手をぴたりと止めた。呆然と見開かれた目から柔らかな光が消える。その代わり、まるで抑えきれないというように口元がゆるゆると歪み始めた。目は笑っていないのに口だけが笑みの形を取る。そのちぐはぐな表情を隠すために口元を右手で隠そうとするが意味はなかった。手も、肩も、全身も、ぶるぶると小刻みに震えていた。あふれだす笑いを止めることなどできはしない。

「あは。」

凛とまったく同じ声が、凛とまったく違う笑い方で甲高い声を上げる。あは、あははは、ふふふふふ。わざとらしく目を細め、口を三日月の形に歪めて笑う。
「なあんだ。せっかくおまえの心を読んでまで、理想を演じてやったのに。」
風が吹いてもいないのに庭の草木がざわざわと鳴り、地面が揺れてもいないのに棚の食器がかたかたと音を立てた。家に入った時に感じたあの冷気が遙の全身に這い寄ってくる。目に見えない大きな手に包まれているような錯覚。遙は強い眩暈を覚えながらも、両足を踏みしめてその場に立っていた。ぼやけはじめた視界を振り払うように、目の前にいるソレを強く睨みつける。
「だけれど、まあ、正直な子供はきらいじゃない。みずからの望む形が幻想にすぎないと知りながら、それから逃げることも、拒むこともしないのだ。なんとまあ、いとけない子であることよ。」
遙の忍耐力に感嘆してか、ソレは小首を傾げて鼻先で笑った。遙は負けじと眼光を鋭くさせる。

「……何なんだお前。何がしたいんだ」
先ほどまでは決して喉から出てくることのなかった息が、今度は堰を切って出てきた。目の前に立つソレを敵だと認識したからだ。
――あいつの顔で、あいつの声で、そんなことを言うな。
明確な敵意をもって向き合う。ソレの正体が何であるかは知りもしないし知ろうとも思わない。遙が許せないのは、ソレが凛の姿形を借りて現れたということだ。記憶の残骸を繋ぎ合わせて、いびつな笑顔をさせた。あんなに綺麗な顔で微笑む凛など遙はもう二度と見たくない。

ソレは幾度か瞬きを繰り返したが、ふと背を向けて歩き出した。足音を立てずに縁側へと辿り着き、居間を挟む形で遙と対峙する。沈みかけた夕陽の光が背中を照らして歪んだ影を作る。
「わたしが『なに』であるかなど、おまえがいちばんよく知っているだろう。わたしはおまえが抱く理想で、おまえが見つめる現実だよ。」
謎掛けのような言葉を吐いて、またふふふと笑う素振りを見せた。しかし相変わらずその裏に隠された表情は見えない。遙はなおも黙ったままソレを睨むだけだった。不用意に何か言えば揚げ足を取られかねない。目の前に現れた非日常をやり過ごす術を、遙は沈黙という手段以外持ち得ていなかった。
「……、」
遙につられてソレは一度口を閉ざした。形だけの笑顔がふっと消える。夜に移り変わっていく景色の中で、そこだけが時を止めたかのようだった。塗り重ねられた嘘と偽りが剥ぎ取られる。そうして、ソレはまた唇を動かした。

「人の子よ。おまえたちの行く先、わたしが占ってやろうか。……わたしには、おまえたちの間に糸がみえるよ。そうだ、その昔、三輪山の神の裾に縫い付けられたあの糸だ。もとはきれいな赤い色だったはずだけれど――おかしいねえ、おまえたちを繋ぐ糸は真っ黒だ。涙の海にすっかり浸されてしとどに濡れている。鮮やかな赤は見る影もなくなった。
ああ、かわいそうに。もう涙は乾かないよ。きれいな赤も戻らない。おまえたちを引き合わせるのは、涙に塗りつぶされた黒い糸。」

笑わない。偽りではない。限りなく真実に近い未来の色。

「きっとあの子は泣くだろう。おまえに出逢ってしまったばかりに、流さなくてもいい涙を流すのだ。
……なあ、人の子よ。それでもおまえは、あの子の眼を奪っていくのかい。」

庭の草木がざわめいた。今度は本物の風だった。ひらひらと、凛の姿をしたソレの髪を揺らしていく。
遙には、ソレが語る話の意味を半分も理解できていなかった。なにもかもが曖昧で不明瞭だ。ただ、語られたことに嘘はないという確信だけはある。かつて誓わせた「泣くな」という約束は、容易に破られるであろうということも。
遙は自分の手に視線を落とした。一瞬、左手の小指にすうっと細い糸が見えたような気がした。しかしすぐに見えなくなってしまう。糸の色は赤だったろうか、黒だったろうか、一瞬だけでは判別できなかった。あんなことを言われたから都合のいい幻覚を見ただけなのかもしれない。

「……別に、何色だっていい。赤だろうと、黒だろうと。繋がっているならそれでいい」

たとえ都合のいい幻覚だったとしても、黒く塗りつぶされた糸だとしても、信じていたかった。まだ途切れてはいないのだと。繋がりは確かに存在しているということを。
過去の記憶にいつまでも足を取られていては、走り抜ける背中を追いかけることも、孤独を選んだ寂しい指先を掴まえることもできない。それが分かっているのに、きらきらと輝く記憶の残骸を手放せそうにないのだ。涙で重みを増した糸を引きずりながら歩いていく。

「あは。」
ソレはまた笑った。あは、あははは、ふふふふふ。先程とまったく同じ笑い方でありながら、今度の笑い声は妙に楽しそうな響きを含んでいた。
「おかしなことを云う子だね。とても愚かで、とてもひたむきだ。……ならば好きにするといい。わたしが見た黒は、決して汚れた色ではなかったから。」
けらけらと腹を抱えて笑う、心底愉快だとでも言うように。なんだか馬鹿にされている気がして遙は眉根を寄せた。だが凛の真似をしていた時のような不快感からではなく、むしろこの苛立ちは友人にからかわれた時の気恥ずかしさにも似ていた。自分でもこの複雑な心のうねりに見合う表情が分からなくて、遙はつい険しい顔をしてしまう。するとソレはより一層楽しそうに目を細めた。

「はは、そんな怖い顔をしてくれるな。いじめすぎたことは謝ろう。しかし元はといえば、おまえたちがわたしを忘れて、いつまでも放っておいたのが悪いのだ。この程度のいたずらは許しておくれ。」
「……どういうことだ」
「さあね。おのれの胸に手をあてて考えてみればよい。」

相変わらず謎掛けのような言葉だった。何を言いたいのか遙にはさっぱり分からない。だがソレは満足気ににっこりと笑うだけで答えを教えてはくれなかった。いい加減にしろ――と声を張り上げようとした時、不意に強い突風が遙めがけて舞い込んできた。ざ、ざざざざざざ、ざざ。遙は咄嗟に両腕で顔を覆い目を瞑った。狭い範囲で巻き上がった風に煽られ、机の上に置いてあった箸立てが勢いよく倒れた。固定してあるテレビもぐらぐらと揺れる。しかし驚いたことに、これだけの風にも関わらず埃やごみの類はまったく顔に吹きつけてこなかった。

風が止み、遙はうっすらと目を開けた。そして目の前に現れた変化にあっと声を上げる。凛によく似たあの姿は消え、代わりに白い大きな狐がその場に座していた。ふさふさとした豊かな尻尾を揺らし、その口に油揚げをくわえて。
――おい、それってまさか。
非日常の連続に脳が麻痺しているのかもしれない。遙の頭を咄嗟に駆け巡ったのは、凛に化けていたソレが狐であったという驚きではなく、狐がくわえている油揚げに対する衝撃だった。その油揚げには心当たりがあった、否、ありすぎた。遙が一昨日スーパーで買ってきた油揚げそのものだ。形も色も見間違えるはずがない。買ってきてから冷蔵庫にしまっていたが、ちょうど夕食の味噌汁の具に使おうと思っていた。それが今、狐の口にくわえられている。
「お前、うちの冷蔵庫勝手に……!」
怒鳴ろうとした遙の言葉を遮って、狐が一声高らかに鳴いた。遙は一瞬毒気を抜かれて、狐ってこんなふうに鳴くのか……と妙な感慨にふけった。それを見越してなのか、狐は愉快そうに目を細めて笑う。

『それじゃあ、この油揚げはありがたく頂いておくよ。おまえもせいぜい達者でな、はるか。』

凛のものではない低い声が遙の頭に響いたかと思うと、狐はぴょんと床を跳ねて庭へ降り立った。また強い風が吹いてくる。
お前に油揚げをやったつもりはないし、そんな偉そうな口を利かれる覚えもない――と遙は抗議したくて堪らなかったが、一瞬の瞬きの間に狐の姿はどこかへと掻き消えていた。風が止んだ居間には、倒れた箸立てと吹き飛ばされた箸がそこかしこに放り出されていた。この惨状が示すのは、脈絡もなく発生した突風が七瀬家の居間を襲ったという事実だけだ。狐の仕業だといくら言った所で、さすがに幼馴染でもそんな馬鹿げた話を信じてくれそうにはないだろう。

「……なんだったんだ、あれ……」
一人取り残された遙は、風でぐしゃぐしゃになった髪を整えることもせず、さっきまで白い狐が鎮座していた場所を呆然と見つめるばかりだった。今の出来事は全て幻覚の類だったのかとも思ったが、冷蔵庫から綺麗さっぱり消えているであろう油揚げのことを考えると実感を伴った苛立ちが募ってくる。この感情ばかりは偽りようがない。
遙は薄暗くなっていく夏の空を見上げて、今日の味噌汁は油揚げ抜きだな、とぼんやり考えた。





「なあハルー、今日の晩飯何?」

鈴虫が鳴き出す秋の夜、居間から聞こえてきた声に遙はじゃがいもを刻む手を止めた。包丁を置いて振り返ると、退屈そうに細められた赤い目と目が合う。勝手知ったる他人の家とばかりに、凛は居間に寝転がってごろごろと寛いでいた。しかし一人だと飽きが早いのだろう、時々こうやって遙を呼び止めては他愛のない会話を要求してくる。いつものことなので遙は適当に応じることにした。
「もうすぐできるから黙って待ってろ」
「さっきも同じこと言っただろ、それに俺が訊いてんのは晩飯のメニュー。いつできるかじゃない」
「……鯖の塩焼きと味噌汁。あとほうれん草の胡麻和え」
「はあ?また鯖かよ……お前いつもそればっかだな。まあお前らしいけど」
どこかで聞いたことがあるような会話だ。遙は無意識のうちに眉をひそめていた。だが遙の様子の変化に気付かないまま、凛はひとつ溜息をつく。

「たまには違うものも食えよ。……例えばほら、稲荷寿司とか」
――どうしてよりによってその例えなんだ。
遙は夕食の準備を放棄して、ずかずかと居間へと足を踏み入れた。突然の行動に凛は驚いて身を強ばらせるが逃げはしない。
「な、なんだよハル」
「…………」
「え、ちょっ、なにすんだオイ!痛えって!こら!」
遙は無言で凛の顔に手を伸ばし、思い切り両頬をつねった。あらん限りの力で上下左右に捻りまくる。化けの皮を被っていようものなら無理矢理に引き剥がしてやろうという勢いで。しかし目の前にいるこの凛はあくまでも人間であって狐などではなかった。引っ張られた皮膚の痛みに悲鳴を上げた凛は、一向に力を緩めようとしない遙めがけて強烈な蹴りをお見舞いした。しかし遙は蹴飛ばされてもなお凛の頬から手を離さなかった。

「ってえな馬鹿!離せ!」
「いやだ。まだ確かめてない」
「あ゛?何をだ」
「……お前、狐じゃないだろうな?」
「はああああ?」

遙はごく大真面目に尋ねたつもりだったが、凛にはふざけているようにしか聞こえなかったらしい。心底呆れた顔と声で遙に憐れみの視線を投げかけてくる。
「お前昔からわけわかんねえ奴だったけど、とうとう本格的に頭おかしくなったのか?」
本格的に、という言葉が前に付いてくる時点でまともな見られ方をされていないことには気付いていたが、遙は敢えてそれには無反応でいた。数ヶ月前に遭遇した非日常のことを話せば、より一層おかしな奴だと思われることは目に見えていたからだ。未だに自分でもあの出来事は信じがたい経験なのだから、凛に話したところで尚更信じてもらえるわけがない。
「……狐じゃないなら、いい」
しみじみと呟くと、それを見た凛は怪訝そうな表情で口をへの字に曲げた。
凛の顔を見ないようにして、遙は縁側の向こう側へと視線を向ける。薄暗い闇の中では鈴虫の声が静かに響くだけだ。

狐との一件があった後、遙は家の周囲にお稲荷様はないかと探したことがあった。母親に電話で聞いてもそんなものは知らないと返ってきたので、仕方なく自分で神社の近くを探索したところ、敷地の奥にお稲荷様の小さな祠を見つけた。両親の代から長いこと存在を忘れ去られていたらしく、その小さな祠は茂みに隠れてよくよく見つからない場所にぽつりと立っていたのだ。ろくに手入れされず壊れかけたそれを見つけて、遙はこれがあの狐の正体ではないかという考えに至った。確証などない。単なる偶然かもしれない。ただ、そう思うことで自分を納得させたかっただけだ。
遙は自力で祠を綺麗にしてやり、祠の前にあの時と同じ油揚げを供えた。次の日にまた祠を訪ねたら、油揚げは綺麗になくなって皿だけがその場に残っていた。はじめは野生の猫が持ち去ったのだろうかと思った。しかし中身の消えた皿を見ると、綺麗な形のどんぐりが一つ乗せられていたのだ。まるで「ごちそうさま」と言わんばかりに。遙はどんぐりをあの狐からの礼だと思うことにして家に持ち帰り、机の引き出しに閉まっておいた。

凛と和解したのはそれから程なくしてのことだ。さすがに狐のご利益のおかげだとは信じ難かったが、ある日どんぐりをしまっていた引き出しを開けると、叶えられた願いと引き換えであるかのように、そこにあるはずのどんぐりは消え去っていた。全部が全部狐のおかげではないだろうが、それでも少なからず力を貸してくれていたのかもしれない。地方大会のあの日、単なる思いつきで書いたはずの「For the Team」の文字が遙と凛を繋げたように。

――明日、あの祠にまた油揚げを持って行ってやろう。今度は凛を連れて。
そう考えて遙はひとつ瞬きをする。遠くで狐の鳴き声が聞こえた気がした。





2013/10/07



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