竜ヶ崎怜の憂鬱 1


「んっ……ハル、もっと奥……」
「急かすなよ……ほら」
「あっ!あぅ……そこ、そこがいい……」

二人きりで使うには広く、しかし今こうして繰り広げられている行為の熱量を受け止めるには狭すぎる室内。しなやかな筋肉を持つ二人は、その熱さを厭うでもなくぴったりと寄り添い合って行為に没頭している。ぐちゅぐちゅという猥らな音を立てて抜き差しされる指、それに合わせて弓のように仰け反るきれいな背中、湿った空気を伴って吐き出される吐息は一体どちらのものか分かりはしない。
ここが見慣れた岩鳶高校水泳部の更衣室でなかったなら、そしてそこにいるのが顔見知りすぎる人物でなかったなら、僕はそれを発見した瞬間に視界を閉ざして全ての情報をシャットダウンし、くるりと背を向けてその場を後にしただろう。自分は何も見なかったと言い聞かせて、今しがた目撃してしまった映像を脳内から削除することに努めたはずだ。
だが僕は動けなかった。動こうとしても足は床に根を張ったように動かず、指はかたかた震えるばかりで眼鏡を掛け直すことすらままならない。ただ、数センチほど開いた擦りガラスの扉の隙間、そこから垣間見える光景に視線を集中させるだけだ。

――どうして、どうしてこんなことになったのか!
瞬き一つすることすら躊躇われるほどの緊張感の中、僕は果てしない後悔の海へと突き落とされる心境を味わわざるを得なかった。本当に理解できない。目の前で行われている行為も、よりによって自分がそこに居合わせてしまった不幸も、何もかも。

今からほんの十数分前、僕はプールに続く学校の敷地内を小走りで歩いていた。走り込みをしている陸上部の掛け声を背中に聞いて、迷わず奥のプールへと向かった。
部活は既に終わって皆帰宅しているはずだった。ならば何故再びプールへ足を運んでいるかというと、帰宅途中で忘れ物の存在に気付いたからだ。リュックの中に眼鏡ケースが入っていなかった。着替えの際、いつもと違うロッカーに眼鏡ケースを入れていたために忘れてしまったのだった。眼鏡はともかく、そのケース自体は手元になくてもさほど支障はない。今日一日はケース無しで過ごし、明日の朝に更衣室に寄って回収すればいいだけの話だ。しかし僕は、忘れ物に気付いた瞬間に踵を返していた。何を置き忘れたかは重要ではない。後顧の憂いを更衣室に残してしまったという事実が何よりも忌避すべきことだった。……結果として、その選択が間違っていたのは言うまでもない。

更衣室から何かの音が聞こえていた時点で、あの時感じた嫌な予感に素直に従っていればよかったのに。
まだ誰かいるのだろうか、そういえば遙先輩は時々、部活が終わった後も、プールの施錠を行うことを条件に一人で泳いでいると聞いた。それなら適当に声をかけるだけでいいだろう――と、更衣室の扉の前に立った。

「……やだっ……ハル、そこばっかり……ああっ」

何も考えずに扉を開けたりしなかった自分の判断を、今は褒めてやりたいと思う。耐えるような、吐息まじりの甘い声が耳に入ってきて、僕は扉の取っ手へと伸ばした指を引っ込めた。咄嗟にその場でしゃがみ込む。誰かいる。しかも気配から察するに、一人ではなく二人だ。ひとりは遙先輩で、もうひとりは先程の声の主だろう。そして僕はその声が誰のものなのか心当たりがある。そもそも遙先輩を「ハル」と呼ぶ人を僕は二人しか知らない。その中の一人である真琴先輩は既に帰宅しているはずで、となれば残る選択肢は一つだけ。だがその人が何故ここにいるのか、何故この場所に似つかわしくない声を上げているのかということを考えたくはなかった。
おあつらえ向きに扉は数センチほど開いていて、中の様子が窺えるようになっていた。見てはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響く。一方で、きちんと自分の目で行為の正体を確認しなければ!という謎の使命感が急き立ててくる。見るのか見ないのか。悶々と悩んでいる間にも、僕の視線は無意識的に扉の隙間へと吸い込まれていった。

そこには、一糸纏わぬ姿で重なり合う二人の姿があった。
予想はしていた。覚悟も少なからず決めていた。しかし実際に目撃してしまった衝撃は計り知れない。水泳部なのだから同性の裸体など見慣れているはずなのに、その目的が「泳ぐ」という行為から外れるとここまで違うのか。

「凛、もう少し足開け。動きにくい」
「ざけんなっ……お前が、無理に動こうとするから、だろ……くっ」

二人は更衣室のベンチの上で行為に及んでいた。有り体に言えばセックスである。
あのですね、そのベンチ、僕さっき座ったんですけど。泳ぎ終わった後、普通に。男子更衣室に設置されたベンチが、性行為のために使用されるなんて誰も思わないはずだ。僕は悪くない。あれは水泳部員が座るものであって、まあ確かに遙先輩は水泳部員ではあるのだが、だからといってそんな……いや、ベンチだけの問題ではない。そもそも更衣室、ひいてはプールという場所は泳ぐために存在している。決して他校の生徒を連れ込んでアレやソレをお楽しみ頂くための場所ではない。決してない。プールは神聖な場所だ。あれほど水が好きな遙先輩なら、ここで行為に及ぶなんて真似はしないはずなのに、実際僕の目の前でそれをしているのだから何も言えなかった。

僕自身は眼鏡ケースを取りに来ただけで何も悪いことはしていないのに、何故か途方も無い罪悪感が胸のあたりを満たす。良い悪いで区別をつけるなら、更衣室という公共の場でこんな行為に及ぶあの二人が圧倒的に悪い。僕は不運にもその場に居合わせてしまった圧倒的被害者だ。なのにどうして僕は扉の前にしゃがみこんでコソコソ隠れているのだろう。二人の存在に気付いた時点で逃げ帰る懸命な判断も、空気を読まずに堂々と更衣室の中へ侵入する愚かさも、生憎と今の僕は持ち合わせていないのだ。進退窮まった僕は、息を潜めて二人の様子を見守る他に道はない。

凛さんは、こちらに背を向けた状態でベンチに座り、遙先輩は彼に――その、ナニを、こうやって、…………直接、繋がっている。ここからだと結合部は見えないが、あからさまな水音が如実に物語っていた。二人きりだからといってそんな大きな音を立てたり喘いだりしていいものなんですか、違うでしょう、こうやって僕のような人間が偶然現場に遭遇してしまう可能性を考えもしないで!二人ともそんな気持よさそうな表情と声で!やめてくださいよまったく!!
僕は泣きそうになるのを堪えて、扉の隙間から視線を注ぐ。嫌なら見なければいいのにそうもいかないのだ。気づくと手のひらに汗をかいていた。自分が少なからず興奮を催している事実に愕然とする。

遙先輩と、鮫柄の松岡凛という人が並々ならぬ関係にあることは知っていた。遙先輩は「凛」という名が出る度に眉根を寄せて反応するし、向こうも自分の専門を蹴ってまで遙先輩と同じフリーで泳ぐことに拘っている。僕は二人の過去や確執をあまりよく知らないし、問い詰めてまで知る必要性も感じない。だが、二人が「友達」や「ライバル」といった言葉で簡単に処理することができない特別な関係であることは感じ取っていた。
だからといって――その「特別」という言葉の意味に肉体関係まで含まれているなどと誰が考えつくだろう。渚くんや真琴先輩は知っているのか?できれば知らないでいてほしい。この関係を知っていてなお和気藹々としていられるのだとしたら、僕は岩鳶水泳部の面々に対する認識を改めなければならないだろう。それこそ狂気だ。

遙先輩は挿れる側なんですね……という脳内の率直な感想も、今はただ室内の喘ぎ声に掻き消される。凛さんにはもっと気難しくて剣呑なイメージを持っていたのだが、こんなあられもない姿を見てしまうと自分の中の「松岡凛」像が見る見るうちに崩壊していく。人は見かけによらないとはまさにこの事だ。渚くんが言っていたことは本当なのだなと思い知る。
正直な話、僕は性行為というものに対して不気味な印象しかない。他人の前で裸体を、乱れていく醜態を目の前で晒すのだ。圧倒的に美しくない。おぞましい。――だが、今こうして繰り返される行為は、生々しくありながらも目を離せない引力があった。ぶつかり合う肌と肌、弓なりにしなる背筋、快感に震える肩。それを「美しい」と呼んでいいのか僕には分からなかった。

――そして、ふと、視線を感じる。
凛さんの背中に見入っていた僕は、はっとして顔を上げた。こんな時であっても究極に透き通ったあの瞳が僕を見ている。遙先輩と目が合ったのだ。
「……っ!!」
僕は息を呑んで後ずさった。声が上がりそうになるのを必死で耐える。気付かれた。僕がここにいて、二人の行為を見ていたことを。いつから?今しがた気付かれたのだろうか、それとも、もしかして最初から……?
いくら考えたところで真実を知るのは彼だけだ。遙先輩は、じいっと僕を見つめるだけで何も言ってこないし行動も起こさない。いつもの無表情だ。僕は蛇に睨まれた蛙のように、息を詰まらせてその場に尻もちをつくばかりだ。
やがて、彼の薄い唇がゆっくりと動き、三文字の言葉を紡いだ。

『 み て ろ 』

声はない。ただ口を動かしただけだ。それでも分かる。読心術の心得などなかったが、確かに僕はその三文字を、言外に含まれた意味まで読み取った。この行為を最後まで見ていろ、と。彼が言いたいのはそういうことだろう。僕を単なる覗き魔から、劇場の観客へとクラスチェンジさせるつもりなのだ。意図なんて分からないが、どうせ「見られる方が興奮するから」というしょうもない理由のためだろう。
扉に背を向けている凛さんは、僕の存在には気付いておらず、訝しげに「ハル……?」と呟いて遙先輩を見上げた。すると遙先輩はいつもの顔で「なんでもない」と返し、抜き差しを再開する。僕の存在を認識しておきながら、表情も動きも先程と全く変わらなかった。遙先輩にとって、凛さんとの行為を目撃されるということは単なるシチュエーションとしてしか機能していない。恐ろしい人だ。
僕は今度こそ生唾を飲み込んだ。遙先輩によって与えられた「更衣室の扉の隙間」という特等席で、たった一人の観客としてこの一部始終を見届けられる事実に、どうしようもなく興奮を抱きながら。


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