色褪せることのない君であれ


※リュウの追っかけファンをやってるモブ女子目線のリュウケン
※ガバガバ時系列

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生まれてこのかた、趣味などと呼べるものは何もなく、ひたむきに情熱を傾けられる存在もなく、ただ息を吸って吐くだけの生活を送ってきました。
友人たちの話題についていくために、面白いわけでもないドラマを毎週見て、好みではない服ばかり載っている雑誌を読んで、なんとか周りに合わせているような、ぎこちない笑顔を顔に貼り付けることばかり上手になっていきました。

あの人との出会い――いえ、正確には私があの人を「知った」のは、高校生の頃、ある土曜日の夜でした。
その日は父も母も帰りが遅く、一人で夕食を作って食べていました。友人と電話やメールをする気にもならず、なんとなくテレビをザッピングしていたら、その番組に行き当たったのです。確かあれは、父が好きで契約していたスポーツ系の有料放送チャンネルだったと思います。その日は海外のどこかの国でやっていた格闘大会を生中継していました。
格闘技なんて、それまでなんの興味もありませんでした。ボクシングと空手と柔道と――それくらいしか知らず、またそれらの違いも分かりません。男の人たちが殴り合うだけの怖い見世物。その程度の認識でした。

けれど私は、テレビ画面に映し出されたその人を見て、一瞬で釘付けになったのです。

ぼろぼろの白い道着に、赤い鉢巻、短い黒髪。日本人です。赤い篭手に覆われた拳は傷だらけで、力強く握り締められていました。頬には打撲の痕。口の端が切れて血が滲んでいます。険しい表情。眉間の間に刻まれた皺。息が上がって苦しそうです。素人の私がひと目見ても分かるくらい、明らかに劣勢でした。
対戦相手は、肌の黒い大柄な選手でした。とても大きな体でその人を圧倒していました。
ああ、もう負けてしまうところなんだ――私はそう思って、チャンネルを変えようかと思いました。日本の選手がむざむざと倒される場面を見たくなかったからです。

そこでふと、画面の向こう側のその人が、構えを僅かに変えました。カメラが切り替わり、その人の顔が数秒だけアップになりました。
――私はリモコンを持ったまま、固まりました。

その人の、強い眼。どれだけ窮地に立たされていても、決して勝利を諦めない眼をしていました。
体はぼろぼろで、おそらく立っているだけでも精一杯でしょう。けれども眼には今なお闘志が宿り続けていたのです。

私は、無意識にソファーから腰を浮かせていました。リモコンを放り投げて拳を握り締めました。まるで私自身があの闘技場にいて、その人のすぐそばに立っているかのような錯覚を覚えたのです。お腹の奥から何か熱いものが胸に込み上げてきました。心臓が強く脈打ちます。送り出された血液が全身を駆け巡っているのを感じます。

どうか、どうか、勝ってほしい。
この勝ち目のない状況にあってなお、闘志を燃やし続けるこの人に、勝ってほしい。強くそう願いました。

私は唾を飲み込んで、それから深く息を吸い込みました。
そうして――生まれて初めて、誰かのために本気で「がんばれ」と叫んだのです。





結局、試合はその人の負けで終わりました。相手の選手から顔面に強烈な蹴りを入れられてノックアウト。十人中十人が「まあそうなるだろうな」と頷くような内容でした。
結果としては「敗北」の二文字しか残りません。けれど私は、しばらく興奮を抑えることができませんでした。勝ち負けなんてどうでもよかったのです。ただ、その人の強い眼に引き付けられてしまいました。

それから私は、テレビの中で呼ばれていた「リュウ」という名を手掛かりとして、必死になってその人の情報を掻き集めました。テレビ、雑誌、ネット、ありとあらゆる手段を駆使しました。テレビ局に問い合わせの電話をかけたのも、格闘技の雑誌を買ったのも初めてでした。
それでも、彼について知り得た情報はわずかでした。
日本出身で、空手などを取り入れた独自の格闘術で闘うということ。世界各地を転々として、強い人と闘い続けるストリートファイターであること。それ故に彼の所在はなかなか掴めず、大きな格闘大会に出るのは稀であるということ。

私がたまたまあの番組を見て、彼が出ている試合に出会えたのは本当に幸運だったのだと思います。あれから血眼になって世界の格闘番組を探してみても、彼が出場する大会は一向に見つけられなかったのですから。
それでも私は諦めませんでした。もう一度彼の闘いを見てみたい。できれば、テレビ越しではなく、この目で実際に。そう思ったらいても立ってもいられなくなりました。

大学に進学した私は死に物狂いでアルバイトを始めました。大学は経済学部でしたが、語学の勉強も必死になって取り組みました。サークル活動やら男女の交流やらでとても楽しそうにしている友人たちを横目に見ながら、勉学とアルバイトに打ち込む日々。
そんな私を心配したのは両親です。それもそうでしょう、周りに流されながら息を吸って吐くだけの生活を送っていた娘が、いきなり人が変わったように活動的になったのですから。父はきっと知らないはずです。私が変わったきっかけは、自分が趣味で契約していたスポーツの有料チャンネルだったなんて。

アルバイトで貯めたお金がまとまった額になり、ようやく私は第一回目の海外旅行へと旅立ちました。目的地はスペイン、バルセロナ。SNSに投稿された「彼」の目撃情報を分析し、次に訪れる都市はここだろうと目星をつけていたのです。
スペイン語は日常会話程度しか分かりませんでしたが、英語も使ってなんとか現地に辿り着くことができました。初めての海外旅行、それも女性の一人旅であっても、その気になれば案外どうとでもなるものです。私にそこまでの行動力を与えたのは、ひとえに彼の闘いをもう一度見たいという願いでした。


私が現地に着いてから二日後、彼は本当にバルセロナに現れました。「やたら強い日本人ファイターが来たらしい」という現地の格闘マニアの噂を頼りに、目撃情報があった場所へと向かいます。胸が痛いくらいに脈打っていました。ようやく彼の闘いを間近で見ることができるのです。

古い闘牛場を改築したというショッピングセンターの広場に、人だかりができていました。やれ!やっちまえ!とスペイン語の物騒な野次も聞こえてきます。人だかりをかいくぐって進むと、人の輪の中心で、二人の男性が睨み合っているのが見えました。片方は現地の人でしょう、ラテン系の顔立ちの若者。

そしてもう片方は――ぼろぼろの白い道着に、赤い鉢巻、短い黒髪。赤い篭手に覆われた拳はやはり傷だらけでした。
間違いありません。リュウです。数年前のあの日、テレビ越しに見たあの人です。
あのときと何一つ変わらぬまま、彼はそこに立っていました。握り締められた拳と、相手を見据える強い眼。

対戦相手は明らかに及び腰でした。地元では誰よりも強く、負け知らずなのかもしれませんが、世界中で闘い続けてきた彼とは経験の差がありすぎるのです。小手先の技で彼にダメージを与えようと試みますが、そのことごとくが弾かれ、着実に押されていっています。
この程度の者であれば、最初から相手にせずともよかったでしょう。しかし彼は――リュウという人は、闘いを挑まれれば必ず頷き、どんな相手であっても手を抜かないのです。その誠実さが好きでした。

私は口に手を当てて「がんばれ」と日本語で叫びました。
あなたの闘う姿に勇気付けられた人間がいるということ。あなたを追いかけてまで応援したいと思う人間がいるということ。
それを伝えたくて、声の限りを尽くして叫びました。スペイン語の野次に掻き消されてもなお大きな声で。たったひとりで世界と闘い続ける彼に、この声が届けばいいと思ったのです。

彼はほんの一瞬だけこちらに目を向けました。観衆に遮られて私の姿は見えなかったはずです。それでもきっと、気付いてくれた。私の「がんばれ」が彼に届いた。私はそう信じるよりほかにありません。

溢れ返る声援や野次に呑み込まれながら、私は彼がとどめの技を放つのを見ました。
拳を天に突き上げ、逆巻く風を切り裂く一撃。何よりも美しい昇竜拳でした。





それからも私はアルバイトでせっせとお金を貯め、ネットで彼の情報を探し、彼を追って幾度となく海外に飛び立ちました。
現地に行けたとしても、彼の闘いに遭遇できるのは半分以下の確率でした。気まぐれな彼の放浪を、私ごときが全て把握することなどできるはずがないのです。私が現地に滞在するのは一週間までと決めていました。一週間待っても彼が現れなければ、おとなしく日本に帰ろうと。資金面の問題や、日本での勉学が疎かになってしまう問題、それと――そうやって線引きをしないと、いつまでも未練を引きずってしまいそうでしたから。

彼の闘いを見ることができなくても、現地の格闘大会を観戦するという楽しみ方を見つけました。世界には様々な格闘術があるということも知りました。格闘家たちが命懸けで闘う姿の美しさ。私は格闘観戦そのものを好きになっていきました。

彼が訪れる場所は本当に場所を問わないので、治安がよくない地域に行くのは少し勇気が要りましたが、いろいろな人の助けを借りるのも旅行の楽しみでした。当初は彼の闘いを見るための旅でしたが、いつしか旅そのものが私の目的になりつつあることに気付きました。
打ち込めるものなど何も持っていなかった私に、ひとつ趣味ができたのです。彼を追って旅をするという、とっておきの趣味です。

ネットで彼の情報をチェックすることは日課でしたから、「世界中の格闘家たちが集まる大会が開かれる」というニュースも当然私のもとに入ってきました。
すかさず参加する格闘家リストをチェックしましたが、「リュウ」の名前はどこにもありませんでした。彼は今日も世界のどこかを歩き回っているのでしょうから、このニュースもまだ知らないはずです。しかし、彼はきっと飛び入りで参加するに違いありません。
私には確信がありました。なぜなら、その大会の主催者の一人に、ケン・マスターズがいたからです。

――ケン・マスターズ。
リュウという格闘家を語る上で、その存在は決して外すことができないでしょう。全米格闘王で、マスターズ財団の当主。リュウの同門で兄弟弟子、最大のライバルにして親友。ケンが彼と幾度となく拳を交えているということは情報として知っています。

いつだったでしょうか、アメリカでケン・マスターズの闘いを観戦したことがあります。確かにリュウとよく似たスタイルで闘っていました。しかし、一撃一撃を研ぎ澄ませたリュウの技とは対照的に、ケン・マスターズは手数の多さで圧倒するような印象を受けました。燃え盛る炎のような激しさは、透徹としたリュウの闘い方とはまるで正反対です。その強さは本物なのでしょうが、私はやはりリュウの闘い方の方が好きだな、と思ったことを覚えています。

とはいえ、かの全米格闘王に無二の親友がいるということは、格闘ファンであれば周知の事実です。ケン・マスターズは必ず彼を大会に呼ぶでしょう。久々に、彼の闘いをこの目で見ることができるのです。
私はありとあらゆる手段を尽くして大会のチケットを入手しました。それはもう、人には言えないような手段さえも使って。アルバイト先の仲間に融通を利かせてもらって、一週間分の休みも抜かりなく取りました。今まで馬車馬のごとく働いてきたのも全てはこのためなのです。

そうして。
待ち望んでいたその日がやって来ました。
先にリング場へと上がっていたケン・マスターズが、マイクを手にして観客を煽ります。

「さあ、お待ちかねのゲストの登場だ!オレの兄弟弟子にして最大のライバル、リュウ!」

彼の名が高らかに叫ばれ、観衆が声を揃えて彼を呼びます。リュウ、リュウ、リュウ――!!……誰もが彼を待っていました。格闘技を愛する者がみな憧れ、その闘いを一目見たいと熱望する――リュウは誰にとっても特別な存在なのです。もちろん、私にとっても。
彼が闘技場に姿を現わした瞬間、会場は爆発的な歓声に包まれました。その歓声を受けながら、彼はまっすぐにリングへと向かっていきます。彼にはきっと、この何千何万もの観客の姿など見えていないのでしょう。彼が見つめる先にいるのは、闘いの相手であるケン・マスターズただ一人。

熱狂の渦の中心で、二人の格闘家が向かい合います。開始の合図。観客達はこぞって二人の名を叫び、野次を飛ばし、その闘いに賭けた金の行方に気を狂わせています。
耳をつんざくような絶叫が会場に響く中、私もその熱に浮かされて、必死にリュウを応援しました。普段は観戦していても大きな声で叫ぶことなど滅多にありません。でも今は、叫ばずにはいられませんでした。彼に勝ってほしい。ただその思いだけで、私は喉が枯れるまで彼の名前を何度も何度も叫びました。

どちらが勝ってもおかしくない闘いでした。リュウとケン、どちらも互いの持てる力を全て出し切って、魂を削り合うような闘いの末、最後に立っていたのはリュウでした。
勝者の名前が呼ばれます。観客もそれに続いて絶叫します。とっくに声が枯れてしまった私は、息を詰めて二人の行方を見届けようとしました。

大の字になって倒れ込んだケン・マスターズに、彼が手を差し出しました。ケンは無言でそれを見つめていましたが、やがてその手を取り、二人は再び向かい合いました。全力を出し切って、お互いもうぼろぼろの状態です。ケンが何かを話しかけると、彼の唇が僅かに動きました。観客の叫び声のせいで、二人の会話の内容などまるで聞き取れません。


けれど、――けれど、私は見たのです。

彼が自分からケンに拳を差し出した瞬間を。ケンがそれに応え、二人の拳が触れ合う瞬間を。
そして、まるで激闘の後とは思えないほどの、穏やかな彼の微笑みを。


――ずっと、彼はひとりで闘っているのだと思っていました。

強者を探して身一つで世界を巡り、完全にアウェーの地であってもその実力で観客を味方につけ、しかし闘いが終われば風のように去っていく。彼はどこにも留まらず、誰も彼を留めることはできず、彼はひとりで強くなっていくのだと。その孤独で孤高な生き方が、彼をさらに強くさせているのだと。そんなふうに思っていました。
時に私は彼に自分自身を投影して、彼に声援を送ることで、自分自身が救われたような気にすらなっていました。

でも、違っていました。彼はひとりだったけれど、決して孤独ではありませんでした。
ねえ、だって、私は初めて見たのです。彼があんなにも穏やかに微笑むところを。
私の知る彼は、いつも誰かと闘っているところばかりでした。静かに闘志を燃やし、相手を見据える強い眼しか知りませんでした。でも――あんなふうに笑うこともできる人だったなんて、こんな嬉しい誤算があっていいのでしょうか。
彼が穏やかに微笑むことができる場所はここにあったのです。ケン・マスターズという人の隣に。

彼がひとりで闘っている時、彼の親友もまた、遠い海を越えた先で闘っている。闘う場所は違っていても、目指すものは同じだという確信がある。
だから彼は闘い続けることができるのでしょう。揺るぎない強さをその眼に宿して。
初めて彼の存在を知った日、私は彼の眼に引き付けられました。なんて強い眼なのだろうと思いました。その眼が映す世界を私も見てみたくて、彼を追い続けていました。


――そう。私が好きになったのは、孤独に闘う彼ではなく、あの人と一緒に高みへ至ろうとする彼の眼でした。
彼が見ている世界には、いつだってあの人の姿があったのです。


彼とあの人が微笑みを交わしたのは、ほんの数秒間にすぎない出来事でした。しかし私は一生涯忘れることはないでしょう。
気付けば、頬に涙がひとすじ伝っていました。嬉しいのか、悲しいのか、寂しいのか、幸せなのか、わけもわからず私は泣きました。客席の大歓声が、まるで私の泣き声を覆い隠すように響き渡っていました。





それからも私は、海外を飛び回っては格闘観戦をしています。その趣味が功を奏したのか、語学力を買われて外資系の企業に入社しました。エントリーシートに、趣味は海外旅行と格闘観戦だと正直に書いたら、面接官が食いついたのです。「僕はザンギエフが好きなんだ!」と熱っぽく語ってくれました。

仕事もあるので、以前のように彼を追いかけることはしなくなりました。その代わり、海外出張のついでに各地で格闘観戦ができるようになって、また楽しみが一つ増えました。
今もSNSで彼の目撃情報を追ったり、彼が出そうな大会を調べたりすることは続けています。彼が闘っている写真や動画を見つけると、嬉しくなって「いいね」を連打するのが日課です。今も世界のどこかで彼が闘っているのだと思うと、私も負けていられないと思うのです。

遠くからしか見たことはありませんが、彼の眼はいつでもすぐに思い出すことができます。
高みを目指す強い眼。あの人と一緒にいる時の穏やかな微笑み。私に生きがいを与えてくれた人。


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2019/01/14


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