リグレット・モーメント


後悔など、一欠片もあるはずがないと。そう思っていた。




「失礼します。准将、先程頂いた資料で質問が――あっ」

入室許可を得る前に扉を開けてしまうのはお前の悪い癖だと、マクギリスから幾度となく注意を受けてきた。分かっているのだが、しかし、どうにも改善できない癖というものはある。そして今回もまたその悪癖ゆえに、石動は非常に間の悪い登場をする羽目になってしまった。
石動はその場に立ち尽くした。執務室の広い床を挟んだその奥、悠々と椅子に座りながらチョコレートを今まさに頬張らんとするマクギリスの目の前で。

「……石動。部屋に入る前に確認しろと再三言っているはずだが」
「申し訳ありません。間食の邪魔をしてしまいました」

石動は軽く頭を下げただけで、その場から辞去することはなかった。石動にとっては、上官の機嫌取りよりも、仕事に関する用件を終わらせることの方が優先されるべき事項だった。平謝りも慣れたものだ。そして彼の上官は、石動がそういった性格であるからこそ自身の副官に選んだ。
つかつかと執務机の前へ歩いて行き、石動はマクギリスに質問をした。今後のスケジュールを組む上で、マクギリスに直接訊かなくては分からないことをいくつか。マクギリスは面白くなさそうにチョコレートを弄びながらそれに答えた。手袋は外されている。包装紙を剥いた状態のまま素手でべたべたと触るのは衛生的に好ましくないのでは、と思うものの、石動は特に何も言わない。自分はマクギリスの副官であって決して母親ではないからだ。

「お時間を取らせていただきありがとうございました。ではこれで」
疑問が解決したところで早々に退出しようとするが、マクギリスがそれを止めた。親指と人差し指の間にチョコレートを挟み、石動へと向ける。犯人はお前だと言い出しかねない格好だ。
「待て、私が職務中に間食をしていたことについて何かコメントはないのか」
「はあ……私が咎め立てるようなことではないでしょう。准将は職務に没頭されると平気で寝食を抜いてしまう方ですから、間食という形でカロリーを摂取するのはむしろ良いことかと。チョコレートはバランスのとれた食品ですから。……しかし」
石動はちらりと机の上を見て言葉を濁した。
「しかし?」
「一度に6個も食べるのは、さすがにやめた方がよいのでは」

机上には、中身のない包み紙が6枚折り重なっていた。てんとう虫を模したそれは彼のお気に入りだ。チョコレートのうち1つはマクギリスの手の中、残り5つは既に彼の胃の中へ収まっているらしい。小粒のチョコレートとはいえ、短時間で6個も消費するとなると、血糖値の上昇が懸念される。
「ああ、もう少しでなくなるからと思って、いささか欲張りすぎたな」
マクギリスはそう言って、机の引き出しから何か大きなものを取り出した。プラスチックでできた巨大な入れ物――てんとう虫型のチョコレートが優に百個は入りそうな容器だった。今はそれがほとんど空になり、底にほんの1つ残っている状態だった。それだけの量を消費したということだ。

「少し、意外です」
入れ物の中に1つだけぽつんと残ったチョコレートを見ながら、石動は率直な感想を述べた。マクギリスが興味深げに眉を上げる。
「そのチョコレートは、子供たちに配るためだけのものかと思っていました。准将もお食べになる時があるのですね」
「たまにはな。嫌いなわけではないから」

鉄華団の元を訪問する時、マクギリスは決まってチョコレートを手土産に持っていく。それも大量に。飢えた子供を手懐けるにはまず胃袋から――という意図があるのかないのか、石動には分からない。必要物資というわけではなく、単に彼自身が好きでやっているように思えた。鉄華団の子供たちからマクギリスが「チョコレートの人」という扱いを受けているらしいことも知っている。
マクギリスは常にチョコレートを携帯している。石動の観測範囲では、チョコレートを常備していて役に立った覚えなど一度もなかったが、あると便利なのだとマクギリスは言う。そんな場面に出くわすという想像はなかなかできない。

「嫌いではないということは、好きなのですか」
「好き、か……考えたこともなかったな。子供が好きそうな菓子といえばチョコレート、その程度の発想だよ。持ち運びしやすいし、保存もきく。日当たりの良い場所に置いておくと悲惨だが」
「それも含めてお好きなのですね」
「……今日は随分と饒舌だな、石動」

マクギリスに指摘されて、石動ははっと顔を上げた。余計な部分にまで踏み込んでしまったことに今更気付いた。しかし、視線を上げた先にあるマクギリスの表情は、少しも気分を害している様子は見られなかった。むしろ、どこか楽しげだ。目元が緩んでいる。
「……申し訳ありません。差し出がましい真似を」
「構わんさ。だが、申し訳ないと思うなら、代わりにこれを消費するのを手伝ってくれ」
「は?」
マクギリスは大きな入れ物に手を入れ、1つだけ残っていたチョコレートを取り出した。手の中で軽く弄んでから、それを石動に向けて投げ渡す。軽やかな放物線を描きながら、てんとう虫は石動の掌へとすっぽり収まった。甘い香りが包装紙越しにも香ってくる。

「ちょうどいい。これでお前も共犯だ」

マクギリスが愉快そうに言った。さっきから手にしていたチョコレートをようやく口に入れる。さあ、お前も早くそうしてみろと言わんばかりに。
共犯……共犯とは。石動は咄嗟に端末を起動して辞書を引こうとしたが、理性で耐えた。共犯。おそらくマクギリスは、職務中の間食のことを言っているのだろう。誰に知られたところで罰せられるはずもないというのに、マクギリスはささやかな罪に石動を巻き込もうとしている。
石動は掌の中にあるチョコレートをまじまじと見た。マクギリスが鉄華団の子供たちによく配っている、それ。可愛らしいてんとう虫のプリントはいかにも子供向けという感じがする。食べたらきっと恐ろしいほど甘いのだろう。

「……ありがたく頂いておきます」
両手にてんとう虫を捧げ持ったまま、石動はおもむろに頭を下げた。施しを受けはするが、かといってあなたと同じ真似はしない、という意志の表明だった。
「どうした、この場で食べればいいだろう」
「職務中ですので」
「私の前でそれを言うか」
マクギリスはまた笑った。お前のそういうところが気に入っているのだ、と顔に書いてあった。







――なぜ、今になってそんなことを思い出すのだろう。

無重力空間に漂う己の血を見ながら、石動は不思議な気分でいた。
目はひどく霞んで、半身を引きちぎられる痛みももうない。終わりが近かった。だというのに――いや、だからこそ――石動は過去の記憶を優しくなぞらずにはいられなかった。

あの、てんとう虫のかたちをしたチョコレート。マクギリスから貰ったはいいものの、食べるのが勿体なくて今でも引き出しの中に仕舞い込んだままだった。いつか食べよう、今日の仕事が終わったら、いや、この忙しさに一区切りついたら――そうやって先延ばしにしている間に、今日という日が来てしまった。

どうしてあの場で食べることを選ばなかったのだろう。職務中だったから?ただそれだけか?……ちがう。彼から与えられたものを、ありのままに受け取ることができなかったからだ。受け取ったが最後、きっとそれはいつしか感傷へと変わってしまう。愛というありふれた名前にはしたくなかった。
マクギリスにとっては、単なる気まぐれの施しでしかなかっただろう。けれど石動にとっては違う。マクギリスから与えられるもの全てに意味があった。たとえそれが子供だましのチョコレートであろうと。石動は、マクギリスからの愛を受け取るわけにはいかなかったのだ。

――ああ、それでも。

死の間際、石動は思う。
マクギリスについていったことに、後悔など一つもなかった。たとえ決して報われぬ思いであろうと、絵空事の理想であろうとも、それを美しいと感じたことに嘘はなかった。自分の成すべきことを成し、主を守って死ねるのなら、これほどの誉れはないだろう。一欠片の悔いも残さず逝けると思っていた。――だが。たったひとつ、心残りがあるとするなら。

――どうせなら、きちんと味わっておけばよかった。

彼が最後に思い描いた口惜しさは、無謀な革命に殉じたことでも、志半ばで散っていく己の命の儚さでもなく。
引き出しの中に取り残されたチョコレートを想う、取るに足らない、ささやかな後悔だった。



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2017/03/12


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