わるいきつねと恋わずらい


「すみません、こちらに三日月殿はいらっしゃいませんか」
襖からひょっこりと顔を出した一期一振に、部屋の中にいた刀たちの視線が集中する。江雪左文字、燭台切光忠、加州清光、へし切長谷部――顔なじみの面々だったが、もう一人、いつもはここにいるはずの者がいない。それは一期一振が探している人物でもあった。
「知らなーい。またどっかほっつき歩いてるんじゃないの?」
いつもみたいにね、と加州が退屈そうに返答する。他の三人が地図を囲んで話し合っていた中、彼だけは畳の上に寝転がって眠そうな顔だ。根が真面目な三名に付き合わされて嫌々この場に同席している、といった風だった。

「用件は何だ。主命があったのか?」
睨みつけるような勢いで長谷部が食いついてくる。
「主命といいますか、主から三日月殿へ伝達があったのですが……」
「ならばこんな所で管を巻いていないで早く他をあたれ。主を待たせるな」
「まあまあ長谷部くん、そう気を短くしないでさ、ね?」
長谷部に気圧される一期一振を見かねて、燭台切がすかさず宥めにかかる。長谷部がやけに噛み付いてくるのは、近頃の近侍がもっぱら一期一振であるためだ。自分が近侍に選ばれないことが彼の不機嫌さを加速させている。

面倒事を避けたい主義の江雪は、気の短い長谷部を横目にして溜息をついた。
「……それで、主は何と?」
「はあ、それが……明日の出陣では、三日月殿を部隊長にお願いしたいそうなのです。しかし、もし三日月殿の気が進まぬようであれば無理にとは言わない、と」
そこで三日月の意向を尋ねに来た、ということらしい。
「思うんだけどさあ、主はあのじいさんに気を遣いすぎでしょ。俺らなんて毎日毎日有無を言わさず酷使されてるってのにさ」
「こら、言っていいことと悪いことがあるだろ。きっと何か考えがあってのことなんだろうから」
「私も燭台切殿に同感です。伝達を頼まれた時の主は、三日月殿を心配しておられるようでした」
「……心配、ですか……」
江雪の言葉を受けて、その場にいた全員がふっと上の空になる。頭に浮かべるのは皆同じく、三日月宗近の姿だった。思い当たる節がないわけではない。

「……ともかく、私は三日月殿を探して参ります。あの方の居場所にお心当たりはありませんか?」
「徘徊老人の行く先になど興味はない」
「だから長谷部くん落ち着いて。……三日月さんなら、どこかでお酒を飲んでるんじゃないかな。ちょっと前に『酒はないかー?』ってうろうろしてたよ」
「じゃあどっかの縁側で月見酒でもしてるんじゃない?好きでしょ、そういうの」
「月見酒ですか……ならば、中庭に面した場所かもしれません。あそこは月がよく見えますから」
「なるほど、中庭……。ありがとうございます。行ってみますね」

一礼をして去っていく一期一振を見送って、残された四名は同時に顔を見合わせた。普段はまったく反りの合わない者達だが、こういう時には同じ反応を見せる。
「……主も、気付いているのでしょうね。近頃になって、あの方の様子が少し変わったことを」
「ていうかあのじいさんいっつも変じゃない?『ちょっと行ってくる』とか言って散歩に出かけたと思ったら夕方まで戻ってこなかったりさあ」
「やっと帰ってきたと思ったら、なぜか鴨の親子連れまで一緒だったのにはさすがに驚いたな」
「あーあれね、超傑作だった!腹抱えて笑ったの久しぶりだったし!」
「うーん、確かに三日月さんは変わった人だけど、江雪さんが言いたいのはそういう意味ではないと思うなー?」
各々好き勝手に言っているが、それは心配を紛らわせるための軽口であることは誰もが分かっていた。

――三日月宗近の纏う雰囲気が、近頃少しだけ変わったのだ。
出陣の時以外は昼夜を問わず、縁側でぼうっと中空を見上げていることが多くなった。鶴丸国永曰く、以前なら背後から忍び寄ってもすぐに気付かれたが、最近は悉くどっきりに引っかかっているらしい。そしてせっかく驚かせても、数秒遅れて「……ああ、これは驚いた」などと腑抜けた顔で笑うだけだという(ここで鶴丸が三日月の顔真似をしたがまったく似ていなかった)。鶴丸は『あんな隙だらけじゃあ、驚かせ甲斐がまるでないぜ』と肩を竦めていた。あの鶴丸がお手上げ状態なのだから相当だろう。

いつもにこやかに笑っている彼だが、時折ふと、淋しげな表情をする。迷子になった子供のように。
皆のいる前では決してその変化を悟られないようにしているが、一人になった瞬間にその表情が出てくる。ある者は畑当番中に、またある者は遠征の休憩時に、その変化を目にしていた。遠くから見ていたので、三日月本人はきっと目撃されたことになど気付いていないだろう。だが、少なくともここにいる面々は皆その変化を知っていた。

「……今日、寝る前に小夜が言っていました。三日月様が最近とても寂しそうだ、お茶のおかわりが少なくなってきている、と……。小夜にまで心配させて……一体どうしたのでしょうね」
「ホントだよ……」
加州が小声で同意した。いつもは呆れたような顔で三日月のことを語る彼が、珍しくしょげている。
場の空気がどんよりと曇り始め、燭台切が慌てて話題を変えようと口を開きかけた時、部屋の襖が再び開いた。その場にいた全員が一斉に顔を上げる。
「……見つかりました」
先ほど出て行ったばかりの一期一振が、険しい表情で戻ってきたのだった。途端に場がざわめく。
「ど、どうしたのそんな顔して。三日月さんに何か言われちゃった?」
「いえ……それ以前の問題です。江雪殿の仰った通り、三日月殿は中庭に居られました。しかし、」
「しかし?」
問い返す声も緊張のために強張っている。
「とても、私から声を掛けられるような雰囲気ではなく……ここに戻ってきてしまいました」
思いつめた表情。一期一振ほどの刀ならば、三日月相手に臆すこともないはずだろうに、実際はこの様子だ。余程のことだと全員が察した。――が、そこで「仕方ないことだ」と流せるへし切長谷部ではなかった。

「では、主命を果たせなかったと?」
主命という単語に敏感な彼は一期を睨みつける。うなだれながら頷く一期の姿を見て燭台切はまた擁護の構えを取るが、
「――ならば俺が代わりに行こう。あの老人のところへ案内しろ」
予想外の返答に「あっそう来る!?」と素っ頓狂な声を出してしまった。しかし、長谷部ならば大丈夫だろうと思い直した。一期は相手に気を遣いすぎるきらいがあるが、長谷部はたとえ天下五剣の名刀相手であろうと主命のもとに進言することができるはずだ。燭台切たちは些か安堵したように「いってらっしゃい」と二人を送り出した。

――が、しかし。
「……あれは、無理だ」
肩を怒らせながら出て行ったはずの長谷部が、よもや一期と同じようにうなだれて帰還するとは、誰一人として思わなかったのである。
「あ、あんたでも駄目だったわけ?」
加州が怯えたように顔を引き攣らせる。主命第一の長谷部が返り討ちにされたのだ、今の三日月がどれほど近寄りがたい状態なのか想像もつかない。「一周回って興味がわいてきますね……」と江雪が彼らしからぬことを言う。
しばらくの沈黙の後、彼等が再び顔を見合わせたのは必然だった。これはもう全員で行くしかない、という使命感が全員の心に宿っていた。
かくして、三日月宗近に声をかけに行く遠征部隊は結成されたのだった。





月の光が雪のように舞い落ちる夜だった。虫の鳴き声ひとつなく、風のざわめきも感じない。板張りの床が軋む音にさえ細心の注意を払いながら、遠征部隊は一期を先頭にしてそろそろと廊下を進む。
「……あちらです」
一期が差し伸べた指の先、中庭に面した縁側に彼等の尋ね人がいた。
そこにいることが何千年も前から宿命付けられているかのように、天から降り注ぐ月の光を一身に受け止めている。まるで神話の一場面だ。長い睫毛に縁取られた目を伏せ、静かに酒盃を傾ける姿は、巻物にでも描かれそうなほど様になっていた。
ぼうっと月を見上げては、何かを懐かしむように目を細める。遠い遠い、どこかへと向けて。

「……ああ、確かにこれは、声をかけられないね」
「わかる……」
柱の陰から顔を出して、燭台切と加州が低く呻いた。言葉通りだったろう?と言わんばかりに、長谷部と一期が溜息をつく。
怒りや苛立ちによる威圧感ならまだしも、ここにあるのはただ、胸を引き絞るような切なさと哀愁だ。月の光を染み込ませたこの空気を乱すことなどできそうにない。呼吸さえも邪魔なものだと思えてしまう。真白の雪原に息をのみ、土足で踏み荒らすことに躊躇いを感じる一瞬が永遠に続いているかのようだった。
普段は柔和な笑みを絶やさない三日月の変化に、江雪も戸惑いを隠せずにいる。
「……果たして、どれほどの理由があってここまで……?」

「きつねをまっているんですよ、三日月は」

江雪のひとりごとは、突如として降ってきた軽やかな声に掻き消された。その場にいた者達が一斉に後ろを振り向く。暗闇に立ち塞がるは、身の丈七尺はあろうかという大男――薙刀の岩融だった。その肩には今剣がちょこんと乗っている。気配もなくすぐ背後に来ていたので、皆一斉に飛び上がらんばかりの驚きを見せた。
「わっ……い、岩融!?――と、今剣。二人ともいつの間に!?びっくりさせないでくれよ……!」
「はっはっは!今剣が目が冴えて眠れないというのでな!外に出てみたら面白い現場に遭遇したというわけだ!企み事なら俺も混ぜろ!」
体躯が大きければ声も大きい。豪快に笑おうとする岩融を太刀と打刀は慌てて止めようとするが、その前に今剣が「しっ、岩融。わらいごえがおおきいですよ」と諌めた。それを受けて岩融も「おお、内密にせよということだな?」と声量を小さくして腰をかがめる。とはいえ元が何もかも大きいので、本人が努力したところでさしたる変化はなかった。

「して、どういう企み事かな?」
「い、いえ、別に企みなどいうわけでは……」
「そうですよ岩融。このひとたちは、三日月をしんぱいしているんです」
「ははあ、あの爺を心配とな?確かに近頃は腑抜けた顔をよく見るが、腹の調子がよくないだけかと思っていた!」
「そういうのをデリカシーがないっていうんだよ」
良くも悪くも岩融が場の雰囲気を壊してくれたからか、先程から萎縮ぎみだった加州も調子を取り戻してきた。度量の広い岩融が相手ならこの程度は悪態をついてもいい、という線引きが加州の中にはあるらしい。周囲の者達も、そのやり取りを見てほっとしたように息をついた。三日月が生み出す雰囲気に呑まれそうになっていたところを岩融に救われた形になる。

「……それで、今剣。先程の言葉はどういう意味ですか?三日月殿に待ち人がいると?」
居住まいを正した江雪が今剣に問いかけた。状況の整理をするのは自分の役目だと心得ている。
すると、今剣は岩融の肩からひょいっと飛び降りて床の上に降り立った。音もなく着地する身軽さはさすが天狗といったところだ。もったいぶるように腕を組んで、遥か高い場所にいる刀たちを見上げる。――見上げているのに見下されていると感じるのは、おそらく気のせいではない。

「きつねのことをかんがえているときの三日月は、いつもあんなようすなんですよ」
「狐?鳴狐のことかな?」
燭台切が首を傾げると、今剣は「分かってないな」と言わんばかりに大仰な溜息をついた。
「ちがいます。いけすかないこぎつねのことです」
「いけすかないって……」
「おうとも!大きい図体で小狐を名乗る輩のことだ。正しくは小狐丸、我ら三条派の刀のひとつ!……とはいえ、直接の面識はないのだがな。知っているのはその名に纏わる逸話のみよ。まあ、『大きいけれど小狐丸』とはいえ、俺よりは小さかろうな!はははは!」
小さくなったばかりの声量は、数分も経たぬうちに元の大きさへと戻ってしまっている。一期はこの会話が三日月に聞こえてはいないかとはらはらしながら目配せするが、遠くの廊下にいる三日月はてんで気付いていないようで安堵する。こんなところで耳の遠さに助けられるとは。

この場の空気はすっかり岩融と今剣に支配されていた。江雪と長谷部はこの薙刀の勢いについていけずに数歩後ずさり、一期と燭台切は引かないまでも苦笑せざるを得ず、長谷部だけが眉間に皺を寄せたいつもの表情で岩融をねめつけていた。
「……で、小狐丸とかいう刀が何だというのだ。まさかあの老人がそれ相手に恋煩いをしているというわけでもあるまい」
「こいわずらい、ですか。まあにたようなものですね」
「なるほど恋の病なら仕方ないね…………って、ええええええ!?」
思わず納得しかけたもののすぐにひっくり返した燭台切、軽いへし切ジョークを言ったつもりが神妙な面持ちで肯定されてしまい今度こそ盛大に顔を引き攣らせた長谷部、「恋」という単語が出るやいなや目を輝かせ始める加州、どういう顔をするべきなのか分からずにおろおろする一期、無表情のまま完全に硬直した江雪。まともな反応を返せた者はどこにもいない。今剣はふざけた様子もなく真剣に頭を悩ませ、岩融は相変わらず愉快そうに口を開けて笑っている。

恋煩いなどと、何を馬鹿なことを!――と一蹴することができないのは、ひとえに三日月の今の様子をそれ以外の言葉で表現することができないためだった。なるほど言われてみれば確かにそうだと思い当たることがありすぎる。食事にもろくに手が伸びず、誰もいないところで一人溜息をつき、遠いどこかの誰かに思いを馳せて目を細める。それを恋と言わずして何と言おう?
彼ら刀剣は長らく人の形をもたなかったとはいえ、色恋という概念を知らないわけではない。人が人として生きていくその営みにおいて、決して避けては通れない道だ。同性同士でのあれやそれがあることも知りすぎるほどに知っている。しかし――しかしだ。よもやあの三日月宗近が、天下五剣に数えられる名刀中の名刀が、若い女子のように恋に悩んでいるなど考えもしなかったのだ。

刀たちの混乱をよそに、三条のふたりはのんびりとした様子である。
「さすが今剣、あいつらと共に過ごしたことがある者の言葉には説得力があるな!」
「ほんのひとときだけでしたけどね。……ほんとうに、あれはかわいげのないきつねです。しろくて、ふさふさしていて、きぐらいだけはたかくて。ただ、三日月とは、とても……」
仲が良かった?険悪だった?それとも愛し合って――?
刀剣たちが固唾を呑んで見守る中、今剣はしばらく考えあぐねるように視線を彷徨わせて、「……ふしぎなあいだがら、でした。」と答えた。

江雪が思わず身を乗り出して問いかける。
「ふ、不思議な間柄、とは?」
「さあ……なんといえばいいのか、わかりません。とりわけなかがよかったようにもみえなかったけれど……そうですね、つかずはなれず、というかんじです」
「三日月と小狐丸は、作られてからしばらくは一緒にいたようだからなあ。俺たちの知らない何かがあるのやもしれん。それを恋やら愛やらと呼ぶかどうかに興味はないがな!ははは!」
豪快に笑い飛ばしてくれる岩融の器の大きさに今は縋るしかなかった。自分たちは三日月宗近の立ち入ってはならぬ場所に踏み込んでいるのではないかという危惧に、敢えて気づかないふりをする。「恋」という言葉で表現するから重く感じるだけで、実際はそこまで深刻な問題ではないのだ、ただ単に旧友に会いたがっているだけなのだ、と言い聞かせなければやっていられない。

「……まあ、うん。小狐丸という刀のことはなんとなーく分かったよ。つまりあのじいさんは、昔つるんだ奴に会いたいんでしょ?でもなかなか会えないから、ああやって寝ぼけた顔してるってことでさ」
「待ち人来たらず、か。しかしその小狐丸という奴は何故来ない?」
「その方も刀剣であるのなら、我らと同じように現世へと呼ばれているはずですが……」
「どこかで迷子になっていたりしてね。それだとちょっと格好悪いか」
「さあ、どうでしょう」

皆、「恋」という厄介な言葉を別の意味の言葉に置き換えようとして必死だ。話題逸らしともいう。焦りを含んだ笑いが一時的に起こり、乾いた音を立てて消える。
「……やはり、今はそっとしておきましょうか」
「うん……。俺も賛成」
「こんな静かな夜に、大勢で騒ぎ立てるのはよくありません」
「明日の朝なら、三日月さんも少しは元気になってるだろうしね?」
「きつねのことなんかわすれて、たのしくあそびにいけばいいんです」
「ああ。本調子でない者を無理に出陣させずとも、俺たちがその役目を担えばいいのだ。老体に鞭打つのは酷だからな」

今剣と岩融以外の刀たちは、帳尻を合わせようとするかのように一つの結論へ向かう。すなわち、触らぬ神に祟りなし、である。四人の視線は、主の近侍である一期一振へと注がれた。
「ってことで、一期一振さん!三日月さんはあの通りしょんぼりしてるし、明日の出陣は勘弁してあげてくれないかな。穴埋めは僕たちでなんとかするからさ!」
「……ええ。主にもそう伝えておきます」
結局、誰一人として三日月に声をかけることができないまま、彼らの中だけで内々に明日の話がまとまった。第一部隊の間で「恋」という単語が禁則事項扱いになったのは言うまでもない。



ぞろぞろと部屋へ戻る刀たちの後ろで、今剣は立ち止まった。柱の向こう側、縁側に座る三日月の姿をじっと見つめる。計七体もの刀が一箇所に集まって騒ぎ立てていたというのに、三日月は気付く様子もなくぼうっとしているばかりだった。盃に残る酒はあれから少しも減っていない。
「おう、どうした今剣。まだ気にかかるか」
今剣はうつむいた。納得いかないというように小さな頬を膨らませる。

「……小狐丸は、わるいきつねです」
「悪い狐とな。これはまた人聞き、いや、刀聞きの悪いことを言うではないか。随分とあの狐を嫌っているとみえる」
「きらいにきまってます。三日月に、あんなさみしいかおをさせるなんて」
「……ああ、確かにそれは、あの狐にしかできない仕業よな」

三日月と小狐丸、両者とはそこまで深い関わりがないとはいえ、同じ三条派の刀である。相手の何に惹かれ、何を求めるのかくらいは、岩融にもなんとなく分かってしまう。千年の時を経たとしても、変わらない思いはあるのだ。現世へと降り立ち、人の身として会えることができる今なら尚更だろう。
「どのみち狐が来ないことには何も変わらん。さあ今剣、今宵はもう寝るぞ」
「……はい」
小さな体を担ぎ上げて、ひょいと肩に乗せる。すっかり当たり前になっているその定位置も、人のかたちでなければ知らなかった。三日月と小狐丸もまた同じように、ふたりで隣り合うことが自然になるのだろうか。そればかりは、岩融でも分からなかった。





翌朝。
布団の上からぽんぽんと体を叩かれる感触で、加州清光は心地よいまどろみから起こされた。
「あ゛……?何だよ安定、起きる時間にはまだ早……」
「おはよう、加州清光よ。すまんが出陣の支度を手伝ってはくれないか」
「……………………へ?」
寝ぼけまなこに映るのは、美しい三日月形の打ち除け。三日月宗近その人であった。寝間着姿ではあるが、既に洗顔を済ませているのかすっきりした顔をしている。寝起きの悪いはずの加州が、途端に飛び起きて驚き慌てたのは言うまでもなかった。

「え、ちょ、ちょっとおじいちゃん!?なんでいるの!?」
「今日はそなたと出陣する手はずになっていたと思うが」
「え、でも昨日おじいちゃんは出陣しないってなったよね?あれ??どういうこと?」
「はて、そうだったかな。どこかで聞き逃したか……まあよい、まずは支度が先だ。よろしくたのむ」
有無を言わさずとばかりに、三日月は加州に衣装一式を渡す。にこやかではあるが謎の威圧感があった。断れるはずもない。

昨日の夜の話し合いは何だったんだ?と首を傾げながらも、加州は慣れた手つきで三日月の装いを整えていく。一緒の部隊で出陣する時はいつも加州がこうして三日月の世話をしている。ただでさえ加州は準備に時間がかかるのだから、本当なら自分の支度を優先させたいところだが、この人相手ではそうもいかなかった。天下五剣随一の美しさを誇る名刀がよれよれの衣装と髪で人前に出るなど。たとえ三日月本人が自らの身なりを気にしない性格であろうと、加州のほうが我慢できないのだ。……しかし、三日月が世話されるのに慣れすぎている現状もどうかとは思うが。

狩衣の裾をぴしりと伸ばして、加州は三日月の背中を見やる。昨夜に見たあの儚げな姿はどこにもなく、自信に満ちたまっすぐな背筋をしていた。
「……おじいちゃん、なんか元気だね。最近調子よくないって聞いてたけど」
「ははは、そうか?今日はとっておきの日だからなあ」
「とっておきの日?」
鸚鵡返しに尋ねる加州を見て、三日月はにっこり笑う。愛嬌のある笑みのはずだが、何故か加州は背筋に冷たいものが走るのを感じた。




本日は晴天、戦うも洗濯するも絶好の日和である。
「さて、今日の隊長は俺でよかったかな?」
地図を見ながら今日の行軍について考えを巡らせていた一期一振は、思いがけない来訪者に腰を抜かしかけた。
「三日月殿!?今日は本丸に待機、と連絡したはずですが……」
三日月宗近に代わって一期一振が部隊長となり、江雪左文字、燭台切光忠、へし切長谷部、加州清光、そして岩融を率いて出陣。目的は墨俣、承久の乱への介入である――と、昨夜のうちに打ち合わせをして、審神者の了解も得ていたはず……なのだが。
「じじいは耄碌していてな。自分の都合のいいことしか覚えておらんのだ。それに、今日赴く戦場は激戦が予想されるのだろう?なおさら俺の力が必要だと思うが、さすがにそれは自惚れかな」
当の三日月は、すっかり戦支度を済ませて後は出陣の合図を待つばかりであった。「ちなみに岩融は今剣と仲良く寝坊中のようだぞ」という情報すら付け加えて。

一期は珍しく慌てて、三日月と地図とを交互に見比べながら言葉を探す。
「三日月殿がいてくださるのであれば、これほど心強いことはありません。しかし貴方自身はよろしいのですか?出陣が本意でなければ、無理にとは……」
三日月を気遣っての言葉は、逆に彼の思いを強めるだけであったらしい。三日月の放つ威圧感が勢いを増した。肌を刺すぴりぴりとした空気に圧されて二の句を告げなくなる。
「清光といいそなたといい、皆この老体を気遣ってくれて何より。しかしな、俺にも譲れぬものがあるのだ」
「……譲れぬもの、とは」
すると三日月は、鮮やかに笑った。

「この手で悪い狐の首根っこを掴んでやろうという、ささやかな願いだよ」

絶句。一期一振は、ただただ、絶句した。
三日月宗近が、狐との逢瀬を待ちわびて儚げに溜息をつくだけで済むはずがなかった。むしろ自ら戦場を駆って狐を追い求めることを選ぶ。いつまでたっても現れない狐を捕まえて、直々にこらしめてやらねば気が済まない。そういう顔だった。美しく、そしてこの世の何よりも恐ろしい。
三日月は、傍らに寄ってきた馬の毛並みを撫でたかと思うと、予備動作もなしに軽々とその背に乗った。威風堂々、飛竜乗雲、もはや何人もこの刀を止めることはできない。

「さあ、狐狩りにいくのだろう?」

狐狩り。その言葉の意味するところはただ一つである。
(ああ、小狐丸殿、どうかご無事で……)
一期一振は、高らかに笑う三日月宗近の横顔を、今日ほど怖いと思ったことはない。そして、会ったこともない小狐丸という刀に対して、深く深く同情してしまうのだった。





2015/08/03


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