啼哭


・青エク原作2巻のナベリウス視点
・ナベリウスたんがネイガウス先生に片想いしてる



いつ、どこで生まれたのかは分からない。だが、何のために自分が存在しているのかは分かる。
私は悪魔でありながら人間によって造り出された。人間の命令を聞き、従順な駒として動くためだけの存在。悪複数の屍を組み合わせ、攻撃に特化した悪魔。主である人間の命令を理解し実行する。余計なことを考える知性は与えられていない。
悪魔はそれぞれに固有の「名」を持っているが、人間にとってそのような名はどうでもいいらしい。我等を召喚し使役するために必要な種族名さえあれば事足りるのだ。私も自分だけの名を持っていた気がしたが、長い長い時の中でとうに忘れてしまった。
覚えているのは、人間が勝手に名付けた醜い呼び名のみ――人間は私のような存在を「屍番犬(ナベリウス)」と呼ぶ。



暗く淀んだ虚無界の空の下で、私を喚ぶ声が聞こえた。また人間に召喚されるのか。
これまでに幾度となく使い魔として喚び出されたが、どれも我が力を存分に振るうには値しない者共ばかりだった。ある者は私の醜悪な姿を忌避し、ある者は私をただの捨て駒として扱った。召喚者を喰い殺したのは一度や二度ではない。
私の姿を見るや、誰もが眉をひそめて嫌悪した。仕方あるまい、私のこの姿かたちは、人間に生理的嫌悪感を催させるには充分過ぎる。物質界に生きる者共にとって、私は異形以外の何ものでもない。奇怪な造形、不気味な呻き声、朽ちた屍肉の臭い。ありとあらゆる醜さを掻き集めて造られた命だ。また今度の召喚者も、汚らわしいものを蔑む目で私を見るのだろう。

「……屍番犬か」

――しかし。私を出迎えたのは、侮蔑ではなく、深い悲しみの色を落とし込んだ瞳だった。
召喚者である主は、召喚陣の上に伏せた私をしばらく見下ろしていたが、不意にその手を翳した。そして――そして、私の頭をゆっくりと撫でたのだ。まるで、人間が我が子を慈しむ時のように。
私が驚きに身を強張らせたのは言うまでもない。使い魔に愛着を持つ祓魔師は珍しいものではないが、殊に私のような屍系の悪魔に関してはまったく縁のない話だ。屍から造り出された悪魔は、例外なく忌み嫌われる対象となる。屍番犬に慈悲をかけるヒトなど見たことがない。
だが、私を撫でる主の掌からは、「優しさ」を――悪魔である私が人間らしい感情を理解するのもおかしなことだが――確かに感じ取ったのだ。長く生きすぎている悪魔には余計なことを考える知恵もついてしまったのか。どのみち、頭の中で何を考えたところで、私の口からは悪臭を放つ体液とくぐもった呻き声しか出ないのだ。意味は無きに等しい。

主は私の驚愕に気付かない。眉一つ動かさぬまま命令を下す。
曰く、サタンの落とし子たる少年の、青き炎の力を引き出せ、と。しかし直接その少年に危害を加えるのは最後だけ。まずは外堀を埋めるように周囲の人間から崩していき、少年が力を出さざるを得ない状況まで追い込む。それが私に与えられた役割だった。
淡々と命令の内容を告げる主の声は、たっぷりと憂いを含み艷やかですらあった。



主に命じられるがまま、私は濁った闇を駆ける。この命令を完璧に遂行することができれば、主はまた私を撫でてくれるだろうか。ありもしない心が弾んだ。
浴場で少女二人を襲撃したところ、案の定若君が彼女らを助けにいらっしゃった。若君を痛めつけるのは私の本意ではないが、主の命令なのだから仕方がない。首を締める力を強めようとする。

「兄さん!」

だが思わぬ邪魔が入った。忌々しい祓魔師だ。もう少しで我が使命は果たされようというのに。だがここで祓われては元も子もない。私は現れた祓魔師に背を向けて一目散に逃げ出した。
人の目につかない場所に隠れ、あの祓魔師に撃たれた傷を癒やすことに努める。
私にはまだやらねばならないことが残っている。若君の青い炎を主にお見せするまでは、功を焦るような真似は決して許されないのだ。
――ああ、しかし、これは言い訳のしようがない失敗だ。
主は私を役立たずと罵るだろうか。人間の命令に従うためだけに造られた存在が、その唯一の役割すら果たせずにいるのだから。厳しい罰がくだされても仕方あるまい。私などよりももっと有用な悪魔を召喚する可能性もある。そうなったらもう、私はまた虚無界へ逆戻りだ。

うなだれていると、頭の中に私を呼ぶ声が聞こえた。「来い」と。それは紛れもなく我が主、イゴール・ネイガウスその人。呼ばれている。まだ私は必要とされているのだ。失望されて私と主の繋がりが絶たれてしまう前に、一刻も早く駆けつけなくては。
湿り気を帯びた風が吹く。夜空には星の瞬きすら浮かんでいない。黒を一面に塗り込めたような空の下、私は壁を伝って主の元へ急いだ。

「失敗したか」

主は眉をひそめて溜息をついた。私がおめおめと逃げ戻ってきたことを快く思っていないらしい。ただでさえ醜い私が、更なる醜態を晒してしまった。慰めが通用するとは思えなかったが、少しでも主の眉間の皺を取り除こうと必死になって私は啼いた。頭の中に、言い訳めいた言葉が次々と浮かんでは消えていく。結局、歪に裂けた私の口から漏れ出るのは、呻き声と大差ないしゃがれた化け物の啼き声だけだった。

「……何を啼く」

ぽつりと、主が呟いた。はっとして主の目を見る。深い湖の底を映したような瞳が、かすかに揺らいでいた。
主の手が私の方へ伸び、再びこの体を撫ぜた。召喚されたあの時以上の悲しみと共に。憐憫に似た感覚が、体温の低い掌を通して私へと伝わる。
「……いや、悪魔の犬に成り下がったこの俺を嗤っているのか」
そのようなことはありません。私はただ、貴方の悲しみを和らげたいだけなのです。
そう言おうとして声を上げかけたが、やめた。私があらゆる言葉を尽くしても、この方にはただの呻き声しか届かない。

感情を何処かへと置き去ってしまったかのように、諦観をにじませた瞳が向かう先。主は私を見ていた。しかし一方で、私ではない他の何かを見ていた。……おそらく主は、私の姿越しに自分自身を幻視している。先ほどの言葉は私にではなく、主自身の内面に向かって発せられたものだった。

だから私は啼くのだ、泣けぬ貴方の代わりに。
遠い過去の夜、青き炎によって奪われた日々の残骸を。幸福を約束されていたはずだった、潰えた未来のかなしみを。



次こそは主の望む結果を出してみせる。私は自らに厳命した。以前のように、祓われることを恐れて逃げ出すような真似はしない。若君の炎を受ければ私とて例外なく消え去るだろう。だが、それが何だと言うのだ。私は最初から使い捨てにされることを前提として生み出されたのだ。そんな悪魔に手を差し伸べ、優しさをもって撫でてくださった主のために、この「命」とすら呼べない命を役立てることができるのなら。醜悪なだけの姿かたちにも、もしかすれば何かしらの意味はあるのだろう。

二度目の襲撃で、私は若君のその他の人間を切り離すことに成功した。目的の達成は間近だ。それは同時に、私という存在が消滅する瞬間も示していた。
若君はとうとう剣を抜いて私に刃を突き立てる。凄まじい轟音とともに、滅びの炎が私の体を焼き尽くそうとする。――ああ、これが、虚無界の王の御力を受け継ぐ青き炎。何よりも強く、何よりも美しい。たかが屍番犬を葬り去るには勿体ないと思えるほどに。
不思議と恐ろしさは感じなかった。この身を埋め尽くすのは畏怖の念。すべてが焼き消えようとする。

視界の隅に主の姿を捉えた。その瞳は青い炎を映し出して爛々と輝いていた。強く激しい憎悪。悪魔という存在に対するにくしみ。だが――憎悪の渦の只中にあっても、その瞳の奥底には、深い悲しみが根ざしている。
私が忠誠を誓ったのは、悪魔を呪いながら悪魔を従え、どこまでも人間として生きようとする、悲しくてちっぽけな人間だった。

たましいを焼かれる痛みに悲鳴を上げながら、私は主に向かって手を伸ばした。
指の先からぼろぼろと崩れ落ちていく。もはや私は私としての形を失い、わずかに残された意識すらもじきに消える。私の果たすべき役割は終わった。終わったのだ。
それでも。どうかもう一度だけ、その手で撫でてほしかった。



主の代わりに啼く悪魔はもういない。








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