しろがねいろの猫


※1期最終話後に、海外各地を放浪する狡噛さんの話。
※槇島さん出てきませんが、心持ち狡→槇っぽい感じ。



When I play with my cat, who knows whether she is not amusing herself with me more than I with her.
(私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。)
  ――ミシェル・ド・モンテーニュ




その猫は、月光を閉じ込めたかのような白銀色だった。そして星の瞬きよりも冷たく透き通る黄金の瞳をもっていた。スラム街の宵闇から浮かび上がるように音もなく現れる。軽やかな足取りは、淀んで濁った周囲の雰囲気とはまるで違っていて、その猫を取り巻く空間だけが月の加護を受けているかのようだった。異質でありながらも不思議と街に溶け込んでいる。

男が寝泊まりしている廃墟に、この猫がふらりと立ち寄ってきたのはいつだったろう。気付いた時にはそこにいた。夕暮れが闇を招く間のひと時、瓦礫の山をすいすいと通り抜けてその猫はやって来る。
シビュラの存在しない異国の地では、野生の動物がそこかしこに棲み着いている。表社会から見放されたこの街では尚更だ。野良猫は今までにも何度か見かけたことはあったが、しかし、このように美しい毛並みをもつものは見たことがない。白銀の体に金色の瞳。その色彩の組み合わせに動揺を覚えたのは言うまでもなかった。
殺さなくては、とはじめに思った。もはや条件反射のようなもので、白銀と黄金の組み合わせを目にするとどうしようもなく心が波立ってしまうのだ。それは破壊衝動とも言い換えることができた。自分の右手を左手で抑えつけていなくては、人懐っこく足元に擦り寄ってくる猫の喉首をあやうく捻り潰してしまうところだった。だが、男の放つ殺気に気付いているのかいないのか、猫はちらりと目配せするだけで逃げようとはしなかった。警戒心が薄いというよりも、ただ単に脅威として見られていないだけなのだろう。喉をごろごろと鳴らして、男の足元に寝転がる。心の底から寛いでいるような猫の様子に、男はすっかり毒気を抜かれてしまった。

それまで使っていた灰皿は、いつしかミルク入れに変わっていた。食料を調達してくる時、缶コーヒーと一緒に牛乳瓶を手に取るようになった。このスラム街の中にあって、ただでさえ食料を確保するのは困難を極める。しかし男はそれほど苦には感じていなかった。少しばかり手間と金がかかるだけなのだから。缶コーヒーは泥水のような味がして辟易するが、その傍らでミルクを舐める猫はとても美味そうな様子なのだ。その姿があまりにも一生懸命なので、やはり明日もミルクを持ってきてやらなければと思う。たぶん猫も、ここに来れば餌がもらえることを分かっているのだろう。男と猫は毎日ほぼ同じ時間に待ち合わせては、粗末な晩餐を共に味わうのだった。

そんな夜が十日ほど続いたある時、男は急に何かを呟いてみたくなった。
「なあ、お前」
呟きは紛れも無く目の前の猫に向けられたものだった。猫は耳をぴょこんと立てて男を見上げる。普段はこちらに見向きもしないのに、こういう時ばかりは察しが良い。透き通る金色がまっすぐに男の目を射抜く。
言葉も通じないような相手に――いや、言葉が通じないからこそ、訊いてみたくなったのかもしれない。あの忌まわしい記憶によく似た色を宿す、まっしろな猫に。
「お前は、……槙島聖護か?」
自分の意志で言っておきながら、男はひどく後悔する羽目になった。忌まわしい記憶と忌まわしい名前。名前を声に出したのは実にあの時以来だった。なぜ猫に向かってそんな馬鹿らしい問いかけをしたのか、自分でもよく分からない。色が似ているという、ただそれだけの共通点で。

男が呼ぶその名前の意味など知らないだろうに、猫は呆れたような表情をつくった。何を言っているんだお前は、とでも言いたげだ。男の問いかけが期待はずれだったのか、途端に興味をなくしたかのように大きく伸びをする。その反応は、男にとってはむしろありがたいものだった。肩の力が抜ける。安堵にも似た感覚が胸から腹へと降りていく。
この街も、この猫も、誰も知らないのだ。男がなぜこんな異国の地へ来たのか、なぜ今になってその名前を呼んだのか。煩わしい心の機微を、この国では誰も咎めない。だから安心して過去を手繰り寄せられる。
猫は気の抜けた鳴き声を上げながら欠伸をした。最上級の無関心がそこに表れている。
「……そうだな、その通りだ。お前はあいつじゃない。あいつは俺が殺したんだ」
当たり前の事実を、改めて言葉に変えていく。ひとつひとつ噛み締めるように。ひとつとして間違えないように。泥で埋め尽くされた沼へ、美しい指輪を落とす時のような確かさで。

ふと、呼吸を緩める。その一瞬の隙を突き、猫は我が物顔で男の膝の間に割り込んできた。仰向けにごろんと寝転がる。これ以上ないほどに無防備な姿を晒した状態で、猫はニャアと一声鳴いた。さあ撫でろと言わんばかりにふてぶてしさの溢れる声である。まさか、慰めようとでもしてくれているのだろうか。猫にまで気を遣われるとは……と苦笑せざるを得なかった。
男が猫の腹を一撫ぜしても、猫は嫌がる素振りを見せない。それどころか、ふわふわした二本ずつの手と足で男の指にじゃれついてくる。柔らかい白銀の毛並みがとても心地良かった。無機質な冷たい金属の塊ばかりを握ってきた男の手には馴染みがない感覚だ。生きている動物はこんなにも温かくて柔らかいものなのかと戸惑う。男はそこではじめて、自分がいかに生きた人間に触れてこなかったかを思い知った。
ひっそりと静まり返る月夜は多くの言葉を必要としない。男は時間も忘れて猫を撫で続けていた。



あの猫がいつもの時間になっても現れないことに気付いたのは、男が簡素な荷造りを終えて街を出ようとする寸前だった。
最後だからと、普段より豪華なものを揃えた晩餐は、食べてくれる主を見失った。灰皿に注いだミルク、いつもより大きなソーセージ。せっかく奮発したというのに意味が無い。
あの猫はどこへ行ったのだろう。男との別れを察して、自分から姿を消したのか。知らない場所でひっそりと死んだのか。それとも、餌を与えてくれる代わりの「誰か」を見つけたのだろうか。この街を去ろうとする男には知る由もなかった。
男はこの街を離れ、また別の場所をあてどもなく彷徨う。あの猫もきっと同じだ。もう二度と会うことはないだろうが、あの美しい白金色は、今でも鮮やかに記憶に残り続けていた。





2014/09/17


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