渚カヲルという素敵な名前


カヲル君、カヲル君。
心の中で何度も呼んでみる。渚君、という呼び方にすっかり慣れてしまって、今更呼び方を変えるのは少し恥ずかしいけれど、彼を名前で呼ぶと嬉しそうに微笑むから、やっぱり名前で呼んであげたいと思うんだ。ごくごく自然に呼べるよう、声には出さずに繰り返す。その素敵な響きの名前を。

「……緊張しているのかい?」
声をかけられて顔を上げると、柔らかな微笑みを向けられていた。彼の表情はいつも穏やかで優しい。
「うん、ちょっとね。……エヴァに乗るのも久しぶりだし」
本当は君の名前を呼ぼうとして緊張していたんだとは言えず、咄嗟に浮かんだ理由を口に出す。とはいえこの理由もあながち間違いじゃない。何もするな、エヴァにだけは乗るなと散々言われ続けた記憶は一朝一夕で忘れられるようなものではなく、決心が着いた今もなお揺らぎ続けているのは確かだ。
彼はこれから大事な任務を果たしに行くとは思えないほどリラックスしていて、自分も見習わなければと思う。だがそう思えば思うほど肩に力が入り強ばってしまう。とても真似できない。

カヲル君は僕を元気づけるように肩に手を置いた。
「そう深刻に考えることはないよ。ピアノと一緒さ。反復練習によって刻まれた感覚は、長いブランクを経ても身体が覚えているものだからね」
彼の言葉は魔法のようだった。心のなかに燻る不安や心配も一瞬で溶かしてくれる。どんなことだって彼と2人なら容易く乗り越えられるような気にさせてくれる。……もう大丈夫だ。
「そうだよね、ありがとう、……カヲル君」

何度も反芻し続けたその名前。カヲルでいいよと言われたはいいものの、その場で一度名前で呼んだきり今まで口に出して来なかったけど、その気になったらあっさりと呼ぶことができて拍子抜けする。なんだ、簡単なことじゃないか。名前で呼ぶことのハードルは思ったよりずっと低かった。だって、僕達はもう友達なんだ。友達同士なら全然おかしいことじゃない。変に気負っていたのが何だか馬鹿らしく思えて、僕はふっと笑った。それにつられるようにして、カヲル君も表情を綻ばせる。

「君に名前を呼んでもらえると、胸の奥があたたかくなる。この名前がとても特別なものに思えてくるんだ。不思議だね」
「不思議なんかじゃないよ、本当に特別なんだ。渚カヲルって名前はさ、カヲル君によく似合う、綺麗な名前だと思う」
「……本当に?」
「本当だってば」

するとカヲル君は僅かに目を見開いて、それからすぐにあの微笑みを見せてくれた。……あ、でも今のはちょっといつものと違う。何を考えているのか分からない神秘的な微笑じゃなくて……手を伸ばせばちゃんと触れられて、一緒に笑い合う事ができる、体温を持った微笑みだった。ふわふわと宙に浮いた風船みたいな彼が、やっと地に足をつけてくれたような気がした。
きっと僕は、この顔が見たくて君の名前を呼ぶのだろう。

「……きっと、これが『嬉しい』って気持ちなんだろうね」
「じゃあ、何度も呼ぶよ。そのたびにカヲル君が嬉しくなるように」

名前を呼ぶくらいしか僕にできることはないけど、それでカヲル君が笑ってくれるなら、とても嬉しいと思えるんだ。










「カヲル君!!カヲル君っ!!」

君は僕の名前を何度も繰り返す。哀しい未来の予感に頬を涙で濡らしながら。途切れかけた糸を繋ぎとめようと、必死に声を枯らして叫んでくれる。
フィフスチルドレン、エヴァ弐号機パイロット、第十七使徒タブリス……そして、渚カヲル。繰り返されてきた運命の中で、時や場所によって僕に対する呼び名は幾度となく形を変えてきた。その全ての名が僕というひとつの事象を指していた。何も問題はない。
君と出会う前の僕にとって、「渚カヲル」という名は個人を識別するための記号でしかなかったし、それで充分だと思っていた。名前の持つ意味など考えたこともなかった。
だが――今はどうだろう。僕は君に名前を呼ばれることに確かな喜びを感じている。

オワリを導くこの名前を、君は綺麗だと言う。
僕を、カヲル君、と親愛の情を込めて名前を呼んでくれたのは君が初めてだった。照れ混じりにはにかみながら僕を見つめて。
君に名前を呼ばれるたび、僕は胸の奥から何かあたたかいものが滲むのを感じた。それは次第に胸をいっぱいに満たして、外の世界へと溢れだしていくようだった。僕は涙というものを知らないけれど、泣きたくなる気持ちとはこういうことを言うのだろうと思った。

君は名前を呼ぶことで、僕という存在を優しく肯定してくれる。脆く虚しい存在を、世界に結びつけてくれる。君が渚カヲルという名前に意味を与えてくれた。君に与えられたこの意味はとてつもなく重くて、深くて、君の優しさに満ちていた。
僕は君を幸せにするために生きてきたのに、いつの間にかその立場は逆転して、僕が君から幸せを受け取っていたんだ。

ああ、シンジ君。君が呼んでくれるなら、他には何もいらないよ。……命さえも。
やっと君が名前で呼んでくれるようになったのに、もう別れを告げなくてはいけないのが心苦しいけれど、僕は惜しいとは思わない。だって君が今、僕のこれから呼ばれるはずだった分まで埋めてくれているから。何度も何度も繰り返して、声が枯れても呼んでくれるから。
君の尊い優しさは守られなければならない。生きて、生きて、生き抜いて、その命が尽きるまでずっと僕の名前を呼び続けて欲しい。そうすれば僕は永遠を生きられるだろう。君の声を通じて大気に融けて、いつまでもこの美しい世界への賛歌を高らかに歌っていられる。

だから、僕はもう行くよ。君が僕の名前を呼んでくれる世界のために。
ありがとう、またね、シンジ君。





2012/12/05


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