楽園回帰願望


「生まれたその日から死は歩みを始めた。急ぐことなく僕の方に向かっている」 - Jean Cocteau


はじめまして、と言って差し出された手を握ることができなかったのは、その抜けるような色素の薄さに既視感を覚えたからだ。それがいつ、どこで経験した感覚なのかは分からない。
「彼女」に似ていると感じたこととの関連はおそらく薄いだろう。これは、それこそ彼女と会うよりも前から知っていた色だ。
遠い記憶の中に埋もれていた。だけど忘れられるはずのない色。

「こっちだよ、シンジ君」

まるで手乗り文鳥に語りかけるような慣れた口調で、初対面の彼はそう呼んだ。それだけで瞬間的に泣きそうになった。
無機質な廊下を先だって歩く彼の背中も何故か懐かしかった。軽やかな足取り、すらりと伸びた脚、歩く度にひらひらと揺れるシャツの袖、何もかも覚えているはずなのに忘れていた。記憶の残滓が微かな叫び声を上げている。
目を細める。視界を狭めても思い出せるものはない。世界と自分、記録と記憶の境界が曖昧にぼやけるだけだ。
白いシャツから覗く首筋はなお白い。陶器のようになめらかで、傷ひとつない綺麗な肌。

「何も無い……」

無意識的に唇から漏れたその呟きは、口の中だけで響くはずだった。だが彼には届いてしまった。彼に聞こえない声などきっとない。
「どうしたんだい?」
透き通った赤い瞳がまっすぐに見つめてくる。人と目を合わせるのは苦手だ。彼との場合は特に、すべてを見透かされてしまいそうな気にさせた。
慌てて俯いたが、彼の細い首から目が逸らせない。

「いや、あの、くびが、」
「首?」
「うん……なんだろう、君の首に……何かあったような気がして……」

彼の首に無惨な傷を見た。いびつな稲妻形に刻まれた一筋の痕。
だけどそれはほんの一瞬だけのことで、目を離した時には元の傷ひとつない綺麗な肌に戻っていた。これこそが当たり前なのだ。この世の地獄をまだ目にしたことのない少年の肌はこうあるべきだった。
ならば、先ほど見た傷痕はただの幻覚だったのだろうか。

(……違う。)

首の傷。死に至る傷。
ある時は捩切られ、ある時は千々に弾け飛んで。どのような道を選んでも、最後に辿り着く結末は常に無惨な死だ。そのトリガーを引くのはいつだって自分だった。
本当は知っているのだ。幻覚などではない。あの傷は魂に刻まれている。幾度となく繰り返し続けた死の証。
まるで茨の首輪のように、首に刻まれた傷は忘れられた記憶を呼び覚ます。鮮烈な生と死の色を、確かに覚えている。

「シンジ君」

名前を呼ばれたと思った時には、その整った顔が視界いっぱいに映し出されていた。思わず情けない声を上げて飛び退こうとしたが、手首を掴まれてしまったためそれも叶わない。
彼の手は思った通りの冷たさだった。四季を知らない身でありながらも、冬に降る雪はこんなふうに冷たいのだろうと思う。寂しい温度だ。

「無理に思い出そうとしなくてもいいよ。きっと忘れるべくして忘れた記憶なんだから」

首に傷痕を見たことも、それに覚えがあることも、何一つ口に出しては言っていないはずなのに。どうして彼には分かるのだろう。
彼の選ぶ言葉は相変わらず遠回しで真意が掴めないが、その中にぴんと張り詰めた糸が張り巡らされているような感覚に陥った。いつもはふわふわと宙に浮いている彼の声が、少しだけ強張っている。まるで、その先の記憶を辿ることを恐れているかのようだった。

「……でも、僕には思い出さなくちゃいけない記憶のような気がするんだ」

彼は水底に沈んだ記憶の全貌を知っているのだろう。その上で自分を「知らない子供」のままでいさせようとする。記憶の隠蔽が正しい道だとしても、自分だけが何も知らされずにいるのは居心地が悪かった。大切に見守られているはずなのに、繋がるべき世界から切り離されている。それはとても寂しい。
感情の変化を感じ取ったのか、彼は悲しげに目を伏せた。こんな仕草ひとつを取っても綺麗だ。

「必然性のない忘却なんてこの世界には存在しないんだよ、シンジ君。君という現象を形作っているのは、君自身が経験してきた過去だ。繰り返される運命はその度に君の魂を強くする。だけど、今を生きようとするなら振り返ってはいけない。僕達の希望は輪廻の先にしかないのさ」

謎かけのような言葉だった。理解されようとして言っているわけではなく、自らに言い聞かせているように聞こえた。
唯一分かるのは、記憶を辿るという行為は彼の望むことではないということだけだった。
……もう、やめておこう。これ以上彼の瞳を暗くさせたくない一心で小さく頷くと、彼はやがて柔らかく微笑んだ。

「それでいい、それでいいんだよ」

名残惜しげに手を離し、また背を向けて歩き出す。今度はいくら瞬きをしても、再びあの傷痕を見とめることはできなかった。
記録と記憶の境界はより曖昧になっていく。これこそが彼の望む形なんだろうかと考え、余計に寂しくなって口を閉ざした。




2012/11/29

ループ説を採用。旧劇とQを経ても悲劇は繰り返されるとか救いがなくて萌えるじゃないですか―


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