残花


あなたは、わたしの黒髪を切っていた。
ぱさり、ぱさり。鋏が動くたびにわたしの体の一部が零れ落ち、無駄なものから解放された黒髪は軽やかに揺れる。

「……だいぶ、さっぱりしたね」

長い作業を終えて一息ついたあなたは、仕上がりに満足したのか、わたしの背後で嬉しそうに笑う。その態度が納得いかなくて、少しだけ声を尖らせて反論した。
そもそも、こんなに伸びるまで放っておいたあなたが悪いわ。わたしの髪はあなたしか切れないのに、何週間も待たせるなんて。
「すまないカメリア、どうしても外せない用事があったんだ」
……ひどい。あなたはわたしよりも、別の『誰か』を優先するのね。あなたが来てくれるまでずっとずっと待っていたっていうのに。わたしはこの場所から動けなくて、待つしかないっていうのに。あなたと離れ離れになって心が引き裂かれそうになっていたわたしの気持ちなんて知らないのね。だからそうやって呑気にへらへら笑っていられるのだわ。

相変わらず困ったように笑っているであろうあなたの顔なんて見たくなくて、わたしは視線を前に向けたまま、次から次へと不満を並べ立てる。せき止められていた寂しさが決壊して、あなたを責める言葉は止まらない。
「……許してくれないかい?」
 いやよ。許すものですか。

これだから人間という生き物は嫌い。大切にするという約束を考えもなく口にして、舌の根も乾かぬうちに飽きて捨ててしまう。食べ終わってしまったりんごの芯、流行に乗り遅れた玩具、伸びすぎて邪魔にしかならない黒髪。そうやってみんな捨てられていく。あるものは廃棄場へ、あるものは時代の流れの中へ。ひたすらに希う一途なものの心すら、人はみな簡単に掬い上げては零して。
例えば植物ならば、そんな愚かな真似はしないはず。命をかけて水を吸い上げるその行為の間には、打算や妥協、戯れなんていう余計な要素は介在しない。それはただ生きるためだから。生きるためだけに特化されたその器官を最大限に働かせ、しなやかな身体を空へと伸ばす。

ねぇ、あなたはそれを知らないの?
「知っているさ。君の髪は、僕が切らずとも風や雨に淘汰され自然に切り揃えられていくこともね」
わたしに語りかけるその声音が、少しだけ低くなった。不意に得体の知れない不安を覚えて、あなたの方へと向き直る。
「僕がいない間も変わらず、君は美しいままだ」
振り返った先のあなたは、目を細めて小さく微笑んでいた。冷たい風が、空っぽの左袖を穏やかに揺らしている。
それを見て初めて、わたしの髪を切るあなたの作業が、いつもよりぎこちなかったことに気がついた。嗚呼そうだわ、髪に触れていた手の感触は、腕一つ分欠けていた。
ざわり、凪いでいた風が急にざわめき始める。

(左腕、左腕、遠い島、南の島、戦い、熱帯林、恐ろしい戦い、悪夢のような戦い、切断)

ざわざわ、ざわり。

……その腕。
「この腕?」
そう、それ。風が教えてくれたわ。「南国で戦争があった」って。そこで切り落としたんでしょう?
「……そうだよ。僕は兵隊として国のために役立てなかった。だからこうやって一人だけすごすごと帰還して、跡形もなく焼け落ちた住居の瓦礫を前に途方に暮れているのさ」
やれやれ困ったものだ、と眉をひそめたのはほんの一瞬で、すぐに呑気な表情に呑み込まれた。
「もちろん、君が無事でいてくれたことには安心したよ」
たった今気がついたとでも言うかのように付け足された言葉は癇に障ったけれど、片腕だけになったその手が優しくわたしに触れたので、結局文句を言いそびれてしまった。

ふわり。
庭の手入れを生業にしているあなたの手からは、樹液と土の匂いがした。その中で、厭な鉄の苦味が新たに混じっていることには気づかない振りをする。
「でも……腕が、折れてしまったね」
わたしの腕は、先日この地域一体を襲った空襲によって無残に折れてしまっていた。あなたの左腕よりも酷いわけでもないし、痛みだって今は引いている。それなのにあなたは、自分の怪我なんて放ってわたしの方を一番に心配してくれた。あなたのごつごつとして節くれだった無骨な手は、その荒々しい印象とは裏腹に繊細な動きで鋏を操ることを知っている。いつだって大きな手で包み込み、わたしの怪我を慈悲深く労わってくれるのだ。

……これでわたしたち、『おそろい』になったわね。
「片腕を失くした者どうし?」
そうよ。
わたしが言った『おそろい』の言葉に何を思ったのか、あなたは少しだけ眉尻を下げて、わたしの頭を撫でた。
「……嬉しくない所ばかり、似てしまったね。それより腕は大丈夫かい? 薬は空襲で無くなってしまったから、応急手当しか出来なくてすまない」
わたしなら平気よ。あの爆撃にだって耐え切ったんですもの。腕の一本折れても大したこと無いわ。わたしの生命力を甘く見ないでちょうだい。
「そうだったね。たとえ荒廃してしまっていても、今なお君の身体を支えているのは大地だ。君は自然に守られている」

どれほど汚染されても、幾度となく甦る自然。力強く躍動する生命の源。わたしは大地を通じて自然と繋がっているから、腕が折れようと脚がもがれようとも大丈夫だった。
……けれど、あなたは違うわ。
「分かっているよ。僕がいくら自然と接してひとつになりたいと願っていても、この身体のつくりがそれを許してくれないんだ」

身体を支える根は非力な脚となって大地に溶け込むことを拒んでしまった。自らの力だけで全ての重さを支えきるには、あまりにも頼りない。枝となるべき腕だってあなたには二本だけで、身体を切り刻まれても再生しない。欠落を抱えて短い一生を細々と生きるしか道は残されていないのに。
どちらも腕をなくして『おそろい』のわたしたちだけれど、いずれ時間が経てば、わたしとあなたの違いは目に見えて明らかになってしまう。
それは、ひどく悲しかった。死そのものが悲しいわけではなく、死と向き合う過程が悲しいと感じた。どちらも必ず尽きる定めにあるとしても、わたしとあなたとでは違いすぎる。季節が廻るたびに幾度となく枯れては再び咲くわたしの命と、一度消えれば永久に失われるあなたの命。両方とも悲しいことに変わりはない。ならば、果たしてどちらの方がより悲しいのだろう。
この土地に根付き、この角度から見る空がわたしの世界の全てだった。わたしたちに寄り添う悲しみを言い表すには、抱えきれないほどに溢れ返る人の言葉をいくら並べても足りない。ただ、悲しかった。

呼吸四つ分の沈黙。あなたは目を伏せ、それから長く息をついた。ため息ではなく、しかしそれでいてどこか諦めに似た息のつき方だった。
「カメリア」
なあに。
「僕の話を聞いてくれないかい。大切な話なんだ」
いいわよ。わたしにはいくらでも時間があるから。
「ありがとう」

ぽつり、ぽつり。
あなたは降り始めの雨のように、少しずつ言葉を零していく。わたしはそれを聞き流しながら、首をもたげ空を見上げた。
「僕のこの腕は、もう使い物にならなくなって切り落とした。けれども、それは左腕だけの話じゃないかもしれない」
いつにもまして寒々とした青空、雲ひとつない青空、青色の染料をいくら集めても染めきれない青空。わたしが内包する赤とは正反対の青。
「いや、『かもしれない』ではないな。きっとそう遠くはない未来、この身体は僕の言うことを聞かなくなってしまう。錆付いた鎧のように」
この色がどこから来るものなのかと疑問に思って風に尋ねてみたことがある。「知らないわ、わたくしたちは空の青に身を任せるだけだもの」、そう言って風はどこかへと去って行った。
わたしには分からない。誰にも分からない。

「原因は不確かだけれど、悪い細菌でもいたのだろう。あの悪夢のような恐ろしい熱帯林で息絶えるよりはましだと思いたいな。どちらにしろ、僕はじきに死ぬ。……だからカメリア」
ただ、いつかこの疑問を論理的に解明する人が現れても、わたしは相手にしないだろうということだけは分かっていた。なぜならわたしにとって空は言葉だけで表せるようなものではなくて――あら?
わたしは、あなたの表情が自嘲気味に歪むのを見逃さなかった。とりとめもない空についての思考を投げ捨てて、再びあなたに目を向ける。いつだってゆるやかに弧を描くその唇が、笑っていない。

「……僕は、ここを離れようと思う」

しいん。
風たちは一斉に沈黙してわたしたちを見守る。空は何も語らず、瓦礫ばかりの大地はもとより言葉を持たない。静寂が訪れた戦災の地で、わたしはあなたの肩の辺りを見つめていた。風が止んだせいで、ひらひらとなびかない左袖。風のおしゃべりがないだけで、時間まで止まってしまったように思えた。
「家は焼け、近所の人もみな逃げてしまった。おまけに僕は片腕が欠けている。この場所に留まったまま一人で生きていくことは、到底できそうにないんだ」
淡々とあなたは語る。相変わらずその言葉に力強さは感じられないのに、はっきりとした意志は確かに存在していた。
北の田舎に住む妹の元を訪ねる予定であること、そこで庭の手入れでもしながら死を待ちたいということ、もう既に汽車の手配は済んでいること。そして、今日わたしの髪を切ってから別れを言おうと思っていたことを、うつむきながら話した。
わたしはその話に耳を傾けながら、あなたをまっすぐに見つめていた。まっすぐに。話し終えたあなたと目が合い、あなたはとっさに視線を逸らそうとする。

――待って。

わたしはあなたの視線を呼び止めた。待って、逸らさないでと。ゆっくりとためらいがちに泳いだ視線は、やがて交わった。わたしたちは互いに見つめあう。じいっと。緊張感に満ちた沈黙というわけではなく、それは、懐かしさばかりが詰まった過去の記憶を慈しみ合う沈黙だった。
「……君を置いて行ってしまうのは、本当に申し訳なく思っている」
気にしてないわ。
「しかし君は、寂しくなるだろう」
確かに寂しいけれど、あなたが決めたことだもの、それが一番悲しみの少ない選択だって分かってる。わたしだって、あなたの身体がゆっくりと壊死していくのを見ながら咲くなんて嫌だわ。……でもね。

わたしの本当の望みは、あなたと共に生きること。

ざわ、ざざざざざざ、ざ。
息をひそめて見守っていた風がざわめきを取り戻す。風たちは口々に語りかける。

(だったらカメリア、あなたにならできることがあるわ。他の誰にもできないけれど、あなたにならできることが。そしてそれは、きっとあなたにしかできないこと。分かるでしょう?できるでしょう? わたくしたちが手伝うわ)

わたしになら、できること。わたしはその言葉を反芻する。
ざぁ……ん。
一際強い風が、あなたとわたしの間に吹いた。あなたの左袖が風にはためく。そしてわたしは風を合図に、自ら首を落とした。
ぼと、ぼとぼとぼとぼと、ぼとり。
次から次へと落下するわたしの首。地面の上に無数に散らばったそれらの首は、風に吹かれてあなたの足元へと転がっていく。

「……カメリア……」
呆然と、あなたが呟いた。強い風のせいで髪が乱れても、それを直そうとする素振りすら見せないで、あなたはわたしを見つめていた。
持って行って。わたしからのはなむけよ。落ちた首なんて縁起が悪いことこの上ないけれど、死を待つ身のあなたになら丁度良いと思わない?
「……せっかく、君が一年かけて咲かせたのに」
ええ。わたしの首はまだ落ちるには早いわね。でも大丈夫。あなたに見せられるのはこれで最後だもの。わたしの赤色、あなたにあげる。
……ねぇ、あなた。もしよかったら、私のお願い、聞いてくれないかしら?
「もちろんだ。君の願いならいくらでも」
それなら聞いて。わたしのこの首を、あなたに持っていてほしいの。旅の途中で萎びて枯れてしまっても、捨てずにいて。そうしてあなたが目指す場所へと辿り着いたなら、そこで首を埋めてちょうだい。その首自身が芽吹くことはないけれど、あなたが新しく生きる土地にわたしの一部が溶けるなら、それでいい。わたしはあなたと共に、同じ土地で生きることができるから。
「ああ、分かったよ」
あなたは大きく頷くと、足元に転がるわたしの首の一つを手に取った。

「……カメリア。もしよかったら、僕の願いも聞いてくれないかい?」
もちろん。あなたの願いならいくらでも。
「それなら聞いてほしい。……ずっと、咲いていてくれ」
あなたが死んでも?
「僕が死んでも。ずっと、ずっと」
あなたの願いは、わたしの望み。わたしの願いは、あなたの望み。
……分かったわ。あなたのために咲いてあげる。今までは『咲く』ことに何の意味も理由もなかったけれど、これからはあなたのために。……ふふ、『誰かのために』何かをするのって、悪くないわね。

わたしが笑うと、あなたも笑った。笑い声は震えていた。今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。それでも笑った。笑うことが、わたしたちにとって何よりも尊い行為だった。
「それじゃあカメリア、元気で。……ありがとう」
あなたもね。……ありがとう。
そうしてあなたは、わたしの首を手にして背を向ける。背筋をぴんと伸ばして、わたしはあなたを見送った。

吸い込まれそうな青色の中に立ち竦むわたしを断続的に襲う、途方もない空漠。その悲しみに耐え切れず悲鳴を上げても、きっともう届かない。代わりに、どこまでも広がる空と大地が、声よりも愛しい切なる思いをあなたの元へと届けてくれると信じていた。
ねえ。わたし、あなたがすきよ。花に話しかけようなんて思った物好きな所も。わたしを『カメリア』と異国の名で呼ぶ優しい声も。別れの痛みすら微笑みながら受け入れる、穏やかな諦観も。……あなたが、すきよ。

さようなら、わたしという存在に意味を与えてくれたひと。
さようなら、わたしの声が『きこえる』唯一のひと。
あなたに染められたわたしの花は、あなたのためだけに咲き誇る。

彼は彼女に背を向け、歩き続けていた。瞳から溢れる透明な液体を拭うこともせずに、歩き続けていた。彼女から託された赤い花は、手の中であたたかな温度を彼に分け与える。彼女の美しく気高い姿を思い描くため、彼は歩きながら、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
瞼の裏に浮かぶのは。

がらんどうに咲く、首を落とした椿の花。





2008/07


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