落ちた滴が花になるまで


※ストXのゼネラルストーリー後の話
※ナッシュがちゃっかり生きてる


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一番始めに見たものは白い天井だった。柔らかな布団の感触。消毒液のような臭い。かすかに聞こえる鳥のさえずり。自分がベッドに横たえられていることを知る。
頭は石でも詰め込まれているのかというほど重い。鈍い動作で上体を起こすと、窓の向こう側に広がる景色が見えた。青い空の中、千切れ雲がまばらに浮かんでいる。鳥たちはポプラの木に留まって思い思いの歌声をあげていた。
――それは、地獄と呼ぶには穏やかすぎる風景だった。

「……俺は」

唇からこぼれ落ちた声がひどく掠れていて、思わず息を止めた。声帯だけでなく、体のあちこちが正常に機能していないことを悟る。
おそらく長いこと眠っていたのだ。失われたものを回復させようとして。本来ならあの爆発に巻き込まれて消えるはずだった体が、どうしてか今もかろうじて動いている。腕に繋げられたチューブの類は、この体の機能を維持させるためのものだろう。こんなものさえ無ければ、今度こそきちんと死ぬことができたはずだというのに。お節介で世話焼きなどこかの誰かが、余計な気を利かせたのだ。
ゆるく開かれた自分の掌を見た。色の異なる皮膚。継ぎ接ぎだらけの命。

「俺はまた、死に損なったのか」

小さな呟きは誰にも聞き届けられることはなく、白い壁に吸い込まれて消えた。





「よう旦那、久しぶり!元気にしてたかい?」

底抜けに明るい声が無機質な病室に響き渡る。ナッシュは来客に一瞬だけ目をやるが、すぐに目線は手元の本に移った。どうでもいいという態度が露骨に現れている。
「うわっまた無視!?傷付くよホント〜」
傷付くと言っておきながら、その軽い調子には1ミリも傷付いた感はない。お決まりのやり取りをしているだけなのだ。

来客――ラシードは軽やかな足取りでベッドに近付き、そばに置いてあった椅子に腰掛ける。その椅子に座るまでの動作すら、いちいち飛んだり跳ねたりと騒々しい。どこかしら動いていないと落ち着かないようだ。ラシードが動き回るたびに風が舞うので、ナッシュはその都度本のページを押さえなくてはならなかった。
いつも近くにいるあの執事はどうした、と訊こうとしてやめた。微かだが廊下に気配を感じる。ラシードとナッシュが二人きりで話せるようにという配慮だろうか。いてもいなくても話す内容に変わりはない。

「会いに来るのが遅れてごめん、あれから色々立て込んじゃってさ……」
「会いに来てくれと頼んだ覚えはないが」
「いやそういうこと言う〜!?照れなくていいんだぜ旦那!」
「…………」

あまりにもくだらないので、徹底して無視を決め込むことにした。その反応を見越してか、ラシードは聞いてもいないのにぺらぺらと近況を話し始めた。「黒い月」の事件の顛末と、それ以降、ナッシュが意識を取り戻すまでに起こったことについて。ナッシュが不在の間にベガは倒され、シャドルーは壊滅し、世界はいつの間にか救われていた。混乱に陥っていた世界は落ち着きを取り戻し、あの騒ぎが嘘のように今は穏やかな時間が流れている。
自分がベガに敗北しても、きっと他の誰かが倒してくれるだろうと――その予感はやはり当たっていたのだ。結局のところ、自分はいてもいなくてもいい存在だった。

「私を助けたのはお前か」
「んー、半分当たりで半分間違い。あんたを基地の中で見つけたのはガイルの旦那だよ。俺はあんたを預かってきただけ。ガイルの旦那に全部任せてもよかったんだろうけどさ……ほら、もしヘレンに見つかったりしたら厄介だし。あんたがまだ生きてるってバレれば、また変なことに利用されかねない。だから見つかる前に俺が隠したってわけ。この病院、隠れ家にしちゃなかなか居心地がいいだろ?」
「……そうだな」

この病院で目覚めてから二週間が経とうとしている。リハビリをして体も随分と動くようになった。まだとても闘えるような状態ではないにしても、日常生活を送る分には大きな支障はない。
院内にある図書室の蔵書が充実しているのも気に入っていた。代わり映えのない退屈な入院生活を、本の世界がわずかに癒やしてくれた。リハビリと食事と睡眠以外の全ての時間を読書に費やし、ナッシュは本の虫と化した。名作と呼ばれる小説を片っ端から読み漁っているが、いくら読んでも終わりは見えない。

「ここで余生を送れと言われれば、そうしよう」
それも悪くはないかもしれないと思った。自分に残された時間はおそらく短い。今更読書に励んでインプットを増やしたところで何の意味もないが、最初からこの命も無意味なものであるのだ。
ナッシュはそれを名案だと思ったが、しかし、ラシードはまったく納得のいかない表情をしていた。

「……なんだよ、それ。あんた自身はやりたいこととかないの?」

声が固い。表情も固い。ラシードの態度が急に変わった理由が分からない。――だが、こいつが不機嫌になったところで何だというのだ。自分には何も関係がない。
ナッシュはラシードの変化に見て見ぬふりをした。

「もとより、私の目的はベガを倒すことだけだった。ベガが滅び、シャドルーが壊滅した今、私の成すべきことは全て終わった。もはや私に生きる理由はない」
なぜ自分はここにいるのか。生き長らえたいと願ったわけではない。助けてくれと頼んだ覚えもない。ベガを倒せればそれでよかった。あとには何もいらなかった。運悪く生き延びてしまった今、自分に残されたのは茫漠たる虚無だけだ。こんなものを抱えて、どう生きろというのか。

「なぜ私を助けた。あの時死ねていれば、何も思い残すことはなかったというのに」

それがナッシュの本心だった。だが、嘘偽りない本心であるがゆえに――ラシードの怒りをこれ以上ないほどに駆り立ててしまったのだ。

わずかに開けた窓から、突然突風のように風が吹き込んできた。その勢いで布団が捲り上げられ、ナッシュの髪は乱され、花の活けられていない花瓶が床に落ちて砕けた。思った以上に大きい音が辺りに響く。
ナッシュは砕けた花瓶に目をやろうとする。だがそれよりも先にラシードがナッシュの襟首を掴み上げていた。その拍子に、ナッシュの膝に置かれていた本がばさりと落ちる。
強い力だった。怒りに満ちていた。襟首を掴む手は震え、指が白くなるほどきつく握り締められていた。こみ上げてくる怒りを懸命に抑えようとして、しかしどうしても堪えきれずに溢れ出してしまった――そういう怒りの表出だった。ラシードは本気で怒っている。

「……それ以上言ったらただじゃおかねえぜ、旦那」

低い声が耳元に響く。だが、ナッシュはラシードの怒りを目の当たりにしても表情一つ変えなかった。自分の理解が及ばないものに、人はうまく反応することができない。
「……なぜお前が怒る」
だから、自然とこぼれ落ちた言葉も、ラシードの怒りを余計に煽る結果にしかならなかったのだ。
ナッシュの無神経な問いは、抑え込もうとしていたラシードの感情を一気に爆発させた。

「――あんたが!自分の命を!大事にしないからだよ!なんでそんな簡単に自暴自棄になれるんだ!?生きる理由がなかったとしても、それが死んでいい理由にはならないだろ!?死ねばよかったなんて軽々しく口にするな!この大馬鹿野郎!」

より強く襟首を掴まれ、ナッシュは体ごと揺さぶられた。ベッドが軋む。ラシードが突き放すように手を離すと、その勢いのままナッシュはベッドの上に倒れ込んだ。ぽかんと口を半開きにしたまま固まっている。強く引っ張られたせいで病院着が乱れているが、それを直そうという素振りも見られない。何が起こったのか、自分が何を言われたのか、まるで理解ができなかったのだ。
呆けたように固まっているナッシュを見て、ラシードは毒気を抜かれたように重い溜息をついた。声を荒げて叫ぶのは性に合わない。

「……悪い、熱くなりすぎた。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ」

ラシードは落ちた本を拾い上げた。折れてしまったページを丁寧に直して、枕元に置いてやる。
青い背景に、白い字で題名が書かれている。“The Moon and Sixpence”――『月と六ペンス』。サマセット・モームの小説だった。ラシードは本の内容こそ知らないが、題名だけはどこかで聞いたことがあった。ナッシュが何を思ってこの本を選んだのかを、ラシードは知らない。

そしてそんなラシードを、ナッシュは表情を変えないまま静かに見つめている。
『月と六ペンス』を選んだ理由をラシードが知らないように、ナッシュもまた、ラシードがここまで「死」に対して怒りをあらわにする理由を知らない。――知ろうとしてこなかったのだから、当たり前だ。

ラシードは数度瞬きを繰り返した。窓から流れてきた風がその白い服の裾をはためかせる。先程の突風とは違う、音のない静かな風だった。
「なあ旦那。生きる理由がないなら、その理由、俺がでっち上げてやるよ。あんたが自分の命をいらないってんなら俺がもらう。あんたの人生、俺が買う。――文句ないよな?」

まっすぐすぎる視線を向けられて、ナッシュは咄嗟に目を逸らした。その圧と熱量を受け止めきることはできそうにない。
どうせここで断ったところで、ラシードは決して諦めはしないだろう。ナッシュが了承するまでラシードはこの病室から出ていかない。決定権は既にラシードの手の中にある。――だが、素直に「はい」と頷くのは癪だった。ゆえに一言、

「……好きにしろ」

とだけ言った。
過去を捨て、目的を失い、世界に取り残された男は、生きる理由を彼に預けることにした。





「ついてきな」という言葉には有無を言わせぬ凄味があったので、ナッシュは何も口答えすることができなかった。
もともとナッシュには手持ちの荷物などほとんどなく、体さえあればすぐに出発できてしまえた。簡単な身支度を済ませたナッシュの傍らに、見上げるような大男が立つ。

「お久しぶりですな、ナッシュ殿。ご健勝であられましたか」
「……ああ」

入院中していたのだから健勝どころではないのだが、正しい返答をするのも面倒で、ただ頷くだけにした。男は「それは何より」と満足そうに腕組みをする。
簡単な挨拶を済ませてナッシュは視線を逸らす。これまでラシードと行動を共にすることは多かったが、この男と会話するのはこれが初めてだった。名前すら知らない。ラシードに常に付き従う執事であるということしか。
「じゃ、これからは俺とアザムと旦那の三人旅〜ってね!」
それを見通してか、ナッシュの隣にラシードがぴったりとくっついてきた。アザム――それが執事の名前らしい。ナッシュは両隣をラシードとアザムに挟まれる格好となった。まるで逃しはしないとでも言うかのように。

「旅、か」
「いや旅って言ったって何か月もかかるようなやつじゃないぜ?ただ、乗り継ぎが面倒だからなあ」

そんなことを言っているうちに、黒塗りの高級車が病院の玄関前に現れた。車は一行の目の前で止まり、乗れと言わんばかりに後部座席の扉が開く。どうしたものかと立ち止まっていると、後ろからラシードに押し込まれて無理やり乗せられた。
自分はこれからどこに連れて行かれるのかという疑問は絶えなかったが、拒否権はもうこちらにない。ナッシュは諦めて後部座席のシートに座り直した。



車で空港まで行くのに数時間、飛行機でまた数時間、そこから飛行機を乗り継いで1時間強。丸一日かけて辿り着いたその国は、空港の時点から初めて見るものばかりだった。
行き交う人々の服装からして違う。男性は白いワンピース――「トーブ」と言うらしい――に身を包み、女性はそれとは対照的に黒い布で頭から体まで覆われている。そういう服装であることは知識として知っていたし、街中で見かけたことも何度かあった。しかしこうして人々がみな同じ服装をしている光景を見るのは初めてだったのだ。
落ち着かなそうに辺りを見回すナッシュに、ラシードが「すぐ見慣れるよ」と小さく声を掛けた。ラシードにとっては馴染みのある土地なのだろう、その足取りは軽やかだ。
どうやら自分はラシードの生まれ故郷に連れてこられたらしい。

空港の外に出ると、乾いた空気と砂埃がナッシュの体に纏わり付いてきた。北米とは明らかに空気の質感が違う。
迎えに来た車に乗り込み、移動すること約1時間。いくつかの門を抜けると、宮殿かと見紛う大きな屋敷が見えてきた。そこでやっと、今走行している道が既に敷地の中だということに気付く。どこに向かっているかについて薄々察しはついていたが、ここに来て確信に変わる。

ひときわ大きい門を抜けて玄関らしき場所に着くと、既に使用人らがずらりと並んで三人を待っていた。
お帰りなさいませ、と口々に言う使用人たちに対して、ラシードはにこやかに手を振って挨拶をし、ねぎらいの言葉をかけている。とても慕われている様子だった。そんなラシードと使用人たちのやり取りを、ナッシュは離れた場所からただ見ていることしかできない。完全に置いてきぼりだ。なぜ自分はラシードの帰省に付き合わねばならないのか。

「若、アザム様、お久しゅうございます。お二人のお帰りを心よりお待ち申し上げておりました」
執事らしき人物が前に進み出て、ラシードとアザムに深々と頭を下げる。それに合わせて他の使用人たちも一斉に礼をした。
「それと――」
そう言って言葉を切った執事は、おもむろに視線をナッシュに移した。使用人たちもそれに倣う。その場にいた全員の視線がナッシュに集まった。それまで蚊帳の外にいたナッシュは、急に自分へと注目が集まって動揺する。固まったナッシュの前に、執事が歩み寄ってきた。

「貴方が、チャーリー・ナッシュ様でございますね。お話は伺っております。我々使用人一同、新しい仲間が加わることを非常に嬉しく思います。どうぞよろしくお願いいたします」
「……仲間?」

信じられないような単語が次々と耳に入る。執事の発言を吟味する余裕がない。何を言っているのだこいつは。「新しい仲間」とは自分のことか。
ナッシュは執事を見た。執事はその通りでございます、と言うように頷いた。
次にアザムを見た。やはり彼も頷いた。
そうして最後にラシードを見た。ラシードはいたずらが成功した子供のように、にんまりと笑って白い歯を見せた。

「そういうこと!旦那、あんたにはうちの使用人になってもらうぜ!」
「……正気か」
「もちろん!うちの執事とメイドは結構手厳しいからな!覚悟しとけよ!」

その言葉に、使用人たちはにこやかな笑みを浮かべた。表面上は穏やかだが底知れない笑顔だった。ナッシュは思わず一歩後ずさっていた。だが逃げ場はない。既にナッシュは使用人たちに取り囲まれていた。
丁重にお断りしたい気持ちで一杯だったが、今更になって拒否することはできない。何を隠そう「好きにしろ」と言ったのは他でもない自分自身なのだ。
彼にできることといえば、自暴自棄だったとはいえ「好きにしろ」などと言い放ってしまった過去の自分を恨むことくらいだった。





「ナッシュくん!その作業が終わったらこっちの枝の剪定を手伝ってくれるか?君の背の高さじゃないと届かなくてね」

「ナッシュさん、今空いてる?絨毯の張り替えで人手が足りないの!手伝って!」

「ああナッシュ、ちょうどいいところにいた。若に食べていただくデザートの試作品ができたんだ、味見していってくれるかい?……なに?自分は味覚が薄れているから役に立たない?関係ないよそんなこと、あんたが食べてくれることに意味があるのさ。ほら遠慮しないで!」

「ナッシュ、少しいいか。取引関係で至急用意しなければならない資料があってね。データの入力だけでいい、どうか頼まれてくれ」

「あらあら、ナッシュちゃん、手伝ってくれるのね。助かるわあ。このお屋敷本当に広いから、お掃除は何人いても困ることはないのよ」

「ナッシュ、すまないが夜の警護を代わってくれるかい?実は今日、娘の誕生日でね……。ありがとう、助かったよ。この礼は後でさせてくれ!」

「ナッシュ!猫が逃げた!ああっそこだよそこ!捕まえてくれ!……いやあ、たまげた。このおてんば猫を一瞬で捕まえるとは!あんた、でかい図体の割に機敏だね」

「青い空にきれいな砂漠、そして風にはためく白いトーブ!ねえナッシュさん、世界一素敵な風景だと思わない?あたし、洗濯物を干し終わったあとにこの風景を見るのが一番幸せ!ほんと、洗濯係が天職だと思うわあ」

「ナッシュ!今から噴水の水抜いて大掃除だ!すぐに来い!」


――ラシードの家の使用人になってからというもの、一事が万事このような勢いである。

朝から晩まで働き詰めで、休む暇などまるでない。一つの仕事が終わったかと思えば、待っていましたと言わんばかりにすぐさま次の仕事を押し付けられる。
仕事の内容は多岐に渡る。掃除洗濯を始めとする雑用から、屋敷で飼っている猫の世話、理解できない数字が並んだ資料の作成。次から次へと舞い込む仕事を片付けるのに必死で、これは本当に自分の仕事なのかと疑う余地もない。

そして、今日は針仕事の手伝いに駆り出されていた。
「ごめんなさいねナッシュ、そこの赤い糸を取ってくれるかしら」
「これか」
「ええ。ありがとう」
使用人の女性は、ナッシュから糸を受け取ると柔らかく微笑んだ。慣れた手付きで、ひと針ひと針を丁寧に刺していく。見本となる図案もないのに、彼女は一切の迷いなく針を動かす。彼女の頭の中には既に完成図が思い描かれているのだろう。みるみるうちに繊細な花の刺繍が布の上に浮かび上がってきた。

「……見事なものだな」
ナッシュがぽつりと呟いた。世辞ではない。率直な感想だ。使用人の女性はくすぐったそうにはにかんだ。
「ふふ、あなたに褒められると嬉しいわ。あなたの言葉には嘘がないから。……そっちはどう?難しいところはない?」
女性に聞かれ、はっとナッシュは我に返った。彼女の刺繍に見入っていて自分の作業が疎かになっていた。中途半端なところで止まっていた自分の刺繍に目をやる。黒地の布に白い糸で、植物を模した幾何学模様を縫い込む作業の途中だった。シンプルなこの模様は初心者向けだというが、そうとは思えないほど繊細な針さばきと神経の集中を要した。椅子から一歩も動いていないというのに疲労している。

「難しいところばかりだ。私に刺繍は向いていない」
「そう?初めてにしては上出来よ?練習すればどんどん上達していくと思うわ。私が刺繍を始めたばかりの頃よりずっと上手だもの」
「……本当か?」
「ええ。自信をもってちょうだい」

彼女は刺繍を始めて三十年になるという。その道のベテランに太鼓判を押されたナッシュは、自分の不出来な刺繍をじっと見つめた。
この家に来てから初めてのことだらけだ。刺繍も、猫の世話も、大広間のモップがけを十人掛かりでやるのも。慣れない作業に戸惑う経験すら久しぶりのことだった。軍での生活が長かった彼には全てが新鮮に映った。
死を待つばかりだった自分が、今では刺繍を練習する時間がもっと欲しいと思っている――おかしな話だ。しかし、不思議と居心地がいい。

作業を再開しようと針を持ち替えたのも束の間、「よーっす旦那!」と賑やかな声が部屋に割り込んできた。ナッシュを「旦那」と呼ぶのは一人しかいない。ラシードだ。
ラシードは普段家を離れていることが多い。最新ガジェットを探しに出掛けたりだとか、家の仕事――石油やIT関係の取り引きだとか、強い奴と闘うための旅だとか、とにかく理由は様々だ。つむじ風の二つ名通り、同じ場所に長く留まらない。たまにふらりと家に戻ったかと思えば、すぐに別の用事を作って外に出ていってしまう。
ナッシュがこの家に来てから早二ヶ月になるが、ラシードが家にいるのを見た回数は両手で数えられる程度だった。そしてそんな少ない回数の中ではあるが、ラシードは家に戻るたび必ずナッシュの様子を見に来る。

ラシードはずんずんと部屋に入ってきて、ナッシュと女性の目の前まで近付いてきた。

「元気に仕事してるかい?…………って、なにそれ」
「ごきげんよう、若。今は刺繍をしているところですわ」
「刺繍?旦那が???」
「ええ、ナッシュは結構上手ですのよ?ご覧になってくださいな」

女性がナッシュの手からひょいと刺繍枠を取り上げ、ラシードへと渡す。咄嗟のことで何も反応ができなかった。ラシードはまじまじとナッシュの刺繍に見入っている。「返せ」と手を伸ばすが軽やかに躱されてしまった。

「へえ〜……なかなかじゃんか。旦那に刺繍の才能があるとはね……」
「どういう意味だ」
「いやいや褒めてるよ!上手だってば!」
「そうは思えん」
「信用ないな〜、俺」

ラシードは肩を竦めながらナッシュに刺繍枠を返した。渋々受け取ってようやく作業を再開しようとするが、ラシードの視線を感じて手を止める。目線だけを上げて睨んでみてもラシードはまるで動じなかった。
「俺に構わず続けてよ。刺繍してたんだろ?」
そう言いながら、近くにあった空いている椅子に座る。椅子の背もたれに顎を乗せ、にっこりと笑う。その落ち着きのない座り方も、愛嬌のある笑い方も、まるで小さな子供のようだった。

「若もそう仰っていることだし、続けましょうか」
使用人の女性に促され、ナッシュは針仕事を再開せざるを得なかった。人に見られながら仕事をするのは好きではない。見られる相手がラシードであるなら尚更だ。どうせ余計な茶々を入れられて集中を削がれるに決まっている。

だが意外なことに、作業の間ラシードは一切口出しをしてこなかった。いつもは減らず口を叩くばかりの唇も閉じられ、彼はナッシュの持つ針の動きをじっと見つめることに終始していた。普段とは異なるその様子に、ナッシュも最初のうちこそ警戒していたが、集中が深まっていくうちにその意識もどこかへ行ってしまった。
目の前にあるのは布と糸。そして糸を動かす針。図案を布の上に再現することに全神経を研ぎ澄ませる。

作業が一段落ついて、ふとナッシュが顔を上げると、ラシードはまだこちらを見ていた。完成した刺繍を見て「綺麗にできたじゃん」と笑う。
「旦那、刺繍もできるようになるくらい回復してたんだな」
その言葉の意味が理解できず、ナッシュは僅かに眉をひそめた。するとラシードは慌てて付け加えた。
「だってほら、うちに来たばっかりの頃は、細かい作業とかやると手が震えてただろ?今はそういうのなさそうで安心したっていうか……」

――そこまで、見られていたのか。
ラシードが家に戻り、ナッシュの様子を見に来るのは週に一回程度。しかもそう長い時間でもない。だが、その短い時間の中でラシードは気付いていた。退院したばかりのナッシュが、細かい作業にはまだ対応しきれていなかったこと。支障がないよう振る舞っていたつもりだったが、とうに見抜かれていたのだ。
ナッシュは顔を伏せた。今の自分の表情をラシードに見せてはいけないと思った。

「ごめん、余計なこと言ったかな」
「大丈夫ですわ若、ナッシュは照れているだけですから」
「照れてる?なんで?」
「さあどうしてでしょう、ふふふ」
使用人の女性とラシードの会話を極力聞こえないようにするが、この広くない仕事部屋ではそれも無理な話だ。

「でもよかった、旦那が楽しそうでさ」

ラシードが優しい声でそう言った。視線だけを上に上げると、ちょうど目が合った。
目が合うとは思っていなかったのか、ラシードは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑いかけてきた。白い歯を見せて笑う、あのいつもの快活な笑顔とは違う。唇はゆるく弧を描き、目は細められている。穏やかで、優しくて、しかしどこかに寂しさを感じる微笑みだった。
こいつはこんな笑い方もするのかと思った。そして、そう思った瞬間、胸のあたりが急に締め付けられるような痛みに襲われた。その痛みの理由は分からない。





満月が煌々と光る夜だった
その日はラシードとアザムが久々に家に帰った日で、厨房の料理人たちはここぞとばかりに腕をふるって豪勢な夕食を作っていた。ラシードから夕食の席に誘われたが、ナッシュは丁重に断った。食事を共にするような気分ではなかったのだ。賑やかな明かりを背に、ナッシュは早々に自分の部屋へと引きこもった。

離れにある使用人の宿舎はひっそりと静まり返っていた。ナッシュ以外に人はいないようだった。その方が都合がいい。
ナッシュに与えられた部屋はそう広いものではなかったが、軍の生活に慣れていた彼にしてみれば、ここは寝る場所としては十分すぎるほどだ。毎日取り替えられるシーツ、柔らかな布団、寝心地のよいベッド。下っ端の使用人にすぎないナッシュにさえこの待遇だ。恵まれた環境であることを否定するものはいない。

仕事量こそ多いが、この家の使用人たちは誰もがあたたかく、親しみがあり、そしてラシードを「若」と呼んで慕っている。ラシードの人柄がそうさせているのか、それとも、そういう人間がラシードのもとに自然と集まるからなのか。素性も分からぬ根無し草のナッシュにも、別け隔てなく接してくれる人々ばかりだった。

――このまま、甘えていてもいいのだろうか。

脳裏をよぎる問いに、ナッシュは正しい答えを出せずにいた。この家の者たちは「このままでいい」と言ってくれるだろう。気にするな、お前はここにいてもいいのだと。まるでナッシュの心を見透かすように、優しく肩を叩くのだろう。
だが、本当にそれでいいのか。復讐で曇ったこの魂が、あたたかな場所にいつまでも留まれば、きっとその美しさを汚してしまう。



雲が途切れて、窓辺に満月の光が差し込んできた。ナッシュは顔を上げる。月の光が落ちる先に、一冊の本があった。
『月と六ペンス』――ナッシュが病院から持ってきた数少ない荷物の一つだった。病院を出る際、ナッシュがまだそれを読み切っていないのを知っていて、餞にと病院の職員から贈られたのだ。
病院を離れてからもうふた月は経つというのに、ナッシュは未だにその本の続きを読むことができていなかった。次から次へと押し付けられる仕事をこなすことに必死で、夜は泥のように眠る毎日だったのだ。ゆっくりと読書をする暇もなかった。

どこまで読んでいたのだったか――ナッシュは本を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。病院での退屈な日々に飽いて、本の虫になっていた頃が遠い昔のように感じる。
ふと開かれたページに目を落とす。闇の中で浮かび上がるように、ある文章に引き寄せられた。


“僕らは謙虚でなくちゃいけない。静かな生活の美しさを知るべきだよ。運命の目にさえも気付かれないで、そっと人知れぬ一生を終えるべきなんだ”


――なぜそこに目が留まってしまったのか、自分でも分からなかった。
「“そっと人知れぬ一生を終えるべきなんだ”……」
その一文を復唱しながら、文字を指でなぞる。確かめるように。そこには温かさも冷たさもない。
ナッシュは口を閉ざしてその一文を食い入るように見つめた。一分、いや十分――どのくらいの間そうしていただろうか、不意に部屋の扉がノックされて、ナッシュはようやく本から目を離した。窓辺に本を戻し、扉をわずかに開ける。そこには思いがけない人物が立っていた。





「ご多忙のところ、夜分お呼び立てしてしまい申し訳ない」
「気にするな。あのまま部屋にいても寝るだけだった」
頭を下げようとするアザムを、ナッシュは手で遮った。「若」のお付きである筆頭執事と、下っ端の新入り使用人――本来なら対等に話すことなどできないはずの二人だが、互いにそれを気にかける様子はない。
二人は庭園にある噴水の淵に腰掛けている。周囲には誰もいない。アザムが人払いさせたのだろう。そうまでして話したいことといえば――もとより、この二人の間にある共通事項はラシードしかない。

「ナッシュ殿が夕食にいらっしゃらず、若が寂しがっておいででしたぞ」
ナッシュは自嘲気味に口の端を歪めた。分かっているだろう、とでも言うかのように。
「ああいう場は私には合わない」
アザムは口髭を撫でて唸った。気軽に肯定も否定もしない。彼はとても誠実な執事だった。

「ここでの生活には慣れましたか」
「どうだろうな。慣れざるを得ない――と言う方が正しい。次から次へと仕事が来て、死のうと思う暇もないからな」
「……それは」

アザムの顔色が変わった。「気付いておられましたか」という問いに、ナッシュは静かに頷いた。
「これほど仕事を積まれれば、どんなに鈍い人間でも流石に気付く。どうせあいつの差し金だろう?私に死ぬ暇を与えないようにとでも言われたか」

この2か月間、尋常ではない量の仕事を押し付けられ続けてきた。新入りの使用人に任せていい仕事量ではない。一息つこうとすると、その隙さえ許さないとばかりに手伝いを頼まれる。常に使用人たちに監視されている感覚があった。明らかに家の使用人総出でナッシュを囲い込もうとしていた。
だがそれは、新入りを追い詰めてやろうという意地の悪さによるものでない。むしろ逆だ。希死念慮を抱いている新入りを、なんとしてでもこの世に留めておこうとする必死さの表れだった。

死のうという気も起きないくらい、あいつに仕事を押し付けてやってくれ――ラシードが使用人たちにそう言って「お願い」する光景が容易に想像できた。そしてその想像は限りなく事実に近いのだろう。アザムは今度こそ深々と頭を下げてきた。
「申し訳ない。若に代わって謝ります。あなたに過剰な負担をかけてしまいました。……ですが、若をお責めになられぬよう。若はあなたに生きていてほしいだけなのです」
どこまでも過保護な執事だ。こんなことを謝るために、わざわざ呼び出してきたというのか。馬鹿馬鹿しさを感じてナッシュは鼻で笑った。

「生きるも死ぬも、私は既に死んだ身だ。あいつにどうこう言われる筋合いはない」
「……あなたはご自身を死者だと仰られますが、若にとっては違うのです」
笑い飛ばすつもりで言った言葉は、アザムの至極真剣な声によって両断された。ナッシュはそれ以上茶化すことができずに鼻白む。

ラシードが病院を訪れた時もそうだった。ナッシュが死を願う発言をした途端、ラシードは本気の怒りを見せた。「死ねばよかったなんて軽々しく口にするな」と声を荒げた。――死というものに対して過剰なほどに反応し、我を忘れる。
アザムもラシードの気持ちを汲み取っているのだろう、真剣な面持ちでナッシュと対峙する。皮肉や冷やかしを許さない雰囲気があった。アザムに気圧されてナッシュは思わず背筋を伸ばした。

ラシードが「死」に反応する理由。そして、赤の他人にすぎない自分にここまで関わろうとする理由。知ろうとしてこなかったのは自分だ。
復讐を果たすためだと、いずれ死んでしまうからと。ありとあらゆる言い訳を駆使して、他者との繋がりを避けてきた。これ以上他人に期待されたくなかったのだ。何かを与えられたり託されたりしても、自分にはもう何も返すことができないだろうから。

――しかし今、彼の脳裏をよぎるのは、ラシードの寂しそうな笑みだった。
どうしてもその顔が忘れられない。あんなふうにきれいに笑わないでほしい。お前にそんな笑い方は似合わない。
また胸が締め付けられるように痛んだ。この痛みを消す方法は、きっとラシードだけが知っている。

「……あいつはなぜ私に拘る?」

絞り出すようなその問いは、ナッシュが初めて自分からラシードに関わろうとした第一歩でもあった。
アザムは真正面からナッシュを見つめる。その意志を確かめるように。ナッシュは咄嗟に視線を逸らしかけたが、耐えた。ここで逃げては資格を失う。

「……ナッシュ殿。若のご友人の話、覚えておいでですか」
アザムは静かにそう切り出した。ナッシュは頷いた。もちろん覚えている。シャドルー系列の会社に入ったというラシードの「友達」。黒い月の開発にも携わっていたという。その友人の話を聞いてから、ナッシュのラシードを見る目は変わった。ナッシュにも大切にしたい友人がいたからだ。

――そこでふと、ナッシュはある共通点に思い至る。
「友達」のことを語る時のラシードと、寂しそうに笑う時のラシード。どちらもよく似た表情をしていた。やりきれなさを隠しながら、笑う。

「……まさか」
結び付いた答えを振り払うように声を上げた。
ラシードはその友人を助けるために、黒い月事件に関わったのではなかったか。世界の危機よりも、友人の安否の方がラシードにとっては大事だったはずだ。しかし――しかし。あの事件後、ラシードは一度として「友達」のことを話題に出してこなかった。黒い月事件以降の出来事を事細かに教えてきたあいつが、聞かれずとも自分からなんでもかんでも話したがるあいつが、「友達」のことだけは口を閉ざしたのだ。それはなぜか――考えるまでもないではないか。

「あいつは、『友達』に会えなかったのか」
「……残念ながら」

アザムは多くを語らなかった。だが、それだけで十分だった。
ラシードの表情に落ちた暗い影の理由。なぜ気付かなかった。ラシードは、ナッシュの小さな変化にすら気付いていたというのに。
ラシードを見ていながら、その実何も見えていなかった自分に愕然とした。他人と深く関わることを避けてきたせいだ。肝心なところで目を逸らして、本当に大事なものまで見落としてしまうところだった。

「若は、あの旅で大切なご友人を失いました。しかし新たに出会えた友人もいた――それがあなたです、ナッシュ殿」

アザムはナッシュをまっすぐに見つめた。ナッシュはもう目を逸らさなかった。
「大切なものをもう失いたくないと思うのは、おかしいことでありましょうか」
「…………」
ナッシュは沈黙した。そして答える代わりに、くるりと背を向けて歩き出した。目指す場所はただ一つだ。
先を行くナッシュの背に向かって、アザムはまた深く礼をした。

「若を頼みます、ナッシュ殿」





眩しいほどの月の光が、部屋の中まで差し込んでくる。体は疲れ切っているはずなのに眠れない。月が明るいせいか、それとも別の原因か。後者の原因にいくつも心当たりがあってラシードは思わず苦笑し、そして溜息をついた。
薄く目を開けたまま、床に落ちた月の光をぼんやりと眺める。目を閉じるとまた余計な考え事をしてしまいそうだった。
「静かすぎる夜は嫌いだ……」
ぽつりと呟く。誰に聞かせるでもない独り言だったが、

「そうか?静かな夜は、忍び込むのにちょうどいい」

思いがけない返事が返ってきて、ラシードはベッドの上で飛び上がりそうになった。見れば、先程まで眺めていた床に、細く長い影が伸びている。その影を目で辿ると、見慣れたあの眼鏡が薄暗がりの中できらりと光った。
「こうも簡単に侵入できてしまうとは、不用心にも程があるな。もう少しセキュリティを強化したらどうだ」
「うわっ――旦那!?なんでここに!?てか、いつからそこに!?」
「お前が溜息をついたあたりから」
つまりだいぶ前からそこにいたということだ。全く気付かなかった。ここにいるのがナッシュではなく殺し屋だったら、危うく寝首を掻かれるところだった。
ラシードはほっと溜息をついた。先程の重い溜息とは違う、安堵の溜息だった。

「……ちょうどいいや。なんだか寝付けなかったんだ。よかったら寝酒に付き合ってくれよ」

ラシードはナッシュを寝室の中に招き、テーブルの上に置かれたランプの明かりを灯す。橙色の柔らかな光が部屋の中に広がった。月の眩しすぎる光よりも、人工的なこちらの明かりの方が、今のラシードには安心できた。
ナッシュは招かれるままテーブルについた。ナッシュが珍しく素直にお願いを聞いてくれたことに機嫌を良くして、ラシードはグラスの中に気前よく酒を注いだ。ラシードが乾杯のためにグラスを掲げると、ナッシュもそれに倣う。カチンという軽やかな音が月夜に響いた。

ラシードは眠れない夜を一蹴するように、酒を一気に煽った。疲れた体へアルコールが急速に染み渡っていく。その向かい側でナッシュは淡々と飲み進めていた。すぐほろ酔い気分になるラシードとは対照的に、ナッシュは顔色ひとつ変わらない。

「これ、結構上等な酒なんだけどさあ、旦那は味の違いとか分かるわけ?」
「分かるように見えるか?」
「んー、全然!」
「失礼な奴だ」
「自分から聞いたくせに〜」

普段ならラシードの軽口も容赦なく無視されてしまうところだが、今夜はなぜかまともに返してくれる。それが嬉しくてラシードはまた一杯煽る。
「ペースが早い。悪酔いするぞ」
「だいじょーぶだって。潰れても旦那がベッドまで運んでくれるだろ?今日の旦那、なんか妙に優しいしさ……」
「…………」
いつもと様子が違うことを見抜かれてナッシュは黙った。酔っていてもラシードの目は誤魔化せないということだ。
だがラシードは構わず話を続ける。最近手に入れた最新ガジェットの使い心地だとか、小旅行の途中で知り合った格闘家との闘いについてだとか、最近食べておいしかったものや、逆にまずいと感じた食べ物について。ナッシュがろくに相槌を打たなくても、次から次へと話題は移り変わっていく。――しかし、やはり「友達」という言葉は一度も出なかった。

「旦那は最近どうだい?使用人の仕事も楽じゃないだろ?」
ラシードから話題を投げられて、ナッシュはこのタイミングだと心に決めた。踏み込むならば今だ。
「どこかの誰かが命じたせいで、やるべき仕事が多くてな。死のうという気も起きない」
「……あんた、それ」

ラシードはアザムと同じ反応をした。その変化は劇的だった。緩んでいた唇が引き結ばれる。気持ちよさそうにとろんと閉じかけていた目は一気に見開かれ、険のあるものに変わる。
「やっぱり気付かれてたか」
「こうもあからさまに仕事を押し付けられては、誰だっておかしいと思う」
「もうちょっとうまくやれって言ったのになあ、あいつら……」
愚痴を吐き出すが、その口調には、嘘をつくのが下手な使用人たちへの慈しみが溢れていた。主人がこうも甘いのだから、それに仕える使用人たちが演技下手なのも頷ける。

ラシードは肩を竦めた。
「悪かったよ旦那。別にあんたを苛めようってわけじゃないんだ。ただ、仕事に追われてれば、あんたの気も紛れるんじゃないかって……それだけだよ」
そう言って笑う。寂しそうに。友人をこれ以上失いたくないという本音は一切表に出さなかった。ラシードはナッシュにいかなる感情も押し付けてこない。期待も、願いも、すべて自分の中にしまいこんで隠してしまう。そして寂しい笑顔で自分の感情を取り繕うのだ。
――そんな笑い方を、させてたまるか。

ナッシュは椅子から腰を浮かせた。その拍子に椅子が倒れ、思ったより大きな音を立てた。ラシードがその音に驚いて目を見開いている間に、ナッシュはラシードの目の前に立った。椅子に座ったままのラシードは、恐る恐るというようにナッシュを見上げた。
「……旦那?」
へらり。ラシードはまた笑った。その場しのぎの笑顔だった。

ナッシュは床に膝を着いた。ラシードと同じ目線の高さになるように。咄嗟に目を伏せようとするラシードの顔を両手で掴んだ。逃がさない。逃がしはしない。幾度となくラシードを無視してきたナッシュが、その時初めて自分からラシードに目を合わせた。至近距離から覗き込んだラシードの瞳は、戸惑いで揺れていた。

「な、なんだよ、いきなり。びっくりしちゃうなあ〜、もう……」
「……そんな顔で笑うな」
「――え、」
「そんな顔で、笑うな」
同じ言葉をもう一度繰り返した。その言葉に促されるように、ラシードの顔から笑顔が抜け落ちていく。眉が下がり、瞳がぐらぐらと揺れる。その変化を、ナッシュは一瞬も見逃すまいと目を逸らさなかった。

「旦那……俺、今どんな顔してる?」
「迷子になった子供の顔だ」
「そっか……はは、そりゃ大変だ。男前が台無しってね……」

ラシードはとうとう顔をくしゃりと歪ませた。ナッシュがラシードの顔から両手を放してやると、ラシードは俯いたまま動かなくなった。その表情は見えなかったが、もう笑っていないことは分かる。笑顔を取り繕うことはできなくなった。感情が徐々に滲み出していく。
ラシードは小さな声で話し始めた。今までついぞ口に出すことのなかった「友達」の話を。

「……あのさ、旦那。前に喋ったことあったろ、俺の友達の話。あれさ……結局助けられなかったんだ、あいつのこと。俺が辿り着く前に、もう始末されちまってたらしい。あいつはずっと俺を待ってたってのに」
弱々しい声だった。震えていた。隠し続けてきたものが綻んでいく。それでもラシードは言葉を絞り出す。
「ばかだよなあ、ほんと。世界を救った気になっても、友達一人ろくに守り切れない。ヒーロー失格だよ」

ラシードは俯いたままナッシュに手を伸ばした。ナッシュの胸に手が当たり、そのままぎゅっと握り締める。服に皺ができるが、ラシードはそんなことも構わずに握り締め続けた。ナッシュは、服の皺と、ラシードの震える拳を静かに見下ろした。
「あんたはあいつとは違う。それは分かってる。代わりにしようだなんて思わないさ。でも――あんたには生きていてほしいんだ。あんたは生き長らえることを望んじゃいない。なのに、あんたを無理やり引き止めるような真似をして、きっとこれは正しいことじゃないんだろう。だけどもう失いたくない。これは俺のわがままだ」
あとからあとから言葉がこぼれ落ちていく。堰を切ったように溢れ出した言葉は、とめどなくナッシュの胸に染み込んでいく。

「なあ、旦那。あんたのやりたいことは何だって叶えてやる。欲しいものも全部やる。あんたがのんびりしたいっていうなら、南国のホテルを買い取ってやるし、世界一周旅行がしたいってなら、あんたのためだけにクルーザーを貸し切るよ。ここが嫌なら出ていっていい。俺のそばにいてくれなくてもいい。だから、」

ひゅう、と、なけなしの息を吸い込んで、彼は言った。

「――だから、死んでおけばよかったなんて言うなよ……」

ふと、言葉が途切れた。代わりに聞こえてきたのは嗚咽だった。呼吸の合間に漏れ出る小さな声が涙まじりになっていく。
ナッシュの胸に縋り付くようにしてラシードは泣いていた。友を失った悲しみと、途方もない寂しさと、再びそれが失われることへの怯えとが混じり合って涙になる。布に吸い込まれ損ねた涙が、ぽたりと床に落ちた。

こんな時、どう振る舞うのが正解なのかをナッシュは知らない。だが、涙を拭ってやるのは違う気がした。いつも快活に笑い、涙の気配など全く見せないラシードは、きっとこういう時でないと泣くことができないのだ。ならば、泣ける時に存分に泣かせてやりたいと思った。
小さく嗚咽を上げながら泣く姿は、自信に満ちた普段の様子からはかけ離れている。抱き締めてやった方がいいのかもしれない。ナッシュはラシードの背に両腕を回そうとしたが、途中でその動きを止めた。布越しに伝わるラシードの涙が、思いがけず熱をもっていて動揺したからだ。

涙とは、こんなにも熱いものだったか。
ラシードと自分の体温の違いをまざまざと感じた。自分が既に死した存在であることを強く意識させられ、口を閉ざす。ラシードの背に回そうとしていた両腕は下げられた。自分にはその体を抱き締める資格はない。生きていてほしいという願いに応えられるだけの時間は残されていない。もう、先へ続く未来は望めない。

――それでも。なにかたったひとつでも、約束を残すことができるなら。

「……ラシード」

ナッシュはその時初めて彼の名前を呼んだ。ラシードが弾かれたように顔を上げ、「いま、名前、」と呼吸を引きつらせながら声を絞り出した。涙で真っ赤に充血した目が見開かれている。名前を呼ばれたという、たったそれだけのことが、ラシードにとっては大きな驚きだったのだ。ナッシュはその驚きを肯定して静かに頷いた。お前の聞き間違えでも、願望が作り出した幻聴でもない、本当にお前の名を呼んだのだと。

「私は死者だ。残された時間は長くない。何年後か、何か月後か、それとも明日か――いつこの命が途切れるのかは私にも分からない。永遠は約束できない」

ラシードはまた泣き出しそうな顔をした。失うことを恐れる彼に、残酷なまでの現実を突き付ける。だが、その現実を受け止めて初めて、前に進める道もあるはずだ。
ナッシュは息を吸った。大切なことを伝えるための呼吸だった。


「だが、この体が動かなくなるまでは、俺はお前のそばにいる」


ラシードから与えられたものの大きさに対して、自分は何一つとしてそれに見合うものを返してやれない。自分にできるのは、ただそばにいることだけだった。それでもいいと言ってくれるのなら、残された短い時間を、その約束を全うするためだけに使おう。
「……うん」
ラシードは子供のように頷いた。そしてまたナッシュの胸に体を預ける。

抱き締めてやることはできない。だがその代わりに、ナッシュはラシードの頭を優しく撫でた。幼い子供をあやすように、何度も何度も、継ぎ接ぎだらけの手で撫でた。どうかこの時間がいつまでも続くようにと、柄にもなく永遠を願いながら。





「気持ちわる…………」
早朝、5時を回る頃。そろそろ家の使用人たちが朝の支度に動き回る時間だ。無論ナッシュも起き出さねばならない時間なのだが、寝床で呻き声を上げているラシードを放っていくわけにもいかない。

「あたま痛い……ガンガンする……」
「強くもないのに飲みすぎるからだ。昨夜のことは覚えているか?」
「うーんいまいち……」

その返答を受けてナッシュは内心安堵した。昨夜は自分に似合わないことを散々言いまくってしまった自覚があった。酔いに任せた方便ではなく、どれも心の底からの言葉ではあったが、ラシードが覚えていないのであればそれに越したことはない。昨夜ラシードが飲みすぎてしまったことを感謝するべきかもしれないなと思う。
水を取ってこようと腰を上げるが、その途端服の裾を掴まれてまた座る羽目になった。二日酔いで弱っているのにどこにそんな力が残っていたのか。

「行くなよお……」
「手を離せ。水を取りに行くだけだ」
「だめだって……そばにいるって言ったろ、あんた……」
「………………」

ナッシュは絶句した。記憶が曖昧だなんだと言いつつ、肝心なところはちゃっかり覚えているではないか。
猛然とした勢いで布団を引き剥がすと、ラシードは気の抜けた顔で再びすやすやと寝息を立てていた。二日酔いでも眠いときは眠れるらしい。幸せを煮詰めたかのような顔を見せられて、ナッシュはすっかり毒気を抜かれてしまった。ラシードは服の裾を掴んだまま眠っているので、無理にでも剥がさなければ部屋の外には出られない。――これは諦めろということか。

ナッシュは溜息をひとつついて、もう一度枕元に座り直した。家の者が起こしに来るまで、もうしばらくはこうしていよう。ラシードの腑抜けた寝顔を鑑賞するのも悪くはないと思った。




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2019/06/09 途中までup
2019/06/17 最後までup


“過去などどうでもいい。大事なのは、永遠に続く現在だけだ。”
 ――サマセット・モーム 『月と六ペンス』より


BGM:失われた宇宙/THE PINBALLS


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