この恋を叶えてはいけない


※イライザから見たリュウケンの話
※ケンとイライザは結婚済み


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「じゃあな、リュウ」
「ああ。またいつか会おう」

リュウが拳を差し出した。二人が別れる時の、いつもの挨拶だ。ケンは差し出された拳に目を落とし、それからふっと唇を綻ばせて、自らも拳をリュウに向けた。
こつん。軽やかな音と共に、拳と拳が一瞬だけ触れ合った。その一瞬で、彼等は互いの存在を静かに確かめ合うことができる。
拳は静かに離れた。その挨拶を最後とし、リュウは体を翻して歩み出した。親友との束の間の再会を終えて、彼はまた世界へと旅立つ。

ケンは、去っていくリュウの背中をじっと見つめていた。海岸線を歩くその背中はどんどん遠ざかり、小さくなっていく。リュウは一度も振り返らない。
見慣れたはずのその光景を、ケンはいつまでもいつまでも見つめ続けていた。背筋を伸ばして微動だにせず、瞬きさえも惜しむように、ただリュウの背中を見ている。
何分もの間そうしていただろう。やがてその背中が豆粒のように小さくなり、とうとう視界から消えてなくなると、そこでようやくケンは小さく息を吐いた。ぴんと伸ばしていた背筋が少しだけ緩む。

ケンは先程リュウと触れ合った拳を、左の手のひらでぎゅっと包み込んだ。そしてその手を額に寄せ、静かに目を閉じる。かすかに残る「彼」の気配を名残惜しむように。その仕草はどこか祈りにも似ていた。友の未知なる旅路の無事を祈り、遠いいつかの再会を祈り、離別の間にも心は友と共に在ることを祈る。
――そうして、彼もまた背を向けた。友の旅立ちを見送り、自分のあるべき場所へと帰っていく。

「……悪い、待たせたな」

手を挙げて笑いかけるケンは、もうすっかりいつもの彼に戻っていた。明るく快活で、常に笑顔を絶やさない――それがケン・マスターズなのだと。きっと彼自身が一番その印象を大切にしている。
彼を出迎えたイライザは、口を僅かに開けて何かを言いかけた。しかし桃色の唇から零れ落ちそうになった言葉はついぞ形にならず、代わりに微笑みだけが残った。
「いいのよ。……さあ、帰りましょうか」





赤い高級車が、海岸線を道なりに走る。リュウが歩いていった道とは反対の方向を目指して。時折対向車とすれ違うが、どれも地元の住民と思われる車ばかりだった。余所者の高級車が見慣れないのか、どのドライバーも物珍しそうな目ですれ違っていく。

スピーカーからは、一昔前に流行った女性歌手の歌が流れていた。愛した人が帰ってこない、いつか必ず迎えに来ると言ったのに――そんな物悲しい歌詞を、やけに明るい曲調で歌う。その意外性が受けたのか、曲が出た当時はヒットチャートに何度も登場するほど持て囃されたものだった。しかし人気が出たのはその一曲きりで、後は鳴かず飛ばず。その女性歌手が今何をしているのかもイライザは知らない。こうしてたまにラジオでその一曲が流れるのを懐かしい気持ちで聞くだけだ。

最後のサビが終わり、後奏が緩やかにフェードアウトする。
イライザはふと視線を右手の海へと向けた。どこまでも遠く、そして青い海だった。空と海の境界線は限りなく曖昧で、ふたつの青が混じり合っているようにも思えた。この青色に名前は付いているのだろうか。――いや、きっと名前など付けられない。時と共に移り変わるその色一つ一つに名前を与えることなど、どれだけ言葉があっても足りないだろう。

イライザは運転席の夫に目をやった。次に流れてきたコーラスグループの歌に合わせて鼻歌を歌っている。見慣れた横顔のはずだった。
だが、イライザはどうしても思い出してしまう。リュウを見送る時の彼の背中。リュウの姿が見えなくなるまでその場を動くことなく、まっすぐに伸ばされた背筋。リュウを見送る間、彼がどんな表情をしているのかは分からない。イライザは彼の後ろでその背中を見ているだけだった。
けれど――淋しそうだと、思ってしまったのだ。いつも笑顔を絶やさない夫が、その時だけは誰とも分かち合えない淋しさを抱えていることを、彼女だけが知っている。

イライザは目を伏せた。ひとつ、ふたつ、瞬きを繰り返して、それからまた前を見る。彼女の視線の先にあるのは空の青だった。

「……ねえ、あなた」
「うん?」
「ひとりごとを言ってもいいかしら」

ケンは鼻歌をやめてイライザをちらりと見た。イライザはまっすぐに前を見つめている。
ケンは何も言わず、右手でカーステレオのスイッチを切った。陽気な歌は途切れ、代わりに自動車の走行音が車内のBGMになった。その穏やかな静寂を、「ひとりごと」の肯定としてイライザは受け取ることにした。

「……私はね、こう思うのよ。あなたたちがお互いに向けていた感情には、『親友』という枠からはみ出したものがあること、それは『恋』と呼ぶべきものであること」

静かな口調だった。ゆっくりと、一つ一つの言葉を確かめるようにイライザは語る。
感情に名前を付けるのは危うさがある。空や海の青に名前を与えることができないように、彼等の間にある感情も、本来なら名付けてはいけないものだ。
――それでも、イライザは「恋」と呼ばずにはいられなかった。名前を付けて、この世界に存在の証を刻まなくてはならないと思った。そうしなければきっと、ケンはその感情を最初から「なかったもの」にしてしまうだろうから。

「あの人だってあなたと同じ感情を抱いていたはずよ。ただ、その感情に名前があることを知らなかっただけ。あの人は鈍感なところがあるもの。……でも、あなたはどうだったの?私の知っているあなたなら――聡いあなたなら、きっと気付いていたはずだわ」
そこまで言って、イライザは息をついた。自分が今、立ち入ってはならない場所に足を踏み込んでいるという自覚がある。長い間降り積もり続けてきた問いを、こうして彼に直接投げかけることは決して正しいことだと言えない。たとえそれが「ひとりごと」という建前で覆われたものであったとしても。
だが、ここまで来たら、もう訊くしかない。イライザは空気を吸い込み、思い切ったように口を開いた。


「ねえ、ケン。あなたは、それが恋だと知っていたんでしょう?」


『あいつは本当に強いんだ。……ま、オレには敵わないけどな』
あの人の強さを語る時の、誇らしげな顔。

『朝飯にはいつも梅干しが付いてきたんだ。梅干しって知ってるか?これがすげーすっぱいんだよ。オレは食べんの無理だからあいつに押し付けてたんだけどさ……よくまああんなの毎日食べられるもんだぜ』
修行時代の思い出を冗談めかして話す時の、懐かしさに目を細める横顔。

『あいつが今どこにいるかって?そんなん知ってるわけがないだろ?……でも、今日もどこかで闘ってるだろうな。格闘バカだからさ、オレもあいつも』
遠い場所にいるあの人を思う、優しい目。

『――リュウ』
去っていくあの人をいつまでも見送る、淋しそうな背中。

それらすべてを、イライザは彼の一番近くで見てきた。
だから、気付いてしまった。見つけてしまった。彼が抱いている感情の中心、一番柔らかくて脆いところにあるものを。大切にしすぎるあまり、決して表側には出さず、誰にも打ち明けないままでいるその恋を。――どうして、「なかったこと」になどできようか。


ケンは、ハンドルを握り、目の前に広がる道を見つめながら、静かにイライザの言葉を聞いていた。
そう、これは「ひとりごと」なのだ。投げかけられた問いに彼が答える必然性はどこにもない。もう一度カーステレオのスイッチを入れて、流れてくる猥雑なトークと音楽にその問いを乗せて聞き流せばいいだけの話だ。
だが、彼はカーステレオのスイッチを押さなかった。代わりに沈黙を受け入れた。

「……知らなかったさ」

ぽつりと呟かれたその言葉も、やはり「ひとりごと」だった。
常ならば巧みに言葉を操り、相手を自分のペースに巻き込むことなど造作もない彼が。都合の悪いことは、その話術によって完全犯罪のごとく覆い隠してしまえる彼が。たった一言絞り出した、不器用すぎる嘘だった。

イライザはケンの横顔を見た。初めて見る夫の表情がそこにあった。
懐かしさも愛おしさも、すべて内側に詰め込んで。大切に隠していた宝物が見つかり、もう言い逃れはできないと分かっていながら、それでもなんとか誤魔化そうとする――困ったような、諦めたような、淋しい顔だった。

「なによ、それ……」
そんな顔をさせたかったわけではなかったのに。
イライザは視界にぼんやりと薄い膜が張られるのを感じた。空の青はぼやけてもう見えない。鼻がつんと痛くなる。
涙がこぼれるのを必死で押さえ込もうとしたが、無駄だった。膝の上に熱い雫が一粒落ちた瞬間、堰を切ったように溢れて止まらなくなった。
彼女は泣いた。その感情に名前を与えてしまったことの罪悪感と、叶えられることのない思いの歯がゆさを抱きながら。ひそやかな恋の存在に気付かないふりをする彼の代わりに、美しい涙を流したのだ。





「ほら、これ」
ケンから差し出されたコーヒーの紙コップを、イライザは怪訝そうな目で見る。
「……こんなもので、私の機嫌が取れるなんて思わないでちょうだい」
「やれやれ、ずいぶんと手厳しいな」
「誰のせいだと思ってるの?」
小言を言いながらも、イライザは紙コップを受け取った。その反応に安堵するようにケンはため息をつき、イライザの横に腰掛ける。

帰路の途中で立ち寄ったダイナーにはまばらに客がいた。どれも地元の人間だろう。店内はどの席でも選び放題だったが、イライザは店の外にあるベンチをわざわざ選んだ。泣き腫らした顔を人に見られたくなかったからだ。
店は小高い丘の上にあり、海を一望できるようになっていた。海風が吹いて二人の髪を揺らす。

イライザは海と空の境界に目を凝らしながら、温かいコーヒーを口に運んだ。カフェインの苦味と、僅かな砂糖の甘さが舌の上を転がった。彼女が微糖を好むということを、ケンは長い付き合いでよく知っている。何も言わなくても、ケンから手渡されるコーヒーはいつだって微糖だった。
こんなふうに細やかな気配りができる人なのに、自分自身の感情は大切にしてあげられないなんて、とんだ皮肉だと思った。

「……ごめんなさいね、さっきは取り乱しちゃって」
小声でそう言うと、隣に座るケンは静かに首を横に振った。「気にするな」という無言の返事だ。その優しさに甘えてしまう。
「本当は、言うつもりなんてなかったのよ。あなたが隠そうとする限り、秘密は守られなくちゃいけないものだと思ってたわ。でも――それでも、考えてしまうの。あなたが彼に、その感情の名前を教えてあげていたら、どうなっていただろうって……」

もし、ケンがあの人に「恋」の存在を告げていたのなら、その先の未来は今と違うものになっていただろう。ケンがイライザと結婚することもなかったかもしれない。訪れなかった未来の可能性に思いを馳せて、静かに瞬きをする。
その未来では、ケンは笑っていられるのだろうか。自分の気持ちを隠すことをせず、あんなふうに淋しい顔もしないで、屈託ない笑顔を浮かべることができたのだろうか。
イライザの想像する世界の中で、ケンはリュウの隣に立っていた。互いに思いが通じ合った彼等は満ち足りていて、とてもとても、幸せそうだった。

その想像を掻き消すように、ケンは咄嗟に「いや、」と否定の言葉を発した。
「教えてやるわけない。あの時も、今も、そしてこれから先も」
「どうして?」
「だって……あいつが困るだろ?」


闘っている時の、生き生きとしたリュウの目。ケンが言った冗談に頬を緩ませて笑う顔。突飛な提案に面食らうも、最後は「仕方ないな」と付き合ってくれる諦め顔。再戦を誓って別れる時の、静かな空気。
一つ一つの記憶を思い返しては、それらを壊してはならないと思う。美しくかけがえのない思い出。光に透けるような淡い色。
――「恋」という感情の色は、それを全て塗り替えてしまうほどに濃く、強い色だった。一滴でも混じればすぐに色を濁らせてしまう。だから、使ってはいけないのだ。その存在を教えることもしてはいけない。美しいものが、美しいままで在り続けるために。


ケンがその目に何を映しているのか、イライザには想像することしかできない。けれどケンの淋しさは痛いほどに伝わってきた。
恋の成就を選べば、その儚い美しさはすぐにでも失われてしまう。美しさの永続を願えば、その恋は生涯隠し通される。同時には決して叶うことのない願いだ。そうして彼は、恋を諦めて、淋しさを抱え続けることを選んだのだった。

「……ばかね」
そう呟くイライザの声は震えていた。
「あなたって本当に……ばかなんだから」
ゆっくりと体を傾けて、ケンの肩にもたれかかる。ケンは何も言わずにイライザを受け止めた。空の青はますます深くなり、海の青と溶け合っていく。
イライザが彼の隣にいられることはきっと幸福だ。彼の優しさはイライザの心をあたたかくしてくれる。けれど同じように、たとえようのない淋しさも確かに存在していた。

「私の好きな人には、その人の好きな人と一緒に幸せになってほしいの。それだけなのに」
「……オレはイライザと一緒にいられて幸せだぜ?」
「リュウさんとも幸せになってくれなきゃ嫌」
「オレの奥さんは欲張りだなあ」
「茶化さないでよ、ばか」

彼はいつの間にか、軽い調子で自分の気持ちを曖昧に濁すことができるようになってしまった。そんな芸当が身に付くまでに、いったいどれほどの感情を覆い隠してきたのだろう。
気持ちを隠すことはとても上手なのに、嘘をつくのだけはひどく下手な彼だからこそ――要領よく生きているように見せて、その実とても不器用な彼を、イライザは心から愛していた。

彼が選んだその道は、きらきらと輝く思い出たちで溢れて、なのにどうしようもなく淋しいから。自分もまたその道をついていこうと思った。
彼が自分自身の感情を大切にできないのなら、代わりに自分が、彼の手からこぼれ落ちてしまったものを拾い上げよう。誰にも見せない宝箱の中に、ずっとしまっておいてやるのだ。いつか彼がそれを本当に必要とする時まで。




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2019/02/03


【BGM】グレゴリオ/古川本舗


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