月が綺麗な夜だから


明るい月が雲間から覗いている。雲に隠れていても、煌々としたその輝きは一年に一度だという特別感を際立たせていた。
今日は中秋の名月だという。その上、満月の時期と重なるのは数年ぶりなのだそうだ。事務所の仲間たちも、わざわざ外に出て空を見上げていた。食い入るように見つめる者、スマートフォンで写真に収めようとする者、「月見団子買っておくんだった」とぼやく者、反応はそれぞれ異なっていた。トキヤは声もなく月を見上げる側の人間だった。

仕事を終えて自宅に向かう帰り道、トキヤは少しだけ寄り道をすることにした。街灯の多い大通りを逸れ、小さな川にかかる橋の真ん中で立ち止まった。周りには誰もいない。車も通らない。虫の声と川の流れる音が聞こえる。

見上げると、月は薄い雲に隠れていた。空気の澄んだ静かな夜だった。ゆっくりと雲が流れていき、やがて満月が姿を現した。輪郭がくっきりとよく分かるほど明るい月だ。眩しさすら感じる。だがトキヤは目を細めることもなく、その月に見入った。まるでそこに誰かを探すように。

「そんなところに俺はいねえよ」

からかうような、けれどひどく優しい声が、トキヤの耳をくすぐった。
はっと息を呑む。ゆっくりと視線を横にずらすと、手の届きそうな距離に「彼」がいた。

「あ……」
夢のようなその光景が俄には信じがたくて、トキヤは咄嗟に彼の名前を呼ぶことができなかった。名前を呼んでしまえば、言葉や声で何か形にしてしまえば、すぐにでもその姿が消えてしまうような気がしたのだ。瞬きをすることすら怖くて、目を見開いたまま固まる。じきに耐えきれなくなって瞬きをしてしまったが、彼のかたちは変わらずそこに在った。

「……どうして、会いに来てくれたんですか」
「月が綺麗な夜だから」

答えになっていない答えが返される。でも、それでいいのだろう。理由なんて大した問題ではない。彼が今、ここにいてくれるということが一番大切な事実だった。トキヤはそれきり、彼にあれこれ訊くのはやめた。

ずっとずっと会いたいと思い続けていたはずなのに、いざ本人を目の前にするとうまく言葉が出てこない。何か伝えようとして開いた口からは微かな吐息だけが漏れる。仕方ないので、トキヤはまた月に視線を移した。丸い満月は変わらずに眩しく輝いている。二人は並んで月を見上げた。

「……私、あなたは月にいるのだと思っていました」
「なんだそれ。兎じゃあるまいし」
「あなたの名前には『月』がつくでしょう?だからなんとなく、月を見るとあなたを思い浮かべてしまうんです」
「でも言っただろ。そんなところに俺はいないって」
「だったらどこにいたんですか」

トキヤの問いに、彼は言葉では答えなかった。その代わり、人差し指でまっすぐにトキヤの心臓のあたりを指さした。「ずっとそこにいた」とでも言うかのように。ずるい人だと思った。

「これまでも、これからも。俺はそこにいる」
「……そんなふわふわした言い方で、私が納得できるとでも思っているんですか」
「納得してくれなきゃ困る」
「大いに困ってください。あなたの気まぐれに付き合わされて一喜一憂するのは嫌なんです。……こんな時にしか、会いに来てくれないくせに」

この際、今まで溜め込んでいた文句を全部言ってやろうと思ったが、喉が詰まってそれ以上は声にならなかった。鼻の奥がつんと痛くなる。
いつだってそうだ。会いたいと思う時にはいなくて、かと思えば今夜のように思いがけないところで不意に姿を現す。まるで夢のように。

「……トキヤ」

俯いたトキヤに、彼が声をかける。気付けば彼の顔がすぐ近くにあって、目を閉じる間もなく、唇と唇が重なった。夢ではなかった。確かに彼の体温と感触が感じられた。紛れもない現実であるという証明だった。
月が雲の陰に隠れようとしている。煌々と辺りを照らしていた光が微かに薄れる。それが彼との別れの合図だということを知っている。

「またな」

次がいつになるのかも分からない、もしかしたら次なんてないのかもしれない。それでも彼は笑って次の約束を取り付けた。だからトキヤも頷いて彼を見つめる。目蓋の裏に今夜の出来事を焼き付けようとした。次にまた会う時まで、彼の瞳と声を忘れないでいられるように。




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2021/09/21

【BGM】Paper Flower/米津玄師


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