アダムとイブの進化論


一人の少女が、横断歩道を渡る。片手にバスケットを持ち、彼女が歩いたあとには林檎の香りが微かに残る。歩くたびに鶯色のスカートがひらりと揺れた。
目的地の病院に着いた。エレベーターが順番待ちしているのを見ると、彼女は階段の方へ踵を返した。目指すのは四階。利用する人間が少ないこともあってか、彼女の靴音だけが響く。

ふと、彼女は足を止めた。前方から別の足音が聞こえてきたからだ。二人分の足音だ。一人はスニーカーでもう一人は革靴。踊り場で立ち止まったまま待っていると、その二人と鉢合わせた。
うわ、と背の小さい少年が嫌なものでも見たかのような声を上げた。もう片方の青年は、少年の一歩後ろから驚いた目で彼女を見ていた。――帝ナギと皇綺羅だった。

「七海春歌……どうしてキミがここにいるわけ?」
「お見舞いです。いけませんか?」
「ダメだよ!絶対ダメ!お見舞いなんて一体どの面下げて……!」
「ナギ。その言い方はよくない」

声を荒げるナギの肩に、綺羅がそっと手を置く。ナギはぐっと言葉を飲み込むが、まだ納得はできていないようだった。忌々しげに彼女を見下ろす。彼女はその視線に臆すことなく真っ直ぐに応えた。

「ねえ、自分の立場分かってる?正直言うと僕はキミを疑ってるんだよ。肝心の瑛一はしらばっくれてるけどさ。これ以上瑛一に近付かないでよ」
「近付いてくるのはあの人の方です」
「じゃあこうしてお見舞いに来てるのはどういうわけ?」
「あの人に呼ばれたので」
「瑛一に?」
「はい」
「……信じられない。どうかしてるよ、ほんと」

その「どうかしてる」という評が、瑛一に向けられたものなのか、それとも自分に向けられたものなのか、彼女には分からなかった。もしかしたら両方にかもしれない。
ナギは諦めたように大きく息を一つ吐くと、「行こう、綺羅」と声を上げて階段を降りていった。綺羅もナギの後ろに続く。すれ違った瞬間、ひときわ鋭い目でナギに睨まれたような気がしたが、彼女は前を向いたままでいた。二人が一階フロアに消えたのを感じ取ると、彼女はバスケットを抱え直してまた階段を上っていった。

病院から出ても、ナギはまだぶつくさと呟き続けていた。
「瑛一は何考えてるの?理解できないよ。ねえ綺羅?」
「それには同意する」
「だよね。普通、自分を階段から突き落とした張本人をお見舞いに呼ぶ?また何かされるんじゃないかとか思わないの?」
「……犯人だと決めつけるのはよくない。証拠はないんだ」
「証拠って言ったって、瑛一が知らず存ぜずを突き通してるんだから意味ないでしょ。何の意図があって庇ってるんだか知らないけど」

――数日前、鳳瑛一が歩道橋の階段から転落した。何者かに背後から突き落とされたらしい。周囲にいた目撃者の話では、水色のワンピースを着た小柄な少女が小走りで去っていくのを見たということだ。そしてその特徴は、同日の七海春歌の服装と一致していた。その時間帯に七海春歌が何をしていたのかもはっきりしていない。つまりアリバイもない。
肝心の瑛一はというと、「俺は何も見ていない」の一点張りだった。背後から突き落とされたとはいえ、少なからず「犯人」の姿を見ていてもおかしくないのだが、瑛一は頑なにそれを認めなかった。不自然なほどに。誰かを庇っているとナギが疑うのも無理はなかった。

もし、瑛一を突き落としたのが七海春歌だったとして。そしてそれを瑛一も知っていたとして。
七海春歌の話が本当なら、瑛一は「犯人」に対して見舞いに来るよう要求したのだ。そして七海春歌もそれを受けた。なぜそんな行動を取るのか、ナギには全く理解ができなかった。正気ではない。
平然とした顔で病室に向かう後ろ姿を思い出す。揺れるスカート。林檎の香りを放つバスケット。美しくて、そして不気味だった。



病室の扉を開けると、派手でうるさい顔面が彼女を出迎えた。
「おお、七海春歌!待ちくたびれたぞ!」
ベッドの柵と柵の間を通すように平台が置かれていて、瑛一はその上に右脚を置いていた。ギプスと包帯で厳重に固定され、元々よりも随分と膨れ上がってしまった右脚を。
脚だけではない。右腕も同様にギプスで固定されていた。右脚と右腕の骨折。歩道橋の階段から落ちた彼に下された診断がそれだ。アイドルとしての活動を休止せざるを得ない大怪我だ。しかし医者は、「あの高さから転げ落ちたにしては軽傷だ」と語る。頭を打たなかっただけ運が良かったらしい。

「思ったより元気そうですね」
「この程度の怪我、どうということはない。利き腕が使えないのは少々面倒だがな」
瑛一は右腕を持ち上げてみせる。美しさを追求する彼には似つかわしくない、ひどく不格好な姿だった。だが瑛一にはそこまで悲壮感は感じられなかった。それどころか「骨折など滅多にない経験だからな……これはこれで……イイ!」などと訳の分からない独り言を言っている。

彼女は手に持っていたバスケットをサイドテーブルに置いた。埃よけに掛けていた布をよけると、たちまち甘酸っぱい香りが病室に溢れる。
「林檎か」
「果物が食べたいと言っていたでしょう」
「しかもとびきり新鮮なやつを、な」
「結構大変だったんですよ?事前に刃物の持ち込み許可をもらわなくちゃいけなかったんですから」
「そこまでして持ってきてくれたものであれば、期待せざるを得ないな」

勝手にハードルを上げられて彼女は溜息をついた。部屋の隅に置かれていた椅子を引っ張ってきて腰掛ける。バスケットの中から果物ナイフを取り出すと、器用な手付きで皮を剥き始めた。しゅるしゅると音を立てて赤い皮が紐のように落ちていく。林檎の芳香が濃さを増す。
瑛一は、彼女が林檎の皮を剥くさまをじっと見つめていた。平時の彼からは考え付かないような静かさで。彼女は敢えてその視線には応えず、林檎とナイフに意識を集中させた。

きれいに剥かれた林檎をふた欠片、皿に載せて差し出すと、瑛一ははっと思い出したように顔を上げた。一呼吸置いて、喜色満面の笑みを浮かべる。
「美味い!剥きたての林檎など久しぶりに食べたぞ!鮮度が違う!そしてこの林檎自体も特別美味い!やはり見る目があるな、七海春歌!」
「近くの果物屋さんで買っただけですけど……」
彼女は自分が買った林檎が何という品種なのかさえ知らない。店員におすすめを訊いて、流されるままに買っただけにすぎなかった。それでも瑛一は「その店を選んだのもまた一つのセンスだ」と言って口角を上げる。つまらないことでも長々と褒め称えるのが鳳瑛一という男なのだ。

彼女は俯いた。同じ事務所のメンバーからの賞賛は素直に受け止めることができるのに、瑛一から褒められるのはとても居心地が悪く感じる。どうしてだろう。逆に、自分はそんな賞賛に値する人間ではないと見抜かれているような気がするのだ。わけもなく心がざわつく。てのひらにある果物ナイフを思わず強く握り締めていた。

「刺してみるか?この俺を」

静かな声で瑛一が言った。彼女が顔を上げると、端正な顔がこちらを見ていた。
「……どういう意味ですか?」
「階段から突き落とすだけでは不十分だった。だが、この喉にナイフを突き立てれば、成功するかもしれない」
「いったい、何の話ですか」
「俺を殺したいんだろう?」

あまりにも明け透けで、直球すぎる問いだった。彼女は二の句が継げなかった。果物ナイフを握り締めたまま、瑛一の瞳を凝視する。吸い込まれるような深い紫だった。嵐の前のような静けさ。闇とは本来こういう色をしているのかもしれない。
――言い逃れできるわけがなかった。なぜなら「あの時」、彼女は確かに彼と目が合ったからだ。ゆっくりとスローモーションのように落ちていく体。彼は確かめるように振り返った。そしてあの紫の瞳が彼女を見た。
階段から転落して記憶が曖昧になったわけではない。瑛一は、自分を突き落としたのが七海春歌だと分かった上で、周囲の人間に対して知らないふりをしていた。

「……殺したいわけじゃ、ありません」
彼女はようやくそれだけを言葉にした。ナイフはまだ手の中にある。瑛一の血はどんな色をしているだろうという想像が頭をよぎった。
「だが、俺が消えれば、お前の心は随分軽くなるはずだ」
「……はい。どうにかして、あなたを遠ざけたかった」
「それは何故だ?」

避けて、遠回りをして、彼と行き合わないようにしていたつもりだった。なのに彼は幾度となく近付いて距離を詰めてくる。まるで逃れられない引力のように。その度に彼女の呼吸は浅くなった。息が詰まる。心臓を掴まれているような感覚に陥る。心のざわめきが止まない。

「あなたを遠ざけたいと思うのは、わたしの中の嵐を呼び起こしたくないからです」

それは、恋などという生温いものでは決してなかった。だが憎しみとも嫌悪とも違う。最も近い感情は「恐怖」だった。自分自身ですら自覚していない何かを引きずり出されるような感覚があった。
この嵐は、自分の内側に留めておくべきものだ。決して外に開け放してはならない。一度自由を与えてしまえば最後、もう自力で抑えることはできないだろう。すべてを呑み込むまで止まりはしない。そんな確信めいた予感がある。

彼女の言葉を聞いて、瑛一は高らかに声を上げて笑った。心底愉快で仕方ないという笑いだった。
「はははは!なんだ、ちゃんと『それ』に気付いていたのか!無自覚だとばかり思っていたぞ!」
「無自覚だったら、あなたを突き落としたりしません」
「確かにな。だが大きな収穫だ。七海春歌、お前は一生その『嵐』を御し続けなければならない。今のうちに解放してやった方が気が楽じゃないか?」
「みんながみんな、あなたのようにはいきませんよ」
瑛一が彼女に近付こうとするのは、両者に似たものを感じているからなのだろう。内側に潜む嵐の激しさを、瑛一だけは最初から見抜いていた。だが同族だとは思われたくはない。

「……やっぱり、あの時もっと力を込めて突き落としていればよかったです」
彼女が小さく呟くと、瑛一は更に胸を反らせて高笑いをした。
「それは無理だろう。なにせ俺は神に愛されているからな!きっと、俺を殺すよりも世界を滅ぼす方が容易いぞ!」
自信満々な宣言にはあまりにも現実味がなかったが、しかし実際そうなのだろうという諦めにも似た感情に襲われた。滅んだ世界で満足気に笑う瑛一の姿が容易に想像できてしまった。そしてその隣に立つ自分の姿も。

彼女は深く溜息をついた。空気に触れて茶色く萎びかかった林檎を口の中に入れる。甘酸っぱい香りが鼻に抜けた。見舞いの品に林檎なんて選ばなければよかったと思った。




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2021/09/20


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