宥めすかして名前で呼んで


「私は『一ノ瀬おい』じゃありません」

 お前が出し抜けにそんな突拍子もないことを言うので、俺は「……は?」と気の抜けた返事をするので精一杯だった。お前は真剣そのものといった様子で眉根を寄せている。
「……お前、いきなりどうした?変なものでも食ったか?」
「私は『一ノ瀬お前』でもありません!」
「はあ?」
 意味が分からない。お前のしかめっ面からして、冗談を言っているわけでもなさそうなのが余計に混乱を生んでいる。
 お前は呆れたように大げさな溜息をついた。
「だから、私の名前は『おい』でも『お前』でもないと言っているんです」
 ーーだから、と言ってるくせに全く理由になってねえだろ、それ。
 突っ込みを入れたい気持ちをこらえて俺は唸った。お前は俺を責める気満々で高圧的な態度を取っている。俺か?俺が悪いのか?めんどくさいモードに入ったお前にどこまで付き合ってやるのが正解なんだ?……何もかも面倒くさい。
 これまでの経験からして、反論したり余計なことを言ったりすると手がつけられなくなる可能性が高い。ここは粛々とお前の言い分を聞いてやるのが一番だ。俺はなけなしの社会性を動員してお前のしかめっ面に向き直った。
「つまり何だ、お前は俺に名前で呼んでほしいってことか?」
「…………言わせないでください」
 お前はバツが悪そうに視線を反らした。少し頬が赤い。ストレートに自分の要求を言い当てられたからか。素直に認めようとしないのがお前らしい。
「……今日、ふと気付いてしまったんです。もう何年もの付き合いになるのに、私はあなたに名前で呼ばれたことが数えるほどしかない、と」
 昼のワイドショーじみたセリフだった。長年連れ添った熟年夫婦が離婚に至った経緯を語る時のようなーーワイドショーなど一度もまともに見たことがない俺でも容易に絵面が想像できる。だが、そんな決まりきった言葉を、お前はひどく深刻そうな顔で言う。いや、「深刻そう」じゃない。お前にとっては本当に深刻な問題なんだろう。
 馬鹿がつくほど生真面目で、変なところで思い込みが激しく、一度こうと決めたら一直線に突き進む。それが一ノ瀬トキヤという人間だ。俺に名前を呼ばれないという、たったそれだけのくだらないことを、こうも深刻に受け止めている。そこで一人でウジウジ気に病んだり悩んだりすれば可愛いものだが、生憎とお前はそういう性分じゃない。悩むより先に俺に突っかかってきた。「私は『一ノ瀬おい』じゃありません」などという珍妙な言い回しを使って。
「……バーカ」
「痛っ!?」
 眉間の皺めがけてデコピンをすると、お前は両手で額を押さえて悲鳴を上げた。
「くだらないことで不安になってんじゃねえよ。大体、二人暮らししててわざわざ名前で呼ぶ場面あるか?」
「私はあります」
「それお前が朝起こしてくる時だけだろ」
「確かに……」
 起きなさい砂月!早くしなさい砂月!とはよく言われる。だがそれ以外となると案外思い付かない。二人でいると、大抵のやり取りはわざわざ名前を呼ばなくても成立してしまうのだ。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
「つっても、名前で呼んでほしいならいくらでも呼んでやるよ。なあトキヤ?」
「……は、はい」
お前は目を丸くして何度も瞬きをした。俺がすんなり要望を呑んだのがそんなに意外か?それとも、久しぶりに名前で呼ばれて戸惑っているのか。実を言うと俺自身も、お前を名前で呼ぶのが思った以上に気恥ずかしい。顔には絶対に出してやらないが。
「トキヤ」
「はい」
「トキヤ」
「はい」
「トキヤ」
「はい…………あの、もうそのくらいで結構です」
照れくささを誤魔化すように何度も呼んでいたら、お前の方からストップがかかった。
「なんだよ。名前で呼べって言ってきたのはお前だろ」
「そうなのですが……面と向かって何度も呼ばれるとさすがに……」
顔が赤い。耳も赤い。お前は色が白いからこういう変化はよく分かる。気恥ずかしいのは俺だけではなかったと分かると急に優越感が湧いてくる。なんだか面白くなってきた。俺は名前を呼びながらお前ににじり寄っていった。
「トキヤ」
「あの」
「トキヤ」
「ちょ……、」
「……トキヤ」
「ひぅっ!?」
 耳元で囁いてやると、お前は大げさなくらい肩を跳ねさせた。「みっ……耳元はやめなさい!耳元は!」とかなんとか喚いているが知ったこっちゃない。元はと言えばお前のせいだ。くだらないことで不安になって、「名前で呼べ」なんて俺に命令したことを後悔させてやる。ああ、もう後悔し始めてる顔だな、それは。だけどもう遅い。今夜は、お前の名前を一生分呼ぶと決めたんだ。




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2021/03/14


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