鳥籠姫


「どこいこっか」
楽しそうな音也の笑顔を横目に溜め息をつく。
「そちらから誘ったのに計画のひとつも立てていなかったんですか?」
「ごめんごめん。とにかくトキヤと一緒に遊びたくてさ」
何するかはこれから考えようよ、と音也はまたにっこりと笑いかける。

突然「今時間ある?」と電話で呼び出されたかと思えばこれだ。電話口の音也はひどく思い詰めたような様子だったから何かあったのかと心配になってすぐに呼び出しに応じたのだが、来て欲しいと言われた場所にいたのはいつもの音也だった。大急ぎで駆けつけたのが馬鹿らしくなる。ああ、心配して損をした。ただ一緒に出掛けたいだけならば、あんな風に切羽詰まった声を出さなくてもいいだろうに。
電話でのらしくない声は何だったのかと問い詰めても、音也は曖昧な笑顔で「別になんでもないよ」と話題を逸らす。その思わせぶりな態度が気掛かりだった。

結局、適当に店でも見て回ろうということになり、交差点の横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。自分たち以外に信号を待つ人はいない。普段は仕事柄自動車での移動が多いからか新鮮だ。
道路を行き交う車を眺める中、ふと先程から音也が黙り込んでいることに気付く。いつもは騒がしいくらいに話しかけてくるというのに珍しい。具合でも悪いのだろうか。

「音也、」
どうかしたのですか。

そう声をかけようとした。けれど、できなかった。
どん、と背中を強く押される。その衝撃で体が道路に投げ出される。突き飛ばされた痛みよりも先に驚きが頭を支配する。
なにが、起こった?
混乱。動揺。それらを処理する暇もなく、近付いてくる音。猛スピードで自動車がこちらに迫ってくる。道路に投げ出された人影に運転手が気付いた。だが遅い。全てがスローモーションに見える。
ああ、日常というものはこんなにもあっけなく、一瞬で崩れ去ってしまうものなのか。
まるで他人事のように思った。今までの日常にはもう戻れない。
根拠もない確信がよぎったのはきっと、横断歩道で立ち尽くす彼の顔を見たからだ。

――――音也。

次の瞬間、自動車に撥ね飛ばされた体が宙に舞った。





閑静な住宅地に建つマンション。そこに彼と彼の恋人の住む家がある。
音也は近くのスーパーマーケットの買い物袋をぶら下げて、鼻歌を歌いながらマンションまでの道を歩いていた。夕方ではあるがあまり人通りは多くない。この辺りは一人でゆっくり散歩するのに最適だ。物件をよく吟味しただけある。
元は駅に近いアパートに一人暮らししていたが、恋人と共同生活を送ることを決めて今のマンションに引っ越した。いっそのことと思いマンションの一部屋を買い取ったのは正解だったと思う。交通の便はあまりよくないものの、この落ち着いた空気は何にも代え難い。

部屋には愛しい恋人が自分の帰りを待っている。そう思うだけで彼の足取りは自然と早まった。今日も夜は自分が料理を作って彼に食べさせるのだ。
毎食分の料理を手作りするのは大変だったが、恋人の喜ぶ顔を見るとそんな苦労も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。
最初のうちはプライドが許さないらしくなかなか食べようとしてくれなかった恋人も今ではだいぶ慣れたようで、食事が終わると遠慮がちに「ありがとう」と微笑んでくれるようになった。それが嬉しくて、手の込んだ料理も作ろうと色々挑戦している最中だ。料理の腕もみるみるうちに上がった。それもこれも、全てはあの笑顔を見るためだった。
今日は何を作ろうか。野菜をたくさん買い込んだから、野菜たっぷりのポトフがいいかもしれない。
彼はまた笑ってくれるだろうか。いや、きっと笑わせてみせる。頑張って美味しい夕食を作らなければ。

マンションの入り口に着いた。早く部屋に帰ろうとエレベーターの所まで駆けると、ちょうどエレベータから降りようとする人物にかち合った。同じマンションの住人かと思い挨拶をしようとしたが、その人物が彼のよく見知った人物だったので驚きの声を上げた。
「わあ、レンじゃん!久しぶり!」
「あ……や、やあイッキ」
自分を見るとひどく焦ったような顔をしたのが気になったが、敢えて流した。
レンがこのマンションにいるということは、音也の家に来ていたのだろう。
「うちに用あった?ごめんね、俺いなくて。トキヤが相手じゃ、ろくなもてなしもできなかったでしょ。もう帰っちゃうの?あと少しだけでいいからうち戻らない?お茶出すよ!」
「今日はイッチーに用があったんだ。その用もさっき済ませてきたし、この後仕事が入ってるからね。申し訳ないけど次の機会にさせてもらうよ」
「えー、残念だなー……俺もレンと喋りたかったのに」
「ごめん」

そう謝ると、レンはそそくさと音也の前から去ろうとする。まるで何か後ろめたいことでも隠しているかのようだ。
音也はマンションから出ようとするレンの背中に声をかける。
「ねえ、レン!」
ぎくりと跳ねる肩。ああ、なんて分かりやすい。おかしさが込み上げてきて音也は笑った。
「……トキヤに、変なこと吹き込んでないよね?」
レンは振り返らない。だが顔など見なくともどんな表情をしているかは簡単に想像できる。レンは音也に背を向けたまま返事をした。
「―――さあ?何のことだか分からないな。オレはイッチーと単なる世間話しかしていない」
「ふうん……まあ、何を言った所で無駄だろうけどさ、そういう余計なことはしないでよ。……トキヤは俺のものだから」
じゃあね、と言い残し、音也は昇りのエレベーターの中へ消えて行く。
一人取り残されたレンは、拳を握り締めて低く唸った。

「何が『俺のもの』だ……っ!」





「ただいま」と声をかけて寝室を覗くと、窓を眺めて何か考え事をしていたらしいトキヤが顔を上げて「おかえりなさい」と微笑んだ。いつもと変わらないその微笑みに少し安堵する。
「今日は野菜をたくさん買ってきたよ。ポトフでも作ろうかなと思ってさ」
スーパーの買い物袋を掲げて見せる。あと1時間もすれば夕食の時間だ。
トキヤは「それなら私が、」と身体を起こしかけたが、それを視線で制する。
「いいの、俺がやりたいんだから。トキヤは休んでて」

戸惑うトキヤの背と膝に腕を入れて抱き上げる。そのまま寝室からリビングへと移動し、大きいソファに座らせた。痩せ細った身体を抱えて運ぶことなど造作もない。これでも、共同生活を始めた一ヶ月前と比べればだいぶ肉がついた方だ。少しでも回復するようにと毎日栄養を考えた食事を作り続けた甲斐はある。
一ヶ月前はそれこそ悲惨だった。目に見えてわかるほどに骨が浮き出て、腕などは少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうだった。
しかし、今でも標準より遥かに痩せていることは変わらない。ほとんど外出しないせいで、元から白かった肌は今では色素が抜け落ちたように青白くなっている。その病的な姿は痛々しいと同時に美しいと感じた。

ソファに腰掛けるトキヤの視線を背中に感じながら、キッチンに立って野菜を刻む。始めは切り傷だらけで手を絆創膏だらけにしたものだったが、包丁を握るのにもすっかり慣れた。
「そういえばさ、さっきレンに会ったよ」
思い出したように話し出す。背後でトキヤがはっと息を呑む音が聞こえた。
「ちゃんと事前に連絡してくれれば、俺も家にいておもてなししたのにさー。トキヤに用があったとか言ってたけど、何話したの?」
オリーブオイルを入れた鍋に野菜を入れて炒める。いい匂いに自然と笑顔がこぼれた。今日も美味しくできそうだ。

「特に大したことは……今の生活はどうとか、皆の様子とか」
「そんなの、俺に聞けばすぐ分かるのにね。わざわざトキヤに会わなくたってさ」
「……、」
トキヤが言葉に詰まる。レン以上に分かりやすい。音也に対しては隠し事がうまくできないのだ。
水とコンソメを鍋に入れて煮込む。ぐつぐつ、ぐつぐつ。固い野菜は柔らかくなるまで時間がかかる。細かく刻んでやれば火の通りも早い。料理の基本だ。基本はいつだって忘れちゃいけない。料理に限らず、どんなことでも。

「ねえ、トキヤ」
キッチンから離れて、ソファに座るトキヤの元へ歩み寄る。そのまま上に覆い被さった。二人分の重さでソファが沈む。
「言ったよね、隠し事は無しにしようって。……レンと何話したの?」
トキヤはあからさまに怯えた顔をしている。密着した身体から震えが伝わってきた。まるで狼に食べられる小動物のようだった。それでも、狼から視線を逸らすことはしない。否、逸らせないのだ。強く強く繋ぎ止められて、動けない。
「わたし、は……なにも」
「まだ何もなかったって言い張るんだ?」
トキヤの細い首に、音也の指が伸びる。トキヤは背中を這い回る寒気に唇を震わせた。恐怖、そう、これは恐怖だ。目の前でにっこりと天使のように笑う彼に抱いた感情は、恐怖以外の何物でもなかった。
指に力が込められる。首が、命が、締められる。息が苦しい。涙が目尻に滲む。
朦朧とする意識の中、トキヤは先程の来訪者のことを思い返していた。





「随分と久しぶりだね、イッチー」
そう言って、トキヤの友人であるレンは優しげな微笑を浮かべた。トキヤの横たわるベッド脇の椅子に腰掛ける。
「すみません、こんな格好で」
シャツ一枚だけを着た状態で、トキヤは申し訳なさそうにベッドの上で頭を下げた。急な訪問だったために客人を迎える準備などまったくしていなかった。
「構わないさ、事前に連絡を入れずに来たオレが悪いんだ」
こうでもしないと、イッチーには会えないだろうしね。そう言ってレンは苦笑した。
音也は、トキヤが外部の人間と接触することを嫌っている。外出など滅多にさせてもらえない。許可が下りたとしてもせいぜい誰もいない公園を二人で散歩する程度で、レンなどの友人と会うことなど以ての外だった。
そのことをレンも承知していたらしく、音也のいない時を見計らって家を訪ねたようだった。

「……それより、身体の調子はどうだい?皆も心配してる」
レンは気遣わしげな視線をトキヤに送る。彼はいつだって優しい。きっとこれまでも、トキヤに面会するために何度も音也に頼み込んだのだろう。仲間想いの友人にトキヤは感謝が尽きなかった。
「だいぶ良くなりましたよ。不便はありますが、なんとか日常生活が送れる程度には。……それに、大抵のことは音也が面倒をみてくれますから」
音也の名が出た瞬間、レンは息を呑んでトキヤの顔を見た。
長らく他人との接触を断たれていたからか、こんな目で自分を見られるのは久しぶりだ。憐れみと疑念が混じった、目。

「トキヤ」
あだ名ではなく本名で、レンがトキヤを呼ぶ。その目と声には真剣さがあった。
「何も言わずに聞いてくれ、トキヤ。……君を道路に突き飛ばした奴についてだ」
やはりその話か、とトキヤは目を細めた。いつか必ず問われるだろうと思っていた。このマンションに来る前、病院にいた頃も、言葉では言われなかったが同じような視線を何度も向けられた。レンだけでない。翔や真斗、那月にもだ。
「あの時、横断歩道には君とあいつしかいなかった。目撃情報はないが、犯人が君を突き飛ばしてすぐにその場から逃げられるとは思えない。……それに、もし仮に犯人が外部にいたとしても、あいつが逃がすわけないんだ。君を何よりも大切に思ってるはずのあいつなら」
間を置かずに続ける。

「トキヤ。オレは……いいや、オレだけじゃない。聖川も、オチビも、シノミーも……みんな思ってるんだ。
君をそんな身体にしたのは、」

「レン」

温度のない声が、その名を呼んだ。レンの肩がびくりと震える。
「音也は、とても優しいんです」
柔らかく微笑みながら。
「アイドルとして使い物にならなくなった私なんかに、とてもとても、親切にしてくれる。追いかけていた夢を諦めてまで、私に尽くしてくれている。自分自身の全てを、私に捧げてくれたんです。
……レン、あなたや皆には、本当に申し訳なく思っています。けれど……けれど、」
まるで自分に言い聞かせるように、もう一度。

「音也は、とても優しいんです」





――――レンの疑念が、あれで晴れたとは到底思えない。
それでも、ああ言わざるを得なかった。自分は音也に救われたのだ。あの日、絶望に打ちひしがれる自分を抱きしめて、「大丈夫だよ」と囁きかけてくれた音也の優しさに。
レンはとても優しい。偽りにまみれた幸せを拭い去ろうとしてくれている。その優しさに全てを委ねたいと思ったこともあった。しかし、音也以外の優しさを受け取るわけにはいかない。トキヤにとって音也の優しさが全てなのだ。それ以外は必要なかった。

「おとや、おとや……っ」
苦しさに喘ぎながら、涙を流して音也の名を何度も呼んだ。ただひたすらに。
音也はその弱々しい声を無感動に聞いていたが、不意に興味を失くしたように、首を締めていた手を離した。解放されたトキヤは酸素を求めて激しく咳き込んだ。
「……いいよ。そんなに嫌なら無理には訊かない。でも意外だな、トキヤがそんなにレンのこと好きだったなんて」
「な……っ」
トキヤの顔から一気に血の気が引く。首を締められた時よりも遥かに大きな恐怖が襲う。
――――音也が、私を見捨てるかもしれない。
それは、トキヤにとって死以上に恐ろしいことだった。音也がいなくては生きていけない。

トキヤは、ソファから離れようとする音也の腕を掴み、必死で縋りついた。
「音也、違います、私が好きなのは音也だけです……私には音也さえいればいい、だからお願いです、見捨てないでください……!」
勢いがついてトキヤの身体がソファから滑り落ちる。それでも音也の腕は離さない。涙でぐちゃぐちゃになった顔を擦りつけて懇願する。どうか見捨てないで、と。

音也はそんなトキヤの姿をじっと見下ろした。今のトキヤに、自信に満ち溢れていたかつての面影などどこにもない。そこにいるのは、音也の優しさに依存しきって、見捨てられまいと必死に縋りつく愚かで弱々しい生き物だけだ。
しかしそれを、音也は愛しいと思った。
「……大丈夫だよ。見捨てないであげる」
薄い肩をぎゅっと抱き締めて、小さな声で耳元に囁く。震える背中を優しく撫でてやると、トキヤは安心したように全身の力を抜いて音也に寄りかかってきた。こうしてしまえば簡単なものだ。

欲しいと思ったから、自由を奪った。両翼をもいで、鳥籠に閉じ込めた。たくさん血が出て、たくさん泣き喚いて、たくさん傷付けた。従順になったというよりは、諦めを覚えたと表現する方が近いだろう。
強引すぎる手段で彼を手に入れた、その代償は大きい。でも、このくらいが丁度いいのかもしれない。
自分のせいでこの先二度と動くことはなくなってしまったトキヤの両脚を優しく撫でながら、音也は甘やかな幸せを噛み締める。
キッチンでは、すっかり沸騰しきって吹きこぼれた鍋が、こんこんと音を立てていた。





2011/08/27


[ index > top > menu ]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -