君を愛する為だけのくちびる


二時限目が終わった後の休み時間、レンは悠々とした足取りで教室前の廊下に辿り着いた。寝起きの悪い彼にとって、この程度の遅刻は日常茶飯事だった。以前は彼が起きるまでしつこく声をかけていた同室の真斗も、今ではすっかり諦めてしまったようで、一度の声かけで起きないようならばそのままレンを放置する手段を取っていた。おかげでここ最近ろくに一限目の時間に間に合った試しがない。
遅刻常習犯の筆頭であるレンに教師陣は頭を悩ませているらしいが、当の本人はまったく深刻に考えていなかった。起きられないものは起きられない、そんなの仕方ないじゃないか。レンが掲げるのは清々しいほどの開き直り。しかし、それを決して許そうとしない人物が、教師以外に一人いる。その人物こそ、たった今レンと鉢合わせしたクラスメイト、一ノ瀬トキヤだった。

「おはようイッチー、今日は絶好の寝坊日和だね」
「おはようございます――また遅刻ですか、レン」

挨拶を交わしたかと思えば、二言目には遅刻を咎める。学園一の優等生にとって遅刻など以ての外なのだろう。とはいえ、朝からこんな態度を取られては、せっかく登校してきた甲斐がない。
「休まないだけまだマシだろ?眠りを求める体に鞭打ってここまで来たんだ、オレにしてはよく頑張った方だと思うけどね。褒めてくれないの?」
「そういうことは女子にでも頼みなさい」
「オレはイッチーに褒めてもらいたいんだよ」
「……っ!」

トキヤの髪に触れようと手を伸ばす。するとトキヤはびくりと大きく体を震わせて、瞬時に数歩後退した。行き場を失ったレンの右手が宙を彷徨う。思いがけない反応にレンは口を半開きにしたまま固まった。まさかこうもあからさまに避けられるとは思わなかったのだ。
「え……、あの、イッチー?」
呆然とするレンから視線を外し、トキヤは一目散に廊下を駆けていく。これからすぐ次の授業が始まるというのに、どこへ行こうというのだろう。
トキヤは絶対にレンを拒まない――信じて疑わなかった確信が、揺らぎ始める。しかしレンにはその理由がまったく見えて来ないままだった。




「最近、イッチーが冷たい」
昼休み、生徒でごった返す食堂。レンは不満げな表情を隠すことなく頬杖をついた。テーブルの向かい側では、翔が紙パックのストローをくわえてレンの愚痴を聞く態勢に入っている。しかしあまり緊張感は無い。
「あいつがツンケンしてるのはいつものことじゃねーか」
「いいや、そうじゃない。いつもとは違う冷たさがあるんだ。……触れさせてくれなかったりして」
恋愛禁止令が敷かれている早乙女学園において、神宮寺レンと一ノ瀬トキヤがいわゆる恋人同士という立場にあることは、Sクラスの三人にとって公然の事実であり、同時に皆には隠さなければならない秘密でもあった。その秘密を知っているのは、当人たち以外では翔しかいない。故に翔が二人の相談役となるのは至極当たり前の流れといえる。大抵は相談という名の惚気話を聞かされることの方が多いのだが、今回はどうやら真剣な悩みらしい。レンの表情が一気に曇ったのを見て翔はそう判断した。自然と声のトーンが下がる。

「確かにあいつ、ここ最近お前よりも俺と過ごす時間の方が長いかもな。お前が話しかけようとすると、すぐ俺のとこに逃げてくるし」
「そうなんだよね……」

レンは頭を抱えてうなだれた。あの廊下での出来事以来、トキヤは意識的にレンを避けるようになっていた。触れるどころか話すこともままならない。挨拶程度の軽いやり取りはするが、そこからレンが話を続けようとしても、曖昧な理由を付けてどこかへ行ってしまう。翔の言うように、話し掛ける前から逃げられることもしばしばだ。その時のトキヤはレンの出方を注意深く窺って隙を見せない。
初めの内は気のせいだと思うようにしていたが、何度も続くと流石にこたえる。演技達者なトキヤならばそんな素振りを隠すことは簡単だろうに、レンへの接し方はあまりに露骨だ。隠す気がないということは逆に、敢えてそういう態度を取っているのだとレンに知らせようとしているのではないか。浮かんでくるのはどれもマイナス要素ばかりだった。

「もしかしたらオレに否があるのかもしれないと思って、原因を考えてみたんだけど――」
「だけど?」
「心当たりがありすぎて特定できなかった」
「……だろうな」

トキヤと恋人同士になったことでレンの「遊び」は劇的に減ったが、彼のフェミニストな性格が変わったわけではない。今でもレンは女性たちと友人としての付き合いを続けているし、トキヤもそれを承知で関係を結んだはずだ。今になって拒絶反応が出たというならトキヤの行動にも納得が行くが、レンはどうしてもそう思えなかった。だからといって別の理由を考えついたわけでもなく。自称「愛の伝道師」がここまで情けない姿を晒すことになろうとは。

「はぁ、深刻なイッチー不足だよ……助けておチビちゃん」
「分かった分かった。俺様がトキヤにさりげなーく聞いてやるから。お前はまぁ……とりあえず大人しくしとけ。な?」
翔は意気消沈するレンの頭をがしがしと撫でた。精神的には翔の方がよほど年上なのかもしれない。「ありがとう」と呟くレンの声は、普段の彼からは想像もつかないほど弱々しかった。




もやもやとした思いを引きずりながら廊下を歩く。何人かの女子生徒がレンを追い越した。
「神宮寺さぁん、さよなら!」
「うん、また明日ね子羊ちゃん」
作り笑いを顔に張り付けて手を振ると、彼女たちは黄色い声を上げて小走りに駆けていった。

西陽が廊下を赤く染める。図書館で勉強をする者、夜までレッスンルームに篭り練習に励む者、彼女たちのように寮へ帰り友人と雑談を楽しむ者、放課後の過ごし方は人それぞれだ。そういえば、翔は今夜音也たちと集まって勉強会をすると言っていた。騒がしくなることは避けられないだろうなと苦笑いする。どのみち自分には関係のない話だ。レンは、まっすぐ寮に帰ろうと決めていた。翔の「大人しくしとけ」という言葉が存外効いているのだろうか。今日くらいは誰とも会わず、一人で過ごすのも悪くはない。早く寮に行こう――しかし、踏み出した足は数歩の後にぴたりと止まった。偶然は時に必然よりも強い引力を持つ。

(……イッチー、それに)
 視界に入った二つの人影。間違えるわけがない。レンが食い入るように見つめる先には、トキヤと、そしてもう一人。聖川真斗だ。レンの足がよろけた。レッスンルームの前で二人が何か話している。向こうはこちらに気付いていないようだった。会話の内容までは聞き取れなかったが、楽しげな雰囲気はこの距離でも伝わってくる。時々一緒に料理をしたりする仲であることは、知っていた。だからといって気にも留めなかった。――なのに。

(あいつの前では、そんな顔で笑うのか)

 見たことのない表情だった。ぴんと張り詰めた糸を解いて、屈託の無い笑顔を見せる。驚くほど素直で、柔らかい。レンには決して見せようとしない笑みを、トキヤは真斗に向けていた。トキヤの頬が仄かに赤みを帯びているように見えるのは、西陽のせいか、それとも。
(……渡したくない)
心臓を握りつぶされるような感覚がレンを襲う。
(誰にも、渡さない)
一歩、二歩。ゆっくりとその場から遠ざかる。握り締めた右手が軋んだ。




コンコン。ノックの音が寮の廊下に響く。部屋の内側からは何の反応も返ってこないが、中に人がいる気配は確かにあった。どうやら居留守を使おうとしているらしい。あいつらしくないな、と心の隅で違和感が首をもたげた。
「イッチー、いるんだろ?開けてくれないかな」
ドア越しに声をかけても、しばらくの間は何かが起こる気配がなかった。これは諦めるパターンかと溜息をつく。最後にもう一度ノックして反応がないようなら自分の部屋に戻ろう、そう決めて再び右手を上げる。だが、その右手がドアを叩くことはなかった。

「……何の用です」
僅かに開いた隙間からトキヤの顔が覗く。形の良い眉は訝しげに顰められていた。なるべく不審感を煽らないように表情を緩め、軽い口調で声をかけた。
「やあイッチー。実はさ、オレの教科書が行方不明なんだ。部屋を探しても見つからないから、もしかしたらイッチーの鞄の中に紛れてるんじゃないかと思って。探させてもらってもいいかい?」
「……先程確認した時には、私の分の教科書しかなかったと記憶していますが」
「いいからいいから」
「え、ちょっとレン、」

半ば強引にドアを押し広げて部屋に入る。授業の復習でもしていたのか、トキヤのデスクにはノートと教科書類が広げてあった。もちろん同室の音也はいない。今夜は翔と那月の部屋で勉強会をするのだから。その上でトキヤを訪ねた。部屋に入れたなら後はこちらのもの。二人きり、誰にも邪魔されない空間の出来上がりだ。
レンの勢いに押されてトキヤが後ずさった。警戒心を剥き出しにした視線はとても恋人に向けるものとは思えない。さて、いつの間にこれほど警戒されるようになってしまったのだろう?
トキヤは呆れたように溜息をついた。

「嘘をつくのはやめたらどうですか」
「何のこと?」
「……あなたはただ、私に会いに来ただけでしょう」
「分かってるなら話は早い」
にっこりと笑う。単に口実が欲しくて、分かりやすい嘘をついた。気付いてくれなくては困る。

「生憎ですが、今日はそんな気分じゃありません。帰ってください」
冷たい声は、間違いなくレンに向けられたものだった。逸らされた目はレンを映し出さない。まるでお前にはその資格すらないとでも言うかのように。……面白くない。レンの顔が曇る。以前までのトキヤなら、甘い言葉を囁けば簡単に流されたはず。それが効かないということは――

「トキヤ」
普段は滅多に呼ばない下の名前を口にする。いつになく余裕のない声だった。トキヤの身体がびくりと震えた。その隙を突いてレンはトキヤの手首を掴む。男にしては細い腕、蛍光灯に照らされて白く浮かび上がる腕。久しぶりに触れたような気がした。
掴んだ手を強く引っ張ると、トキヤは抗い切れずバランスを崩した。ぐらりと身体が傾く。狙い通りだ。レンは慣れた仕草でトキヤの腰に手を回し、そのまま流れるようにベッドの上へ押し倒した。抵抗する暇も与えず両腕を拘束する。

「トキヤ。オレはお前に」
無防備になったトキヤの左手を取り、唇を寄せる。まるでそれが神聖な儀式であるかのように。
「触れたくて」
ちゅ、口付けをひとつ。
「触れたくて」
ちゅ、柔らかな皮膚を舌でなぞりながら。

「――たまらないんだ」

上目遣いの懇願。己の魅力が何たるかを充分に理解している者だけが見せることの出来る仕草だ。熱を含んだ視線が絡みつく。レンはトキヤの指を口に含み、絡め取るようにして舐め上げた。
「あっ……」
トキヤの背筋がぞくぞくと震えた。甘い痺れが指先から脳へと駆け巡り、全身から力が抜けていく。薄く開いた唇は抵抗の言葉すら紡げず、甘い吐息を漏らすだけだった。――もう、逃げられない。




「や……あっ、んん、はぁ……っ」
前回からだいぶ間が空いたからか、トキヤの体はいつもより敏感だった。レンの指が滑らかな肌を滑る度に、薄い背中が跳ねた。うつ伏せになったトキヤは、シーツに顔を埋めてくぐもった声を上げる。声を抑えないでくれと強請っても、頑なに首を横に振るばかりだった。
指で慣らしたトキヤの内側は、早く熱を受け入れたいとでもいうかのようにひくひくとレンを待ち望んでいた。
「……そろそろ、いれるよ」
勃ち上がったそれをあてがうと、トキヤは大きく肩を震わせた。準備はすっかり済ませたはずなのにひどく怯えている。

「レ、レン……待ってください、まだ――まだ、私、だめですっ」
「どうして?もう充分解れてるじゃないか……ほら、腰上げて」
「あ……や、待って……あっ!あ、やぁっ」

トキヤの中に、自分自身という楔を打ち込む。何度も、何度も。乱れた呼吸と、ひっきりなしに発せられる甲高い喘ぎ声、軋むベッドのスプリング。二人の人間が繋がる音が部屋に響く。
性急であることは自覚していた。自分に精神的な余裕がないことも。
(オレは何を――焦っている?)
問わずとも答えは眼前にあった。トキヤが何かに耐えるように唇を閉ざす理由、それがレンには分からない。
腰を打ち付ける度にトキヤの肩が上下する。髪がシーツに擦れて乾いた音を立てる。襲い来る快楽の波に抗えなくなったのか、抑制の利かなくなった喘ぎ声が次から次へとトキヤの口から零れ出した。

「ひっ、あ、んっ、やだ、いやだっ!」
「……まだそんなこと言ってるの?」
先程からトキヤは拒絶の言葉を何度も反芻している。体を重ねる時はいつもそうだ。いやです、やめてください。それらは情事における口癖のようなもの。だが今のトキヤが発する言葉は、どこか必死さを感じさせた。喘ぎ声ですら、単なる快楽から来るだけではないようにも思える。何がそれほど嫌だというのか。実体のない焦りと憤りがレンの表情を暗くさせた。
「だ……、だってこれじゃ、いやです、」
「何が」
「なにって、そんな……や、いやだ、レンっ、やめてください、あ、ああっ!」

ここまで来ておきながら、あくまでもレンを拒否しようとするトキヤに、どうしても苛立ちが募る。脳裏に、真斗と仲睦まじく談笑するトキヤの笑顔がちらついた。安心したように笑うあの笑顔。レンには一度として見せたことがない種類の笑顔。ぎり、と歯を噛み締める。久しぶりだから優しくしようと思っていたはずが、蓋を開けてみればいつもの……いや、それ以上に激しく責め立てている自分がいた。
(オレじゃなくてあいつを選ぶのか。こんな風にしか愛せないオレよりも、あいつを)
いくら身体を重ねても、心までは繋ぎ止められない。レンとの行為を嫌だと繰り返すトキヤ。その心が自分に向けられることはもう無いのか。惨めな思いがレンの心に這い寄ってきた。昏く淀んだどす黒い感情。忘れた、はずだったのに。
トキヤが掠れた声でレンの名を呼ぶ。

「レン、レン……っ!いやだ、ずるい、私だって……、私だって、あなたに触れたい……!」

――それは、情事が始まって初めてトキヤが発した、「意味」を持つ言葉だった。

「えっ……!?」
 思わずレンの動きが止まる。たった今告げられた言葉。あやうく聞き逃してしまう所だったが、レンの耳は間違いなくトキヤの声を捉えていた。それを確かなものにしたい。
「ごめん、ちょっと待って、今なんて?」
「わ、わたし、わたしは、」

何かを訴えようとトキヤはしゃくり上げながら声を出すが、言葉の断片はうまく文章にならなかった。行き場のない息が喉に詰まり咳き込んでしまう。
レンは自身をトキヤの中からゆっくり引き抜いた。もうそれどころではない。上下運動を繰り返すトキヤの薄い背中に手を伸ばす。……今度は拒絶されなかった。いたわるような手つきで、ごくごく慎重に背中を撫でてやる。すると少しは落ち着いたのか、トキヤはレンの腕を離れて白いシーツの上に倒れ込んだ。うつぶせの状態で微かに上下する肩はひどく頼りない。まるで死にかけのハムスターだ――そこまで無理をさせたのは自分だということも忘れて、レンはその白い背中を見つめていた。

しばらくして呼吸が元の緩やかさを取り戻すと、トキヤは顔を覆う腕の隙間からレンを睨んだ。薄い涙の膜で覆われたそれは、レンを非難するような、しかし同時に照れも混じった目だった。どう声をかけていいものかとレンが逡巡している間に、トキヤはゆっくりと上体を起こした。しなやかな腕がレンの首に回される。微熱を帯びた肌にどきりとした。―――そういえば、トキヤの方からこうして抱き締められるのは初めてではないだろうか。
「レン……」
吐息混じりの声。耳元で囁かれると尚更熱い。
「あなたは、ずるい……いつも、いつだって」
「……トキヤ……?」
トキヤはレンに寄り掛かりながら浅く息を吐いた。ぽつりぽつりと、少しずつ言葉を落としていく。

「あなたは簡単に私に触れてくる。けれど、私からは簡単に触れさせてくれないでしょう。……それがずるいと言うんです」

そう言って唇を尖らせる姿は、まるで母親に構ってもらえずに拗ねる子供のよう。
(――ああ、思い出した)
トキヤは、レンが重要な事をうやむやに誤魔化す時、よくこうして拗ねる。知りたいのに、教えてもらえない。知ってほしくないから、教えない。トキヤを大事にしたいレンは、知らずにいてほしいことを隠そうとする。しかし似た者同士の二人に、隠し事がうまくできるはずもなく。トキヤはレンが何かを隠していることを見破っているのに、それが一体何なのかは教えてもらわないと分からない。トキヤは二人の間にある距離をもどかしく思っていた。
今だってそうだ。レンはトキヤが好きだと、その体に触れたいと言う。そして触れるのはレンの方からばかり。トキヤから触れようとしても、レンはなかなか隙を見せてくれず、いつも先を越されてしまう。そんな一方的すぎる関係は――嫌、だった。触れられるだけでなく、自分からも触れたい。与えられるだけでなく、与え合う関係に。それがトキヤの望む形だった。

「えっと……じゃあ、さっきの『いや』って、そういうこと?」
横目でちらりと目をやると、トキヤは耳まで真っ赤にして首を縦に振った。
レンは、トキヤに聞こえない程度の小さな声で「拒絶されてるのかと思ったよ」と呟いた。先程までは、トキヤのあからさまな拒否反応に対して、レンとの繋がりを拒まれているのだとばかり思っていた。だが、トキヤの言う「嫌」は、レン自身にではなく、一方的に触れられるだけの関係に対する拒絶だったのだ。それが分かってやっとレンは安堵した。靄のかかった視界が徐々にクリアになっていくような気がする。

「……ごめん、ずっと気付かなくて」
「謝らないでください、レン。……頑なになっていたのは私の方なんですから」
トキヤの行動原理はレンに触れたいという一心からだった。ここ最近避けられていたのも、トキヤが自分からレンに触れる機会を窺っていたためなのだろう。しかしただでさえ照れ屋のトキヤがその試みを達成できるわけもなく、結果としてああいったぎこちない接し方にならざるを得なかった。耳まで真っ赤にしたトキヤの様子を見れば、わざわざ問い質さなくとも容易に想像できた。
「……イッチーがそう思ってくれてるのは嬉しいよ。オレに触れたい、なんてさ」
にっこり笑ってみせると、トキヤはより一層顔を赤くした。

生じた焦りと苛立ちに押し流された結果、いささか強引な行為に及んでしまったことは、レンとしても反省しなくてはならないだろう。――誰にも渡すものか、と。いくら不安だったとはいえ、それはひどく子供じみた嫉妬心だった。トキヤと真斗は普段から仲が良く、レンが見た二人のやり取りも「友人」の域を超えていないことくらい分かっていたはずだったのに。ここまで冷静さを欠いてしまうとは思ってもみなかった。トキヤの前ではいつもの余裕も脱ぎ捨てられて、ただの男になってしまう。

(……かなわないなあ)
手触りの良い黒髪を撫でながら苦笑した。思った以上にどっぷりと浸かっている。一ノ瀬トキヤという、たった一人の存在に。
きっとトキヤは、レンの思い入れがそれほどまでに強いということを知らないのだろう。いくら言葉を重ねても表し切れない想いなら、これからたっぷりと時間をかけて伝えていくだけだ。
「ねえイッチー、今夜はイッチーの好きなようにしていいよ」
「好きなように……?」
「そ。もちろんオレに好きなだけ触れていい。お気に召すままってやつさ」

するとトキヤはちょっと考える仕草をして、不意にレンの唇をついばんだ。ちゅっ、と軽いリップ音が鳴る。満足げに弧を描く唇は艶かしく、そして美しい。
「今までずっと触れられるだけだったんです、覚悟してくださいね。……私だって、あなたにたくさん触れて、あなたの色んな顔を見たいんです」
トキヤは、わらう。真斗に向ける穏やかな微笑でもなく、翔に向ける親愛のそれでもない。ただ――神宮寺レンだけが知る、蕩けるような笑顔だった。





2012/04/29
2013/12/08 再録


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