あなたの世界が優しさで包まれますように


『これはわたしたちの我侭です』

いつだったか、彼女は優しく微笑んで言った。

『ただの自己満足に過ぎないかもしれません。押し付けがましいかもしれません。だけど、後悔だけはしたくなかったから』

どうか、どうか、幸せに。

『この子も、そしてあなたも』





私は久しぶりのオフをこれ以上ないほど満喫していた。外出して体力を無駄に使うよりも、家事をしながら室内でゆったり過ごす方が性格に合っている。
部屋の掃除を一通り終え、コーヒーの入ったカップを手にソファーに腰を下ろした。気分転換にと本棚とオーディオセットの場所を変えてみたが、新しい配置が意外としっくり来たので機嫌がいい。見慣れたインテリアがいつもと少し違う位置にあるだけでこんなにも新鮮な気持ちになれる。たまにはこうやって些細な模様替えを行うのも悪くない。
ベランダに干してある洗濯物も、あと数時間すれば乾くだろう。ここ一週間はずっと雨だったせいで部屋干しを余儀なくされていたが、昨日までの雨模様を吹き飛ばすかのように今日は朝からよく晴れた。絶好の洗濯日和だった。物干し竿にぶら下げられた白いシャツが風に揺れていた。

しばらくしたら昼食の準備を始めよう。それまではゆっくり休んでいたい。そして昼が過ぎたら――あれを「あの子」に渡しに行かなくては、と棚の上に置いてある紙袋に目を向ける。中には私が選んだとっておきのプレゼントが入っている。あれを渡したらどんな反応をしてくれるだろう。想像して、自然と笑みが零れた。

<ピンポーン>

6月の風が吹き抜ける室内に、軽やかな音が響いた。郵便かと思いインターホンのモニターを見ると、ちょうど今の今まで考えていた人物がいた。対象の背が低いため顔の上半分しか映っていないが、その柔らかな癖毛はモニター越しでもよく分かる。私は驚いてちょっと目を見開いた。
そうやってまごついている間にも、ドアの向こう側にいる人物は急かすようにもう一度呼び出し音を鳴らす。彼は気が短いのだ。
「待ってください、今開けますから」
慌てて立ち上がり、玄関へと急ぐ。何度も鳴らされて隣の部屋の迷惑になってはいけない。
パチン、とロックを外して扉を開ける。案の定、不機嫌そうに頬を膨らませる少年と目が合った。

「おそい」

そして第一声がこれだ。
人気キャラクター「ピヨちゃん」がプリントされた七分丈のパーカー、空色のスニーカーと白いソックス、紺色のショートパンツからは膝小僧が覗いている。「少年」という概念を凝縮したかのような彼は、唇を引き結び、眉を寄せ、腕を組んで私を見上げていた。

少年の名は砂月、私の友人である四ノ宮那月・春歌夫婦の一人息子だ。今年……いや、今日で8歳になる。私がプレゼントを用意していたのは今日8歳の誕生日を迎えるこの少年のためだったのだが、この突然の来訪はむしろ都合が良いというべきか否か。
「すみません、まさかあなたの方からわざわざ来てくれるとは思っていなかったので、驚いてしまって。どうしました?」
「……べつに。遊びにきただけ」
砂月はふいと視線を外してしまった。遊びに来たと言う割にはやけに不機嫌だ。おそらく何か都合の悪いことでもあるのだろうと察したが、何も問わずに砂月を部屋の中へ招き入れた。

「牛乳とアップルジュース、どちらにしますか?」
小さな客人をソファーに座らせ、飲み物を取りにキッチンへ向かう。冷蔵庫には紙パックの飲み物が二種類あった。二つを手に持ってリビングにいる砂月に見せると、「りんご」と一言だけ返事が返ってきた。どうやら今日は口当たり爽やかなものを飲みたい気分らしい。
子供用の小さなグラスに氷を入れ、アップルジュースを注ぐ。このグラスは砂月が来た時のために以前買っておいたものだ。氷がグラスに当たってカランと涼しげな音を立てた。
来客用の焼き菓子を皿にあけて、グラスと共に持っていった。リビングでは砂月が我が物顔でソファーに深々と身を沈めていた。勝手知ったる我が家と言わんばかりだ。

砂月が私の家に遊びに来るのは今日が初めてではなかった。それどころか月に一度は必ずやって来る。多忙なために私はいつオフが貰えるかも定かではなく、砂月本人やその両親にも自分の休みの日を教えたことはなかったが、何故か砂月は見計らったかのようにオフの日を狙って来るのだ。そしてその狙いが外れたことは今までに一度もない。何故私の休みの日が分かるんですかと尋ねても、ただの勘だと言われた。百発百中の勘など聞いたことがない。

――ともかく、私は砂月にやたらと懐かれていた。
私の側から積極的に交流を持とうとしているわけではない。以前一度だけ仕事の関係で七海くん(結婚後も彼女は旧姓で活動をしている)に会いに家を訪ねたら、幼い砂月は何故か私を大層気に入ったようで、こうして毎月のように遊びに来られるまでに至ったのだった。私のマンションから四ノ宮家族の家まで2駅しか離れていないのもあって、砂月は一人で電車に乗って私の家にやって来る。たった8歳の子供にここまで好きにさせていいのかとトキヤは頭を抱えるばかりだが、当の母親は「この子は一ノ瀬さんが大好きなんですよ」と言うばかりでやめさせるつもりはないらしい。放任主義もいいところだ。それだけ私は「保護者」として信頼されているのだと前向きに考えるべきかもしれないが。
度重なる砂月の訪問にも最近ではすっかり慣れて、いつ彼が来てもいいようにと冷蔵庫にはフルーツ系のジュースと牛乳を常に置いておくようになったし、食器棚には子供用のグラスや皿やスプーン・フォークまで用意されている。初めて家に上がる人間にこの食器棚を見られたら、きっと変な方向に怪しまれることだろう。

「前に来た時とちがう」
ジュースの入ったグラスを手に、砂月はきょろきょろと部屋を見回した。
「ええ、ついさっきまで部屋の模様替えをしていたんです。家具の位置を少し変えただけですが」
「ふーん。おれは前の方がいいと思うけど」
「この家に住んでいるのは私ですよ……」
他愛もないやり取りをしつつ、砂月の隣に座る。冷めかけたコーヒーに口をつけるが、どうせなら新しく淹れ直した方がよかったかもしれない。
砂月は尚も落ち着かないのか視線を彷徨わせていた。その度に父親似の柔らかな髪の毛が揺れた。

何故この少年が自分に懐いているのか、私には分からない。かつてこの少年と同じ「砂月」という名で呼ばれていた人との関係にはもう区切りがついていた。「彼」は私の前から去り、今は少年の姿で目の前にいる。だが彼は彼、砂月は砂月だ。いくら彼の面影を強く残していようと、私はこの少年を彼とまったく同一の存在として見るつもりはなかった。だから少年との接触も最低限に留めようと――新しい命が歩む先に、自分の存在はいらないのだと、そう思っていた。
だが少年は自ら私との関わりを持ってくる。私が一歩退けば、その分一歩進んで距離を縮めてくる。避けようとしていることすら見抜かれているのではないかと思うほどに。だから二人の間にある糸は途切れることなく、今でも細く繋がっていた。
このままでもいいのだろうか。繋がりを捨てずにいてもいいのだろうか。

「あ、」
私の思考を遮るかのように砂月は声を上げた。その視線は先程移動したばかりの本棚に注がれている。ソファーからぴょこんと飛び降り、本棚に駆け寄る。
「このDVD、まだ発売されてないやつだ」
砂月が手に持ったのは、数ヶ月前に行われた私の単独ライブのDVDだった。つい先日、マネージャーから見本ができたと言われ渡されたものだ。
「おや、よく分かりましたね。一般発売日はまだ先ですよ」
「やっぱり?どうりで見たことないと思った」

砂月はDVDのパッケージを興味深そうにじっと見つめた。目が輝いている。気を利かせたつもりで「持って行きますか?」と尋ねたが、その申し出に砂月は首を横に振った。
「いらない。発売日になったら買うから」
「別に遠慮しなくたっていいんですよ?歌っている本人が渡そうと言っているんですから……」
「いいよ、いらない。……いくら仲良しでも、ファンならちゃんと自分のお金で買うのが礼儀だって、おかあさんが言ってた」

思いがけない言葉に私は目をぱちくりさせた。砂月の言う「おかあさん」とは七海くんのことだ。確かに彼女ならそう言うかもしれない。
かつてHAYATOの大ファンだった彼女は、私がHAYATOを引退し一ノ瀬トキヤとして改めてデビューしてからも、変わらず熱心なファンとして応援を続けていてくれた。砂月の話では、彼女は私のCDやDVD、グッズなどが新しく出ると、観賞用と保存用、緊急用、予備用(最後の2つは説明されても用途がよく分からなかった)に必ずそれぞれ4つずつ購入しているらしい。自分のCDならいくらでも渡してやって構わないのだが、七海くんは一度としてそのようなことを請うたりはしなかった。そんなファンの鑑のような彼女に育てられた砂月にも、同じ信念が宿っているのだろう。親子二代に渡るファンがこうも身近にいると、私は嬉しさと同時にくすぐったさのようなものも感じずにはいられなかった。

砂月はまだ発売されていないそのDVDを目に焼き付けるように見ていたが、やがてそっと本棚に戻した。そしてまた私の隣に座る。ここが砂月の定位置だった。
アップルジュースを一口飲んで、ふと溜息をつく。先程とは打って変わって砂月は急にしおらしくなっていた。
「どうしました?元気がありませんよ」
「……べつに」

声をかけても反応は薄い。いきなりどうしたのだろうと訝り、砂月が落ち込む原因を探る。思い浮かんだのは「おかあさん」というキーワードだった。あの言葉を言ってから砂月は急に表情を暗くした。母親について何か思うことがあるのだろうと推察する。
……ああ、それに。今日はなんといったって砂月の誕生日ではないか。そんな大切な日に、家族との団欒を放棄してわざわざ私の家を訪れたのだから、それには必ず理由があるはずだ。

「……喧嘩でも、しましたか」
「…………」
砂月は傍らにあったクッションを抱きしめて顔を埋めた。図星なのだろう。頭を撫でてやったら意外にも嫌がられなかった。いつもは子供扱いすると怒って拒絶してくるのだが、今日は甘えたい気分のようだった。両親と離れた今、砂月が甘えられる大人は私だけなのだ。

しばらくの間そうしていたが、不意に砂月はクッションに顔を押し付けたまま、くぐもった声で呟いた。
「……今日、おれとおとうさんの誕生日だろ」
「ええ」
「だからおれ、約束してたんだ。その日は一日中いっしょにいようって」
砂月とその父親である那月さん、二人の誕生日は同じ日だった。6月9日。まるでこの日に生まれてくることが最初から約束されていたかのように、8年前の今日、砂月はこの世界に産声を上げた。砂月と言う名の子供、同じ誕生日――これを偶然と呼んでいいものだろうか。

「でもおとうさんは約束を破ったんだ。急な仕事が入ったから今日はいっしょにいられない、また別な日にしよう、だってさ。……今日じゃなきゃダメなのに」
「……それで喧嘩を?」
しかし砂月は頷かなかった。
「ケンカじゃないよ。おれが怒っただけだった。ウソつきって言ったんだ、おとうさんに。そうしたら、おとうさんは何度もごめんねって泣きそうになりながら謝ってくれたし、おかあさんは……、お仕事だから仕方ないの、今日だけ我慢してって……でもやっぱり許せなかった。ずっと前から約束してたのに。その日はぜったいお仕事休んでねって言ったのに。……だから、」
「だから、ここに来たんですね」

今度こそ砂月はゆっくりと頷いた。ここ――私の家は、砂月にとって避難場所でもあったのだ。彼の両親であるあの二人が自分の子供を叱りつける光景はあまり想像できない。きっと砂月は、自分で勝手に「居場所がない」と感じて、私の家に逃げこむのだろう。自分の居場所を奪っているのは、他ならない自分自身なのだということも知らずに。

さて、どうしたものか。自己嫌悪の波に呑まれようとしている砂月を横目に、小さく息を吐いた。子供に対して何かを言い聞かせるのはとても難しい。かつてHAYATOとして活動していた頃には子供と共演する機会も多かったが、その頃の経験はあまり役に立ちそうにない。今回の問題は少しばかり込み入っているのだ。
砂月の頭の先に視線を落とした。ミルクティー色の柔らかな髪は父親譲りだ。いつもはぴょんぴょんと跳ねている癖毛が、今日はあまり元気がない。両親に強く当たったことで、砂月は誰よりも反省して落ち込んでいる。素直になれないだけで優しい子なのだ。

私はソファーから離れ、カーペットの上に膝をついた。膝立ちになると、ソファーに座る砂月と目線の高さが同じになる。砂月もそれに気付いたようだったが、敢えて私からは視線を外した。心の中に後ろめたい部分があると視線を逸らすのが砂月の癖だった。
「……一日を共に過ごすという約束がだめになってしまったのは、悲しいでしょう。けれど、だからといってお父さんとお母さんを責めるのは、本当に正しい選択でしたか?悲しいのはあなただけだったと言い切れるでしょうか?」
なるべく慎重に言葉を選ぶ。砂月は年齢の割に聡明な子だが、それでもまだ幼い少年だ。大人からの言葉ひとつが大きな影響を及ぼす。無闇に傷付けたくはない。だが、甘やかしすぎてもいけないのだ。
砂月は僅かに肩を震わせた。ゆっくりと首が横に振られる。

「私もあなたのお父さんと同じような仕事をしていますから、気持ちは分かります。『絶対』なんて約束はできない。それでも、お父さんはあなたの為に一生懸命スケジュールを調整しようとしてくれていたはずです」
「うん……」
「けれど個人の都合で簡単に『行けません』と言うわけにはいかない。自分以外にも、仕事に関わるたくさんの人が困ってしまうかもしれないからです。どんな仕事であれ、決して破ってはならない決まり事や、当然するべき努めというものがあります。……それを、私達大人は『責任』と呼んでいます」
私の言葉に砂月は伏せていた顔を上げた。視線が合う。砂月の瞳は後悔と自責の念でゆらゆらと揺れていた。おうむ返しに「せきにん、」と小さく呟く。砂月ならばきっと理解できるはずだ――そう信じたい。

「そう、責任です。お父さんには、芸能界で仕事をしていく上での責任があります。勿論私にもね。責任は誰もが負うべきものです。……そしてあなたも、自分がご両親に向けて言った言葉に責任を持たなくてはなりません」
「……」
「行為や言葉は、やってしまったらそれで終わりというわけではないんです。現にあなたは、自分の言葉がご両親を傷付けてしまったのではないかと悩み、後悔しているでしょう?そのままではいけません。自らの行動を振り返り、何をするべきか考えてもう一度行動する。そうして後悔が消えたその時、はじめて責任を全うしたと言えるんですよ」
行動は行動でしか変えられない。言ってしまった言葉も、取り消すことはできない。ただ、過去の蓄積に新しい言葉を上書きするだけだ。それでも何もしないよりはずっといい。自分の心も相手の心も、「何かをした」という実感があるだけで救われる。
ならば砂月もまた、ここでただ自責の念に駆られている場合ではない。彼自身の行動を以って、後悔を拭い去らなければ。

砂月は「責任」という新しい概念を受け入れるのに精一杯のようだった。唇をきゅっと引き結び、自分の爪先を見つめたまま黙っている。瞳の奥では数々の情報が錯綜しているか、八の字に歪んだ眉の間に、子供に似つかわしくない皺が出来ている。この内容はまだ話すべきではなかっただろうか。
「少し、難しい話だったかもしれませんね。ですが……」
言いかけた瞬間、砂月が反射的に顔を上げる。
「難しくない!ちゃんと分かったよ、責任って言葉のイミ!」
全身で勢いよくしがみついたので、その拍子に砂月の足がテーブルの端にぶつかった。衝撃でテーブルの上のグラスがカタカタと音を立てた。思った以上に大きな音だったので、私たちは二人とも驚きで目を見開いた。砂月の場合は単純に大きな音が生じたことへの驚きだったようだが、私は砂月の言葉に虚を突かれたのだった。
シャツの裾を掴んでくる指が僅かに震えているのには気付かないふりをして、私は確かめるように砂月を見つめる。

「本当ですか?」
「ホントに!」
「……それなら教えてください。自分の責任を果たすために、あなたはこれから何をすればいいのかを」
砂月はぐっと息を呑んだが、目を逸らしはしなかった。一つずつ答えを探り当てていく。
「……おとうさんとおかあさんに会いにいくんだ。あやまるために」
「謝る?何を?」
「ひどいこと言ってごめんなさいって。あたりまえだろ。それに、おとうさんのこと……えっと、おとうさんの『責任』、を、ちゃんと分かってなくてごめんなさいって。そう言ってあやまる」

まっすぐで、ひたむきで、透明な目。この子と同じ名前を持つ「彼」も、きっと同じ光を宿していた。人を愛しすぎた「彼」は大切なものを守るために自ら離れ、この少年は大切なものと共に生きていくために前へ進む。かつて途絶えた未来の糸を、一本ずつ束ねていくように。
「……そうですね、その通りです」
私は思わず唇を綻ばせた。抱きしめたい気持ちの代わりに、よくできました、と頭を撫でる。すると砂月は、子供扱いするなってば!といつものように頬を膨らませた。しゅんとしていた先程とは違って元気を取り戻したようだった。けれど私の手を払いのけようとはしない辺り、まだ甘えたい気持ちが残っているのだろう。

「あのさ、トキヤ。家にかえる時、トキヤもついてきてくれる?……一人は、ちょっと怖いから」
「ええ、勿論そのつもりですよ。あなたが家出して二人とも心配しているでしょうし、私からも事情を説明します。きっと許してくれますよ」
そうだといいなあ、と砂月は小さく呟いた。叱られることを怖がる様子は歳相応に見える。私の前では大人のように振舞ってはいるが、砂月の本来の性格はもっと幼いのかもしれない。なにせまだ8歳なのだから――そう考えたところで、私はあっと声を上げた。そうだ、大切なことを忘れるところだった。

「あなたに渡そうと思っていたものがあるんです」
「え?」
急いで席を立つと、模様替えしたばかりの本棚へと駆け寄った。私の目的は棚の上に置かれた紙袋だった。黄色い地に白いストライプ柄の紙袋で、表面には赤いリボンが飾り付けられている。今日この日のために用意したものだ。
紙袋を手に取ってくるりと方向転換する。そのまま早足で砂月の元へ戻り、

「誕生日おめでとう、砂月」

という言葉と共に紙袋を差し出した。一連の行動を困惑ぎみに見守っていた砂月だったが、今度こそ驚きで目をいっぱいに見開いた。
いざこざがあってすっかり忘れていたが、今日はなんといったって砂月の誕生日だ。喧嘩の原因も、元はといえば今日が一年に一度の特別な日――誕生日だったからに相違ない。
私の祝福を受けて、砂月はようやく今日という日の本来の意味を取り戻したらしい。その表情はみるみるうちに驚きから喜びの色へと変化していく。ただ純粋に祝われることが嬉しいという子供らしさを、砂月はとうとう私の前でも隠そうとはしなくなった。
紙袋を受け取って「開けていい?」と興奮気味に尋ねる。私が小さく笑って頷けば、砂月は舞い上がる心のままに封を開けた。同時に湧き出る歓声は、いつもの声よりワントーン高い。

「これ、おかあさんが作曲する時に使ってるやつだ!」
紙袋に乱暴に手を突っ込んで取り出したそれは、分厚いノートだった。しかしただのノートではなく、ページを捲れば五線譜が敷き詰められている。曲の構想をする際に使う楽譜ノートだった。その他にも、「はじめての作曲」と書かれた作曲入門書とコードブック、鉛筆や万年筆を始めとした筆記用具が入っていた。
その中でも、万年筆は砂月のために作らせた特注品だった。胴の部分には砂月のイニシャルが刻印されている。紙の類はすぐに消費してしまうが、万年筆ならばこの先何年にも渡って使い続けることができると考えて選んだのだった。

「七海く……いえ、春歌さんから、あなたが最近作曲に興味を持ち始めたと伺っていたので、あなた専用の作曲道具があればいいのではないかと思ったんです」
七海くんからその話を聞いた時、今年の誕生日のプレゼントはこれしかないと決めていた。プロの作曲家が母親なのだから、作曲に必要な道具はいくらでも提供してもらえるのだろうが、「自分だけのもの」という特別感は何物にも代えがたい。――それが砂月ならば、尚更。
砂月はプレゼントを触ったり色んな角度から見たりして、抑えきれない興奮を発散していた。砂月の目はこれまで以上にきらきらと輝いている。
「お、お礼は言っとくぜ。ありがとな」
「どういたしまして」
照れ隠しなのか言葉はぶっきらぼうだったが、砂月の唇は嬉しさでへにょへにょと緩んでいた。あまりにも分かりやすいので思わず苦笑してしまう。こんなに砂月がはしゃいでいるのを見るのは初めてだった。
五線譜のノートを胸に抱えて、砂月は、ほう、と満ち足りた溜息をついた。

「おれ、やっぱり作曲家になりたいなあ……」

そうして呟いた言葉が、私の心をひどく掻き乱したことも知らずに。
「…………、」
私は言葉を失って、ただただ砂月の横顔を見つめることしかできなかった。……作曲家になりたいというその夢は、作曲家を母親に持つ少年にしてみればごく当たり前の選択肢だった。しかし私にとっては違う。四ノ宮砂月という名の少年が作曲家を目指すということ。その意味は計り知れないほどの重みを伴う。
息が詰まる。震える喉を無理やりこじ開けて、砂月に尋ねた。
「……作曲家、ですか?アイドルではなくて?」
元アイドルの父と、作曲家の母。両親の仕事を見てきた砂月はどちらも選べたはずだ。しかし砂月はこともなげに答える。

「だっておまえ、アイドルだろ。アイドルが歌う曲を作るのは作曲家のしごとだって、おかあさんが言ってた」
「私がアイドルであることと作曲家の仕事とは、あまり関係ないと思いますが……」
「あるよ!関係大ありだぜ!おまえが歌う曲を、おれが作るんだから!」

私は、いつか砂月がこの宣言をすることを、心のどこかで分かっていた。「彼」の面影を強く残しながらも、未来へ向かおうとするこの子ならばと。……嬉しくないはずがない。だが同時に、それではいけないと思ってしまうのだ。
砂月が自分の考えで将来を決めていけるのなら、それは限りなく理想に近い形だろう。しかし彼はまだ8歳、小学2年生だ。いくらでも選択肢を広げられるこの時点で、既に将来の道を決めてしまうのは早すぎはしないか。今の砂月はさも自分の意志であるかのように「作曲家になりたい」と言うが、もしかしたらそれは、私の願いを無意識のうちに汲み取っているからではないのか。
私は砂月に何が何でも作曲家になってほしいわけではなかった。今の砂月に、かつての「彼」の面影を求めようとは思わない。ひとりよがりの願望を押し付けるのは嫌だった。

「それは……随分と気の長い話ですね、砂月」

話を逸らすように言葉を継ぐ。
私は今年で34歳を迎えようとしていた。同期にデビューを果たした仲間たちも、今では芸能界を引退して家業を継いでいたり、俳優や歌手としての活動に重きを置いて、アイドルという肩書きが薄れているのがほとんどだ。私もその中の一人ではあったが、今でも自分はアイドルであるという自負は消えていない。
もし仮に砂月が作曲家を本気で志して順調に道を辿っていったとしても、早乙女学園を卒業しデビューするまでに最低でもあと8年はかかる。その頃私は40代、さすがにアイドルを名乗るのは苦しくなってくる年齢だ。

あなたが作曲家としてデビューしても、その頃私がどうなっているかは知りませんよ――というニュアンスも込めて「気の長い話」という言葉を使った。将来の目標の先に私を据えるのはやめておいた方がいいと、暗に示そうとしたのである。それは砂月の将来の可能性を狭めたくないからでもあった。私は砂月にとっての通過点でありたいのだ。……「彼」が私の過去になったように。
だが砂月はそのような私の思いなど知るものか、とでも言うかのように、唇を尖らせてふてぶてしい表情になった。

「長くなんかない、おれが作曲家になるまで、トキヤもアイドル続けてればいいだけの話だろ」
「それ……私に待っていろということですか?」
茶化すように尋ねたが、砂月はひどく真剣な表情だった。

「そうだよ!必ず迎えに行くから待ってろ!」

『必ず迎えに行くから待ってろ』――その言葉の鮮烈な既視感。私は息を呑んだ。忘れない。忘れもしない、あの言葉。去りゆく「彼」が最後に残した、たったひとつの約束。
心臓の音がうるさい。視界がぐらぐらと揺れる。全身が得体の知れない衝動で震えている。辺り構わず叫び声を上げたかった。それができないから、代わりに小さく声を上げた。
「……むかえに?あなたが、私を?」
「ん!おまえが歌う曲持って、芸能界になぐりこんでやるぜ!だからおまえもアイドルやって待ってろよ!約束だからな!」
「…………っ、」

とても眩しい笑顔だった。未来を信じて疑わない少年の笑みだった。
私は今度こそ耐え切れずに顔を右手で覆い、絞り出すように細く長く息を吐いた。顔がくしゃくしゃに歪む。砂月の前では決して感情を表に出さないようにと思っていたのに。
……ああ、あなたはいつだって、私の心を千々に乱してしまう。嬉しいのか、幸せなのか、懐かしいのか、愛しいのか、今の私に一番合う表現は世界中のどこを探しても見つかりそうにない。四宮砂月という存在が大切でたまらない。
溢れそうになる涙を無理矢理に押し込めたせいで、私の泣き笑いの顔はひどく不恰好だった。だが相変わらず上機嫌の砂月にはまだこの表情の変化は知られていないようだった。

「なんだよ、おれの言葉がしんよーできないのかよ?いっとくけどおれ、約束は絶対守る男だぜ?」
「……知って、いますよ」
そう、知っているのだ。だってあなたは、何年もかけて私を迎えに来てくれた。約束を果たしてくれた。遠い歳月を越えて、今、ここに。
――砂月。あなたがここにいるという事実が何よりの証明だった。

「じゃ、約束な!」
砂月は小指を目の前に掲げた。視線で私にもそうするよう訴えてくる。私がそろそろと小指を差し出すと、砂月は手首ごと強引に絡め取り、勢い良く「ゆびきりげんまん」と唱えた。
その瞬間から、私の人生は再び決定付けられた。私が砂月の書いた曲を歌うその日まで、アイドルとして活動し続けると。……いや、その日までどころではない。砂月が望む限り、私はずっとこの世界で生きていく。どうしたって、あなたは私の存在を過去にしてはくれないのだ。
またしても一方的に結ばれた約束は、あたたかい子供の体温を伴っていた。小指の先に残るぬくもりがとても優しい。砂月はしてやったりというようににんまりと笑うので、私はたまらずその小さな体を力いっぱい抱きしめた。





2013/06/09


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