虹が見えたら逢いにゆく


二人分の荷物をダンボールにまとめると、トキヤより俺の荷物の方が圧倒的に多かった。服や雑誌、いろんな人からの貰い物、ペットボトルか何かについてたおまけの小さいキーホルダーまで、俺は捨てられずに取っていたから。そのせいで部屋を引き払う準備は物凄く手間取った。荷物を整理していくうちに思い出の品を発掘して、ついつい懐かしさに浸るのを繰り返すこと十数回。早乙女学園時代のアルバムをめくっているのをトキヤに見つかり、こっぴどく叱られたこともあった。結局、俺より先に準備が終わったトキヤが、仕方ないですねと文句を言いながら手伝ってくれて、なんとか荷物は片付いたけど。

「なんか、こうしてると学園の寮を離れた時のことを思い出すね」
「ええ。……あの時とは、心境も随分違いますけど」

早乙女学園の寮を離れる時も、トキヤに何度も説教されながら引越し作業をした。たった1年間だったけどトキヤと過ごした空間はとても愛着があって離れがたく感じたものだ。
デビューしてからも付き合いを続けていた俺達は、新しく都内にマンションを借りて、二人で同居生活を送った。寮での生活とあまり変わりはなかったけど、アイドル活動を続けていく内に仕事が増えていって、二人で過ごす時間は徐々に少なくなっていった。それでもたまにオフが重なる日は一日ゆっくりこの部屋で過ごして、トキヤの手料理を食べたんだ。トキヤの作ってくれるカレーは本当においしかったなあ。
でも、もうそんな生活も終わりだ。俺はトキヤに別れを告げた。だから二人で過ごしたこの部屋からも離れて、一人で生きていかなくちゃいけない。

トキヤの荷物はコンパクトでいいね、と感心したら、あなたが考え無しに物を増やし過ぎなんですと逆にたしなめられた。
「いつかはこうして引っ越さなくてはならない日が来るんですから」
そう言って溜息をつくトキヤは、俺たちがこの部屋から離れることを、いつから予感していたんだろう。トキヤは最低限のものしか身辺に残していなかった。服も、家具も、日用品も――もしかしたら、大事な過去の記憶も。ダンボールを何箱も用意しなくちゃいけなかった俺とは違ってとても身軽だ。いつでも一人になる準備をしていたみたいに。

二人お揃いで買った食器は、どちらかが譲り受けるのも気が引けて、結局捨てることにした。これから一人で暮らすのに、二人で使った食器を平然と持ち続けていられるほど、俺たちはまだ割り切れていない。所詮食器だからと言うには、この使い古した皿は思い出が篭りすぎているんだ。

「トキヤはこれからどうするの?事務所の寮?」
「いえ、私は既に新しいマンションを借りたので……ここを出たらすぐそちらに移りますよ」
「……そっか」
「あなたはまだ、自宅を持たないんですか」
「どうしようかなあ……いつまでも事務所の寮を使わせてもらう訳にはいかないしね。俺も、しばらくしたらマンション探してみるよ」
「引っ越しが決まったら言ってください。手伝います」
「え、いいの?」
「あなた一人では、いつまでたっても作業が終わらなさそうですからね」
「はは、そうかも……その時はよろしく」
「……ええ」

まるで、別れを告げた元恋人同士とは思えない会話。俺たちは「恋人」という肩書きを捨てて、付き合う前の関係に戻る。きっとこれからも俺とトキヤは仲の良い友人としてうまくやっていけるはずだ。ただ、恋人のように触れ合うことがないだけ。それだけだ。
家具も全部撤去して、空っぽになった部屋はとても広く感じた。カーテンのひかれていない窓からは、暖かい春の日差しが部屋に差し込んでいる。俺たちが3年8ヶ月間一緒に暮らした場所。今はもう、過去形でしか思い出を語れないけど。

「それじゃあ、また」

あの時のトキヤの表情を、今はもう、思い出せない。







その日は久しぶりのオフだった。天気は快晴。家の中で惰眠を貪るのもよかったけど、せっかくの良い天気なんだから外出しないわけにはいかない。暇を持て余した俺は何をするでもなく街中をぶらついていた。週末に比べれば、平日の昼間は人通りも少ない方だ。大通りを避けて、個人経営の店が並ぶ狭い道を歩く。
しばらく歩いていると小さな楽器店が目についた。初めて来る店だ。
ディスプレイされた年代物のアコギに惹かれるまま店内に入った。昼間なのに店の中は薄暗く、いかにも老舗ですという雰囲気を醸し出していた。聞き慣れないクラシックが耳をすり抜けていく。
店内には先客がいるようだった。平日にこんな小さい店を訪れるなんて珍しい。しかも女の子だ。そんなことを思いながら、興味半分で先客の顔をちらりと見た。

「あっ」
「え?」
俺が驚いた声を上げると、その子はピアノに釘付けになっていた視線を俺に向けた。
「七海じゃん!」
「一十木くん!?」
目が合った瞬間、高さの違う二つの音がハモる。
そう、そこにいたのは、俺の友達でありトキヤのパートナーでもある七海だった。


偶然の再会に意気投合して、近くの喫茶店に立ち寄ってお茶をすることにした。店の中は俺たち以外に客はいない。おかげでゆっくりと話をすることができた。
「あのお店、雰囲気が好きでよく通っているんです。大切にされている楽器たちを見ると、とっても幸せになれるので」
にこにこと人当たりの良い微笑みを浮かべて、七海は紅茶を一口飲んだ。ティーカップを持つ指は白くて細い。似ても似つかないはずなのに、何故か俺はそれを見てトキヤを思い出した。トキヤもああやって丁寧な仕草でブラックコーヒーを飲んでいたから。

「……七海はさ、最近どう?仕事とかうまくいってる?」
七海につられて俺もコーヒーをごくりと飲んだ。昔はコーヒーなんて自分から飲もうと思わなかったし、飲むにしたってミルクと砂糖を入れないと駄目だった。それが今ではブラックでも普通に飲めてしまうようになった。
こんな些細なことにでも時の流れを感じる。俺は昔とは変わった。ブラックコーヒーを嗜むようになったのは間違いなくトキヤの影響だ。――それも、トキヤと別れてから、だけど。

早乙女学園で寮の同室として過ごした1年間、デビュー後にトキヤのマンションで同棲してた3年間、別れてから今までで6年間。トキヤと会ってから実に10年もの歳月が流れていた。そのうちトキヤと一緒に暮らした年月は片手で足りるほどしかないのに、俺にとっては別れてからの方がよほど短く感じた。今度の誕生日でもう25になるわけだけど、あまりその実感がない。
実際、あの別れ以降段違いなくらい仕事の量が増えたのだ。次から次へと舞い込む仕事に忙殺されて、互いのことを想う暇もなかった。七海の仕草を見てトキヤを思い出したように、日常の端々にその存在を感じることはあっても。

「おかげさまで順調です。今は近々発売するニューアルバムに向けてレコーディングの真っ最中なんですけど、最近は一ノ瀬さんも調子がいいみたいで、おとといなんて一発でOKが出たくらいです」

七海はいつだって嬉しそうにトキヤのことを語る。七海は、学園の卒業オーディションにおけるトキヤのパートナーだった。そして今も、トキヤが歌う曲のほとんどを七海が作曲している。二人は俺が見ても羨ましいくらいのベストパートナーだった。
だから、トキヤはきっと七海を選ぶと思っていた。卒業したら人知れず付き合うようになって、俺なんかは入り込む隙がないくらいの関係になるんだろうって。だけどトキヤは俺を好きだと言った。トキヤの恋愛対象は七海じゃなく俺だったんだ。ずっとトキヤが好きだった俺は、その言葉に死ぬほど喜んで、負けず劣らずトキヤへの「好き」を伝えてきた。……そうやって犬みたいにがっつきすぎたから、別れの瞬間もあっけなく訪れてしまったんだろう。

俺という枷から解き放たれて、とうとうトキヤは自由になった。もう男同士で付き合ってることを隠しながら生活する必要もない。別れた後で、トキヤはようやく七海と一緒になるのかな、なんて半ば諦めに近い思いを抱えていたのも事実だ。でも意外なことにトキヤと七海の間には音楽によって結ばれた絆以外何もないという。音楽バカな二人らしいといえばらしいけど、その事実を知って妙にほっとしている俺がいた。

「一ノ瀬さんの歌声は、ここ数年になって一段と深みが増したような気がします。聞く人の胸に訴えかけてくるような切なさがあって……卒業オーディションの時点で既に一ノ瀬さんの技術は完成されていましたが、今はそれ以上です」

そんなこと、言われなくたって知ってる。
トキヤの歌は芸能界でもかなり評価されていたけど、最近ではもうアイドルの歌という域に留まらないレベルになっていた。今のトキヤは、音楽番組などでも一流歌手と同じ扱いを受けている。トキヤは着実に芸能界での実績を上げているのだ。
対する俺はどうだろう。バラエティやドラマ、CMなんかの仕事は頻繁に貰ってる。雑誌の紹介記事でも「今一番人気のアイドル」とか言われてるくらいだし、まぁそこそこ売れてはいるはずだ。それでもあまり実感はない。これまでは目の前の仕事をこなすので精一杯だったからだ。

少しは余裕ができた今なら、過去を振り返ることもできる。
俺とトキヤは、二人ともバラバラの道を歩みながらここまできた。一度はその道が重なったこともあったけど、結局別れてしまった。でもそれでよかったんだろうと思う。互いへの執着を捨てて、ただひたすら夢に向かって走り続けてきたからこそ、俺たちは芸能界で生き残っていられる。あの時別れずにいたらどうなっていたか分からない。少なくとも、芸能界における今の立ち位置にはいなかったはずだ。
結果論かもしれないけど、俺はあの時トキヤに別れを切り出したことが、必ずしも間違いではなかったと思える。
――心の奥底が、悲しげに疼いていても。

「一十木くん」

名を呼ばれて顔を上げる。七海が俺を静かに見つめていた。彼女は俺以上にトキヤのことをよく知っているんだろう。
俺とトキヤの関係はとっくに終わりを迎えてしまったけど、七海とトキヤは永遠に変わることのないパートナーだ。音楽という絆がある限り決して途切れない。結び付きの強さを比べるまでもなかった。恋愛感情なんていう薄っぺらいものがなくても、七海とトキヤは絶対的な信頼関係で結ばれているんだから。七海は俺よりも遥かにトキヤに近い場所にいる。

俺とトキヤは、一時の感情だけで繋がっていたに過ぎないんだろうか?俺は、自分がトキヤをどう思っているかよく理解していない。自分のことなのに。
……好き、とは少し違う。付き合ってたあの頃みたいに互いを激しく求め合うような熱はもう無い。
それでも、俺はまだトキヤが好きだった。……いや、「好き」なんて小奇麗な言葉で表すべきじゃないかもしれない。俺のこの感情は、もっと仄暗くて、薄汚れている。着古してくたくたにくたびれた古着みたいだ。付き合い始めたばかりの、あのきらきらした日々はもう描けない。

そのことを知ってるはずなのに、今でも俺の中にはトキヤが住み着いている。俺の心の隅っこで息をして、たまに思い出したように記憶の破片で心臓をちくちく刺してくる。その度に、俺は失われたトキヤへの感情を探そうとしてしまうんだ。
自分から別れを切り出しておきながら、俺は6年経った今でも想いを引きずっている。すっぱりと断ち切ったはずの関係にみっともなく縋り付いて、僅かな可能性を捨てきれない。もしかしたら、トキヤの隣にはまだ俺の居場所が残ってるんじゃないかって。本当に情けない話だ。俺はトキヤに何を求めてるんだろう。

七海は俺から視線を逸らさない。その透明な目に見つめられると、すべてを見透かされてしまうような気がする。……ああ、もしかしたら、七海にはすべてお見通しなのかもしれないけど。

「一ノ瀬さんの準備は、もうできていると思いますよ。……一十木くんはどうですか?」
七海の言葉はなんだか謎々みたいだった。言おうとしていることがよく分からない。それに、なんでトキヤの名前を出すんだよ。俺とトキヤの関係は終わったんだ、準備なんて今更何をするんだ。
「……準備って何?」
「一十木くんなら分かるでしょう?」
「いやわかんないよ」
「それは、一十木くんが分からないふりをしているだけです」
「なにそれ……」
「きっとそのうち分かります」

ふふふ、といたずらっぽく笑う七海は、学生時代と同じ清純さがあるようにも見えるし、あの時とは違う余裕を纏っているようにも見える。変わったのは俺とトキヤの関係だけじゃない。七海だって変わった。俺自身もたぶん自分で気づいてないだけで何かが変わってる。それならきっと――トキヤも、変わったんだろうか?





4月11日になった時、俺がいたのはレギュラーで出演してるバラエティー番組の撮影スタジオだった。日付が変わった瞬間にスタジオの照明がぱっと暗くなり、俺にスポットライトが当たる。

「ハッピーバースデー、音也くん!」

鳴り響くクラッカー音。俺を取り囲むいくつもの笑顔。スタッフたちが特大ケーキを俺の前に運んできてくれた。ああ、今日は俺の誕生日なんだ。
そう気付いた同時に、ポケットに入れていた携帯のバイブがひっきりなしに振動し始めた。慌てて確認すると、何十件もの誕生日お祝いメールが着ていた。先輩アイドル、番組で共演した芸人、グラドル、歌手、とにかく色んな人がメールをくれた。
次々と流れていく、始まったばかりの4月11日のメール履歴。その一番下までスクロールしたところで、俺の心臓が跳ね上がった。
液晶画面には「一ノ瀬トキヤ」の名前がはっきりと映し出されている。受信時間は0:00。同じ時間に送ってきた誰よりも、早い。

こういうマメさは相変わらずだなあと思いながら、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。こんなことで競うなんてくだらない、なんてぶつくさ言いながら、日付が変わるのを待ち構えて携帯を握り締めてたのかな、11日になった瞬間光の速さで送信ボタンを押すトキヤが容易に想像できて、俺の頬は知らない間に緩んでいた。
トキヤと直接会う機会は少なくなっていたけど、誕生日には必ず一番にメールをくれる。まるで「忘れてませんよ」とでも言うように。でも俺はその言葉を勘違いしてはいけないんだ。俺たちが恋人という関係にあったのは過去の話で、今は仕事上の仲間として誕生日を祝ってくれている。自惚れてもいい時期はとっくに過ぎた。

お祝いメールを送ってくれた人にそれぞれ返信しながらも、トキヤからのメールは最後まで開かない。まだ見ちゃ駄目だ。そう自分に言い聞かせないと、やらなきゃいけないことを全部すっぽかしてトキヤのメールに飛びついてしまいそうだった。
たくさんの人が俺にお祝いの言葉を投げかけてくれる中、俺はずっと上の空でトキヤのメールのことばかり考えていた。……たとえ俺がトキヤの特別でなくなったとしても、せめて誕生日のこの日だけは特別でありたいと思う。
ささやかな誕生日パーティーが終わると、楽屋に帰ってきて真っ先に携帯を取り出す。逸る心を抑えることなく、今まで封印してたメールを開いた。


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Date:4/11 0:00
From:一ノ瀬トキヤ
Sub:4月11日

本文:お久しぶりです。
今日は誕生日ですね。おめでとうございます。
あなたがもう25歳ということに驚きです。

テレビでの受け答えなどを見る限り、少しは年相応の落ち着きが身に着いたようですね。
私と出会ったばかりの頃のあなたに、今の姿を見せてあげたいくらいです。

また今度、時間があったら一緒に食事でもしましょう。
それでは体に気をつけて。
ハッピーバースデー。

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トキヤらしい、絵文字も何もないシンプルなメールだった。だけど素っ気ないわけじゃない。ちゃんと今でも俺のことを見て、俺のことを考えてくれている。
どうしてだろう。ケーキを作ったりプレゼントをくれた人達の優しさよりも、トキヤからのたった一通のメールの方が、もっとずっと嬉しくてたまらないんだ。……液晶画面が滲むくらい。

「トキヤ……」

喉が詰まる。うまく呼吸ができなくて、右手で心臓のあたりに触れた。どくどくと強く波打っている。
別れてから今まで、仕事に関する連絡や、「友人」としての他愛のないメールのやり取りはいくらでもしてきた。それでも、かつての「恋人」という立場は意識しないように努めていた。それが俺とトキヤの間にある暗黙の了解みたいなものだった。
――だけど、このメールは。
その透明な壁を、トキヤ自身が越えようとしているってことに、ならないだろうか?これもまた俺の自惚れかな?……その自惚れを、いつかの無邪気なあの頃みたいに信じてみてもいい?

宙に放り投げた問いは、誰からの答えも得ることができずに掻き消えた。今すぐにでも会いに行きたくてたまらないのに、あの別れの日に感じた手のひらの冷たさが、俺の衝動を引きとめる。俺がどれだけ会いたいと思っていたって、トキヤもそうだとは限らない。
もし6年前のあのままでいられたら、俺は昔みたいに後先構わずトキヤに飛びついていただろう。でも今の俺は、すべてを捨ててトキヤを選べない。トキヤと同じくらいに捨てられないものを抱えすぎてしまったから。

俺の指先は、メールの返信ではなく保護を選択していた。「メールを保護しますか?」のダイアログに「はい」と答える。今日俺の誕生日を祝ってくれた人たちのメールはいつか履歴から消えるけど、トキヤのメールはずっと残る。トキヤは、いつまで俺からの返信を待っててくれるかな。
差出人名の横についた鍵の記号は、なんだか俺たちの関係をそのまま表しているように思えた。





それからの一日は、行く先々でたくさんの人からお祝いの言葉を貰い、両手いっぱいのプレゼントを受け取った。今夜は盛大にお祝いしようよ!といういくつもの誘いには、「今日は先約があるから」と曖昧な笑顔で全部断ってしまった。そんなの真っ赤なウソだけど。先約があったら――その相手があいつだったら、どんなにいいか。誘ってくれた人の好意を無下にしてまで、俺は一人きりで過ごす誕生日を選んだ。優しい祝福に囲まれて虚しい思いをするよりも、最初から一人で寂しい方が楽だと思った。

マンションに着き、貰ったプレゼントの数々をテーブルの上に放り投げて、そのままソファーに腰掛ける。思いがけず重い溜息が出た。時計を見上げると10時を過ぎていた。俺の誕生日もあと2時間で終わる。
アロマや香水、小脇に抱えるくらいの大きさのティディベア、レトルトカレー詰め合わせ、やたら高級そうな財布やバッグ……テーブルの上に溢れ返るプレゼントの山。だけどこれもほんの一部で、持って帰れなかった分は事務所に預けてある。芸能界の関係者からだけでこれほどあるんだから、ファンからのプレゼントは尚更大量にあるんだろう。人気アイドルは誕生日ともなると大変なんだなあと他人事のように思う。

みんなに誕生日を祝ってもらうのは嬉しい。俺が生まれてきたことを祝福してくれる人がこんなにいるなんて。俺は世界一の幸せ者だと思う。だけど、おめでとうの言葉を受け取っても、真心の篭ったプレゼントを渡されても、どうしてかあの時ほどの嬉しさはこみ上げてこない。トキヤから送られたメールを見た時以上には。
誰にも会わずに一人で過ごしたいなんて、単なる強がりだ。本当は。ほんとうは。もう一緒にはいられないであろう、あの綺麗な人の隣にいたかった。
トキヤ。トキヤ。何度も名前を呼ぶ。返事はない。どうして今日この日、トキヤは俺の隣にいてくれないんだろう。……どうしても何も、俺が5年前にトキヤに別れを告げたからじゃないか。当たり前の事実にひどく寂しさを覚えた。

堂々巡りの思考回路を中断させ、ズボンのポケットを探る。一日中お祝いメールを受信し続けた携帯だが、さすがに10時を過ぎたら送ってくる人も少なくなった。やっと落ち着きを取り戻したメールの履歴を遡る。俺が保護したメールは、今日送られてきたトキヤからのこの一件だけだ。
何度も何度も見返す。無機質な言葉の羅列が、頭の中でトキヤの声を伴って紡がれていく。空っぽな心が瞬く間にあったかいもので満たされた。ああ、ハッピーバースデーって、大切な人に言われるとこんなに嬉しい言葉になるんだなあ。
嬉しくて、本当に嬉しくてたまらなくなって、それだけで充分なはずだった。でも俺は欲張りだから、メールだけでは飽き足らずにトキヤから直接言葉を受け取りたかった。あの優しい声で俺の生まれた日を祝福してほしい。生まれてきてよかったと心の底から思えるように。

「……会いたい、なあ……」

ぽつりと呟いた言葉は、誰にも聞こえることなく消えていく――はずだった。そう、突如として玄関のチャイムが鳴らされるまでは。
ピンポーン、と。聞き慣れた音が部屋に鳴り響く。こんな時間に誰だろう。郵便の心当たりはないし、誕生パーティーの誘いは全部断ってるし、夜10時過ぎに家を訪れる人なんて、部屋番号を間違えた酔っぱらい位しか思いつかない。
混乱してる間にもう一度鳴らされるかと思ったけど、しばらく待ってみてもチャイムはさっきの1回きりしか鳴らなかった。幻聴を疑い出すものの、インターホンに人影が映し出されているのを見て、やっぱりあのチャイムは聞き間違えじゃなかったんだと思い直す。誰だか知らないけど本当にいる。
「い、今出まーす!」
慌ててインターホンに駆け寄り、返事をする。目をしばたいてインターホンの画面に映る人影を確認するが、暗い上に画質があまりよくない。男の人だってことがかろうじて分かるくらい……
「……あれ?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。信じられない思いでインターホンを凝視してしまう。画面に映る誰かさんになんだか見覚えがある、否、ありすぎる。だって、

「――トキヤ!?」

画面の向こう側にいたのは、俺が今一番会いたいと思っていた人物だったからだ。

どうして。なんでトキヤがここに。
訳も分からないまま、俺は衝動に突き動かされるまま玄関へと駆け出していた。会いたいと思った次の瞬間に、その相手が自分から会いに来てくれるってどんな奇跡だろう。誕生日だから神様が出血大サービスしてくれたのかな。この偶然を引き合わせてくれたのが誰だとしても、俺はきっと土下座でもなんでもして感謝の意を表したい。

大急ぎでドアを開けると、黒縁眼鏡をかけたトキヤが、鼻の頭を少し赤くして立っていた。春先とはいえ夜はまだ冷え込む。ただでさえトキヤは薄着だから、見るからに寒そうだ。
その右手には、うちの近所にある24時間営業スーパーのビニール袋。何やら重そうなものが入っている。うちに来る途中で買ってきたんだろう。買い出しから帰ってきたトキヤを俺が出迎える――まるで同居生活をしていたあの頃みたいな光景に、俺は一瞬ここが6年前かと錯覚した。今にもトキヤが「ただいま」って言うんじゃないかって。それ程までにかつての日常は俺の中に染み込んでいた。

「え……ちょっとトキヤ、どうしたの」
「マネージャーさんに伺ったところ、今夜は家にいるということだったので……」
「だからってうちまでわざわざ!?」
「そうですけど……ドラマの撮影が終わったので来たんです。迷惑でしたか?」
「い、いや全然!トキヤなら大歓迎だし……って、それより早く中に上がって!すっげー寒そうだよ!」

なにがなんだか分からない。とりあえず俺はなけなしの常識をフル動員して目の前の「友人」を招き入れた。





「何を作ろうか迷ったのですが」

スーパーのビニール袋からジャガイモを取り出して、トキヤが俺の部屋のキッチンに立つ。なんだか懐かしい光景だ。
トキヤは俺のためにカレーを作りに来てくれたらしい。袋の中にはジャガイモの他に、ニンジン、玉葱、豚肉と、カレーに必要な材料が揃っていた。それにリンゴも。トキヤがカレーを作る時は、いつも隠し味としてリンゴを使っていた。6年経ってもカレーの作り方は変わらないみたいだ。

「音也、……おとや、」
「……あ、ごめん、何?」
懐かしさに思いを馳せていたら、トキヤが俺を呼んでいることに気付かなかった。トキヤは困ったように周りをきょろきょろ見回している。
「あの、エプロンはどこですか?」
「エプロン?エプロンは……うーんとね、ちょっと待ってて」
そういえばエプロンなんてこの6年間一度も使った覚えがない。普段から滅多に自炊をしない上、たまーに簡単な料理を作る時があっても、エプロンをつけるという選択肢は最初から存在していなかった。
慌ててクローゼットの中を探し回る。確かだいぶ前にマサからプレゼントされたエプロンがあったはずだ。ごそごそとクローゼットを漁り、やっと赤いエプロンを見つけ出した。ちょっと埃っぽいそれを見てトキヤは一瞬眉をしかめたけど、「ないよりはましでしょう」と了承してくれた。

トキヤに赤色はあまり似合わない。というより、いつも寒色系の服ばかり着てるから、鮮やかな赤は見慣れない。新鮮だなあと思いながら、再びキッチンに立ったトキヤの後ろ姿に視線を注ぐ。
てきぱきと袋の中の材料を取り出していくトキヤの後ろ姿は、本当にあの頃から何も変わっていない。立っている場所が違うだけで。
6年前まではここよりもっと安いマンションに二人で住んでいた。別れてからはお互い別々のマンションを借りて、俺は一人で暮らすには広すぎる部屋を持て余していた。ろくに自炊なんてしないから広いキッチンも宝の持ち腐れみたいなものだったけど、今はトキヤがそこにいる。何もかもがあの頃の再現だ。
――でも、変わったこともある。たとえば俺の心境とか。

「ねえトキヤ、俺も手伝うよ」

昔はトキヤの料理が出来上がるのを待つだけだった。トキヤが俺のために料理を作ってくれることは、昔の俺にとって当たり前だったからだ。その生活が続くことを微塵も疑っていなかった。
でも今は、それが当たり前じゃないことを知っている。仕事から帰ってきて、家事を全部一人でこなすことがどれだけ大変かってことも。だから俺は居ても立ってもいられなくなって、トキヤの隣に立った。
トキヤはニンジンの皮をピーラーで剥いているところだった。俺には目もくれない。

「いいんです音也、勝手に家に上がり込んで料理を作りにきたのは私なんですから……あなたは出来上がるのを待っていてください」
「そんなこと言わずにさ。俺が手伝いたいんだ」
「でも……」
「いいからいいから。これ剥けばいいの?」

俺は半ば強引にトキヤの手からピーラーをひったくった。あまり慣れてはいないけど、この程度ならできそうだ。自炊しないとはいえ、ひと通りの調理道具は揃えていてよかった。
トキヤはぽかんと口を開けて俺とニンジンを交互に見比べた。俺が手伝いを申し出たことがかなり驚きらしい。しばらくそうしていたトキヤは、やがて口の端を少し持ち上げて「では、お願いします」と言った。その声がとても明るかったから、俺は思わず手を止めてしまう。隣に立つトキヤは柔らかく微笑んでいた。
トキヤのそんな表情を見たのは久しぶりで――俺は、胸を鷲掴みにされたような感覚になった。嬉しいのか、悲しいのか、切ないのか、自分でも分からない。
俺のそんな胸の内など知らないのか、トキヤは手を休めない。俺もぎこちない手つきでピーラーを動かす。

「それにしても、自分から手伝いたいと申し出るとは殊勝な心掛けですね。どんな風の吹き回しですか?」
「トキヤに作ってもらって、それをただ食べるだけだった昔とは違うんだって。ほら、メールでも言ってただろ、年相応の落ち着きを身につけたとかなんとか」
「落ち着きとは違う気もしますが……確かに、成長はしていますね」

まるで学校の先生みたいなことを言う。俺だってもう、今日で25になるのに。あの頃より身長は随分伸びて、考え方も少しは大人に近付いたんじゃないかって思う。だけどトキヤの中ではいつまでたっても俺は15歳の子供のままなんだろうか。それが少し、悔しい。

「あのさ、トキヤ」
「何ですか」
「トキヤはなんで俺のためにこんな優しくしてくれるの?」
「……随分と直球ですね」
「いいから教えてよ」
「あなたはまだそういう部分が子供だというんです。……少しは察しなさい」

察しろって何だよ。昔の俺はトキヤのそういう優しさをそのまま受け取って、自分の都合の良いように解釈して突っ走って、一方的に好きを押し付けてばかりだったんだ。そんな独り善がりの恋愛だったから、俺もトキヤも駄目になりそうになって――本当に駄目になる前に、別れたんだ。
もうあんなことは繰り返したくない。思い出したくもない。だけど……だけどなんで、お前はそんな綺麗に笑ってくれるんだよ、トキヤ。
そんな綺麗な笑い方をされたら、俺はまた都合よく勘違いしてしまうじゃないか。もう一度新しく二人の思い出を作っていけるのかもって。一人で生きる寂しさを、二人で生きる喜びに変えていけるんじゃないかって。

耐え切れず、俺はトキヤを抱き締めていた。友情以外の感情で触れることは自分に禁じたはずなのに。
トキヤ、トキヤ、トキヤ。何度もその名前を呼んだ。好きって言ったら何かが壊れてしまう気がして、名前だけを呼んだ。俺の腕の中でトキヤは身動きひとつしなかった。抵抗されることはない代わりに、俺の背中に腕が回されることもない。
また一方的な感情の押し付けになってしまうかもしれない。だけど止められなかった。

「トキヤ」
肩越しに囁く。トキヤに俺の表情が見えていなくてよかった。
「俺、あれからずっと考えてたんだ。俺たちが離れなくちゃいけない理由は何なんだろうって。きっと、俺達以外何も見えなくなるのが怖かったんだ。あの時は、目の前の幸せばかり求めて……本当の夢すらも見失いかけてたから」
だから俺達は離れた。もう一度、新しく夢を追いかけるために。結果としてそれが正解だったのか、もっと正しい道があったのかは分からない。でも、あのまま二人で一緒にいたら、きっと今ここに俺はいなかった。トキヤだってそうだ。寄り添い合って慰め合うだけの温い関係は、あの時の俺たちに停滞しかもたらさなかった。

「トキヤと離れてから、俺は前以上にがむしゃらに頑張ったよ。この世界で生きてく覚悟をして、いろんな壁にぶつかりながら今までやってきた。そうしてる間にたくさんの人に認められるようになったし、俺の中で自信もついた。一人で生きていけるくらいに」
「……知っていますよ」
トキヤが俺の腕の中で小さく呟いた。俺がトキヤの躍進を一歩離れた場所から見ていたように、トキヤも俺を遠くで見ていたんだ。トキヤの声はそんな確信を俺に抱かせるには十分だった。
離れたからこそ見える景色があった。一人じゃなきゃ手に入れられない舞台があった。俺たちは違う道を歩みながら、同じものを目指していた。
追いかけてた夢は、ただの理想じゃなくなった。少しは夢に触れてるのかもしれないし、まだまだ指先だって届いてないのかもしれない。だけど、手の届く場所に確かにある。

「走り続けてきた時には気にもしなかったけど、ふっと立ち止まった瞬間に思い知ったよ。やっぱり何かが足りないんだ。俺は一人で走りながら、隣にいてくれる誰かを必要としてた」
ひとつひとつ、言葉を重ねていく。俺の中に生まれた感情の答え合わせをしていくように。……ああ、七海の言った通りだ。本当はずっと前から分かっていたことじゃないか。
あの頃の俺は、トキヤがいなくちゃ生きていけないなんて思ってた。びっくりするほど浅はかな考えだ。「人は一人では生きていけない」と語る資格は、一人で生きていける力を持った人にしかない。それと同じように、俺だってトキヤがいなくても生きていけるようにならなくちゃ駄目だった。
「俺はトキヤがいなくても生きていける。……でも、トキヤが隣にいてくれるなら、俺が生きる道はもっと楽しくなる。他の誰でもない。一緒に生きるならトキヤがいい」
そして今、俺は改めて、あの頃と同じ言葉を、あの頃とは違う気持ちで言おう。

「ねえトキヤ。俺と一緒に、生きてくれる?」

これが俺の答えであり、トキヤに対する問いだった。この言葉を言うために6年も時間がかかってしまったけど、それだけの時間を必要とする答えだったと思いたい。
万感の想いを込めた言葉は、確かにトキヤへと届いたみたいだ。顔を上げて、少し恥ずかしそうにしながらトキヤは口を尖らせる。
「別れを言うのも告白するのもすべて先に言ってしまうなんて、あなたは本当に欲張りですね。……私の気持ちは、とっくの昔に決まっているのに」
そう言って、俺の腕からするりと抜け出すと、トキヤはソファーの上に置いていたバッグの中から一抱えほどある包みを取り出した。丁寧に赤いリボンでラッピングされたそれは、まごうことなき誕生日プレゼントだ。あなたのせいで渡すタイミングを見失ってしまったじゃないですか、と突き付けられる。

「……貰っていいの?」
「わざわざ訊かないでください。どうするのかを選ぶのはあなたなんですから」
トキヤはいつになく早口で、それが照れ隠しなのだと分かる。言われるがままに包みを開けると、中には2人分の食器があった。カレーを盛り付けるのに最適なサイズの、それ。もちろんデザインはお揃いだ。
目を見開いてその皿を凝視する。……6年前、2人で過ごした部屋を離れたあの日、使い古した揃いの皿は思い出ごと捨ててしまった。もう俺たちには必要ないと思ったからだ。だけど今、ここに一組の皿がある。まるで今日この夜に使われることを待っていたかのようにまっさらな色で。
俺は、次から次へと提示される情報を一つずつ繋ぎ合わせていった。トキヤが、俺へのプレゼントに食器を贈った意味。――そんなの、ひとつしかないじゃないか。

「トキヤ、ほんとにこれ、貰っていいの?」
「だから訊くなと言っているでしょう!あなたに貰ってほしいから渡したんですよ!」
「じゃ、ありがたく受け取るね。……そっかあ、トキヤ、俺に告白先越されて悔しいんだあ、へへへ」
「は!?ちょっと、何勝手に解釈してるんですか違いますよ」
「えー違わないじゃん、これからまた毎日一緒にごはんを食べようって、そういうことでしょ?」

さっきから口元が緩みまくって仕方ない。へらへらと幸せな笑みが止まらない俺とは対照的に、トキヤは顔を真っ赤にして「違わないけど違います!」と矛盾したことを叫び散らしている。ほんと可愛いなあ、嬉しいなあ、……幸せ、だなあ。
せっかくプレゼントしてくれたこの食器、今度は染みがついても端が欠けても使い倒そう。何年でも何十年でも、最後の最後まで。俺がトキヤを愛するように、2人でこの食器を愛そう。この皿を使って一緒にごはんを食べるという、俺たちだけの愛し方でさ。
まずはその最初の一歩として、トキヤが作るカレーをよそわないとね。さっそく中断していたカレー作りを再開しよう。そうして訪れる2人の食卓には、きっと今まで以上の幸福が満ち満ちているはずだから。





2013/04/11


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