いつか月の裏側で


砂月はつめたい静寂の中にひっそりと佇んでいました。もうどのくらいそうしていたか分かりません。時間も空間も、この静けさの中においては何の意味もないように思われました。
自分はここでゆるやかに消えていくのだろうか、消えた先に魂は残るのだろうか。彼はそんなことを考えながら、徐々に心を溶かして行きました。

するとどこかで、微かに汽笛のような音が聞こえました。しばらくその音に耳を傾けていますと、ごとごとごとごと、規則的な音が近付いているのが分かりました。
あれは列車の走る音だろうかと思考を巡らせていると、いきなり目蓋の裏側がぱっと明るくなりました。今までずっと黒々とした闇の中にいたのですから、突然の変化に彼は戸惑いました。
驚きと共にぱちりと眼を開けますと、そこにはいちめんの天の野原が広がっていました。砂月はもう、あの銀河の果ての鉄道線路を走る列車の中を、窓から外を見ながら座っていたのです。

透き通った水晶の中に、サファイアやトパースを惜しげも無く散りばめたような眩い光が輝き、光のあたり方によって色や瞬きを変えながらきらきらしていました。
空全体は青白くぼうっと光り、ところどころ赤や橙の明るい色を放っているのもあれば、静かに紫色のきらめきを灯す星もありました。青や緑の微光は柔らかく空を照らします。草のように見えるのはすべて星の通った軌跡でしょうか。
その景色があんまり美しいものですから、砂月はすっかり心を奪われてしまいました。
人の想像力をあらん限り振り絞っても、こんなに綺麗な世界は生み出せないでしょう。彼はたった今まで暗い闇の中にいたことも忘れて、その美しさを記憶に焼き付けようと眼を凝らしました。

「ああ、本当にきれいだねえ」

ふと、横から感嘆の声が聞こえたので、砂月は思わず眼をそちらに向けました。ちょうど向かい側の、青いビロードを張った腰掛けに一人の少年が座っていました。目が合うと少年は目を細めてにっこり笑いました。その笑い方は誰かに似ているようで、だけど誰にも似ていないようにも思えます。
砂月はその少年がHAYATOという名であることを知っていました。記憶の中にあるよりも随分と幼い容貌でしたが、見間違えるはずがありません。もしかして、と思い、少年の瞳の中をじっと覗きこみました。するとやはり、その瞳には幼い自分が映っていたのです。

「HAYATO」
「なあに、さっちゃん」
「……お前も、この列車に乗ったんだな」
「うん。迎えが来たんだよ」

HAYATOはこともなげに笑いましたが、その目尻は少しだけ寂しそうでした。たぶん自分も同じような表情をしているのだろう、と砂月は胸がぎゅっと引き絞られるような感覚を覚えました。ふたりは同じ時、同じ場所、同じ感情を共有しているのです。
たとえどんなに覚悟ができていようとも、孤独というものは寂しくて切ないものでした。ずっとふたりで生きてきた道が急に閉ざされてしまったのなら尚更です。ですから、砂月はこの銀河の旅がひとりきりではないことに少なからず安堵しました。

がたんごとん、がたんごとん、列車は規則正しい音を立てながら天の野原を進んでいきます。銀河を走る線路はどこまでも続いていて、空の果てなど無いかのようでした。けれど、列車はいつか止まるでしょう。ふたりは何の目的もなくこの列車に乗っているわけではないのです。

「俺達はどこへ行くんだ?」

頭の中に浮かんだ疑問を、向かい側の席に座る少年へ投げかけました。この旅に終わりがあることは知っていましたが、しかしそれがどこで終わるのかは見当もつかなかったのです。
するとHAYATOは、その問いが来るのが最初から分かっていたかのように微笑み、どこから取り出したのか小さな紙切れを指先でつまみました。それは切符のようでした。

「行き先なら、ほら、ここに書いてあるよ」

見ると、うすく銀色に光る紙に、白く細い字で「月の裏側ゆき」と書いてありました。
HAYATOがそれをひらひらと指の間で揺らしながら「さっちゃんも持っているはずだよ」と言うので、砂月は訝りながらも懐の中を探りました。するとどうでしょう。白いワイシャツの胸ポケットから、HAYATOが持っているのと同じ切符が出てきたのです。
いつからそれが入れられていたのか砂月にはまったく身に覚えがありませんでしたが、確かに切符です。行き先はやはり「月の裏側ゆき」と書かれてあります。向かう場所はふたりとも同じなのです。ふたりがひとりになって、またふたりになる。そのための道筋を銀河鉄道は描いているのでした。

「月の裏側、か」

砂月は独り言を漏らしましたが、それきり何も言えなくなって、また窓の向こうへと視線を移しました。
いつの間にか天の野原を過ぎ、列車は広い河の流れの上を走っていました。銀河の水はしずかに、声もなく形もなく流れています。
河の向こう側に、白い大きな十字架が見えました。眩しい白い光が列車の窓に差し込んできて、ふたりの頬を照らしました。金色の円光を頂いて佇む北十字は、とても尊いもののように思えました。すべての祈りを許すかのように光は降り注ぎます。

その光に包まれているうちに、砂月は自分の心が記憶と共に洗い流されていくのを感じました。懐かしい顔や声が次々に浮かんでは消え、消えては浮かんでいきます。守ろうと決めた大切な命、幸せになってほしいと願ったかけがえのない心、そのすべてを置き去りにして、自分は月の裏側に行くのです。

砂月はなんだか泣きたいような叫びたいような気持ちになって、向かい側に座るHAYATOを見やりました。HAYATOは頬を冷たい涙で濡らしながら、じっと北十字の白い光を見つめています。その横顔はとても綺麗で、水晶のように透き通っていました。
砂月は虚を突かれたように唇を引き結びました。そうだ、この旅は自分ひとりのものではないのだ。砂月は改めてその事実に気付きました。
HAYATOはまだ北十字に視線を注いだまま、ぽつりと呟きました。

「……僕は、自惚れてもいいのかな?」

何ひとつ明確な言葉は含まれていませんでしたが、砂月はそれだけで彼の言いたいことのすべてを理解しました。彼は遥か遠くに想いを馳せているのです。ここではないどこか、今となっては手の届かない大切な場所に。それは砂月にとっても同じでした。
HAYATOの望む答えを砂月は持っていません。それでも、同じ切なさを共有しているからこそ分かることだってあるのです。

「さあな。俺たちにはもう、あいつらの心は分からない。でも――信じることは、自由だろ」
「……うん、そうだね」

そうして、HAYATOはようやく窓の外を見るのをやめて、砂月に目を向けました。乾いた涙の痕が不釣り合いなほど、彼は優しく優しく微笑んでいました。
砂月はその涙の理由も、微笑みの理由も、痛いくらいに知っていました。

ふたりは元々、とても希薄な存在でした。本来ならいるはずのないもう一人として、偶然に心を宿しただけに過ぎません。ですから、じきに消えなくてはならないということも分かっていました。目覚めた時から既に終わりの階段を上っているのと同じ事でした。誰にも気付かれない場所でひっそりと息をして、いつかはその微かな呼吸さえも柔らかに失われていくのだと、当たり前のように考えていたのです。
忘れてほしいという言葉は嘘でした。本当は忘れてほしくない、永久に消えない傷として残っていたい。消えるべき宿命を背負いながら、叶わぬ願いに身を焦がしていました。

けれど、ふたりは心のずっとずっと奥深くに優しい光を見つけました。月の裏側に光は届きませんが、自らの中に光を見出だすことはできるのです。心の居場所はこんなところにありました。

『これから君が出逢うその全て 輝きに溢れますように』

なんて優しい言葉でしょう。
なんてあたたかい言葉でしょう。

彼らにとって、もうひとりの心を抱えながら生きる日々は、とても「素敵」と表現できるものではなかったはずです。喜びや嬉しさ以上に、悲しみと痛みを伴う記憶として刻まれているに違いありません。けれど彼らはその日々を、素敵な出来事だと、忘れるはずがないと言ってくれました。
幸せになってほしいと願ったふたりは、逆に彼らに幸せを願われていたのです。

列車は汽笛の音を上げながら、銀河の果てを目指して進みます。月の裏側はもうすぐそこにまで迫っていました。
列車を降りた先に何が待っているのかは分かりませんが、きっとあの天の野原よりも、北十字の白い光よりも美しい世界が迎えてくれるのだろうと思いました。予感ではなく確信です。大切な人が幸せを願ってくれた、ただその事実を知っただけで、閉じられるはずだった未来は無限の広がりと共にふたりを包み込んでくれるのです。

「僕たち、世界で一番の幸せ者だねえ」
「……ああ」

ふたりは笑いました。決して悲観的ではなく、どんな銀河の宝石よりも輝きに満ち溢れた笑みでした。





2013/01/27

「これから君が出逢うその全て 輝きに溢れますように」
Still Still Still/四ノ宮那月&一ノ瀬トキヤ より


[ index > top > menu ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -