もういちど恋をしよう。 2


綺麗さっぱり平らげられた皿がテーブルを埋め尽くし、安いビールの缶が数本ビニール袋の中に投げ込まれ、皿を脇に寄せて無理やり作った僅かなスペースには二人分のワイングラスが置いてある。客人用にとトキヤが取っておいた貰い物の高級ワインはこの時を待っていたとばかりに封を切られ、透き通るような美しい赤をグラスに映し出す。

『よかったら、これから私の家で食事でも』

無意識の内に口を突いて出てきたその言葉通りに、トキヤは砂月を自宅へ招き、どういうわけか夕食を共にしてワイングラスを傾けているのだった。
何故このようなことになっているのかトキヤ自身理解できていない。今はっきりとしているのは、砂月は欠片の拒絶反応も見せず素直にトキヤの申し出を受け入れたということだ。
誘われるまま砂月はトキヤの後をついていき、一緒にスーパーで買い出しをして家に上がった。それどころか夕食の準備の手伝いまでしてくれた。双子の兄弟である那月の例があるため、彼の料理には一抹の不安を覚えていたのだが、むしろ逆だった。慣れた手つきで包丁を扱う姿は頼もしくすらあった。
二人で作った料理を食べつつ仕事の話や昔話に花を咲かせ、そのまま雪崩れ込むようにアルコールが入った。そして今は、二人で同じソファーに座り、ゆったりと赤ワインの味を楽しんでいる最中だ。

学生時代はろくに会話もしていないような人と、何故今になって酒を酌み交わしているのだろう。しかも、かつての報われない片想いの相手ときた。これは偶然の産物といっていいのか、それとも誰かの故意か。自ら申し出たはずのこの展開について行けていないのは他でもないトキヤ自身だった。
隣に座る砂月に目をやると、彼は微かに酔っているようだった。あれだけの量のアルコールを摂取してなおこの程度の酔いで済んでいるのだから、彼は相当強いのだろう。一方でトキヤは僅か数杯しか飲んでいないのに早くもほろ酔い状態だった。理解しがたいこの状況と戸惑いを誤魔化すために酔おうとしている部分は少なからずある。都合の悪いことが起こっても、「酔っていたから」という免罪符が使えるからだ。酔っているのは確かだが、それと同時にはっきりと今の自分を保っている部分もあった。

「あ、チビじゃねえか」
テレビに視線を向けていた砂月が小さく声を上げた。つられてトキヤもテレビを見る。翔がイメージキャラクターを務める軽自動車のCMが流れているところだった。翔はバラエティ番組に出演することが多いが、それに負けず劣らずCMの仕事もある。あの思い切りの良い喋りが視聴者の耳に印象深く残るらしい。
「ここ最近、翔はCMに引っ張りだこですね」
同期の仲間達の活躍を見るのは嬉しい。トキヤは頬を緩めてテレビを見つめる。卒業してからもう6年経つが、皆それぞれに自分の才能を開花させていった。ある者は演技派アイドルとして、ある者はバラエティに力を入れ、ある者は歌一筋で芸能界を生きている。歩む道は異なれど、かつてはアイドルデビューを目指して共に切磋琢磨した間柄だ。トキヤの隣に座る砂月もまた、作曲家という道を選んだ一人だった。

「お前だって、化粧品のCMに出てるだろ」
「おや、見たことがあるんですか?」
「テレビつけてれば一日に一回は必ず見るぜ。艶めく肌を手に入れろとか何とか」
「……そのキャッチコピー、改めて言われると結構恥ずかしいものですね……」
「今更言うなよ、スポンサーに怒られんぞ」

他愛もない会話を繰り返しては、ワインを注ぎ合って笑った。6年前までは考えられないような光景だ。いや、今でも俄に信じがたいのだが、そんな戸惑いも楽しさの中に消えていった。
こういうやり取りを、学生時代にもできたらよかったのに。そうすればきっと、若気の至りのような片想いに悩まされることもなく、普通に友人として接することができただろう。後悔が僅かに心に染みを作る。
砂月がこんなふうに軽口を叩き合える人だとは思わなかった。昔はもっと近寄りがたくて、常に人を寄せ付けない雰囲気を発していたのだが、年齢を重ねるうちに柔らかくなった印象を受ける。彼も変わったのだ。そして自分も。もうあの時のように、彼の一挙手一投足を気にかけるような若い心はない。今はただ、過ぎ去った恋心を懐かしむ気持ちだけが残っている。

四ノ宮砂月に関するすべては何もかも過去に置いてきた。ここにいるのは、完全に恋心を捨てた自分と、何も知らない彼だけだ。今からなら、理想的な友人関係が作れるかもしれない。かつて出来なかったことを、少しずつ取り戻していく。かつて夢見たような恋人同士ではなく、対等な友人として。

「……砂月さん。今更だから言えますけど、私はずっとあなたに隠し事をしていました」

なんでもないことのように話を切り出す。トキヤは口で息を吸った。今なら言えるかもしれない。今なら、許されるかもしれない。なにせもう「今更」なのだ。自分のこの気持ちも、そろそろ時効を迎えて良い頃のはずだ。
トキヤの言葉を受けて、砂月はテレビから視線を外した。その目は先の言葉を促している。

「隠し事?」
「ええ、隠し事です。これを言ったらあなたは驚くでしょうね。私を軽蔑するかもしれない。気味悪がってしまうかも」
「何だそれ」
「何だと思います?」
「はぐらかすなよ」
「私のことを嫌わないでいてくれたら、教えてあげます」
「……嫌うわけねえだろ」

砂月が少し目の色を変えた。数年ぶりに会ったばかりだというのに、まるでトキヤの全てを受け入れているかのような目だ。その様子がおかしくて、トキヤは微かに笑った。もう少しもったいぶってみようか。
「本当ですか?自分で言うのも何ですが、相当気持ち悪いですよ?ドン引きものです」
「聞いてみなきゃ分からないだろうが。……それに、『今更』なんだろ」
思惑通りに焦れてくれるのがとても楽しい。かつての彼ならきっと拒絶したであろうその告白は、きっと今なら笑って受け流してくれるはずだと信じていた。
「そうですね。本当に今更だ」
ならば自分も笑って過去を語ろう。胸が引き千切られるほどに痛んだ記憶すら、あんなこともありましたねと軽く思えるように。

「砂月さん。昔の私は、あなたのことが好きだったんです」

まるで羽根のように軽い口調で、トキヤは一世一代の告白をした。
砂月はというと、案の定あまり驚いていなかった。僅かに眉をぴくりと動かした程度で、少しの間の後に「へえ」と他人事のような相槌を打つだけだ。その素っ気ない態度は先程から何一つ変わらない。変わらずにいてくれる。トキヤはその反応に馬鹿らしいほど安堵してしまった。ああ、やはり彼はこういう人だった。別の誰かなら「気持ち悪い」と吐き捨てるようなことも、彼は平然と受け止めてくれる。何ということはないと言うように。それがとても、嬉しい。

「その『昔』っていうのは、学園にいた頃か」
「ええ、もう大分前になりますね。なので時効だろうと思って。今は完全に吹っ切れてますから安心してください。酔いに任せてあなたを襲ったりなんかは絶対にしませんから」
冗談交じりに茶化すが、吹っ切れたと言いながら図々しく保険をかけのは我ながら卑怯だと内心自嘲した。自分を守るためのレトリックばかり身に着いてしまった。
それでも彼はまた同じように受け入れてくれるはずだと、根拠のない確信を胸に砂月を見る。すると砂月はおもむろにテレビの電源を切って、しかしその横顔は真っ暗になったテレビ画面を見続けていた。

「別に、襲ってくれたって構わないぜ?」
ぽつりと呟かれた一言は、嫌に静かだった。トキヤはこれも冗談返しの一種だろうと言い聞かせる。それにしてもたちの悪い冗談だ。数年前のトキヤならば真に受けていたに違いない。
「そういう台詞は女性に言ってあげてください。あなたに好意を抱いている女性はいくらでもいるでしょうから」
軽口のつもりで言った言葉は、徒に砂月を不機嫌にさせるだけだった。その眉間の皺がぐっと中央に寄る。

「言っとくけどな、トキヤ。俺もお前に隠してたことがある」
「……え?」
砂月はゆっくりと立ち上がった。ソファーに座るトキヤを見下ろす形になる。その瞳はどこか冷たかった。まさか軽蔑されたのだろうかとトキヤは急に不安になった。いくら過去のこととはいえ、あのカミングアウトは流石に引かれたのか。
不安に掻き立てられるトキヤの頬に、砂月は静かに右手を伸ばす。すり、と頬を撫ぜた。トキヤは呆然とされるがままになっている。

「俺だって、お前のことが好きだった」

時間が止まったかのように思えた。いつまでも頭の中で同じフレーズが繰り返される。
好きだった?お前のことが?俺だって?
一体何のことだ。まったくわけがわからない。今までの流れと噛み合わないその言葉が、ふわふわと宙に浮いて空中分解していく。言葉が意味を成さない。
トキヤが驚きで硬直状態になっている間にも、砂月は何を考えているのか分からない瞳を微かに揺らして顔を寄せる。距離が近づいていく。互いに目を閉じることはなく、ふたつの双眸がぴったりと交わって離れない。ああ、彼はこんなに綺麗な目をしていたのかと、今更――本当に今更、思った。
そうしてやっと、トキヤは砂月の言葉の意味を理解するに至る。彼と自分は、ずっとずっと昔から両想いだったのだと。

「――ふっざけんじゃありませんよ!!」

唇が触れ合おうとしたぎりぎりの所で、トキヤの右手は唸りを上げて砂月の頬に叩きつけられた。静かな部屋の中に一際大きな音が鳴り響く。ドラマの中でよく出てくるような鮮やかなビンタだった。渾身の一撃は見事に砂月の左頬へと吸い込まれ、その体は衝撃でぐらりと傾いた。テーブルの上のワイングラスが揺れる。中に入っていた赤ワインが僅かに零れ、カーペットに小さな染みを作った。
「何ですか、何なんですか、一体どういうことですか!?あなたも私を好きだった?ふざけるのも大概にしてください!」
トキヤは肩を怒らせて叫び散らした。やり場のない感情が目的地を見失って爆発してしまったのだ。
その一方で砂月はひどく冷静だった。その気になれば避けることなど容易だっただろう。だが彼は甘んじてトキヤの平手打ちを受けた。そうしなければならないと本能で察知したからだった。じんじんと痛む頬を押さえ、砂月はわななくトキヤを静かに見つめる。

「……ふざけてるわけじゃない。俺は事実を言ったまでだ」

淡々と、まるで今日の朝食のメニューを告げるように彼は言う。冗談半分で若気の至りを告白したら、予想とはまるで違う答えが返ってきた。とんでもない意趣返しだ。すっかり諦めきったはずの過去を覆されて、トキヤが冷静でいられるはずがなかった。

「だって……だって、学生時代は好きだなんて一言も言ってくれなかったじゃないですか!いえ、それどころかまともに会話したことすらないでしょう私達!」
「最初から言う気なかったからな。見てるだけで割と満足だった」
「『割と』って何ですか『割と』って!そんな軽々しく過去を語らないでください!」

鼻の奥がつんと痛む。瞼の裏が徐々に熱を持ってくる。この状態が続けば自分がどんな顔になるのかを、トキヤは嫌になるほど知っていた。それでも昂ぶる感情は留まることを知らない。なにせ、丸々6年以上ひた隠しにしてきた想いなのだ。長きに渡って押さえ付けられたものが解き放たれた時の瞬間最大風速は、この世の全てを凌駕する。

「私が、あなたを忘れるのに何年かけたと思って……、」

そう言ったきり、トキヤは呼吸と共に言葉の排出もやめた。何年もかけて自分の感情を削ぎ落としていくあの感覚を思い出す。心が引き千切られるような思いをしてまで諦めた。彼と自分は決して交わることのない存在だったのだと言い訳をしながら。それが、どういうことだ。本当は諦める必要などなかったというのか。神経を擦り減らしながら全てを忘れようとした努力は無駄だったというのか。
……信じられない。真っ先に込み上げてきたのは、両想いで嬉しいなどという浮ついた乙女心などではなく、彼を忘れるために費やしてきた時間と努力が無駄だったことへの怒りと虚しさだ。

この怒りが全くの見当違いだということは自分でも分かっている。自分は一方的に彼を好きになって、その想いが叶わないと知った途端すぐに諦めることを選んだだけなのだ。何もかも自分勝手に決めたことに過ぎない。好きだと告げてくれなかった相手を責めるのはお門違いだ。なぜなら自分だって彼に想いを告げなかった。言葉にしなければ伝わるものも伝わらない。
伝えようとする努力を惜しんで自己完結してしまった罰が、今更になって降り掛かってきたという、たったそれだけのこと。……馬鹿らしすぎて涙が出てくる。

深く深く溜息をつくトキヤの前で、砂月が小さく肩を竦めた。予想はしていたがここまで落ち込まれるとは、というように。
「なあトキヤ、俺は今でも忘れてないぜ?」
「は?」
トキヤが顔を上げた。半泣きの表情が僅かに強張る。これ以上追い打ちを掛けるのは流石に可哀想かとも考えたが、砂月はいっそこの際だという思い切りの良さを優先した。

「お前は完全に吹っ切れたらしいが、生憎と俺はそこまで潔くない。卒業した後もズルズル引き摺りまくって今このザマだ。お前と違って俺は今でもお前を想ってる」
「な……何を」
「そうだな、正確に言うなら『好きだった』じゃなくて『今も好きでいる』だ。過去形というより、現在進行形か」
「いや……いやいやいやいや、流石に冗談でしょう」
「……この目を見ても冗談って言えるのか?」

ぐいっと顔を近付けて、強引に視線を合わせた。ここまでされてなお冗談だと笑える人間がどこにいるだろう。
数年掛けて恋心を切り捨てたトキヤと、今なお引きずり続ける砂月。どちらが被害者かと考えるのも無駄だ。自分の想いを伝えようとしなかったのはお互い様なのだから。

「……分かりました、認めましょう。あなたが私を好きだということは嫌になるほど理解しました。しかし残念ですが、私はとっくの昔にあなたを諦めました。もうあなたに対して恋愛感情を抱くことはありません」
「そんなこと、試してみなきゃ分からない」

懲りずに近付く唇に、また平手打ちをお見舞いしてあげようかとも思ったが、トキヤは振り下ろそうとした右手をそのまま砂月の背中へと回した。
追いかけることしかできなかった背中が、今はこの手の中にある。思った以上に温かかった。彼は果てしなく遠い存在などではなかった。呼吸をして、ものを食べて、くだらないことで笑ったり、時には泣いたりもするはずだ。どこにでもいるような普通の青年だった。何故あんなに遠く感じていたのだろう。

このまま流されてみるのもいいかもしれない。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
甘い恋人同士には到底なれないだろうし、対等な友人同士となることも、今となっては望めない。その上で、もう一度新しい関係を築ける可能性を。過去の気持ちを知ってしまった以上、まったくのゼロから始めることはできないが、ゼロと1の中間からのスタートくらいなら許されるはずだ。

ふたりの唇は静かに重なった。アルコールの匂いが鼻を掠める。初めは優しく啄むように、そして徐々に強く深くなっていく。「ん……、」
「ふ、ぁ……」
おずおずと舌を伸ばせば途端に吸い付かれ、半開きになった口から唾液が零れる。その一滴すら逃さないとばかりに砂月は舌で唾液を舐め取った。
絡み合う舌先から熱が全身に広がっていくのが分かる。彼の舌はこんなにも熱いのか。互いの唾液が交じり合って、口内にあるのがどちらのものなのかも分からない。鼓膜を震わせる音が興奮を掻き立てていった。
くちゅ、と音を立てて舌が離れる。ぼうっと霞む視界の端で、その先に繋がる銀色の糸を捉えた。はぁはぁと肩で息をするトキヤを見て砂月は満足そうに笑った。

「ん、はっ……、」
「……どうだ、思い出したか?お前が俺を好きだった頃の気持ちってやつを」
「なんですかそれ……この程度のキスだけで思い出せるわけないでしょう」
「よく言う。あんな物欲しそうな顔してたくせに」

砂月の目には自分がどのように映っているのだろう。考えたくもない。今はただ、荒れ狂う波の奔流に身を任せていたい。
「――だから、」
熱を含んだ吐息と共に、言葉を紡ぐ。いっそ全て流されてしまえ。

「思い出させてください。あなたが好きだというこの気持ちを、あなた自身の手で。……これだけじゃ足りないんです」

誘うように口元を緩めて微笑めば、砂月は目を見開いて固まった。だがそれも僅かのことで、次の瞬間には呼吸を整える暇すら与えずに砂月はトキヤの唇に噛み付いていた。先程とは打って変わって乱暴なキスだった。吸うというよりも貪ると表現した方が近い。まるで獣だ。
自分は抵抗も許されないまま、この獣に芯まで喰らい尽くされてしまうのだろう。ひた隠しにしてきた感情も悉く暴かれ、はしたない姿をもすべて曝け出されて。
それも悪くないと思える程度には、トキヤの頭は麻痺していた。熱すぎるその温度が何もかもを狂わせる。絡み合う熱と熱をもっと感じていようと、トキヤは静かに目を閉じた。


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