パティスリー・アンドロメダ 5


【9】04/08 20:16 パティスリー・アンドロメダ


例年以上の寒さを記録した冬が通り過ぎ、季節は春。
パティスリー・アンドロメダは春限定のスイーツを各種取り揃え、桜の開花に心躍らせるオリオン通りの人々に春の味覚を届けていた。
そんな中、閉店後の店を訪れる客が一人。

「……こんにちは」
「あっ、一ノ瀬さん!お待ちしてましたよ〜!」

おずおずと店の扉を開けた彼――一ノ瀬トキヤを、接客担当の那月は満面の笑顔で出迎えた。
するとキッチンの奥から砂月が顔を出す。「今日はいつもより遅いな」と低い声で言ったきり、砂月はまた扉の向こうに姿を消した。これから出すケーキの用意をしに行ったのだろう。

那月に促されるままトキヤは椅子に座る。
日中は多くの買い物客が訪れる店内だが、閉店時間を過ぎた今は当然ながら他の客はおらず、静かな空気が流れていた。
しばらく待っていると、那月が小さなティーカップを手にトキヤのテーブルまで来た。
「はい、アールグレイです」
慣れた手つきでトキヤの前にティーカップが置かれる。中には紅茶がたっぷりと注がれ、湯気が立ち上っていた。その香りにトキヤは目を細めた。那月の淹れる紅茶は至高だ。ただ美味しいというだけではなく、徹底的に計算され尽くした温度と茶葉の濃さはこの店のケーキにとても良く合う。紅茶は、極上のケーキと共に味わうもの。那月はそれを一番に理解しているのだ。

まもなくしてキッチンから砂月が出てきた。
「春限定、桜のレアチーズケーキだ」
言いながら、テーブルに皿を乗せる。トキヤはそのケーキの美しさに溜息をついた。
透き通ったピンク色のジュレの上に、桜のシロップ漬けが乗っている。桜の香りがふわりと鼻孔を掠めた。桜の名を冠するにふさわしい。
トキヤはおもむろにフォークを手に取り、その一切れを口に運ぶ。途端、桜の甘い香りが強くなった。口の中に爽やかな甘酸っぱさが広がる。ケーキは四層に分かれており、一番上が桜風味のジュレ、二層目がチーズムース、三層目には苺のコンポート、そして一番下がスポンジだ。なめらかなチーズムースの中には白桃やチェリーの果肉が隠されており、ちょうどいいアクセントになっている。桜を主役に据えながら、春のフルーツをバランスよく織り交ぜた春らしいケーキだった。和と洋がうまく融合している。

ケーキが半分ほど減ったあたりで、トキヤは紅茶を一口飲んだ。甘さに慣れた舌にはアールグレイの仄かな苦みがとても心地よく感じられた。そのまま、残りの半分も一気に食べきってしまった。
「……ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
ふっと息をついて、柔らかく微笑む。
トキヤがケーキを食べる様子を静かに見守っていた二人は、安心したように肩の力を抜いた。彼等にとって、ケーキを美味しいと言ってもらえることが何よりの喜びだった。


――トキヤは毎週金曜日、必ずこの店を訪れる。パティスリー・アンドロメダの極上のケーキを食べに来るためだ。
偏執的なまでにカロリーを気にして、ケーキの一口すら拒んでいたトキヤだったが、砂月が作ったあのタルトとの出会い以来、彼の価値観は大きく変わった。友人であるレンの「もっと自分を甘やかしてあげなよ」という言葉の意味をやっと理解したのだった。
必要以上に自分を律しすぎることなく、週に一度は心と体を休める時間を設ける。トキヤにとってそれは、ケーキを食べる束の間の幸福だった。

毎週金曜日の閉店後。パティスリー・アンドロメダの店内は、一ノ瀬トキヤのためだけの空間に変わる。
那月は彼のために紅茶を淹れ、砂月はとっておきのケーキを用意する。そしてトキヤは、それを心ゆくまで味わう。宝石のような時間が三人の間に流れていた。



「今日もありがとうございました」
会計を済ませると、トキヤは二人の前で丁寧に礼をした。彼等は既に親密な友人同士であったが、こういう所の礼儀は欠かさない。この店内においては、あくまでも店員と客という関係にあるからだ。
「また来週も来てくださいね。新しい春のケーキを用意して待ってますから」
「ええ。楽しみにしています」

店の扉を開けて外に出た。春の風がトキヤを包み込んだ。
数か月前の出来事が頭の中をよぎる。砂月と初めてまともに会話をしたあの夜だ。もしあの時、砂月が差し出したタルトの箱を受け取っていなかったらどうなっていただろう。想像もつかない。少なくとも、今のように満ち足りた気分など知ることはなかったはずだ。縁というものは不思議なものだと、身に染みて思った。

「――おい」

不意に背後から呼びかけられた。振り向くとそこには見慣れた姿。
「砂月さん、どうしました?何か忘れ物でも……、」
「……まあ、そうだな。忘れ物だ」
彼が珍しく言葉を濁すので、トキヤは不思議がって首をかしげた。忘れ物というが、店内に何かを置き忘れた覚えはないし、第一砂月は手ぶらだ。
どういう意味だろうと疑問に思っていると、砂月はトキヤの腕を掴んで強く引き寄せた。急に距離が近付く。

ほんの一瞬、二人の唇と唇が触れ合った。軽いリップ音が人気の無い商店街に響いて消えた。
唇を舐めて砂月がにやりと笑う。そこでやっと、トキヤは砂月にキスをされたのだと気付いた。それくらいあっという間の出来事だったのだ。
「さ、さつきさ、今、」
うまく言葉にならずしどろもどろになる。混乱するトキヤをよそに砂月は得意げだった。忘れ物とはこのことだと言わんばかりに。トキヤなら羞恥心で爆発しそうなことを、砂月はいとも簡単にやってのける。その行動力はいっそ簡単に値するほどだった。
店の中では店員と客に過ぎないが、一たび外に出てしまえばただの二人だ。砂月とトキヤは随分と前から特別な関係にあった。

「……また来いよ」

砂月はそれだけ言って、悠々と店の中に戻っていった。つくづくマイペースだ。
赤く火照った顔を両手で押さえ、トキヤはその場にしゃがみ込んだ。あんなことをしておきながら、そのまま家に帰れと言うのか、彼は。
「冗談じゃないですよ……!」
悲鳴のような声が春の空に溶けていく。今なお残る唇の余韻は、当分消えそうにない。




2012/05/11


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