それは遺された君が紡ぐ物語


右手には色とりどりの花束、身に纏うのは喪服を連想させる黒のコート。冬の冷たい風が彼の髪を揺らし、愁いを帯びた瞳を少しだけ覗かせる。彼の出で立ちも、静けさが支配するこの場所の雰囲気も、鮮やかに咲き誇る花とはまるで不釣合いだった。
常識的に考えれば、こんな派手な花束は墓参りには似つかわしくない。しかし彼は敢えて、自らこの花たちを選んだ。「彼女」はきっと、地味で大人しい花よりも、こういった色鮮やかな花を好むだろうと思ったからだ。

「……久しぶり」
彼は、風雨に晒されて少し色褪せてしまった墓標に語りかける。懐かしむように、慈しむように―――懐かしむほどの記憶も残ってはいないのに。
「ずっと来れなくてごめん。……勇気が、出なくて」
彼にしては珍しい弱音だった。
墓参りをしないようになったのは、一体いつからだっただろう。誰からも愛されることはないのだと、世界のすべてを諦めた頃。
命を懸けて産んでくれた彼女の人生を否定するかのように、目的もなくただ惰性で生きてきた後ろめたさが、この場所へ行こうとする彼の足を鈍らせていた。
こんな生き方をしている自分には、彼女に合わせる顔が無い。そう思い、ずっとこの墓地に来ることすらできなかった。

「でも、やっとここに来れた。今のオレを見て欲しかったんだ」
昔の自分と今の自分は違う。彼は愛すること、そして愛されることを知った。それを教えてくれた恋人は、素直じゃなくて意地っ張りで、ひどく優しい心の持ち主だった。
最初に会った時、何かを諦めたような寂しい瞳に、自分に近いものを感じた。それがすべての始まりだったのだろう。からかい半分で単なるクラスメイトとしての付き合いしかないはずだったのに、いつしか無意識のうちに目で追うようになっていた。
冷静でしっかり者と自称しているが、内面はとても繊細で傷つきやすい。それでも他人には決して弱さを見せないように背筋を伸ばす……放っておけるわけが無かった。新しい一面を知れば知る程惹かれていった。大財閥の御曹司という肩書きには目もくれず、ただ神宮寺レンとしての自分を真っ直ぐに見つめてくるその瞳を、愛おしいと思わずにはいられなかった。

自分がトキヤを愛するのと同じように、自分もトキヤに愛されているのだと知ったのは、ずっと後になってからだ。与えることはお手の物でも、逆に与えられることには慣れていなかった。普段はプライドの高さからか滅多に好意をあらわにしないトキヤだったが、ある時不意に告げられたことがある。
『あなたが何を抱えていようと、私があなたを好きだという事実は変わりませんから』
トキヤの口からあれほどストレートな愛の言葉を聞いたのは後にも先にも一度きりだ。あの頃はレンも家のごたごたした問題で気を尖らせていた時期だったから、きっとトキヤなりに色々と考えての発言だったのだろう。
後で「もう一回言って」とねだったら、顔を真っ赤にして「お断りします!」と突っぱねられた。そんな照れ屋なところも全てひっくるめて好きなのだ。
ずっと知ることが出来なかった、幸福という言葉の意味。今ならば、ありのままの実感として分かるような気がする。

「オレはちゃんと幸せだよ、母さん」

彼の目に宿る優しい光が何よりの証明だった。口元は自然と穏やかな微笑を湛えていた。
何故こんなにも簡単なことが、今まで出来なかったのか。それは自分が臆病だったからに他ならない。父に疎まれ、最期まで愛されることのないまま過ぎ去った遠い日々。オレなんか生まれてこなければよかったんだと自分を責めた。自分の命に意味すらも与えられず、まるで無駄な延命治療を続けるかのように生かされてきた。
暗く淀んだ過去の記憶は決して消え去ってはくれない。きっといつまでもいつまでも、心の奥底に沈んだまま。
かつては毎夜のごとく夢に見た父の罵倒。今でも時々思い出すことがある。だがその度に、トキヤが優しく抱きしめて頭を撫でてくれるのだった。そのあたたかさに何度救われただろう。
幸せを自覚するにつれて、胸の奥底に疼いていた痛みがゆっくりと洗い流されていく。そして、恋人と過ごす何気ない日常が記憶を上書きしていった。

疑心と後悔と自己嫌悪だらけの生き方はもうやめた。
今なら胸を張って言える。自分は幸せだと。幸せになるために生まれてきたのだと。

空を仰ぐ。冷たい空気が頬をさすが、むしろ心地よく感じた。自分が生まれた日の空も、今日のように雲ひとつなく澄み渡っていたのかもしれない。
20年前の今日、この世界に新しい命が生まれた瞬間には、父も母も確かに生きていた。喜んでくれていたのだろうか。笑ってくれていたのだろうか。……幸せ、だったのだろうか。
そんなことも今となっては分からない。残されたのは、愛することも愛されることも知らない一人の子供だけだ。その子供もすっかり成長して、こうして母親の墓碑の前に佇んでいる。随分とひねくれた道を歩んできたが、それでも少しは真っ直ぐになったと思いたい。

再び視線を地上に戻した。墓石の前に供えられた花束がカサリと音を立てる。
今まで、どうしても言えずにいた言葉があった。長い間機会を待ち望みながらも、この20年間ずっと喉の奥に引っかかって紡げずにいた言葉。今日はそれを言うために来た。
目を閉じて深呼吸。目を開けると先程と変わらない景色が目の前に広がる。
言葉を、うみおとす。

「―――オレを生んでくれて、ありがとう」

うみおとされた、言葉は。
ゆっくりと、そして静かに、冬の空へと溶けていった。





墓地の入り口にある階段を下り、人通りの少ない道に出た。
もう一度墓地を振り返る。今度はオレの恋人も一緒に連れてくるよ。声には出さずにそう呟き、元来た道を歩いて行く。
手袋をしていないせいで指先がかじかんでいた。コートのポケットに手入れてみたがあまり暖かくはなかった。
さてこれからどうしようかと考える。夜から会う約束はしっかり取り付けておいたから安心だが、それまでの時間をどうやって潰すかはまったく思考の範疇外だったのだ。いかに自分が今日の墓参りのことだけしか頭になかったかが分かって思わず苦笑した。そんなに必死にならずとも、あっけないくらい簡単に事は済んでしまったのに。
流石に今から繁華街へ繰り出す気にはならず、心は静かな場所を求めていた。落ち着いて自分の気持ちを整理する時間が欲しい。それなら約束の時間までどこかのカフェにいるか―――そこまで考えた所で、彼の足は止まった。

「……イッチー?」
驚きに目を見開く。前方から小走りに近付いてくる誰か。間違えるわけがない。
トキヤが息を切らせてこちらに駆け寄ってきていた。
「よかった、レン、見つかって、」
よほど急いで来たのか、トキヤは肩で息をしながら途切れ途切れに話す。
「ジョージさんに、教えてもらったんです……、あなたが、ここに来ていると」
その言葉でレンは大体を察した。ジョージのやつ、と心の中で小さく名前を呼んだ。ここは、余計なことを…と悪態をつくべきか、ありがとうと言うべきか。どちらにしろトキヤがこの場所に来てしまった事実は変えようがない。

「ねえイッチー、どうしてここまで来てくれたの?」
「それは、」
「……オレが、墓の前で一人で泣いてるかもしれないって思った?」

にっこりと笑ってみせる。悲しみや寂しさなど微塵も見せないように。
するとトキヤは息を止めて、今にも泣き出しそうな顔をした。しかしその表情はほんの少しの間しか見ることができなかった。次の瞬間、トキヤはレンの胸に飛び込んでいったからだ。
レンはその薄い体を抱きとめる。慣れた仕草で腕を背中に回そうとしたが、その肩が震えていることに気付いて、やめた。何も掴まなかった手が空っぽの空間を撫でた。
トキヤはレンの胸に顔を押し当てている。そのせいで顔の表情は見えなかった。だけど泣いているのだろうと思う。トキヤは自分の泣き顔を他人に見せようとはしないから。それは恋人であるレンに対しても同じだった。
「どうして、」
くぐもった声が搾り出される。

「……どうして、私も連れていってくれなかったんですか……あなたがここに行くと知っていたら、決して一人にさせなかったのに……!」

それは、レンにとっても予想外の言葉だった。何度も瞬きを繰り返す。
同時に、どうしようもないくらいの愛しさが込み上げてきた。じんわりと目蓋の奥が熱くなる。トキヤにつられて自分まで泣きそうになったが、何とか堪らえた。今日は何があっても泣かないと決めたのだ。代わりに、宙に彷徨っていた右手を、今度こそトキヤの背中に回した。
「……ごめん。そんなに心配させたなんて思わなかった。だけど、どうしても一人で行きたかったんだ」
レンがトキヤの背を撫でる度に、震えは徐々に小さくなっていった。
「イッチーは、オレが昔のことを思い出して辛いんじゃないかって心配してくれたんだろう?……でもね、違うんだ。オレが今になって墓参りに行こうと思ったのは、過去を嘆くためじゃない。オレは今すごく幸せだよって『彼女』に報告するためさ」
トキヤがゆっくりと顔を上げる。頬を伝う涙すら綺麗だった。この涙は、自分のために流してくれているのだと思うと、泣きたくなるような嬉しさでいっぱいになる。
「彼女、というのは……」
「もちろん、神宮寺蓮華―――オレの母さんだよ」

レンの口から直接母親の名を聞くのは、トキヤにとって初めてだった。レンは元から、自分の家のことについてあまり語ろうとはしなかった。触れられたくない話題なのだと、会った当初から察していた。言いたくないことなら言わなくていい。レン同様に多くの秘密を抱えているトキヤだからこそ、隠しておきたい気持ちも、触れずにいてくれることがどんなにありがたいかということも分かっていた。ならば、彼が自分から話してくれるまでは何も問わずにいようと。
トキヤはずっと待っていた。彼と恋人同士という間柄になった後も、決して詮索はしなかった。それが二人のバランスを取っていたといってもいい。
そして今、レンは初めて、そのバランスを自ら崩そうとしている。

「……母さんは、オレを産んだ後まもなくして死んだ。それが原因で、父親はオレを遠ざけ、疎むようになったんだ」
「……ええ」
「お前のせいで彼女は死んだ、お前なんか生まれてこなければよかった……目を合わせる度に言われたものさ。だからオレも、自分は生まれるべきじゃなかったんだって、何度もそう思っては一人で泣いてた」
「……知って、いますよ」

トキヤは知っていた。レンが時折悪夢にうなされていることも、その理由も。知っていたが何も言えずにいた。自分にできるのは、震えるレンの体を抱きしめて暖めてやることだけだった。
「結局、あの人は最期までオレを愛してはくれなかったよ。本当に欲しいものは何一つ手に入らなかった。いや、欲しいものすら分からなかったというべきかな」
背中に回された腕の力が、少しだけ強くなる。
「でも、やっと見つけた。オレが本当に欲しいもの、手放したくないと強く願うもの。その存在があったから、オレは生きる意味を見つけたし、幸せな日々も手に入れた。―――ねえイッチー、それが何だか分かるかい?」
トキヤはレンの顔をじっと見つめ、しばらく考えるような素振りを見せた後で首を横に振った。「分からない」というジェスチャーだ。
やっぱりそうだろうね、とレンは笑う。普段は察しの良いトキヤが、自分のことになると途端に鈍感さを発揮するのは随分前から知っている。
「じゃあ教えてあげよう。正解は―――」

「オレのために泣いてくれる、意地っ張りだけど優しくて可愛い恋人さんだよ」

こつん、とトキヤの額に自分のそれを当てて。
トキヤは驚きからか目をいっぱいに見開いてレンを凝視して固まっている。数秒間のタイムラグの後、やっとトキヤが口を開いた。
「……もしかしてそれは、私のことですか」
「それ以外に何がある?」
するとトキヤは心底呆れたような表情で「あなたは、ばかです」と呟いた。
「え、なにそれ酷いな。結構真剣だったのに」
「ばかですよまったく。誕生日だというのに、こんな寒い場所へろくな防寒対策もせずに行くなんて。非常識極まりない」
フンと鼻を鳴らしてトキヤはレンから離れた。先程までのしおらしさはどこへやらだ。すました顔を取り繕ってはいるが、顔どころか耳まで赤くなっていることは言わないでおいたほうがいいだろうか。指摘したらそれこそ林檎のように真っ赤になるに違いない。

レンは苦笑して、いつもの調子に戻ったトキヤを見る。
「それとこれとは話が違うんじゃないかな」
「黙りなさい、私は寒くて仕方ないんです。……ああほら、あなたの手もこんなに冷えている……アイドルたるもの手のケアは必須ですよ。せめて手袋くらいしたらどうですか」
「そういうイッチーだって手袋してないよ」
「急いでいたので忘れてきてしまったんです。まったく、誰のためにここまで全速力で走ってきたと思ってるんですか」
「うーん……オレのため?」
「わざわざ聞かないでください!」
そうやって顔を赤くしながらそっぽを向くのも、照れ隠し故なのだ。分かりやすい反応に、笑みが零れて止まらない。
溢れる愛しさを込めて名前を呼ぶ。

「トキヤ」
「何です」
「手、繋ごうか」
「……ええ」

存外素直に差し出された手を取り、冬の道を歩いて行く。吐く息は白いが、寒さは不思議と感じなかった。
冷え切った手を絡めてもあまり暖かくはない。だが直に二人の体温でぬくもりが灯ることだろう。



赤ん坊の未来と引き換えに命を落とした彼女は生前、これから生まれてくる子供に向けてささやかな子守唄を歌った。
その歌声が収められたテープは、何度も再生したせいで擦り切れ、もう聴くことはできなくなってしまった。
だが、惜しいとは思わない。彼女から渡された惜しみない愛は、自分が未来を生きることで、いつまでも続いていくのだから。



『お腹の赤ちゃんに捧げます。健康で、思いやりのある子になってね』





2012/02/14


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