時計台の鐘


師も走る月という名前の通り、12月の忙しさと言ったら普通の月の倍以上だった。年末のスペシャル番組で遠方のロケが重なったせいもあり、連日のハードなスケジュールをこなすだけで精一杯で、もう一ヶ月もトキヤに会っていないことに気付いたのは5日前のことだ。
カレンダーを見たら月の半分が過ぎていて、クリスマスが目の前に迫っていた。誰だってクリスマスは恋人と過ごしたい。だけど売出し中の人気アイドルがクリスマスに仕事が入っていないわけがない。それでも俺は死に物狂いで仕事をこなし、番組スタッフと粘り強く交渉を重ね、クリスマス直前の12月21日の午後にオフを掴み取った。我ながらすごい頑張りだったと思う。マネージャーからも「音也がこんなに必死になってるの初めて見た」と言われた。

オフの日を確保して一息ついた瞬間、それまで仕事の陰に隠れていたトキヤへの想いが急に大きくなった。そうだ、俺は何のためにオフを取ったと思ってる?全てはトキヤと一緒に、ひと足早いクリスマスの夜を過ごすためじゃないか。
無性にトキヤの声を聞きたくなった俺は、真夜中だっていうこともおかまいなしで電話をかけた。
「もしもし……どうしました音也、こんな時間に。急用ですか?」
その時トキヤは寝ていたらしく、眠そうな声が聞こえてきたのを覚えている。たかが一ヶ月、されど一ヶ月。そんな僅かな時間会っていなかっただけなのに、トキヤのテノールはひどく懐かしい響きを含んでいて、俺はその声を聞けた安心で泣きそうになった。

「いきなりでごめん、あのさ、21日の午後って空いてる?」
挨拶もなしに切り出したにも関わらず、トキヤは面食らうでもなく、「その日は夜からなら大丈夫です」と返答してきた。トキヤだって俺に負けず劣らず、いやもしかしたら俺以上にこの時期は忙しいだろうに、すぐにOKをもらえたことが嬉しかった。もしかしたら俺と同じ事考えてくれてたのかな。クリスマス当日は無理でも、せめて別な日に俺とクリスマスを祝いたいって。そのために、俺のスケジュールも考慮してちゃんと空けておいてくれたのかな。なんだか嬉しくなって、携帯片手に笑みを浮かべた。俺はきっと幸せ者だ。

待ち合わせ場所は、某駅前にある時計台。俺とトキヤは今別々の場所に住んでるんだけど、その時計台のある駅が二人の住んでる場所からほぼ等距離にあるから、待ち合わせにはよくそこを利用していた。
「じゃあ、夜7時にいつもの時計台で」
他愛ない会話を繰り返した後、その言葉を最後に電話を切った。

次の日からの仕事中も、俺は終始上機嫌だった。
21日の夜の予定は完璧だった。7時に待ち合わせして、その後予約を入れていたレストランでディナー。今回のレストランはいつもよりちょっと高級な場所を選んだ。なんといっても年に一度のクリスマスなんだから、特別な日なら少しくらい背伸びをしたっていい。
トキヤと会える日が待ち遠しくて仕方なかった。その日を空けようとしてかなり無理のあるスケジュールを組んだけど、全てはトキヤと久しぶりに過ごす夜のためだ。俺は文句ひとつ言わずにこなした。
でも流石に連日連夜の番組撮影はきつかった。約束の21日、午前中に仕事を終えた俺は自宅に帰るやいなやベッドに倒れこんだ。時計を見たら午後2時。約束の時間までだいぶ余裕がある。家から待ち合わせ場所の駅は30分もしないで着くから、6時に起きれば間に合うだろう。携帯のアラームをその時間にセットして、俺は疲れた体をベッドに横たえてすぐさま眠りについたのだった。



再び目を開けた時、最初に見たのは白い天井だった。ぼーっとしながら携帯の画面に表示された時間を見ると、薄暗がりの中で液晶には18:50と表示されていた。なんだ、まだ7時前じゃん。これならもう少し寝てられる……
「――6時50分!?」
思わず叫んだ。携帯の画面を二度見する。間違いなく6時50分だ。俺は戦慄を覚えた。携帯のアラームは確かにセットしておいたはずなのにどうして鳴らなかったんだ。もしかして寝ぼけてる間にアラームを止めていたんだろうか。
間に合わないかもしれない。そう思うより前に考えたのは、「なんとしても間に合わせてみせる」だった。
俺は急いでベッドから飛び起き、近くに放り投げてあったバッグを引っ掴んで家を出た。寝癖を直している暇なんて無い。
予約したレストランにはこんなラフな格好で行っちゃいけないような気がしたけど、急いで出たせいで着の身着のままだ。
自転車にまたがり駅まで全速力で走る。そのままの勢いで電車に飛び乗った俺は、荒れた呼吸を整えるために深く息をついた。

とりあえず電車に乗れて一安心だ。20分もすれば待ち合わせの駅に着く。
移動の間にトキヤに遅刻の連絡をしようと思い、バッグの中を漁る。
……あれ。ない。携帯が、ない。バッグの中をひっくり返しても見つからない。俺は青ざめた。……ああ、そうだ、さっき寝る前に携帯を充電しておいたんだった。俺の携帯は今頃すっかり充電を終えてコンセントに差しっぱなしになってるに違いない。
これじゃあ遅れるってメールもできないじゃないか。

時計なんて持ってるわけないから、隣に座るサラリーマンの腕時計を盗み見る。今の時刻は7時8分、約束の時間を既に8分過ぎている。
。だからといってこのままじゃ間違いなく30分以上オーバーする。説教どころじゃ済まされないだろう。
トキヤと待ち合わせする時は大抵俺の方が遅れてくるからトキヤも慣れてるだろうし、いつもは俺も別に待ち合わせに遅れたってあまり罪悪感を覚えたりはしないんだけど、今日は特別な日だ。一ヶ月ぶりに会えるってだけじゃなく、クリスマスという一大イベントでもある。
自分から会う約束を取り付けておきながら、その本人が時間に遅れるなんて最悪だ。自分の失態に唇を噛んだ。
時間ばかりが過ぎていく。どんなに焦ったって電車の速度が上がるではないのに、俺の眉間の皺はトキヤみたいに深くなっていた。

……トキヤは、待っていてくれるかな。
窮屈な電車という密室の中、俺はトキヤがまだ約束の場所まで到着していないように祈った。
でも、あいつは真面目な性格だから、ちょうど約束の時間の10分前には着いているのだと思う。
冬の寒空の下で、来るはずもない俺を待ってくれている。

はやくはやく、はやくトキヤのところへ。

シートに腰掛けたまま小さく舌打ちをする。焦る心をよそに、電車は呑気に走るだけだ。
苛々しながら時間をもう一度確認しようとした時、ただでさえ遅い電車が減速を始めた。どういうことだと思って勢いよく顔を上げると、車内アナウンスがおもむろに響いて、信じられない言葉がスピーカーから流れたのだ。

『線路内部に車が進入したため、車の撤収が完了するまでこの電車は途中停車いたします』

まだ見えてすらいない時計台の鐘が、耳の奥でざわめいた。



カチ、カチ、隣に座るサラリーマンの腕時計の秒針は虚しく動き続けていた。7時26分。まだ電車は動き出さない。思いのほか自動車の撤収に時間がかかっているようで、同じ車両に乗っている乗客も苛立ちを抑えきれず車掌に突っかかっていた。俺だって早く降ろさせろと噛みつきたい気持ちだったけど、そんな行為は無駄に焦燥感を駆り立てるだけだ。辛抱強く、電車が動いてくれるのを待ち続けるしかない。
……ただ、分かっていても思ってしまう。今すぐにでもここから降りていけば、走って走って、少しでも早く待ち合わせ場所にまでたどり着けるんじゃないかと。トキヤが心変わりして帰ろうとする前に。
もう間に合わないことは明白だった。既に25分も遅れてしまっている。どれだけ願っても時間は止まってくれない。

遅れた言い訳でも考えていたほうが懸命だろうか。いや、聡いトキヤは俺の言い逃れなんてすぐ見透かしてしまう。会ったら何て言えばいい?そもそもトキヤは待っていてくれるのか?
何分経っても俺が来なかったら、トキヤは落胆するだろうか。呆れて帰ってしまうだろうか。溜め息をつきながら、もう少しでも待っていてくれるだろうか。文句を言いながらも最終的には許してくれたりしないかな。希望的観測に縋りたくなるくらいには焦っていた。
嫌な予感ばかりが頭の中を掠める。
怠慢な時の流れに逆らって、俺が願うのはただひとつ。

(トキヤがまだ待っていますように)



7時48分。結局あれから20分以上も電車は足止めされてしまった。やっとの思いで駅に着いた電車から転がり落ちるようにして降りた俺は、これまでの人生で今日ほど全速力で走ったことはないだろうというくらいに大急ぎで時計台へと向かった。そして走りながらシミュレートする。トキヤに会ったならまず第一に土下座する勢いで謝り、電車が遅れた旨を説明、それからトキヤの口から散々に言われるであろう文句を思う存分聞くんだ。
やっと時計台が見えてきた。実に50分以上の遅刻となった俺は、みっともなく呼吸を荒くしてトキヤの姿を捜す。……いない。人混みの中でもトキヤを捜し出す自信はあった。でも、いない。

――そこでやっと、俺は思い出した。
止まっていた電車の中で、あれほど考えていたこと。「トキヤは待ってくれていないかもしれない」、と。時計台に着くことだけを目的として急いでいたから、走っている間にすっかり失念してしまっていた。
トキヤが時計台にいない理由など考えるまでもない。トキヤは帰ってしまったのだ。会う約束をしておきながら、いつまでたっても待ち合わせの場所に来なかった俺を置いて。
「やっぱり、帰っちゃったかあ……」
諦めに似た呟きは、地面の上に零れて落ちた。覚悟していたはずのことだったのに、口に出して言うと現実を思い知らされて余計に虚しくなった。

トキヤは俺に対して厳しいようでいてなんだかんだ甘いけど、今日の俺はそんな彼が呆れるほどに甲斐性なしの馬鹿だったのだ。なんだかひどく情けなくて、惨めだった。
唇を噛む。自分に自分で呆れた。そしてトキヤを想った。
寒い中、ずっと待たせてしまったトキヤ。帰ってしまったトキヤ。どんな心境だったのだろう。
怒ったかな?呆れたかな?失望させてしまったかな?一ヶ月という空白期間は、50分というやり切れない時間は、俺等にとって長すぎるブランクだった?会えないまま終わってしまう?そんなのは嫌だ。でも、その原因を作ったのは他ならぬ俺だった。

……俺も帰ろう。
これ以上考えることは、俺自身をますます惨めにしていくだけのように思えた。ここにいたって意味はない。背中を貧相な形に曲げながら、俺は走ってきた道をとぼとぼと戻ろうとする。その時だった。

「何を帰ろうとしているんですか、音也」

怒ったような、呆れたような、でもそれでいて、からかうような声音が、俺の背中にぶつかって響いた。まさか、と思う必要はなかった。トキヤの声を聞き間違えるわけがない。驚きを顔いっぱいに張り付けて、俺は俯いていた顔を勢いよく上げる。
そこには当然のように、トキヤがいた。
「……待ってて……くれたんだ……」
かろうじて搾り出した俺の声は頼りない。トキヤは軽く肩を竦めた。
「どうせ遅れてくるだろうと予想はしていましたが、まさかこれほど待たされるとは思いませんでしたよ」
その声に責めるような響きは混じっていない。どちらかといえば心底呆れているような雰囲気だった。
トキヤの手には開いていない缶コーヒーが握られている。さっき姿が見えなかったのはこれを買いに行っていたからなんだろう。この真冬の夜、俺が来るまで50分も待っていてくれたんだ。トキヤの耳は寒さで赤くなっていた。それを見て胸がぎゅっと締め付けられる。

「ごめん、遅れて」
「素直に謝るとは珍しいですね」
「うん。……ほんとごめん」
「……そこまで反省されると調子が狂います」
「ごめん……」
「……」
「……」

すっかりしょげ返る俺を見て、トキヤは居心地悪そうに視線を逸らした。
いつもは遅れてきても「ごめーん寝坊した!」と軽い調子で済ませることが多いから面食らっているんだろう。でも、いつもと同じように簡単に謝ることはどうしてもできなかった。必死の思いでもぎ取った休み、一ヶ月ぶりの再会、年に一度の二人っきりのクリスマス。俺にとって今日のデートはすごく特別な意味を持っていたんだ。それを自分の手で台無しにするような真似をして、さすがの俺も開き直れない。
そして何より、トキヤをこんな寒い中ずっと待たせてしまった。
今までに何度も、待ち合わせに遅れてトキヤを待たせたりした。トキヤは文句を言いながらも最後は許してくれた。俺はそれをさも当然の事のように思っていた。トキヤの優しさに甘えてたんだ。今になってやっと気付いた。
俺がうなだれていると、トキヤは軽く息をついてこう言った。

「……いいですか音也、あなたが遅れてくることなんて日常茶飯事です。10分だろうと1時間だろうと大して変わりません。……だから、顔を上げてください」

……何を、怖がっていたんだろう。何を、諦観していたんだろう。
トキヤならきっと待っててくれるだろうと、そんな期待を俺に抱かせていたのは、ひとえにトキヤの優しさからだった。
時計台の鐘が約束の7時を告げても、トキヤは俺を待ち続けてくれていた。一ヶ月会わなかっただけでその優しさを忘却して、疑っていたのは俺の方だった。
「トキヤぁ……」
泣きそうになりながら顔を上げ、俺はトキヤに抱きつこうと手を伸ばし、

――バチィィィン!!

「え」
何が起こったか分からず目を丸くする。それが、トキヤ渾身の張り手が俺の左頬に直撃した音だと気付くのに時間がかかった。しかし、直後に伝わってきた左頬の痛みが俺に事実を突きつける。痛い。猛烈に痛い。トキヤの張り手は周囲に響くくらい凄まじい音を立てたから、それを聞きつけた人々が驚いたようにこっちを見ていた。わけも分からず俺は動揺する。
「え、あの、トキヤ、」
「こんのバカ音也!!」
「ヒイッ」
思わず悲鳴を上げた。トキヤの顔が般若と化している。これはヤバイ。今までに見た中でも最高レベルの激怒っぷりだった。さっきまで結構穏やかだったのに……。トキヤの優しさに感動してた俺は、渾身の張り手で一気に現実に引き戻された。トキヤは般若の形相で俺に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴ってきた。

「一体何分待たせれば気が済むんですか!?このクソ寒い中でいつまで経っても来ないあなたを待つ身にもなりなさい!!待ち合わせの相手が私だったからよかったものの、これが仕事だったらどうするんですか!?現場のスタッフから干されたって文句は言えませんよ!」
「でも、俺が遅刻するのはトキヤと待ち合わせする時だけだよ」
「それなら大丈夫ですね……ってどういうことですか!!」

さすがトキヤ、ノリツッコミも完璧だ。年末の特番収録で鍛えられたんだろうか。若干口調が崩れてるけど。
トキヤの怒りとは裏腹に、俺はなんだか嬉しくて仕方なかった。ああ、これがいつものやり取りだ。優しく諭されるより、がみがみ説教された方が不思議と安心する。おかげでトキヤに対する罪悪感とか申し訳なさもどこかに吹っ飛んでしまった。代わりに幸せな笑顔が自然と浮かんでくる。

「ねえトキヤ……やっぱり俺、今日はトキヤの手料理食べて、二人っきりでゆっくりしたいなあ」
文句を言い連ねていたトキヤは一瞬で硬直し、信じられないといった顔つきで俺をまじまじと見た。
「……それ、本気で言ってるんですか?わざわざここまで来させて、しかも散々待たせた後で」
「うん。……ダメ?」
「『……ダメ?』じゃありませんよバカ音也ぁぁぁぁ!!」
ひどい。バカって二度も言われた。でも確信している、こんなことを言いながらもトキヤはちゃんと俺の「お願い」を聞いてくれるって。だってトキヤは優しいから。どんなに怒ろらせようとトキヤの優しさは変わらない。それは俺が一番良く知ってる。
さっきの落ち込んだ様子とは打って変わってニコニコ笑ってる俺を見て、トキヤは諦めたように深く溜息をついた。


レストランの予約はキャンセルしちゃおう。この後は電車に乗ってトキヤの家の近くの駅に降りて、駅前のスーパーで買い出しだ。材料が入った袋は俺が持つよ。
トキヤの家に着いたら真っ先にエアコンとコタツの電源をつけて、まずは冷えた体をゆっくり暖めよう。部屋全体が暖かくなったら、もそもそと起きだして夕食の準備をしなくちゃね。作るのはトキヤだけど、俺も少しは手伝うよ。
クリスマスだからいつもよりちょっと豪華に、でも贅沢すぎないくらいのごちそうをテーブルに並べて、奮発して買ったワインなんかも飲みながら、二人でじっくり味わってさ。
満腹になったら、ずっと前から用意してたクリスマスプレゼントを渡すよ。名前が彫られたおそろいのシルバーリング。携帯は持ってくるの忘れたけど、このプレセントだけはいつも肌身離さず持ってたんだ。喜んでくれたら嬉しいなって、今日が来るまでずっと思ってた。

変に気張らなくていい。
ただ、いつもの日常にほんの少しの「特別」を加えるだけで、俺たちのクリスマスはとても幸せなものになる。

当初の待ち合わせの時間からちょうど1時間後。
来た道を引き返して駅に向かう俺達の後ろで、時計台の鐘は煌びやかに午後8時を告げていた。




2011/12/21


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