Another World's Happy End


《四ノ宮砂月殿
早乙女学園作曲家コースに合格したことを通知する。》

早乙女学園の入学式を明日に控え、俺は「合格通知書」と書かれた一枚の紙を眺めて溜息をついた。
元は双子の兄である那月が「アイドルになりたい」と言い出したのが始まりだった。二言目には「デビューするために早乙女学園に行く」ときた。一度決意を固めたら那月は絶対に揺らがない。
俺はアイドルやら芸能界にはまったく興味がなかったが、日頃から天然で危なっかしい那月を一人で送り出すわけにもいかず、同じように早乙女学園を受験した。
競争率200倍というからどれだけ難易度の高い試験なのかと思っていたが、実際に受けた試験内容は拍子抜けするほど簡単だった。あんな簡単な試験にすら落ちる奴らがいるのだから分からないものだ。
合格通知を当然のごとく受け取り、俺と那月は北海道からわざわざこの学園までやって来た。オリエンテーリングや入寮準備など、入学前の慌ただしい日々を終え、やっと明日が入学式だ。……ところが困ったことに、自分が早乙女学園に入学するのだという実感が未だに沸かない。

「……イライラする」

ぽつりと呟いた。その声を聞く者は誰一人としていない。なぜならここは一人部屋だからだ。
全寮制の早乙女学園は寮の一部屋につき二人が割り振られるはずなのだが、何故か俺にだけは同室の相手がいなかった。
入学前の事前アンケートには「那月と同室にしろ」とだけ書いていた。しかし那月は来栖翔とかいうチビと同室になり、対する俺は一人で住むには広すぎる部屋を与えられて暇を持て余している。アンケートの希望がまったく反映されていない部屋割りだ。

おそらくこの部屋割りは、入学前のオリエンテーリングでの出来事を反映させているのだろうと思う。何しろ俺は、あのオリエンテーリングで少し暴走しすぎてしまった。那月と同じグループになれなかった苛立ちが原因だったのだが、暴れ回ったことに変わりはない。あの一件があっても、学園側は俺に対して何の処罰も加えないのだから相当な器の大きさだ。……この不満の残る部屋割りが処罰というなら、寛大な措置といえるだろう。

小さくて可愛いもの好きの那月はチビと同室になれたことでやたら喜んでいたが、こちらとしては最悪だ。那月と同室でないというだけでもう既にこれからの1年間を放棄したくなってくる。しかし、那月以外のどうでもいいような奴が同室になるよりは一人部屋の方が遥かにマシだ。不幸中の幸いというやつか。

そして今、広い部屋の中は俺の苛立ちで一杯に満たされようとしている。
「後でさっちゃんの部屋にも遊びに行きますね」と言っていた那月はいくら待っても来ないし(どうせあのチビと戯れているのだろう)、明日に備えて寝ようにも目は冴えるばかりだ。
せめて曲でも作ろうかと思ったが、机に向かって10分もしないで集中力が切れた。書きかけの楽譜をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てる。うまくゴミ箱の中に入らなかった紙くずが床に落ちたが、拾って再び捨てる気も起きず放置した。

真っ白な楽譜が机の上に散らばる。いつもなら何も考えなくても音が自然に浮かんでくるのに、今夜に限って何も出てこない。
元々作曲は好きでやっていたものだが、「趣味の延長」と軽く扱われるのだけは嫌だった。ひとつひとつの音に向き合い、納得の行くまで作り込んでいく。音楽に対する真摯さは昔も今も変わらない―――そのつもりだ。だが、ここ最近は作曲作業が疎かになっていた。入学準備で忙しかったというのもあるだろう。だが一番の原因はそれより別の場所に存在していた。

(那月は、俺の作った曲以外も歌うようになるのか……?)

胸の内を占める苛立ち。それは「嫉妬」という言葉にも置き換えられる。
今まではずっと、俺が作った曲を那月が歌ってきた。俺の作る曲は全て那月のためだけに捧げられたものだった。那月のために俺が曲を作り、俺のために那月が歌う。そうやって二人でひとつの音楽を創り上げていくことが幸せだった。いつまでもこのままでいられるなら、それでいいと思っていた。

しかしそれを破ったのは那月だった。誰か一人のためではなく、より多くの人々に歌を届けたい、だからアイドルになりたい。そう言って笑う那月は、俺を置いてどこか遠くへ行ってしまうような気がした。その予感がどうしようもなく恐ろしくて、咄嗟に叫んでいた。「俺も早乙女学園に行く」と。
那月の手を離したくなかったから、ここへ来た。我ながら浅はかな志望理由だと思う。真剣にアイドルや作曲家を目指して早乙女学園を受験し、あえなく不合格になった奴らがこれを聞いたらきっと呪い殺されるだろう。それでも俺にとっては何よりも切実な問題だった。

俺はこれからも、那月の歌う曲だけを作る気でいる。俺の作る曲を那月以外の奴が歌うなど考えられないし考えたくもない。
だが那月の方はどうなのだろう。那月は今でも俺の曲を歌いたいと思ってくれているのだろうか。それとも、俺の曲以外を歌いたいからこの早乙女学園に来たのだろうか。
俺も早乙女学園に行くと宣言した時、那月は喜んでいた。
『よかった、さっちゃんも一緒だね』
また二人でいられることが嬉しいと確かに言っていた。だけど俺はその後に那月が言った言葉を今でも忘れられない。

『―――でも、さっちゃんは本当にそれでいいの?』

どこか寂しそうに問いかけた那月は、俺の知らない顔をしていた。
俺たちは双子で、ずっと一緒に育ってきた。互いの気持ちが分からないことなんてひとつもない、はず、だった。
しかし現に今、俺は那月の心が分からない。それと同時に俺自身の心も分からない。

「……イライラする……」

先程と同じ言葉を繰り返した。行き場のない苛立ちが部屋の中に充満して息苦しい。考えれば考えるほど分からなくなっていく。
俺は大きく舌打ちして部屋の扉を開けた。新鮮な空気が肺を満たす。
気付いた時には足早に外へ駆け出していた。
まるで、机の上に散乱した真っ白な楽譜から逃げるように。



早乙女学園の敷地は広大で、自然が多い。気を紛らわせるには丁度良かった。
入学式前夜というのもあって今の時間帯に外出する者はいないようだ。寮の建物を抜け、ひっそりと静まり返った裏庭の中を歩いて行く。森に近い側は全体的に薄暗く、頼りになるのは空から降り注ぐ淡い月光だけだ。夜に出歩くことの多い俺にはこのくらいの明るさで充分だった。月は太陽のように過剰な干渉をしてこないから好きだ。眩しすぎる光は逆に目に痛い。
月の柔らかな光を浴びて、ざわざわと揺らいでいた心が次第に落ち着いていくのを感じた。月の光にすべてを委ねて、このまま暗闇に溶けてしまえたらいっそ幸せだろう。

那月がいなければ俺という存在は意味を成さない。那月の意志決定ひとつで俺の全てが決まってしまうのだ。……那月にひどく依存しているということはとっくの昔に自覚済みだった。
那月によって歌われて初めて、俺の曲は輝きを放つ。もし那月が俺以外の奴が作った曲を歌うようになったら、残された俺は誰のために曲を作ればいい?歌い手のいない曲をただひたすら作り続けるだけの日々に、果たして俺は耐えられるのか?
那月はこの学園に来て変わろうとしている。だが俺は、変化を恐れて動けない。それでも置いて行かれるのは嫌だから、こうして早乙女学園まで付いてきた。目的も何もあったものじゃない。変化を望む那月を追いかけて、まるで金魚の糞のように必死にしがみついているのが俺だ。我ながら情けなさ過ぎて笑えてくる。

ああ、もう考えたくない。目の前に示された結論から逃げようとしているだけだと分かっていても、だ。入学前からこの調子ではこれからの一年間が思いやられる。
気分転換のために外へ出たのに、ここに来てもまた余計なことばかり考えてしまった。月の光をもってしても、心の中の淀みを掻き消すことは期待出来なかった。それならここにいつまでも留まっていたところで無駄だろう。

だが、俺の足は、どこからか聞こえてくる歌声によって止まった。

遠くで誰かが歌っている。微かだったが、俺の耳はその歌声を聞き逃さなかった。こんな夜に外で歌う奴がいるとは驚きだ。先程までの苛立ちは、新たに芽生えた好奇心に塗り替えられた。他人の歌などいつもなら軽く聞き流してしまうのに、どうしてかこの歌声の主が気になって仕方がない。
寮に戻ろうとして踏み込んだ足を、今度は反対側―――裏庭の奥に向ける。聞こえてくるのはこの先だ。思わず駆け足になる。歌声に引き寄せられるように俺は走った。速く、速く、この歌が途切れてしまう前に。

辿り着いた先にあったのは小さな池だった。その畔に歌声の主が立っていた。俺が現れたことに気付いていないのかまだ歌い続けている。

《君が願うことの全部が 星にならないかもしれない……》

雷に打たれたかのような衝撃が駆け巡った。こんな歌声は始めてだ。
那月以外の、他人の歌に興味をもつことは今まで一度としてなかった。いや、那月以外を受け入れなかったと言う方が正しいかもしれない。
だがこの歌声は―――綺麗だと、思った。
理由など無い。それでも、どうしようもなく心を揺さぶられた。
柔らかな声音には、聞く者の心に語りかけるような優しさがある。澄み切った高音が、静寂に包まれた夜の空気を振動させる。淀んだ闇の中に一筋の光が差し込み、辺りを照らしていく。
月の光に似ているのだ。優しく、切なく、そして儚い。しかし決して弱々しいわけではなく、芯の強さを感じさせた。

きっとこの声は、歌う曲によって表情を変えるんだろう。優しい曲を歌えばすべてを包み込むような慈愛で心の闇を照らし、激しい曲を歌えば鋭く突き刺すような厳しさを見せる。明るい曲ならきらきらと輝く笑顔を振りまき、悲しい曲なら涙を流しながら切々と訴えかける。
その変化を俺の目で直に見てみたい。歌声に宿る様々な感情に触れて確かめたい。
……こいつに、俺の曲を歌わせたい。

そう思った時、俺の中で何かがカチリと音を立てた。軋んで動かなかった歯車がやっと回り出したような気がした。
那月は変わろうとしている。そして俺もまた、変化を恐れて踏み出せなかった一歩に辿り着いた。
俺を動かしたのは、この歌声だ。俺の曲を歌うのはこいつしかいない。

「あの」
声を掛けられてはっとする。俺が思考の海に潜っている間に、いつのまにか歌い終えていたあいつが俺を見ていた。よもやこんな夜中、こんな場所に来る人間が自分以外にいるとは思っていなかったんだろう。観客である俺を訝しげな視線を送ってくる。
「すみませんが、あなたは……」
「……お前、名前は?」
「え?」
「名前は何だって聞いてるんだ」
少々不躾だったかもしれないが、逸る気持ちを抑えきれなかった。歌声の主は困惑したように首を傾げたが、名前を教えない理由も無いからか素直に名乗った。
「私は一ノ瀬トキヤですが」
一ノ瀬トキヤ。すぐさま頭の中に刻み込む。おそらくこれからの一年間で最も多く呼ぶことになるであろう、その名前を。
俺の心は既に決まっていた。一度決意すれば誰に反対されようと絶対に覆さない、そういう所は俺も那月も同じだ。俺は必ず手に入れる。この歌声を、こいつ自身を。

「……一ノ瀬トキヤ。お前、俺とペアを組め」

だからこそ、俺は高らかに宣言する。狙った獲物に向かって正々堂々と。
対する一ノ瀬トキヤは呆然と俺を見つめていた。こいつの驚きもまあ仕方ないだろう、誰の目にもつかない場所で歌っていたらそれを知らない人間に聞かれ、自己紹介も無しにいきなりペアを申し込まれたとあっては驚かないわけがない。かなり急ぎすぎている感はあるがこれが俺のやり方だ。誰かに先を越されるに掻っ攫う。欲しいと思ったらその場で奪う。まだ入学前だとか、まったくの初対面だとかいうのは瑣末な問題でしかなかった。欲しいものを求めて何が悪い?

だが、俺の絶対的な自信を知ってか知らずか、一ノ瀬トキヤは厳然と言い放ったのだ。「お断りします」、と。しかも、まるでゴミ虫を見るかのような目で。それが俺の征服欲を煽るだけだということをこいつは知らないんだろう。
いい度胸だ。にやり、と口角が上がる。俺とペアを組む奴はこのくらい反抗的でなければ面白くない。ますます欲しくなった。
……どうやらこれからの一年間、当分は退屈しなくて済みそうだ。





「……で、第一印象最悪な出会い方したのに、お前よくあいつとペア組む気になったな……」

コーヒー牛乳片手に呆れ顔で溜息をつくのは、同じSクラスの来栖翔だ。
午前の授業が終わった後の昼休み、トキヤと翔は机を2つくっつけて一緒に昼食をとっていた。いつもは食堂を利用するのだが、今日はトキヤが弁当を持参してきたので教室で食べることにしたのだった。トキヤは野菜ばかりの味気ない弁当を広げ、翔は購買で買ったメロンパンを頬張っている。
つい先程までは今日の授業で行ったバラエティ実習について語っていたはずだった。しかし突然翔がペアの話を持ち出してきたので、トキヤは手に持っていた箸の動きを止めざるを得なかった。

「……何故いきなりその話を私に振るんですか?」
「え、いや別に理由はないけど。なんとなく」
「理由がないなら私にリアクションを求めないでください」
「おや、興味深い話をしているじゃないか。オレは是非ともイッチーの話を聞きたいね」
二人の会話に乱入してきたのはレンだった。トキヤの眉間の皺が増える。
「レン、あなたは今日の昼も他クラスの女子生徒と戯れる予定じゃなかったんですか?」
「そのつもりだったんだけどね、今日は面白いことが起こりそうな予感がして早めに教室に戻ってきたのさ」
「また余計な……」
レンはこういう所は嫌に目ざとい。まったく勘弁して欲しいものだ。だがこうも期待の眼差しを向けられると、困る。

「……彼に狙いを付けられたら、いくら私でも逃げ切れませんよ」
観念して話し出す。もちろん「彼」とは、トキヤのペアの相手であるSクラスの四ノ宮砂月のことだ。
「あー……『お前が俺とペアを組む気になるまで追いかけてやる』、だっけ?入学初日からぶっ飛ばしてたよなーあいつ」
入学式の日の出来事はトキヤにとって思い出したくもない記憶だ。入学式を終え、教室でクラスメイトの自己紹介をしていた時に悪夢は起こった。前日の夜に出会ったあの高圧的な男が同じクラスだったというだけでも衝撃だったのに、あろうことか彼は、クラスメイトの前でトキヤに対して宣戦布告をしてきたのだ。あれには驚きを通り越して呆れた。おかげで入学初日から嫌な目立ち方をしてしまった。今でもあの時のことを思い出すだけで顔から火が出そうになる。

「まあ、やり方はどうあれ、Sクラスの数ある才能の中からイッチーを選ぶあたり、シノミーも分かってるよ」
項垂れるトキヤをレンが励ますが、全然フォローになっていない。いい加減彼のことを「シノミー」と珍妙なあだ名で呼ぶのはやめたらどうですかと言いかけたが止めた。何度拒否しようとトキヤのことを「イッチー」とあだ名で呼び続けるレンのことだ、言い聞かせるだけ無駄なのだと最近やっと諦めがついてきた。
間違いなくレンはトキヤと砂月の関係を面白がっている。砂月とペアを組む前は、物理的に追いかけてくる砂月から逃げようとするトキヤを助ける素振りを見せながらも、結果的には砂月に味方していた。まったくもって信用ならない男だ。

翔は砂月の被害を受けるトキヤに本気で同情しているようだが、その被害が自分に及ばないようにトキヤを盾にしている節がある。笑顔で砂月の前に突き出すレンよりはまだマシにしろトキヤにしてみればどちらも大差ない。
「なんだかんだいって、お前らのペアいっつも成績トップだもんなあ」
「当たり前です。もし仮に砂月が私とペアを組むに値しない相手であったなら、どれだけ執着されようと振り切るつもりでした。ですが彼の作曲センスは本物です。それに関しては私も認めざるをえない……しかし、彼の強引なやり方には毎回閉口しますね」
「あ、おいトキヤ、」
「正しいことを言っているのには違いないのですが、ああも上から目線で話されると素直に聞き入れることもできない。あの性格は困ったものです、せめて人と話をする時には、」

「―――俺の性格がどうしたって?」

ずっしりと重い声が頭上から降ってきた。思わずトキヤは椅子から飛び上がる。恐る恐る顔を上げれば、そこには砂月の不機嫌そうな顔があった。砂月は昼休みになるとさっさと教室を出てどこかへ行ってしまう。午後からの授業は大抵遅刻するかサボるかするのが普通だ。昼休みの教室に砂月が姿を現すのはごく珍しい光景だった。
背後から迫ってくる砂月に気付いていた翔は、青ざめた顔でトキヤと砂月を交互に見やる。レンは心底楽しそうに笑って「やあシノミー」と手を振った。そしてトキヤは、内心の動揺を悟らぬよう無表情を取り繕って砂月に向き直った。
「……どうもしませんよ。それより何の用ですか」
すると砂月は、手に持っていた数枚の楽譜をトキヤに差し出した。トキヤは無言でそれを受け取り目を通す。
わざわざ説明を受けるまでもない。渡された楽譜は、今度の試験で歌うことになる新曲だった。

その楽譜を最初から最後まで見て、トキヤは重い溜息をついた。
「……あなたは私に喧嘩を売っているんですか?」
怒っているような、呆れているような、途方に暮れているような。翔とレンはトキヤが何故そのような反応をしたのか気になり、横から楽譜をちらりと見たが、一瞬でトキヤの気持ちが分かってしまった。
「うわあ……えげつな……」
「さすがシノミー、よくまあこんな難しい曲を作れるものだね」
楽譜を見た率直な感想が二人の口から漏れた。この曲を一言で表すなら「えげつない」という表現が最も適当だろう。一目見ただけでも、その曲がいかに複雑で難しいかが分かる。

五線譜を飛び交う音符の群れで楽譜がびっしり埋まっている。途中で拍が変わる箇所がいくつもあり、リズムを取るだけでも一苦労しそうだ。指定テンポもかなり速い。最も厄介なのは音程で、オクターブ上の跳躍や半音移動がやたらと多い。
「楽譜を見るだけで気が遠くなるのは初めてだぜ」と翔が呟いた。トキヤも同じような感覚を味わっていた。これを本当に歌うのかと思っただけで眩暈がする。学内トップの座に君臨している一ノ瀬トキヤとて、これだけ難易度の高い曲を歌いこなすのは至難の業だ。
しかし砂月は挑発するようにトキヤに言った。

「この程度の曲、お前なら簡単に歌いこなせるだろう?」

……挑発するように、ではない。これは間違いなく挑発だ。自分が試されているということにトキヤは気付いていた。
難しいだけあって曲の完成度はかなりのものだ。彼が何日掛けてこの曲を作ったかは知らないが、これだけ綿密に作りこんであるのだから相当の労力が注ぎ込まれているのだろう。砂月は何くわぬ顔をしているが、少し疲れている様子が見て取れる。
そこまでして砂月が作り上げた曲を、完璧に歌いこなせないで何がパートナーか。

「……上等です」

トキヤは敢えて砂月の挑発に乗った。ペアを組んで以来、数々の無理難題を吹っ掛けてきた砂月だが、絶対に不可能な要求だけはしてこなかった。トキヤに対する要求はいつも、必死で努力をすればクリアできるギリギリのラインを保っていた。今回だって同じだ。果てしなく難易度の高い曲ではあるが、決して歌いこなせないというわけではない。
砂月は知っているのだろう、きっとトキヤならば自分の要求に応えられるだろうと。その実力を認め、信頼しているからこそ、砂月はこの曲をトキヤが歌うために書いたのだ。

トキヤがきっぱりと言い放つと、砂月は「それでこそ俺のパートナーだ」と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべた。その余裕綽々な態度をどうにか崩したかった。やられっぱなしは自分の性に合わない。
「……ですが、その前に少し物申したい所があります」
ぴくり、と砂月の目元が引きつった。

「この曲……まずサビ前の入りですが、ここを不協和音にする必要性が私には感じられません。それまでのAメロBメロでかなり音同士をぶつけているのですから、ここで一度合わせてみた方がサビへの導入にもなってより引き立つでしょう。
敢えて不自然な音形にしようという意図は分かります。しかしそれは私だから理解できるのであって、大多数の聞き手にはその意図を汲み取ってもらえないのでは?
あなたは自分の基準で物事を考えすぎです。もっと聞き手を意識した曲作りをするべきかと」

すらすらと一気に言い切った。砂月の顔が不機嫌そうに歪む。細部まで作りこんだ曲に駄目出しをくらって平然といられるほど彼の気性は穏やかではない。
「……俺の曲に難癖付けるとはいい度胸じゃねえか」
「当たり前です。あなた自身ががどれだけ完璧な出来だと思っても、歌い手である私が納得するものでなければいくらでも口出しをさせてもらいます。それがペアとしてあるべき姿でしょう」
「……なら俺からも言わせてもらおうか」
砂月の目がぎらぎらと光っている。挑発に成功したと思ったら駄目出しで返されて、内心よほど悔しいのだろう。トキヤと翔の間に体を捩じ込み、トキヤに顔を近づけた。

「この前の課題でお前が歌った音源聞いたぜ。技術的にはほぼ完璧に近いが、俺に言わせてみればまだまだだ。
まずビブラートがくどい。ああいうのはここぞという時に出すことで効果が高まるんだ。高音伸ばす箇所全部にビブラートを入れると曲全体が重くなるから気をつけろ。あと序盤はもう少し感情抑えとけ。サビになった時の変化が小さくて盛り上がりに欠ける。ただ、抑えめに歌おうとして吐息が多くなるのはお前の悪い癖だから気を付けろよ。
……今回のは課題曲だったからまだ良いが、俺の曲でやったら許さねえからな」

砂月もトキヤも、それぞれ作曲と歌唱力において技術的にはほとんど完成されている。それゆえ駄目出しといっても重箱の隅をつつくような指摘にしかならないのだが、そんな些細な駄目出しでも、両者の高すぎるプライドは思い切り傷付けられる。
二人は暫くの間物凄い勢いで睨み合っていたが、その緊張を破ったのはトキヤだった。

「……次にするべきことは決まったのですから、こうして睨み合っていても何も進まないでしょう」
「まあな。お前はこの曲を歌いこなすために練習して、俺はお前が納得できるような形になるまで曲の完成度を上げる。それでいいんだろう?」
「物分りが良くて結構。では、次の打ち合わせはいつにしますか?」
「別にいつでもいいぜ。お前はどのくらいかかりそうなんだ?」
「この曲はかなり厄介ですから……そうですね、一週間程必要になるかと」
「俺の方は5日で仕上がるな」

トキヤの眉根が寄せられる。トキヤは7日、砂月は5日。僅か2日間の違いだが、トキヤからすれば天と地ほどの違いがある。砂月が5日で出来ることを、自分が出来ないでどうする……そんな負けず嫌い精神がトキヤの中で暴れ回っている。
「……」
「何だ?別にたっぷり一週間使ってくれていいんだぜ?」
「……いえ、気が変わりました。4日もあれば充分です」
「へえ、大層な自信だな」
「見くびらないで頂けますか。私はあなたのパートナーです。あなたの歌を、あなたが望む通りに歌えるのは私しかいない。そして、」
「―――お前が歌いたいと思える曲を作れるのは、俺しかいない」
言おうとする前に先を越されてしまった。何もかもお見通しだとばかりに笑う砂月を見ると、俄然負けてなるものかと思う。
僅か4日でこの曲を歌いこなせるかどうかはトキヤの努力次第だ。そして砂月もまた、今とは比べものにならないほどに曲のクオリティを上げてくるのだろう。
Sクラスで一二を争う負けず嫌い同士がペアを組んだ結果がこれだった。

「……それではまた4日後に。今以上の出来を期待しておきますよ」
「お前こそ」
じゃあな、と砂月は背を向けて教室を後にした。また一人で作曲作業をするつもりなのだろう。
その背中を見送るトキヤの愛想の無さは言うまでもない。
「お前らホント……」
呆れた顔で翔が声を掛けようとするより先に、トキヤは食べかけの弁当に蓋をして、そのまま席を立った。

「翔、昼食の途中ですみませんが、用ができたので私はここで失礼します」
「は?用って何が、」
「次の授業までには戻ってきますので」
「え、ちょっと待てってトキヤ、」

翔の制止も虚しく、先程の砂月と同じようにつかつかと教室から出て行ってしまった。
先程から不穏な空気に包まれていた教室内は、トキヤが去ったことでその緊張がふっと緩んだ。固唾を飲んで二人を見守っていたクラスメイトたちが一斉に胸を撫で下ろす。
幸いSクラスには演技が達者な者が揃っているので本人達には気付かれていないようだが、砂月とトキヤが会話を始めると、教室中の関心は一気に彼等二人へと集まるのだ。
四ノ宮砂月と一ノ瀬トキヤ。Sクラスでも随一の曲者である彼等の物騒なやり取りは、もはやSクラス名物と呼んでもいいほどにまでなっていた。

「イッチーも負けず嫌いだねえ、ランチも最後まで取らずに練習をしに行ってしまうなんて」
楽しそうにレンが笑う。その言葉を受けて翔もやっとトキヤの急な行動の意味を理解する。そうだ、トキヤが向かったのはレッスンルームの方角だ。残り少ない昼休みの時間すら歌の練習に回す気でいるらしい。
砂月がトキヤに渡した譜面はどう見ても一週間やそこらで歌いこなせるようなものではなかったのに、そこを更に3日分も減らして盛大に見栄を切ったのだ。いかにもプライドの高いトキヤらしいが、かなり無理のある難題であることは誰にでも分かる。
だが一度宣言したことは何が何でも絶対にやり遂げてしまう彼のことだ。どれだけハードスケジュールだろうと無理矢理にでも練習時間を詰め込んで、本当にあの高難易度の曲を僅か4日で完璧に仕上げてしまうのだろう。

「にしても、あいつらもっと素直にいちゃつけねーのかよ……」
深々と溜息をつく翔には、苦労人という言葉がよく似合う。
「ああいう関係も一つの愛の形だと思うけどね。当人たちが楽しそうにしてるならそれでいいじゃないか」
「そりゃあ俺らは付き合い長いから分かるけど……」
そう、Sクラスの面々には分かるのだ。互いに負けず嫌いかつ素直になれない性格のせいで一見不仲のように思えるが、あの言い争いはいちゃつき以外の何物でもない。なんてややこしい愛情表現なのだろう。不器用な恋にしても限度というものがある。
あの二人の関係は、互いを高め合うという点から見れば非常に理想的とも言えるが、ひやひやしながら二人を見守る立場からしてみれば面倒この上ない。

「何も知らない連中が見たら誤解の嵐じゃねえか……前にBクラスの奴らが噂してるの聞いたぜ、『学内トップをキープしてるあのペアは超仲悪いらしい』とかなんとか」
「誤解ならいくらでもさせておけばいいさ、どっちみちあの二人には周りの噂になんて興味ゼロだろうし」
「……それもそうか」
翔はコーヒー牛乳の最後の一口を飲み干して、今までトキヤが座っていた隣の椅子に目をやる。
どうやらSクラスには個性の強すぎる厄介な人間ばかりが集まるらしい。そしてそれらの面倒をみるのは自分の役目なのだろう。
レンは最初からあの二人を観察して面白がることしか考えていないから頼りにならないし、かといって他のクラスメイトに重い役目を押し付けるわけにもいかない。結局自分がやるしかないのだ。

「板挟みってつらいよなあ」と涙声で呟いたら、「おチビちゃん頑張れ」と無責任な言葉と共にレンが優しく頭を撫でてきた。ちっとも慰めになりやしない。
俺の心の平穏を取り戻すためにも、お前ら早く素直になれ!などと心の中で叫んでみても、あの不器用な二人に届くはずはなく。それでも何かに八つ当たりをしなければ気が済まなくて、翔はささやかな反逆とばかりに、トキヤの座っていた椅子を勢い良く蹴るのだった。





2011/11/07


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