おやすみ、良い夢を。


「おい早く並べー!競技の説明始めるぞ!」
広いグラウンドに龍也の声が響いた。さすが龍也さんはジャージ姿がよく似合うねえ、などとどうでもいいことを考えた。
早乙女学園はアイドル養成専門学校だが、基礎体力作りのために体育の授業は必修で組み込まれている。
実際「体育」といっても世間一般で行われている体育の授業とはまったく異なり、「エキサイティング玉転がし」だの「命懸け借り物競争」だの、内容はほとんどバラエティ実習と大差ない。
どのみち、大して運動しなくても体型を維持できるレンにはあまり意味のない授業だった。

どうやら今日は「超次元サッカー対決」とやらをやるらしい。面倒そうに競技内容を説明する龍也の様子を見るに、これもおそらく学園長考案の競技なのだろう。
興味なさげに説明を聞き流していると、レンから見て斜め右、列の端にいるトキヤが視界に入った。
体を張る実習は得意ではないとぼやいていたのを前に聞いたが、授業となると苦手な分野でも完璧を目指して全力投球する姿は今までに何度も見てきた。あんなものは適当に手を抜いて、最低限の労力を使うのみにしておくのが一番楽だとレンは思う。だがトキヤは違うのだ。よくそこまで完璧さを追求できるものだといつも感心していた。

その完璧主義者的な姿勢は称賛に値するものだが、最近はそれが少し心配でもある。夜遅くに帰ってきてはすぐに起き、早朝ランニングを毎日欠かさないという話を聞いた時にはさすがにぎょっとした。そんな短い睡眠時間で体が持つはずがない。
いつしかレンは話を聞くことを放棄して、トキヤの観察に神経を傾けていた。
あまり顔色が良くない。そういえば前の時間、かなり眠そうにしていた。いつもは居眠りなど言語道断とばかりに背筋を伸ばして授業を受けているから、今日に限って珍しいものだと思った記憶がある。教室からグラウンドに移動する際もひどくふらふらしていた気がする。
そして今も、顔を上げてはいるが龍也の説明は耳に入っていないような様子だった。……かなりつらそうだ。

「倒れそうだな」と思うのと、トキヤがその長身からは想像もつかないくらい軽い音と共にぐらりと地面へ崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。




「…………」
うっすらと目を明けたトキヤは、まだはっきりと定まっていない焦点のまま視線を宙に彷徨わせた。
「あ、起きたかい?」
「……ここは……」
「医務室。今は誰もいないけど。……覚えてない?イッチー、あのままふらっと倒れたんだよ」
トキヤは「あぁ」と頷き数秒ほど黙った後で「授業は、」と呟いた。どうやらこの状態でもなお授業に出ようという気らしい。つくづく真面目な性格だ。それがトキヤの長所であり、時に短所にもなり得る。
「体育はもうそろそろ終わりの時間だ。今から出てもあまり意味は無いし、体を休める事を優先させるべきだと思うけどね」
体を起こそうとするトキヤを片手で制す。抵抗もせず素直にベッドに横たわるのを見るかぎり、起きようと思っても体が言うことを聞かない状態のようだった。こんなになるまで体を酷使するくらいなら大人しく授業を見学していればいいのに。まったく融通のきかない奴だと呆れる。

「水分欲しい?」と尋ねると、ブランケットに手をかけたままトキヤが首を横に振った。いつになく弱々しい仕草だ。今日はトキヤの珍しい姿ばかり見る。けれど本人はこんな姿など見られなくはないはずだ。普段だって、他人に弱みを晒すことを極端に避けているきらいがあった。だが隠し通そうとしても結局ボロが出る。
……ああ、それでも、その弱さを見せてくれるようになっただけ、少しは気を許されていると自惚れてもいいだろうか。ほんの少しだけ、優越感のようなものがレンの心をゆらめかせた。

「……もしかして、私をここに運んだのはあなたですか」
眉を顰めてトキヤが問う。随分と嫌そうな顔だ。
にっこりと笑って肯定してやると、途端にブランケットを鼻のあたりまで引き上げて、小さく「最悪だ」と呟くのが聞こえた。
「心外だなあ。わざわざ運んで来てあげたんだから、感謝されることはあってもそんなことを言われる筋合いは無いはずさ。それとも、オレなんかより龍也さんに運んでもらいたかったのかい?」
「そちらの方がまだマシです……どうせあなたは、私の意識がないのを良いことに、お姫様抱っこでもしたんでしょう」
「へえ、よく分かったね」
「な……っ!?まさか本当に……!?」
トキヤはお姫様抱っこのくだりは冗談のつもりで言ったらしいが、残念ながら本当だ。あの時、倒れたトキヤを抱きかかえ―――いわゆる「お姫様抱っこ」というやつで、医務室まで運んだのはレン自身だった。もちろん女子生徒の悲鳴とも歓声ともつかない黄色い声を背に受けながら。心配して来た翔の付き添いを断ったのは間違いだったとは思っていない。

涼しい顔のレンとは対照的に、トキヤは羞恥からか顔を赤くして抗議する。
「あ、あなたという人は……!私をからかうのもいい加減にしてください!」
「え、何?まさか恋愛禁止令に引っかかるんじゃないかとでも思ったの?」
わざとらしく笑ってみせたら、トキヤは口をぱくぱくさせて顔を更に真っ赤にした。
しばらくして、その目からじんわりと涙が溢れ出してきたのには流石に慌てた。病人相手に少し意地悪が過ぎたかもしれない。ただでさえ今のトキヤは心身共に疲弊している状態なのだ。いつもの調子で接してはいけない時というものがある。女性とのやり取りでその辺りの配慮は習得していたはずだったが、まさかあのトキヤがこの程度で涙を見せるとは思わなかったのだ。

「……ごめん、言い過ぎた」
頭先まで引き上げられたブランケット越しにトキヤの頭を撫でる。微かに震えているのが分かった。
いつまでもブランケットを頭から被っては暑苦しいだろうに、顔を見せたくない一心でトキヤは決してそれを手放そうとはしない。
中からくぐもった声が聞こえた。
「……いくら聖川さんの代わりとはいえ、やりすぎです」
「……え?」
予想だにしなかった言葉に、頭を撫でていた手が止まる。動悸が速まった。
「どうしてそこで聖川の名前が出てくるんだ?」
「どうしても何もないでしょう。気付かれていないとでも思ったんですか?……あなたが聖川さんしか見ていないことくらい分かります。私だってずっとあなたを見ていたんですから」
「え……えっ?」
「あなたは聖川さんに対して昔のように接することができない。だから私を聖川さんの代わりにして心を満たそうとしている。そんな分かりきったこと……分かって、いるのに、私は……あなたがあまりに優しすぎるから、勘違いしてしまいそうになる……あなたが私を好いていてくれるのではないかと」
「イッチー、それは、」

勘違いなんかじゃないよ。

喉元まで出かかったその言葉は、乾いた舌の根に邪魔されてついぞ発せられることはなかった。
まるで何かに突き動かされるようにトキヤは次から次へと言葉を重ねていく。
「そんな虚しい期待に胸を高鳴らせては、惨めになる。何度も思い知っているはずなのに、また凝りもせず期待を抱いてしまう自分に失望するだけで……もう、こんな思いをするのはたくさんです……!」
苦しげな声が吐き出された。今までに聞いたこともないような、追い詰められてひどく疲れきった声だった。
ブランケットを取り払うと、そこには腕で顔を覆い隠しているトキヤがいた。腕の隙間から見える透明な雫が頬を伝って白いシーツに染みを作る。強く引き結ばれた唇は、それでも嗚咽を閉じ込めることができず震えていた。

何も言えずただ呆然とその涙を見つめる。
こんなトキヤの姿を、レンは知らない。いや、知ろうとしなかった。
トキヤにあの男を重ねていることは自覚していたし、トキヤがそれに気付いていることもなんとなく分かっていた。それでもトキヤはレンの手を拒まなかったから、その接し方が許されているとばかり思って、何度も何度も傷付けていた。

トキヤの手首を掴み、顔を覆い隠す腕をどかせた。抵抗はされなかった。
兎のように赤くなった目の中に、レンを責めるような意志は感じられない。トキヤはどこまでも自分だけを責める。
今ここで、震える唇に優しく口付けてやれば、すべての言葉を封じて何もなかった事にできるだろう。これまでだって、数えきれないほどの女性相手にその万能な手段を使って帳消しにしてきた。一度唇を寄せてしまえば後はあっけないほど簡単に落ちる。
……だが、どうしてもトキヤに対しては、その切り札を使うことが出来なかった。
なぜかはレン自身にも分からない。簡単な方法で全てを終わらせたくないという思いがどこかにあった。
トキヤの目は、嘘のつき方を忘れさせる。

裏切りを重ねた自分が、どうすれば本気の気持ちを信じてもらえるだろう。

「……ねえ、イッチー」
ベッドの上に乗ると、重みでぎしりと軋んだ。涙で濡れた目をまっすぐに見た。
「イッチーはさ、オレをずっと見ていたって言ったよね」
「ええ」
「それで、オレは聖川のことしか見てないという結論を出した。ここまではいいかな」
「……ええ」
「―――じゃあ、君を見るオレの視線には気付いてた?」
「……え?」

きょとんとした顔。ああやっぱりか、と心の中で苦笑する。
人を観察することには長けていても、他人から向けられる好意にはひどく鈍い彼のことだから、どうせそんなことだろうとは思っていた。トキヤに対する誠心誠意の優しさも、勝手に都合の悪いように解釈されてしまっていたのだろう。これではおかしな誤解をされても仕方ない。
だから、ひときわ優しい声音で、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「今すぐに信じろなんて無理な注文はしない。ただ、これからはさ……オレの横顔ばかり見てないで、ちゃんと真正面から向き合ってよ。きっと分かってもらえると思うから。
……これくらいの“お願い”なら、聞き届けてくれるかい?」

トキヤは数度瞬きを繰り返す。それに合わせて長い睫毛が上下に揺れた。
数十秒の沈黙の後にやっと搾り出されたのは、
「そんな真剣な目をして言われた所で、簡単に信じると思ったら大間違いですよ……」
という、強気の欠片もない声だった。
それがおかしくて、思わずレンは吹き出してしまった。眉を顰めるトキヤを宥めるように笑いかける。
「なら、早く信じてもらえるように最大限の努力をするさ」
トキヤは相変わらず不機嫌そうな顔を崩さなかったが、頬に触れるレンの手を大人しく受け入れていた。




いつのまにか深い眠りに落ちたトキヤを、レンは飽きることなく眺めていた。
張り詰めた緊張の糸が緩み、歳相応らしいあどけない寝顔がさらけ出されている。
きっとトキヤは知らないのだろう。こうして眠る顔を見つめている時、レンの心はどんな時よりも、暖かく優しいもので満たされるということを。
腹の中からあたたかなものが込み上げて、思わず泣いてしまいそうになる時もある。
それを愛しさとか幸せだとかいう言葉で表現するのは簡単だったが、まだ明確な形にしておきたくはなかった。一度形を与えてしまうと、重さが生じて手のひらから落ちて行ってしまいそうだった。この気持に名前を付けるのは、いつかトキヤがそれに気付き、触れてくれた時でいい。

だから今はまだ、

「おやすみ、良い夢を」





2011/10/10


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