死神フラグメント


11階建てのビルの屋上に、一人の青年が降り立った。
ビルの階段を上ってわざわざここまで来たのではない。彼には空を自由に浮遊できる力が備わっていた。
すっと通った鼻筋、日の光を知らないかのような白い肌、透きとおる瞳。非常に整った顔立ちだ。表情は少しも動かない。鉄壁の無表情を顔に貼り付けて、彼は眼下に広がる街並みを見つめた。

彼は、死神だった。死にゆく人間の魂に寄り添い、死の先へ導く役目を持っている。トキヤという名を与えられた彼は、この街で、死を待つ者を探すためにここにいる。彼ら死神は、そのように死を迎えようとする人間を「待ち人」と呼んでいた。
屋上から見下ろす街は、生の気配と死の気配を同時に内包していた。会わねばならない人間とはいずれ、それほど時を経ずして顔を合わせることになるだろう。死神と待ち人は互いに引き合う。待ち人自身が死を望むと望まざるとに関わらず、だ。

不意に背後で騒々しい音が聞こえた。このような音が発生する場所は一箇所しかない。死神は頭だけを動かして、屋上から階下に繋がる階段の扉に視線をやった。
何者かが扉を開けようと、がたがた音を立てている。このビルの屋上は普段使われていないのか、誰かが勝手に入らないように鍵が掛けられているらしい。わざわざ階段を使って屋上に辿り着く必要のない死神には無縁の話だった。しかし、無理矢理扉を開けようとしてまでこの何もない屋上に来ようとは、随分と物好きだ。鍵が掛かっていると分かればすぐに諦めるだろうと思ったのだが、扉の向こうにいる人物はなかなかその場を立ち去ろうとはせず、開かない扉と長いこと格闘していた。

その人物に対して興味があったわけではなかったが、いつまでも騒音を立てられては迷惑だ。死神は眉を顰めたまま仕方ないと溜め息をついて、細く長い人差し指を扉に向けて一振りした。
かちゃん、鍵が外れる音。がしゃん、扉が急に開く音。ばたり、扉が開いた拍子に勢いよくコンクリートの床に誰かが倒れる音。その三段階の音を経て、扉の向こうにいた人物が屋上へ放り出された。死神はその人間を観察する。赤みのかかった明るい髪の少年だ。

「痛ぁ……さっきまで全然開かなかったのに、なんで急に……あれ」

強かに床に打ちつけたらしい腕をさすり、少年が顔を上げる。その視線の先には、先客である死神がいた。死神はいささか驚いたように目を見開いたが、それも一瞬だけで、すぐに無表情へと戻る。対して赤髪の少年はあんぐりと口を開けて彼を凝視し、突然体を起こしたかと思うと、死神が立つ屋上の縁へ駆け出した。それも、
「ダ、メ、だーーーーっ!!!」
と、必死の形相で叫びながら。

再び無表情を崩さざるを得なかったのは死神であった。突然のことに一瞬反応が遅れる。狭い屋上なので階段の扉から屋上の縁までそれほど長くはない。そのためすぐに死神と少年の距離は詰まった。少年は強い力で死神の細い腕を掴んで引き寄せた。
「なっ……!?」
バランスを崩した死神の体は容易に少年の側へと傾き、床に向かって落ちていく。だが死神が床に叩きつけられる痛みを受けることはなかった。少年が自らの体を死神の下に滑り込ませて衝撃を一身に引き受けたからだった。
少年の上に覆いかぶさるような体勢になった死神は、呆然と少年の顔を見つめた。展開が急すぎて頭の中の処理が追いつかない。
「い、いきなり、何を」
ようやくそれだけの言葉を搾り出す。すると少年は死神の下敷きになったまま、真剣な表情で、死神の手を握り締めて「ダメだ!」と先ほどと同じフレーズを繰り返した。

「絶対、ダメ!」
「だ、駄目とは一体、」
「自殺は、ダメだっ!!」
「……は?」

さっきから強く強く握り締められている手が痛い。早く離してくれないだろうかと思いながら、死神はやっと落ち着きかけた頭で事態を整理する。おそらくこの少年は、自分が自殺を試みようとしているのだと勘違いしている。だからあんなに必死になって止めたのだ。まさかそのような勘違いをされるとは。確かに、誰もいない屋上の端に人がひとりで立っていれば自殺と間違えてしまうかもしれないが。それにしてもこの少年は早とちりが過ぎる。死神は二度目の溜め息をついた。

「……あの、痛いのですが」
「えっ?」
「手が痛いのですが」
「あ、ごめんっ!きつく握りすぎちゃった」

少年は大慌てですぐさま手を離す。それに合わせて死神も少年の上から退いた。少年もようやく自分が突飛な行動をしてしまったことに気付いたようで、しきりに頬を指で掻いて平謝りした。
「いや、でもさ、自殺はやっぱりよくないよ、自殺は。せっかくの命なんだからもっと自分を大事にしないと。ね?」
どうやらまだ少年は死神の自殺未遂を信じて疑っていないらしく、不良少年を更生させる教師のごとく熱い視線を注いでいる。

「……私は別に自殺をしようとしていたわけではありません」
熱い視線から逃れるように目線を下に落とし、できるだけ平坦な声音で語る。少年は目をぱちぱちさせて首を傾げた。ともかく今はおかしな誤解を解かねば。言い聞かせるように、もう一度。
「自殺しようなんてこれっぽっちも思っていませんよ。私は人を探していただけです」
「だ、だって、普通、人を探そうとしてこんなとこに来る人間いないよ」
「人間じゃありませんから」
「へ?」
「私は死神です」
「…………んんー?」

やはり、と言ったところか。この話を一回聞いただけで信じる人間に出会った試しがない。
「……俺さ、……あれ、なんだっけ、中二病?っていうやつ?そういうのあんま詳しくなくてさ、どんな反応したらいいか分かんないんだ、ごめん!」
「私は中学二年生でもなければ病人でもありません」
「……えーっと」
「まあ、信じようと信じまいと、あなたの勝手ですが」
「……そっか」
少年は明らかに困った顔で、「もしかして家出かなあ」とか「受験失敗した浪人生が現実逃避?」などとぶつぶつ呟いた。小さな声だったが、死神には聞こえないとでも思っているのだろうか。

どうせ正体を明かしたところで信じてもらえるとは端から思っていなかった。自分が本物の死神であることを証明することはいくらでもできた。扉には鍵が掛かっていて、空から降りる以外は屋上に行く術がないということは少し考えれば分かることだ。それに、一度死神の力で空を飛んで見せてやればすぐに終わる。だが、全ては「面倒」の一言で退けられた。正体を信じられようがそうでなかろうが、死神としての使命を果たす上で大きな差はないのだ。この際好きに勘違いなり誤解なりすればいい。……既に、目的は果たしたも同然なのだから。

そう、死神が出会うべき人間、すなわち「待ち人」は、目の前にいるこの少年だったのだ。初めて彼を目にした瞬間に確信した。
普通の人間には死神の姿を視認することができない。死神を見、その声を聞き、体に触れることができる人間は、死の際に立たされている者だけだ。この少年、傍から見ればとても死にそうには思えないが、死神の姿が見える以上、近い未来に待ち構えている死は避けられない。そして何より、死神の直感が少年の命が残り僅かであることを告げている。彼は数ヶ月と待たずに死ぬ運命なのだ。
死神の目的は、余命短い彼の最期を見届けること。そのためにこの街へやって来た。

少年はしばらく独り言を繰り返していたが、ふっと思い出したように死神を見た。
「ねえ、家出か何かは知らないけどさ、もしかして君……行く宛てがなかったりする?」
唐突な、そして何を問いたいのかも不明瞭な質問だ。
「……逆に尋ねますが、それは私に居場所を提供してくれるということですか?」
「あっ、うん……居場所っていうか、なんていうか……ここで会えたのも何かの縁だし、もし暇だったら俺と一緒にお茶でもどうかな、なんて」

世間一般ではこれをナンパと呼ぶ。
しかしこの少年の場合は違うのだろう。おそらく彼は、自身に忍び寄る死の気配に気付いている。死を待つ人間は本質的に孤独だ。その孤独を埋めるために、ほんのひとときでも誰かと共に過ごしたいと願う。彼はただ、話し相手が欲しいだけなのだ。幾度もそのような人間を見てきた死神には分かる。彼もまた、数多く存在した「待ち人」の一人にすぎないのだと。

「……構いませんよ。幸い、時間ならいくらでもありますから」
死神がそう告げると、少年はぱっと笑顔になった。
「ホント!?うわぁありがとう、こういうの久しぶりだよ!……俺は一十木音也。よろしくね、死神さん」
「……『死神』は私と同じような役目を担う者たちの総称に過ぎません。あなたたちを『人間』と呼ぶようにね」
「じゃあ名前は」
「私の名はトキヤです」
「えーと、できればフルネームで教えてもらいたいんだけど」
「死神としての名に苗字はありません」
「……つまり、そういう設定ってこと?」
「だから設定などではなくて……」

訂正しかけたが、やめた。いっそのこと「設定」だと思わせておいた方が楽かもしれない。死神は本日三度目の溜め息をついた。これからしばらくの間、喜怒哀楽が激しいこの少年を観察し続けなければならないことに対する溜め息だった。今までとは違って、目的を遂行させるのにかなりの労力が必要になりそうだ。
音也という名の少年は再びにっこりと笑いかけると、今度は少し力を緩めて死神の手を取った。
「じゃ、行こっか!」
それは、まるで死さえも跳ね除けてしまいそうなほどに眩しい笑顔だった。

――――けれども、死神は知っている。
音也が、鍵の掛かっている扉を無理矢理こじ開けようとしてまでこの屋上を目指した理由を。屋上の端に立っていた自分を見て顔色を変え、必死になって止めようとした訳を。
……本当は、音也こそが、自殺をしようとしていたのだ。死というものに寄り添い続けた死神には分かる。分かってしまう。

だからこそ、と死神は心の内で自らに言い聞かせる。だからこそ、自分が彼の話し相手になるのだ。
笑顔の似合う明朗な性格を持つ一方で、死の孤独を抱えた寂しがり。面倒と言ってしまえばそれまでだったが、たまにはこんな人間に付き合うのも悪くない。
しかし、そのような思惑は露ほども見せず、死神は音也に手を引かれるまま、今度は歩いて屋上へと続く階段を下りていった。





2011/08/02


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