ネオメロ14/盤上錯綜


部屋の両側は天井まで届く本棚で囲まれ、小難しそうな背表紙がずらりと並んでいる。この国の歴史と政治制度について記された本ばかりだ。久しく誰も手に取っていないのか、本棚は僅かに埃を被っていた。政府高官の執務室としては少々手入れが杜撰だ。
その部屋の主であるアデクは、文机の上に肘を乗せて頭を抱えていた。国を動かす役職に就いて以来、彼を悩ませ続けている事柄の行く末を考えると溜息しか出ない。どうにかしてこの国の中枢を変革しようと、アデクはこの数年間必死になって駆けずり回ってきた。しかし彼を取り巻く状況は悪化の一途を辿るばかりである。研究機関の長ゲーチスは国の各機関へと権力を伸ばし、評議会はほとんどゲーチスの意志を反映させるための場になってしまった。その圧力を受ける政府とて例外ではない。アデクが一人で懸命に抗った所で、傀儡政権と化したこの組織を変えることは容易ではなかった。

評議会や政府には、異端分子となりうるアデク一派をよく思わない者達が少なくない。その風当たりの強さはアデク自身が一番よく知っていた。役職を更迭され、「人材の墓場」たる監察機関へと飛ばされるのも時間の問題だろう。
――だが、そうなる前に、この腐りきった政府に何かひとつでも楔を打ち込まなくては。
そうは思うものの、八方塞がりのこの状況では徒に時間を浪費するばかりだ。故にアデクは頭を抱えているのである。
彼が切実に願うのは、突破口となるトリガーの出現だった。数ヶ月前に取り沙汰された「天才数学者の脱走」というニュースはそれに成り得る可能性を秘めていたはずだったが、世間を混乱させるばかりで、直接的な影響を及ぼしているわけではない。未だに発見されていないということは、地下深くで何かしらの動きが起こっているのかもしれないが。

アデクの眉間の皺がより深く刻まれようとした時、執務室の扉がコンコンと軽く叩かれた。アデクは顔を上げ、扉の向こう側の気配に「おや?」と首を傾げる。見知ってはいるが、しかし、思いもよらない人物の気配だったからだ。
「アタクシよ、アデク」
鈴を転がすような声が扉の向こうから響く。気怠げに、面倒くさそうに。
アデクが声をかけるより先に、重い木製の扉が音もなく開いた。そこに立っていたのは一人の少女――カトレアだった。寝間着のような服を身に纏い、悠然とした足取りで執務室へと入ってくる。そして彼女の背後でまた扉がひとりでにゆっくりと閉まった。一切手を触れていないにも関わらず、だ。重い扉がいとも簡単に動いたのは、彼女の持って生まれた特殊な力によるものだった。

珍しい来客を、アデクは驚きと共に出迎える。カトレアは形式上こそアデクの部下という立場であったが、実際はそのような上下関係など存在しておらず、同盟者としてカトレアに力を貸して貰っているような間柄だった。カトレアが自らの意志でアデクの執務室へ訪れることなど、今までに一度としてなかった。
「よく来てくれた、カトレア」
来賓用のソファを勧めながらカトレアに向き合う。しかし彼女は首を横に振った。「立ったままでいい」という意思表示だ。出歩くのすら億劫なあのカトレアが、ソファに座ることを断るとは。イレギュラーな出来事の連続にますますアデクは首を傾げるばかりだ。

「意外だな、おまえが自分からわしを訪ねるなど」
「アタクシもそう思う。予感がしなかったらきっと一生来なかったもの」
「予感か」
「ええ。何かが起こる予感よ。……それで、秘書課に問い合せてみたら、やっぱり来てたわ」

カトレアが右手をひょいと上げると、何もない空間から一つの封筒がぱっと現れ、彼女の手のひらに収まった。
「――この手紙が。」
そう言って、カトレアは白い封筒をアデクへと差し出した。彼女がここへ来たのは、この手紙をアデクに直接渡すためだったのだろう。無精者のカトレアがわざわざ自分の足で届けに来たのだ、重要でないわけがない。
封筒を裏返すと、真っ先に赤い封蝋へと目が行った。薔薇をかたどった封蝋――薔薇の刻印は監察機関のシンボルである。見れば、封筒の下にはシャガの名が本人の直筆で記されていた。

「これは……監察機関のシャガ殿からか」
「ええ。それも私書扱いでね。公的な文書ではないわ。あのヒトは個人的にアナタにコンタクトを取りたがってる。……政府の監視の目が届かない場所で、と付け加えた方が正確かしら」
こともなげに告げられた重大な事実に、アデクの体が緊張で強張る。無意識のうちに冷や汗が流れていた。
その反応はカトレアにとって想定内だったのだろう、緊張するアデクとは裏腹にカトレアは冷静さを保っていた。アデクが手紙の中身を見ようとするより先に、言葉で先回りする。
「アタクシはいない方がいい?」
「いや、そこにいてくれ。手紙の内容次第では、すぐに動いてもらうことになるだろうからな」

カトレアは頷いて、この部屋に一つしかない扉へと目を向けた。
「じゃあ、外にいる3人もまとめて中に入れるべきね」
意味深な言葉の後、再び扉が開いた。彼女が「力」を使って開けたのだ。すると、どさどさと音を立てて3つの人影が執務室の中へとなだれ込んだ。
「ひゃあっ!?」
「……!」
「おっと……」
一人は派手な襟のついた服を着た眼鏡少女、一人はがっしりとした肉体を持つ大柄な男、一人は黄色の長いマフラーを靡かせた細身の男。あえなく床に倒れ伏したり、咄嗟に受け身を取ったり、ひらりと華麗に衝突を回避したりと、突然の出来事に対する反応は各人で様々だった。
彼等はシキミ、レンブ、ギーマ。カトレアと同じように、アデクに請われて力を貸している部下たちだった。

「おまえたち、いつからそこに……」
澄まし顔のカトレアとは真逆に、アデクは大いに驚き呆れた表情で3人を出迎えた。まさか聞き耳を立てられているとは思っていなかったのだ。怒る気はなく、どうせなら最初から部屋に入っていればいいだろうとアデクの顔に書いてある。
2人が5人に増え、執務室の中は途端に騒々しくなった。レンブは非常に恐縮したように何度も頭を下げるが、ギーマとシキミはまったく悪びれる様子もなく開き直っていた。
「うーん、割と始めの方からかな。カトレアには最初から気付かれてたみたいだけど」
「申し訳ありません師匠、聞き耳を立てるなどみっともないとは思ったのですが、2人がどうしてもと……」
「アデクさん!アタシたち、その手紙の中身が気になって仕方ないんです!」
ぱっと立ち上がって姿勢を正したシキミにならい、レンブとギーマも横に並ぶ。

「……という事らしいけれど、いいわよね?」
3人の意志を代表するように、カトレアがアデクに向き直る。余裕のある態度だ。きっと彼女はこの展開になることを既に知っていたのだろう。
アデクも驚きの表情をおさめて頷いた。前に立つ部下たちの目を一人ずつ見やる。
「ああ、おまえたちにも関わることだ。そこで手紙の内容を見届けてくれ」
そうして、アデクは再び手紙へと視線を戻した。これからの行く末を左右するであろうその手紙を、ゆっくりと開く。4枚綴りの便箋には、シャガの直筆でアデクへの伝言が事細かに記されていた。
この数ヶ月の間に、監察機関のメンバーが誰と出会い何を思ったのか。ばらばらだった彼等の意見が如何にして一致したのか。――そして彼等は、何を決めたのか。

「これは……」
手紙を読み進めていくごとにアデクの表情は驚愕の度合いを強めていった。4人の部下はその様子を固唾を呑んで見守る。やがて最後の一枚を読み終えると、アデクは中空を見上げて大きく嘆息した。その長い息には、プラスともマイナスとも取れる様々な感情が入り交じっていた。言いようのない空気が執務室に流れるが、その空気を破ったのはギーマだった。
「……敢えて問うておきますがね、アデクさん。手紙には何と?」
単刀直入である。遠回しな言葉を使って相手を慮るのは、今この場では必要ないと判断したのだ。
アデクはしばらく放心していたが、その眉間にゆるゆると皺が戻っていく。毅然とした表情で、彼は言った。

「……監察機関が、本格的にレジスタンスと手を組むそうだ。総員の意志を以て政府と対立する、と」

告げられたのは衝撃的な事実。4人が同時に息を呑む気配がした。ある程度予想できていた答えであっても、改めて言葉にされると衝撃は段違いだ。シキミはきゃっと小さな悲鳴を上げ、ギーマは肩をすくめて不敵に笑い、レンブは決意に満ちた表情で唇を引き結び、カトレアは興味なさそうに欠伸をした。
「これはこれは……」
「反政府の意思表示を、よりによって政府高官のアデクさんに伝えるなんて!度胸ありますねえそのシャガさんて人!ロマンに溢れてます!」
「師匠、如何するおつもりですか」
「あらレンブ、尋ねるまでもないわ。この手紙からは、同意を求める思念しか伝わってこないもの。アデクの意志が既に固まっていることを知った上で……その決意を確かめるために、シャガは手紙を出したのよ。……そうでしょう、アデク?」
カトレアの碧い目は真っ直ぐにアデクを捉えていた。カトレアはその「力」も相俟って非常に聡い少女だった。シャガの思惑、アデクの決意、すべてを見透かすように彼女は微笑む。故にアデクも、何ひとつ包み隠さずに自らの考えを打ち明けた。

「……ああ。わしは、政府に反旗を翻そうと思う。だがこれはわし一人では決められない選択だ。おまえたちの意志を聞きたい。……付いて来てくれるか」

その言葉に誰よりも早く反応したのはレンブだった。
「何を今更。あなたに未来を託すと決めた日から、あなたの意志は我等の意志です、師匠」
握り拳をぱしんと手の平に打ち付けて、力強く頷いた。揺るぎない忠義がそこにある。
「そうですよ!あたしだって、議会のお年寄りがゴリ押ししてくる表現規制法案を認めるわけにはいきませんから!」
負けじと声を張り上げたのはシキミだ。文学を志す彼女には、表現の自由を取り上げようとしてくる議会や政府は敵でしかない。彼女がアデクの元につこうと思ったのは、窮屈になっていくこの国の風潮に逆らって、アデクが掲げる「自由」に惹かれたからだ。

「リスクは大きければ大きい方が燃え上がる……ギャンブルとはそういうものだからね」
前の2人とは異なる空気を纏って、ギーマは片眉を上げた。ギーマの言うように、アデクが選ぼうとしている道は相当にリスクが大きい。政府からほぼ独立している監察機関はともかく、アデクらはあくまで政府の一員だ。不審な動きをしようものならすぐにでも察知される危険性が高く、迂闊な行動はできない。
政府の人間が、自ら属する組織を裏切るということ。決して生半可な覚悟で選ぶ道ではなかった。アデクも他の皆もそれを十分すぎるほど分かっている。しかし、だからこそ選び取る価値がある。根っからのギャンブラー気質であるギーマにとって、この状況は願ってもみない転機だった。

「別に政府だとか国がどうこうなんて興味ないけれど、安眠を妨げられるのだけは嫌だもの」
カトレアは相も変わらずのんびりと欠伸をしている。心穏やかに眠れる限り、国がどうなろうと彼女の知ったことではない。しかしその安眠に危機が訪れるというならば話は別だった。長期的な安眠を手に入れるため、今この時だけは目覚めて力を貸してやろう――それがすべての行動原理である。しかし彼女はこう見えてなかなか負けず嫌いの性格で、「叩き潰すならば徹底的に」がポリシーであるから、政府の末路は決まったようなものだ。

レンブ、シキミ、ギーマ、カトレア。性格も考え方もまったく異なる4人だが、アデクにとってはとても頼りがいのある部下たちだった。
アデクは左胸に手を当てた。脈打つ鼓動に自らの決意を乗せる。……もう、ずっと前から心は決まっていたのだ。その決意を表に出すためのきっかけが欲しかった。シャガからの手紙はトリガーとして十分すぎるほどの役割を果たしてくれた。
政府にいながら政府を裏切り、この国の仕組みを内側から崩していく。外側から政府と真っ向勝負するレジスタンスや監察機関とはまた違う立ち位置で。それがアデクたちのやろうとしていることだ。独裁者の手から権力を奪うには、少々乱暴な手段を取らなくてはならない。それに伴うリスクが変革の重要性を物語っていた。

「……ならば行こう、この国を守るために!」

アデクは高らかに宣言した。4人もまた不敵に笑う。変えるのではなく、守るため。彼等の戦いは今まさに始まったばかりだった。



囚われの籠を抜け出した一人の天才は、この国の至るところに染みをつくり、急速に世界の色を変えていた。白と黒との混濁がありとあらゆる変革を引き起こす。
本人たちですら知り得ぬ場所で、運命は着実に動き出していた。





2013/11/24


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