ネオメロ13/絵空の虹


ソウリュウから東へと向かう道の途中でのことだった。市外へと出る道を進んでいくうちに、自動車の数がにわかに増え出したのだ。普段はそこまで混んでいないはずの道が、通行する車でいっぱいになった。とうとう長い渋滞の列に並んでしまう。
「どうしたんだろう?」
トウヤの運転するバイクの後ろに乗った状態で、Nは不安げに声を上げた。周囲で立ち往生しているドライバーたちも、車窓を開けて道の先の様子を窺っている。彼等の噂話がトウヤたちの耳にも入ってくる。

――なんでも、ソウリュウシティと外を繋ぐ道が全部封鎖されてるらしいぞ。検問を通らないと市外に出れないとか……
――検問?どうしてまた……
――さあね……また政府が変なこと企んでるんだろうよ。
――聞いた話じゃ、市長のシャガ様ですら検問無しには通行を許されないそうよ。余程のことみたいねえ……

その話を聞いて、トウヤとNは同時に顔を見合わせた。
「……どうしよう、トウヤ。検問だって」
「…………」
「身元の照会は、ボクが作った偽造IDでなんとかなると思うけど……かなり厳しい検問のようだし、それだけで通れるかどうか……」

トウヤも表情を曇らせた。おそらくこれは、政府が自分たちを捕らえるための対策だと考えて間違いない。今までにも検問の類はいくつか経験してきたが、Nが政府のデータバンクに侵入して架空の国民データを登録することで何とか誤魔化してこれた。どれも緩い規制だったため、その程度でも充分に対応できたのだ。
だが、今回はこれまでのようにはいかないらしい。Nが調べた情報によれば、ソウリュウ周辺で未だかつてないほどに大規模で厳しい検問が実施されているという。2人がまだソウリュウ市内にいることを、政府は目ざとく嗅ぎつけたようだ。
強引に突破する以外で、検問を通過する手段がないわけではなかった。例えば市長権限を使わせてもらうとか――とはいえ、シャガには世話になりすぎた。これ以上頼る訳にはいかない。それに市長のシャガですら検問を強制実施されるのだから、市長権限はあまり当てにもならないだろう。

トウヤは様々な突破ルートを脳内でシミュレートしたが、どれも確実なものではなかった。
「少し、方策を考えてみる。とりあえず今日はどこかに宿を取って、明日また様子を見よう」
「……うん」
空はもう橙色に染まりつつある。今日は市外に向けてずっとバイクで走り続けていた。トウヤはともかく、Nは疲労が溜まっていることだろう。トウヤはNの体調を優先させることにし、バイクを方向転換させた。





ところが、警戒態勢が厳しくなったのは検問においてだけではなかった。市に正式な許可を得ているホテルの類には、どこも必ず政府からの執行官が監視としてついていたのだ。野宿をすることも考えたが、この街中ではそれができる場所もない上に、むしろ野宿をしている方が怪しまれる確率は高いように思われた。個人経営の宿も今の状況では厳しいだろう。かといって誰かの家に泊まらせてもらうというのも到底無理な話だ。
街の外に出ることも、どこかに宿を取ることもままならない――つまり、八方塞がりの状態である。2人はいよいよ進退窮まって街の中を彷徨うはめになった。バイクは街中の駐車場に止めてしまったため徒歩だ。しかしいつまで経っても今夜の宿は見つからない。

夕陽がいよいよ地平線の向こう側に沈もうかという時になって、トウヤはぴたりと足を止めた。口元に手を当てて何か考え込んでいる。隣を歩いていたNは同じように立ち止まってトウヤを不思議そうに見た。良いアイディアが浮かんだのだろうか。
「……ちょっと、N、こっちに」
「え?」

トウヤはふと顔を上げると、すぐさまNの手を取って早足で歩き始めた。夕暮れ時の人混みを縫うようにして、どんどんと街の外れへ向かっていく。
戸惑ったのはNだった。もうこの街の中で宿泊できそうな場所は調べ切ったはずなのに、一体トウヤはどこへ行こうとしているのだろう。トウヤの意図は分からなかったが、かといって他に方策があるわけでもなかったのでNは大人しく連れられるままに従った。
街の外れに近づいていくにつれ、人の賑わいはまばらになった。子供や年寄りの姿はなく、その代わりに2人で連れ添う男女の姿が多く見受けられるようになる。建物の雰囲気も、商店や住宅ではなく、薄暗い路地にネオンの光が灯る怪しげなものへと変わる。路地裏で深く口付けを交わし合う男女を見て、Nはやっとこの一帯がどういう場所なのかを理解した。

「ねえトウヤ、ここってもしかして……」
「Nの想像してる通りの場所だ。素性を隠して入るにはちょうどいい」
「へ、へえ……」

ここがいわゆるラブホテル街だということを、トウヤは最初から分かって目指していたようだ。確かにここは無法地帯とも言える場所だった。行政の認可を受けていないであろうホテルが立ち並び、店側も利用者がどういった素性であるかを詮索しない。そういう暗黙の了解によって成り立つ一角なのだ。そして、政府の監視もさすがにここまでは届いていないようだった。
表情を強ばらせるNとは対照的に、トウヤは普段と何一つ変わらず平然としていた。元の職業柄、こういった場所に足を踏み入れて暗殺の仕事をこなすことも多かったのだろうとNは思うことにした。

トウヤは所狭しと並ぶホテルの中から一番清潔そうなところを選び、怖気づくNを半ば引きずるような形で中へ入っていく。受け付けにいた店員は2人の顔をまともに見ることもなく、ごくごく事務的に部屋のルームキーを渡した。金さえ払えば後はどうぞご自由に、というスタンスらしい。政府のお尋ね者が来ようと、そもそも男同士でホテルに入ろうと構いはしないのだ。Nにはその自由さが逆に恐ろしく感じられるほどだった。

「……さて、とりあえず宿の心配はなくなったな」
部屋に着くとトウヤは軽く息をついた。だがNは先程からそわそわと落ち着かずにいた。初めての場所に戸惑いを隠せていないのだ。
「それはそうだけど……トウヤは気にならないのかい?」
「? 何が」
「こういう場所に来ることがだよ……いくら都合がいいとは言っても」

部屋の内装を直視できずに俯く。圧倒的な存在感を放つダブルベッド、やたらとムーディーな雰囲気を演出する淡い間接照明、どうぞ使ってくださいと言わんばかりに堂々と置かれているアレやソレ。その方面の知識に疎いNですら嫌でも分かってしまう。
Nの心境を察知してか、トウヤは少し肩を竦めた。

「あまり考え過ぎるな。いつも使ってる宿泊施設と同じように過ごせばいい。……『こういう場所』だからって、俺とNがどうこうする必要はないんだから」
するとNは一気に赤面して何度も平謝りをした。
「ごっ、ごめん、別にそういうつもりで言ったわけじゃ……!」
「知ってる。……それより、早くシャワーを浴びて休んだ方がいい。今日は歩き回って疲れたろう」
いつも通りの態度、いつも通りの優しさ。Nは自分だけが変に意識していることを恥ずかしく思ってしまった。もう逃亡生活も長いのだ、そろそろ開き直ることを覚えるべきかもしれない。
なんでもないことなのだと自分に言い聞かせ、「そうさせてもらうよ」とNは苦笑した。





シャワーを浴び終えると一気に眠気が襲ってきて、ふらふらと揺れる足取りのまま広いベッドへと倒れこんでしまった。どうやら思った以上に疲労が溜まっていたらしい。肉体的にも、そして精神的にも。2人用のダブルベッドは一人で眠るには広すぎる。ふかふかしたベッドの上で眠りの淵に落ちていくのは、とても心地良いものだった。
Nと入れ替わるようにしてシャワールームへと消えていくトウヤの背中を、霞む視界の外に見送った。トウヤはシャワールームにも必ず銃を一丁持ち込む。いつ襲撃されてもいいようにという万が一の備えらしい。そこまで警戒しなくてもいいんじゃないか、と以前尋ねたら、昔からの癖が抜けないんだという答えが返ってきた。暗殺者という職業はそこまで気を張らなければならないのだろうか。ボクには到底できそうにない仕事だなあとNは小さく欠伸を噛み殺しながら思った。


Nはトウヤについて詳しいことは何も知らない。トウヤが自分から話すことは勿論、自分から訊くこともなかった。おそらくこちらから訊けばある程度答えてくれるだろうが、Nが本当に知りたいことはきっと煙に撒いてしまうに違いなかった。
トウヤは決して嘘をつかないが、その代わりあまり多くを語らない。特に自分自身の過去を語ることは徹底的に避けているようだった。Nに出会うまで暗殺者であったということ以外、彼の出自に纏わるデータは無い。普段の会話の中でNがふとそれに触れても、トウヤはやんわりと話題を逸らしてしまうのだ。あまりにも自然に会話の内容を誘導されてしまうので、はじめこそトウヤの意図に気付くまで時間はかかったが、何度も繰り返すうちにやっと違和感を覚えるようになった。

(トウヤは、ボクに何かを隠している……)

トウヤとの出会いの時に、Nは自らの過去と感情をすべて曝け出した。彼の中に自分の記憶を刻み付けるために。だからといって代わりにトウヤにも過去を打ち明けろと強制するつもりはなかった。言いたくないなら無理に言わなくていいし、自分たちの間に余計な詮索は必要ない。隠し事の有無を理由にして、トウヤに信頼されていないと感じることもなかった。互いの間に秘密をなくすことだけが信頼の証ではないのだから。
――それでも、少しだけ寂しいと思ってしまうのは、論理的な判断を抜きにしたNの個人的な感情によるものだった。トウヤのことをもっと知りたい。トウヤが自分の理想に美しさを見出してくれたように、自分もトウヤの抱える秘密を受け止めることができるなら。そう願わずにはいられない。たとえトウヤが望まない選択だったとしても。


夢見心地でそのようなことをぽつぽつと考えている間に、トウヤがシャワールームから戻ってきた。彼は寝間着まで黒で統一している。
眠りかけのNを起こさないようにという配慮なのか足音を完全に消していた。ゆっくりとNの元へ進み、そのままベッドの脇に腰を下ろした。腕組みをした状態で壁へ背中を預ける。
トウヤがまともな寝方をしないのは今に始まった話ではなかった。宿が混んでいて一人部屋しか取れなかった時は、Nだけをベッドに寝かせて自分は床に座ったまま寝るし、野宿の時は尚更だ。周囲を見張ることに集中してろくに寝てもいない。短い睡眠時間でも休息は充分に取れる、と言われたがNには到底納得できなかった。
Nは今までにも幾度となくきちんとベッドで眠るよう促したが、トウヤは頑なにそれを拒んだ。ベッドに横になった状態だと、いざという時にすぐ対処できない可能性があるからだ――というのがトウヤの言い分である。ベッドが二人分用意されている時ですらそうなのだ。彼の決意は固く、結局最後にはNが折れる形でこの状態が続いている。

だが、どうしてかこの時ばかりはNも黙っていられなかった。
「……あの、トウヤ?」
Nは既に寝ているとばかり思っていたのだろう。トウヤは僅かに驚いた表情でベッドの上のNを見上げた。
「どうした?眠れないのか」
「違うよ、そうじゃないんだ……よかったら、キミもベッドで寝たらどうかと思って」
するとトウヤは何故今更、とばかりに不思議そうな表情で首を傾げた。

「俺は床でいい」
「でも、」
「この体勢で寝ることには慣れてるから大丈夫だ。構わず寝てくれ」
「キミはいつもそう言うけど、」
「いいから」

大丈夫だ、気にするな、早く寝ろ、の一点張りだ。こういう時のトウヤは本当に頑固だった。Nが何を言っても聞かない。
いつもならNはこの辺りで渋々また布団に潜り込む所だったが、まだ食い下がる。一度ベッドから降り、床に正座してトウヤと同じ目線になった。Nのその行動にトウヤはひどく驚いた表情で目を白黒させた。シャワーを浴びたばかりなのに汚れるだろうとか、お前はそんなことしなくていいとか、珍しくしどろもどろになりながらNを何とかベッドに押し戻そうとする。だがそれで引き下がるNではなかった。Nもトウヤと同じくらい意固地なのだ。

「……トウヤ」
「は、はい」
何故か敬語である。
「キミは、警護のためだとか、自分は丈夫だから心配ないとか尤もらしいことを言って、ボクだけをベッドに寝かせようとするね。キミが自分で主張するように、そちらの方が慣れているのは分かる。……でも、ボクは嫌なんだ。キミは単なるボディーガードなんかじゃなくて、ボクの……その、トモダチ、だろう?」
トモダチ。その言葉にトウヤは目を見開いた。N自身も、自分と彼の関係をその呼び名で言い表していいのか懐疑的ではあったが、他にしっくり来るような表現が見当たらなかったのだ。

「ボクはキミを一人の対等な人間として接したいんだ。寝る場所なんて些細な問題かもしれないけれど……それでも、一人がベッドで寝て、もう一人が床で寝るのは、『当たり前』とは言えないと思う」
「……だったら、俺はどうすればいい?」
トウヤは途方に暮れた顔で訊いた。このような時に取るべき対処は、どのマニュアルを見ても載っていない。
Nは何度か瞬きを繰り返してトウヤの目をじっと見つめた。そして数秒の沈黙の後、こう言い放ったのである。

「ボクと一緒に寝よう」

「……は?」
トウヤの反応は至極もっともだった。Nのことだからアレやソレのように深い意味は含まれていないことは分かり切っていたが、さすがにこうストレートに言われると面食らう。しかしNはあくまでも大真面目だった。
「今日は一つしかベッドがないけれど、幸いこれは大きなサイズだから二人が横になっても余裕があるよ。トウヤとボクなら大丈夫なはずさ。……ああ、いや、別に変な意味ではなくてね。普通に寝るなら問題はないだろうと思って」
取って付けたように加えた言い分は逆にあからさますぎたが、Nが精一杯トウヤに気を遣っているのは分かる。その気遣いを無碍に出来るほど、トウヤはNに対して無神経になれない。

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
長いこと考え込んでいたトウヤだったが、今度は彼がとうとう折れる番だった。





薄い生地のカーテンから漏れ出る光を受けて、今が朝なのだと知った。すぐにでも閉じてしまいそうになる瞼を無理矢理持ち上げることで覚醒状態を維持する。
朦朧とする頭で昨夜の出来事を思い返す。トウヤはNが眠るまでずっと起きていたようで、昨日はずっと背中に視線を感じてなかなか寝付けなかった。だが眠りに落ちる瞬間というのは本人には決して自覚できないものらしい。気付いたら見ての通りの朝になっていた。昨夜は結局2人でダブルベッドを使ったわけだが、当然何かが起こるわけもなく朝を迎えた。
そういえば――と布団の中でもぞもぞと寝返りを打つが、おそらく先程までそこにいたはずのトウヤの姿はなくなっていた。どうりで背中がいつもより寂しく感じるわけだと納得する。

「トウヤ……?」
僅かばかりの期待を込めてトウヤを呼んだが、返事はなかった。どこへ出かけてしまったのだろう。トウヤはNよりも遅く寝て、Nよりも早く起きる。本人曰く短時間睡眠で事足りる体質らしく、、トウヤが安眠しているところなどNは一度たりとも見たことがなかった。寝顔というだけなら、トウヤの目覚めを待っていたあの夜に嫌というほど見ているが、あれはカウントしないでおきたい。
Nは仕方なくベッドから這い出て素足で床に着地した。カーテンを開けると明るい日差しが部屋の中に差し込んできた。窓の向こうに広がる景色は閑散としている。朝のラブホテル街はあまり格好がつかないものだった。
バスルームで顔を洗う。水が思った以上に冷たかったものの、お湯は出さずにおいた。そのせいで少し肌がひりひりする。元々Nは肌が弱い方なのだ。タオルで顔を拭いていると、扉が開く音がした。視線だけを向ければ案の定トウヤが紙袋を抱えて帰ってきた所だった。

「おはよう、それとおかえり、トウヤ」
「おはよう。ただいま」
Nの言葉に律儀な返事をして、トウヤは抱えていた紙袋をベッド脇の棚に置いた。今日の朝食を買ってきたのだろう、紙袋の中から果物と焼きたてのパンの匂いがする。その中にはきっと、トウヤの好物である林檎が入っているに違いないと考えて、Nは少しだけ頬を緩ませた。





丸一日が経過しても、ソウリュウ市外へ出る道はどこも検問が解除されていなかった。その検問自体もやはり厳しいようで、少しでも素性に怪しいところがある者は突き返されてしまうらしい。
ホテルを出た2人は、街中の噴水広場で対策を練ることにした。休日だからか親子連れの姿が多く見受けられる。さしものNも今日ばかりはお気に入りの白衣を仕舞い込み、ブラウンの地味な服に着替えていた。トウヤも同様に変装している。果たしてこの変装にどれほどの効果があるのかは定かではないが、やらないよりはましだろう。
噴水の縁に腰掛け、2人は眼前に表示された端末の画面と睨めっこする。

「さて……この検問、どうやって通過しようか。偽造IDだけでなんとかなるならいいんだけど」
「もしそれで駄目なら、係の人間を脅してでも突破する」
「……トウヤ、それ本気で言ってる?」
「……いや」

つい先程まで眉根に皺を寄せていたNは、相変わらず真顔のトウヤを見て途端にへらりと笑った。「キミは真顔で冗談を言うから分からないなあ」と笑いで肩を上下させる。トウヤが彼らしからぬことを言う時は、決まってNの緊張を和らげようとしているのだ。
悩んでいても仕方ない、とNが立ち上がりかけた刹那、横から調子外れな声が鼓膜に突き刺さってきた。

「ねえ、そこの人!背の高いお兄さん!」

Nが目を白黒させて周囲を見回すと、ボロ布のマントに身を包んだ男性と目が合った。ウェーブのかかった豊かな茶髪、彫りの深い顔立ちにエメラルドグリーンの瞳、首に巻かれた赤いスカーフ、マントから突き出ている手足は妙にひょろ長い。ボロ布を纏っているために一見浮浪者にも見えかねないが、その立ち振舞いはどことなく優雅だ。Nは訝しむように首を傾げた。
「えっと……ボクのこと、ですか?」
「そうそう、キミと、その横にいる連れの人ね。あー、ボクは別に怪しい者じゃないよ!どこにでもいる旅の絵描きさ。放浪アーティストってとこかな!」
唇の端を吊り上げて笑うその姿は見るからに怪しい。だが芸術家と言われればどことなく納得してしまう雰囲気がある。カンバスやら絵の具やらといった画材一式を背負っている所を見ても、絵描きという肩書きはおそらく本当だろう。

「あのさ、もし時間あるならボクの絵のモデルになってくれない?ボクは旅の絵描きなんだけどね、ちょうど今人物を描きたい気分だったのさ。道行くキミ達を見ていたら、なんだかハートにビビっとくるものがあったんだよ〜インスピレーション全開ってやつだね、ねえどうかな?」
「は、はあ……」
初対面にも関わらずぐいぐいと迫ってくる。下手な宗教勧誘よりも押しが強い。あまりこういった状況に慣れていないNはついそれに流されてしまいそうになる。
だがトウヤは別だった。Nと絵描きの男の間に割り込み、標的を仕留める時のような鋭い目つきで絵描きを睨みつけた。

「断る」
「えっ、いきなりなんだいキミ」
「断ると言ってるんだ」
有無を言わせない態度で何度も同じ台詞を繰り返す。Nは思わず安堵の息を漏らしたが、すぐにこの状況があまり好ましくないものであることを察する。不穏な空気を感じ取った住民たちが、怯えたようにこちらを見ているのだ。ここは噴水広場である。家族連れが多く集まる場所で、こんな衝突は避けるべきだ。Nは咄嗟にトウヤの腕に取りすがった。

「あまりここに長居してもいられないんだ。それに絵なんて形の残るもの……」
「まあまあトウヤ、ちょっと抑えて。あんまり刺々しい態度はいけない」
「……」
「確かに長居していられるわけでもないけど、この人せっかくインスピレーションが湧いたそうだし……断るのも可哀想だろう?」

ここで断ると怪しまれかねないし、変装してるから大丈夫だよ。Nは小声でトウヤに耳打ちした。
するとそのやり取りが聞こえていたのかいないのか、絵描きはここぞとばかりに声を張り上げる。
「モデルといっても15分くらいで済むよ。あんまり時間は取らせないからさ!」
ねっ!と彼は両手を合わせて頼み込むポーズをした。その大げさな反応はいよいよわざとらしい。トウヤは未だに信用できないという表情で絵描きをねめつけていたが、隣にいるNが「お願いだから」と強く裾を引っ張ってくるので、仕方なく頷いた。

「……Nがいいなら、そうする。ただし15分だけだ」
「わあっ、よかったあ〜ありがとう!じゃあ早速描かせてもらうよ〜」
絵描きは心底嬉しそうに飛び上がると、背負っていた画材を下ろして筆を取った。





それからちょうど15分後。宣言通り、絵描きはカンバスから筆を離して満面の笑みを形作った。
「はい完成!いやあ〜、人物画は久しぶりだったけど、なかなかどうして良い感じの絵ができたよ〜!モデルが良かったからだね。ありがとうキミ達!」
ただその場で突っ立っているだけなのにモデルがいいと言われてもしっくり来ない。2人は今しがた絵描きが完成させた絵を覗きこんだが、そこにあったのは、果たしてモデルの意味があったのか?と言いたくなるような抽象的な絵だった。人物だと言われればそう見えなくもないが、デフォルメを効かせすぎてとてもモデルを参考にしたとは思えない。だが絵描きは非常に満足そうな顔をしているので、おそらくこれでよかったのだろう。

絵描きは相変わらずのにこにこ顔だったが、急に思い出したように口を開いた。
「あっそうだ、お礼にいいこと教えてあげるよ」
ちょっと待っててね、と言うと、絵描きは懐から真っ白な紙を取り出して、筆で直接さらさらと何かを描き始めた。直線を組み合わせたそれは、絵というよりも図形に近い。2人が訝しんで顔を見合せている間に、絵描きはあっという間に一枚の図を完成させ、Nに押し付けた。

「はい、これがボクからのお礼だよん」
「これって……」
渡された紙をまじまじと覗き込む。よく見ればそれは、この街周辺の地図のようだった。幾重にも重なった線の合間を縫うようにして、現在地である噴水広場から一本の赤い線が引かれている。そして、森を示す絵に繋がった所でバツ印が付けられていた。ここへ行けということだろうか。
「ここから南に3kmくらい行った所にね、地元の人しか使ってない森への抜け道があるんだ。場所を知ってる人も少ないし、そこには検問が敷かれてないんじゃないかな〜、たぶん」
事も無げに絵描きはそう言ったが、トウヤとNは驚きで目を見開くことになった。

「どうしてその情報を……?」
瞬きを繰り返すNに対して、絵描きは「ここだけの話だけどね」と小さく囁いた。
「ボクは虫が大好きなんだ。そこの森には、絶滅しかかってる虫達がまだたくさん残っててね……キミらに教えた抜け道はボクもよく使ってるんだよ」
ほら見てみてよ、と彼は手にしていたスケッチブックを二人に広げてみせた。分厚いスケッチブックには、どのページにも美しい虫の絵が描かれていた。先程の抽象画は何だったのかというほど写実的だった。虫に対する深い愛情が見て取れる絵だ。人間にはまったく興味がないから、先程はあんな絵になったのかもしれない。

それに、と絵描きは手をひらひらさせて続けた。
「キミたちが検問のせいで困ってる様子だったからねえ。貴重な時間を割いてモデルになってくれたんだし、知ってる情報は教えてあげなきゃと思ってさ。その道を使うかどうかはキミたちの自由だよ」
トウヤは渡された地図と絵描きを何度も交互に見比べていたが、やがて「嘘をついてるわけじゃなさそうだ」とNに耳打ちした。トウヤは嘘を見抜くことに長けている。その彼が言うのだから、絵描きの言葉は真実なのだろう。手書きの地図はかなり大雑把ではあったが、データ上で確認しても、彼が示したバツ印の場所には確かに森が存在している。地理的には間違いではない。
見るからに怪しく掴みどころのない人物だが、この人の言葉は信じられるとNには思えた。

「……ありがとうございます。見ず知らずのボクたちに」
「いやいや、親切な人にはお礼をしなくちゃねえ」
絵描きはそう言って飄々と笑った。白い歯がきらりと光る。
トウヤとNは彼に一礼すると、ソウリュウ市外へと出るために、示された地図の通りに南へと向かっていった。
その2人の背中を見送り、完全に見えなくなった後、絵描きはおもむろに懐から通信端末を取り出した。絵の具だらけの手でぽちぽちとボタンを押し、電話をかける。


「あー、もしもし?アロエねえさん?ボクだよボク、アーティだよお。久しぶりー。
……え?今どこにいるかって?えーっと、ソウリュウシティとビレッジブリッジの境のあたりだよ。そうそう、いつものあの森の所。……やだなあ、遊び呆けてるわけじゃないよ。ボクは自分自身の純情ハートと真剣に向き合って……ああ、うん。そうだけど。ここでの目的は終えたし、すぐ飛行機でヒウンまで戻るつもり。近々いろんな組織が動き出す頃だろうからね。
……そうそう、今日の電話の本題はね、それに関することなんだ。ほら、アロエねえさんって確か……なんだっけ、レジスタンス?に入ってたよね?あれなんだけどさ、ボクも混ぜてもらおうと思って。うん、もちろん本気だよ。何をする組織なのかもちゃんと分かってる。

きっかけ?……あー、これって言っていいのかなあ……まあいっか。あのさ、前にフウロちゃんやシャガさんが言ってた二人組……そうそれ、Nとトウヤ、噂の白黒コンビ。今さっき、偶然あの二人に会ったんだよねえ。いやほんと偶然だって。なんか検問がどうこうで困ってたみたいでさ。
それで、ちょうどいいと思って絵のモデルを頼んでみたんだよね。……馬鹿じゃないかって?ちょっとねえさん、その言い方は酷いよ!ボクは芸術を通して人の本質を見ることが得意なんだよ、だからこれでよかったんだってば!……うん、分かってくれればいいんだよ。
で、その二人は快くモデルになってくれたからね、お礼に例の抜け道を教えてあげたってわけ。いやあびっくりしたなあ。ボクが虫以外の絵を描こうと思ったのは初めてだったし、それに相手がモデルの頼みを引き受けてくれるなんてさー、絶対断られるだろうと思ってたもん。

まあそんな感じでね、あーこの二人って話に聞くよりずっといい子達じゃないかと思ったんだ。正直な話、政治なんかには全然興味ないんだけどさ……この子達のためなら、重い腰を上げてもいいかなってね。だからボクもレジスタンスに入るよ。確か、監察機関の上級メンバーはボク以外もうとっくにレジスタンスに入ってるんだよね?じゃあこれで監察機関は完全に政府と対立することになるわけだ。
……ボクは出先だから、代わりにアロエねえさんがみんなに伝えといてよ。最後にアーティがレジスタンスに加わりましたーってさ。うん、よろしく。ボクもヒウンに帰り次第準備を整えるよ。それじゃまたね」


通話を終え、絵描きは先程描き終えたばかりの絵を見てにっこりと笑った。愛しの虫ほどではないが、絵の中にいるこの2人は今しがた彼のお気に入りになった。
「さーて、ボクも頑張らなくっちゃなあ!」
絵筆を握ったまま、ぐっと背伸びをする。これからしばらくは、ゆっくりと絵を描くこともできなくなるだろう。だが彼はそこまで悲観していなかった。戦争なんてさっさと終わらせてしまえばいいのだ。そうして平和な空の下で、豊かな自然と虫の姿を描こう。愛する虫達が伸び伸びと幸せに生きていける世界こそ、彼の望むものだった。



(やがて見えるハッピーエンドの空を、ボクは何色の絵の具で描こうか)





2013/06/20


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