ネオメロ11/心音讃歌


柔らかな萌黄色が庭を包み、時折そよぐ涼しい風がハルジオンの白い花弁を揺らす。新緑の季節だ。
シャガの私邸内にある庭園で、Nはベンチに座りながら自然の息吹をありのままに感じていた。トウヤと出会った頃はまだ冬の終わりが見えない時期だったと記憶している。あれから3ヶ月あまりが経った現在、庭園の中で芽吹く緑はすっかり春の色へと変化していた。季節の移り変わりになどほとんど目もくれずに旅を続けていたが、こうして立ち止まってみるのも悪くないものだと気付く。

手にしていた文庫本を膝の上に置き、右手を太陽に翳す。日差しの心地良い眩しさに目を細めた。さやさやと揺れる木々の音に耳を澄ましていると、横から近づいてくる足音が聞こえてきた。ふと顔を上げれば、そこにはこの屋敷の主であるシャガが立っていた。

「こんにちは、シャガさん」
「ああ。……日光浴かね?」
「そんなところです。今日は空気が澄んでいますから」

環境汚染の進むこの国では、今日のように空気が澄み渡る日は珍しい。シャガもNに言われてやっと気付いたように深呼吸をした。そして「確かにいい空気だ」と呟いて小さく微笑んだ。
軽く会釈をしてから、シャガはNの横に腰掛けた。と同時に、春風が2人の頬を撫でる。まるで主を歓迎するかのように。

「……先日話した件については、考え直してくれただろうか」
前触れもなくシャガはそう切り出した。市長として多忙な日々を過ごす彼が、わざわざこんな庭園にまで足を運ぶ本来の目的は、くつろぐことではないはずだ。Nがここにいるから彼は来た。
先日話した件とは、レジスタンスへ入らないかというシャガの勧誘だ。トウヤには先に打診したが、色よい返事は貰えなかった。そのことをシャガはまだNに話していない。もしかすればNは首を縦に振るかもしれないという僅かな期待があったからだ。Nは以前シャガから勧誘を受けた時、一度はその場で断っていた。だがもう少しだけ考えてみて欲しいと言われたのだ。
だが、考え直すまでもなかった。Nの心はとうの昔に決まっていた。
Nはシャガと目を合わせることはなく、足元に咲くシロツメクサに視線を落とした。小さない白がいくつも緑の芝生に花開いている。

「ボクの考えは変わっていません。あなたがたの組織の庇護を受けられるのは魅力的ですが、ボクはまだしばらくトウヤと旅を続けたい。組織に加わって国を動かそうと思い立つには、ボクは世界を知らなすぎるのです。そんな状態であなたがたの志に賛同するわけにはいきません」

多くの命を奪ってきた自らの罪を償うこと。失われたものを取り戻すこと。――それが、Nの望みであり、彼が外の世界へと出た理由だった。だがその目的は欠片ほども果たされていない。逃げることだけで精一杯だった今までは、漠然とした焦りだけが頭を支配するばかりで、具体的に自分が何をするべきなのかも分かっていないのだ。
明確な目的が定まっていない以上、他の誰かの目的に縋り付いて、自らの運命すら委ねてしまうのは危険だとNは考えていた。流されるままに生きてきた結果が、あの地下の研究所での日々なのだから。

Nの強い意志を読み取って、シャガは降参だというように深く息をついた。トウヤとN、この2人はまるで正反対だと思っていたが、その思い込みは撤回しなければならないだろう。こういう頑固なところは2人ともよく似ている。
「ならば、彼にも早くその意向を伝えてやるべきではないか?確かまだ会いに行っていないのだろう」
その言葉にNは毅然とした表情を崩し、困り顔になって眉尻を下げた。Nは未だにトウヤとの面会を避けていた。自分の中の迷いがまだ拭い切れていない。シャガはNのその心を見透かすように言葉を続けた。

「一人で悩み続けても答えは見つからないものだ。まずはその迷いを打ち明けてはどうだ?……彼ならば君の望む答えを出してくれるような気がするよ」
これは私の希望的観測にすぎんがね、と付け加える。自分が干渉できるのはここまでだろうとシャガは思う。あとはこの2人が自力で答えを見つけなければ意味が無い。
Nはそこでやっと顔を上げてシャガを見つめた。自分よりも遥かに歳月と経験を重ねたその姿を敬うように。
春の息吹が頬を撫でる。この風はトウヤの居る病室にも届いているだろうか。





彼の記憶には穴がある。覚えている限りで最も古い記憶は、眼鏡をかけた研究員の充足感に満ちた笑みだった。

『わたくしの声が聞こえますか?』
『……はい』
『わたくしの姿は視認できますか?』
『はい。見えます』
『では、自分の検体番号を言ってみてください』
『検体番号6253です』
『よろしい。上出来です。では最後に、わたくしの名前は――?』

――ああ、あの研究員の名前は何といっただろう。今では曖昧に霞んで思い出せない。
窓のない密閉された空間、塩化ビニールの無機質な床と、一面真っ白な壁、人工的な光を放つ蛍光灯。そんなどうでもいい情報だけは覚えているのに、肝心の会話の内容は、黴が水道管をじわじわと侵食していくように消えかかっていた。
これよりも後に降り積もる記憶の方が遥かに鮮烈すぎるのだ。血と硝煙の臭い、鳴り止まない耳鳴り、鼓膜をつんざくような断末魔の叫び、纏わりついて離れない死の気配。忘れることは赦されない。けっして、けっして、絶対に。





「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げてトウヤは目を覚ました。目の前に広がる殺風景な天井の色は、夢の中の風景によく似ているが違う。ここはあの研究所じゃない。ここは安全を約束されている場所だ。手足を拘束されることも、得体のしれない注射を打たれることも、たくさんのコードをつけられて頭の中を弄られることも、望みもしない殺戮を強制されることもない。あれは夢だ、忌まわしい過去の破片だ、現在ではない。
分かっているはずなのに、体はベッドに縛り付けられたようにぴくりとも動かない。浅い呼吸を何度も繰り返すと胸が僅かに上下する。息苦しい。頭が痛い。全身がずっしりと重く感じる。額を脂汗が伝った。

「…………、」
どくどくと波打つ心臓の音を聞いているうちに、ゆるやかに汗が引いていった。体の重みも和らぐ。ひとつ、時間をかけて深く息を吸う。先程とはまるで違う新鮮な空気が肺を満たした。
しばらくすると大分落ち着いたようだった。やっと動くようになった手で汗を拭い、上体を起こす。

――あの夢を見るのは久しぶりだった。Nと出会ってからはもう見ることはないだろうと思っていたが、現に今こうしてひどい疲労感に襲われている。何一つ克服できていないし、悟りきれていない。
ここに誰もいなくてよかったと安堵した。あんな醜態を他人に、ましてやNに晒す訳にはいかないのだ。Nにはなにも心配させたくなかった。

そういう意味では、Nが未だこの病室を訪れないことも一種の救いであるだろう。傷はだいぶ癒え、あとは元通り動けるようリハビリに徹するだけにまで回復した。歩くこともできるようになったのだから、ここで待たずとも自分からNに会いに行くことはできた。けれどトウヤはそうしなかった。意固地になっているわけでも、怯えているわけでもない。ただNの意志を尊重したいだけなのだ……と、自分自身に言い含める。もう1ヶ月近く経とうとしているのに、この言い訳はさすがに厳しいだろうか。

僅かに開けていた窓から、春の風が吹き込んできた。季節は停滞する日々を追い抜いて、素知らぬ顔で春へと移り変わっていく。
自分もこのままではいられない。少しでも早く本調子を取り戻さなければ。トウヤは首を振り、夢の残骸を払いのけた。そしてベッドから下りると、トレーニングルームへ向かうために病室の扉を開けようとした――が。

「え、あっ、」
扉を開けようとしたのとまったく同時に、反対側からも同じ作用が働いた。トウヤが驚きで顔面を硬直させている間に、扉の向こう側にいた人物は体勢を崩してよろけた。トウヤはそれを反射的に受け止めようとするが、相手は寸でのところで持ちこたえたらしく、トウヤが伸ばした腕は想定した動作を完遂させることなく宙を掻いた。行き場のない手を引っ込めるきっかけを完全に見失う。

「トウヤ?」
聞き慣れた――しかし久しく聞いていなかった声が名を呼んだ。この呼び声を待っていたのだ。ゆっくりと視線を合わせると、春の日差しのような笑みが向けられていた。
「……久しぶり」
その声と共に、林檎の甘酸っぱい香りが病室に届く。万年の氷河期かと思われたこの場所にも、やっと春がやってきた。





「時期は少し遅いのだけど、お見舞いにはやっぱりこれがいいと思ってね。無理を言って用意してもらったんだ」

そう言いながら、Nは病室に置いてあった背もたれのない椅子に腰掛けると、一抱えほどあるバスケットを膝の上に乗せた。うきうきとした表情で、バスケットを覆う白い布を取り外す。すると先程からふわふわと漂っていたほのかな甘い香りが一気に濃さを増した。やはりこれは林檎の香りだとトウヤが再度認識する傍らで、バスケットの中には、鮮やかな赤色をした林檎が今にも零れ落ちそうなほど所狭しと盛られていた。
こんなにたくさんの林檎が入ったバスケットを一人で抱えてきたというのか。いくら運搬距離が短いとはいえ、さぞかし重かっただろう。だがNはそんな労力の痕跡を――汗の一粒も見せずに、柔らかな微笑みを湛えている。

「林檎か」
「そうだよ。キミ、好きだろう?林檎」
「……好きなのか?」
トウヤは一度も林檎を好きだと言った覚えはなかったし、好きだという自覚もなかった。だがNは自信満々に頷いた。
「買い出しの時はいつも林檎を買っていたじゃないか。キミはね、青果店に行くと真っ先に林檎を手に取るんだ。そしてボクに了承も取らずに会計を済ませてしまう。だからてっきり林檎好きなんだと思っていたんだけど……もしかして、自分でも気付いていなかったのかい?」
「……確かに」

トウヤはあまり食には頓着しないタイプの人物だった。ぱさぱさに乾いてろくに味もしない戦闘糧食にも辟易したことはない。一日の行動に足るカロリーが摂取できればそれでいい、という考えが根底にあった。だから自分には、嫌いな食べ物はもちろんのこと、好物など存在しないとばかり思っていた。

しかし思い返せばNの指摘通りだ。買い出し後の紙袋にはいつだって林檎が入っていた。Nが食べることもあったが、大抵の場合トウヤの胃袋に収まるのがほとんどだった。あの赤色を見るとつい手が伸びてしまうのだ。現に今も、赤く熟した林檎に対して少なからず心を弾ませている。それが好物に対する当たり前の反応なのだと、トウヤはNに言われて初めて知った。いつの間にNはトウヤの好物の正体に気付いていたのだろう。

「やっぱり、林檎を選んで正解だったね」
トウヤが高揚しているのを察してか、嬉しそうに笑う。林檎が敷き詰められているバスケットの中を探り、桜色のハンカチに包まれた細長いシルエットを取り出した。ハンカチの隙間から黒い柄が覗いていた。……嫌な予感がする。
Nは林檎の群れの中から一番赤く熟した果実をひとつだけ選ぶと、バスケットを病室の隅にある棚に置いた。右手には赤い林檎、左手にはハンカチに包まれた何か。もうその時点でトウヤはNが何をしようとしているのかを理解していた。今すぐその行動を止めたいような、けれどこのままNの成すことを見届けたいような、相反する思考が頭の中をぐるぐると巡る。

そんなトウヤの迷いもお構いなしに、Nはバスケットを覆っていた白い布を膝にかけて、その上に林檎をころんと落とした。桜色のハンカチを右手に持ち替え、するすると剥がす。やはりというか何というか、銀色に輝く鋭利なナイフが2人の眼前に現れることとなった。

「剥くのか、ここで」
「食べるなら剥きたてがいいと思ってね」
「……だったら俺がやる」
「駄目だよ、キミは労られる側なんだ。キミはボクが林檎を剥くのを見ているだけでいい」
「でも、危なっかしいじゃないか。果物ナイフなんて使ったことないだろう」
「大丈夫だよ。アイリスに教えられて練習したから」

こんなつまらないことのために練習なんてしたのか、という言葉をトウヤは飲み込んだ。Nは真剣だ。本当にトウヤを労るつもりで、林檎を剥いてやることが最大の慈愛なのだとばかりに、Nは意気揚々とナイフを握る。
だがトウヤにはとても耐えられるものではなかった。先程拭ったばかりの脂汗が再びどっと溢れ出た。危なっかしいとか、怪我をするかもしれないとか、そういう心配以前の問題だった。
「……トウヤ?」
急に黙りこくってしまったトウヤを心配して、Nが顔を覗き込んできた。真っ青なトウヤの顔を見て、Nははっと息を呑んで表情を変えた。

「だめだ、N。お前は、ナイフなんて、持たなくて、いい」

掠れた声を絞り出す。途切れ途切れの言葉がNに届いているかどうかは定かではない。
――トウヤはNに刃物を握ってほしくないのだ。刃物だけではない。銃だってそうだ。どんな目的であれ避けるべきなのだ。たとえ、それを握る目的が、林檎の皮を剥くという微笑ましいものであったとしても。
戦うこと、人を傷つけ得るありとあらゆるものからNを遠ざけたかった。Nは何も知らなくていい。血管を切り裂いて滴り落ちる赤黒い液体の色も、錆びた鉄の臭いも、不快な死の気配も。Nの目に映るのは選び抜かれた綺麗な景色だけでいい。汚れた部分は全て自分が請け負おう。だから、だから。

溢れて止まらない言葉の数々は、ついぞ口から出てくることはなかった。微かに震える唇は吐息しか吐き出さない。
それでも、Nにはトウヤの言いたいことが伝わったようだった。銀色に光るそれを手から離して、苦しそうに眉根を寄せる。
「トウヤ、大丈夫だよ」
その「大丈夫」は、先程呟かれた同じ台詞とはまったく別のニュアンスを含んでいた。
「ボクは、キミが思っているほど繊細ではないし、綺麗な世界にいたわけでもないよ。キミの想像よりずっと汚れた場所で生きてきた。……それなのに、ボクは綺麗事ばかりをキミに押し付けているんだ」

Nの声は震えていた。思わずトウヤは顔を上げた。トウヤと同じくらいに顔を歪めたNがいた。
「ボクの目の前で誰も傷ついてほしくない、だからキミには誰も傷つけてほしくない……こんな無茶な願いを、キミは忠実に叶えようとしてくれたね。自分一人ではナイフを握る勇気すらないのに、キミにはそれをいとも簡単に強要できてしまう」
Nはトウヤが人を傷つけることを拒む。それを見て自分が傷つかないために。そうやってトウヤの自由を制限することで、トウヤが本来の力を出せず窮地に陥ろうとも。今回のように生死の縁を彷徨うことがあってもだ。

「ボクはキミを失うことを何よりも恐れながら、何度もキミに無理を強いるだろう。そうしていつか、キミの命の灯火が消える時が訪れても。きっとボクは、最期の瞬間までキミに綺麗事を押し付けるんだ」

その行為はまるで、死なないでくれと泣きながら刃を突きつけているようなものだ。本当に矛盾している。しかしNにはその相反する溝を埋めることはできない。ずっとずっと間違い続けていく。
トウヤに制されるずっと前から、Nはナイフを懐に忍ばせていたのだ。きらきらと美しく輝く、綺麗事という名の刃を。薄っぺらい美辞麗句で飾り立てられたそれを、彼に向けて振り下ろす。何度も何度も突き刺して切り裂いて、血が出ても構わず、命すら奪っていく。多きを救うために少きを犠牲にする、正義の名の下に行使される暴力と同じだ。

この綺麗事は、きっといつかトウヤを殺す。

……そのことに気付いてしまったから、今まで会いに来れなかった。その事実を認めてしまったが最後、トウヤは永遠に自分の元から離れていってしまうのではないかと恐れた。こんなもの、トウヤが経験した痛みに比べればどうということはないというのに。自分の弱さと甘さに虫酸が走る。
だが、もう何もかも吐き出してしまった。自らの傲慢さも、身勝手さも、全てトウヤの知る所となった。後は彼からの断罪を待つだけだ。Nは唇を噛んだ。目を伏せて、膝の上にある林檎をぎゅっと握る。

トウヤはNの思いがけない告白に驚きを感じながらも、ただ黙ってその言葉を聞いた。先程までの焦りに似た感情は消え去っていた。自分以上にNが深い苦悩の海を彷徨っていることを知ったからだ。けれどもトウヤにとって答えはひとつしかなかった。

「……『きれいごと』で、いいじゃないか」

彼は自分のありのままの考えを表せるほど多くの言葉を持っているわけではなかった。もどかしい思いを抱えながら、少しでも伝わるように拙い言葉を紡いでいく。
「何も卑下することはない。Nが掲げる願いは、本当に嘘偽りなく綺麗なんだから」
「でも……そんな、」
Nは動揺していた。瞳がぐらぐらと揺れている。断罪を覚悟した状態だったにも関わらず、突然許されてしまったのだ。否定ではなく肯定の言葉を向けられたことで、Nは明らかな戸惑いを示していた。

「Nの綺麗事が俺を殺すというなら、俺を生かすのもNだ」
「キミを、生かす……?」
「ああ。Nがどれだけ『綺麗事』と貶めても、俺はそれをとても美しいと――尊い理想だと、思う。Nがその願いを天高く掲げていてくれるから、俺も迷わずにいられる。揺らぐことのない道しるべなんだ」
だから、と続ける。万感の祈りを込めて。彼がその優しさを傲慢だと誤解してしまわないように。

「お前は、その尊い理想を胸に生きてくれ。俺が生きるために」

Nはブルーグレイの瞳をいっぱいに見開いた。僅かに身じろぎをした拍子に、膝に乗せていた果物ナイフが床に落ちる。からん、と軽い音がした。林檎の甘い香りは途切れない。確かな質量が未だNの手のひらの中にある。その赤い実を、まるで心臓のようだと思った。

たとえその間にどのような想いがあろうとも、Nとトウヤの間にある客観的事実は覆らない。Nは自分の願いを叶えるためにトウヤを利用している。自分が傷つかないために、トウヤを代わりに傷つける。
その身勝手さに。我侭に。傲慢に。愚かな願いに。彼は、「理想」という美しい名を与えてくれた。尊いものだと言ってくれた。

叶わぬ幻想にとらわれて犠牲にしてきた過去を、「誠実」と呼んでもいいのだろうか。
諦めきれない醜い足掻きを、「真摯」と呼んでもいいのだろうか。
自らの願いのために相手の優しさを利用することを、「信頼」と呼んでもいいのだろうか。
傷付いても、失う恐怖に怯えてもなお、隣で生きていたいと願う我侭を。――「理想」と呼んでも、いいのだろうか。

はらはらと、Nの瞳から透明な雫が溢れ、頬を伝い落ちていった。涙と呼ばれるその液体は留まることを知らず、頬だけでなく手のひらを、手のひらだけでなくその中の林檎をも濡らした。嬉し涙とは違う。かといって悲しいわけでもない。ただただ、「理想」という呼び名の美しさに震えた。
トウヤがNに向けて手を伸ばす。そうして、林檎を握り締めるNの両手を包み込むように、右手を重ねた。あたたかい。いつか失われゆく体温だとしても、今はひたすらにあたたかい。これが優しさ以外の何であるというのだろう。

トウヤは優しすぎるのだ。何も言わず、何も咎めずにいてくれる彼に甘え続けてしまう。それがとても心地よくて、動けない。
本当に彼の未来を願うなら、ここで手を離すべきなのだろう。だが、Nにはどうしてもできなかった。たとえ離れざるを得ない運命だとしても、今はトウヤの隣に居続けたいと願う。Nは何も言葉を紡げず、代わりに何度も頷いた。





朝靄がうっすらと屋敷の周りを囲む、とある春の朝だった。まだ起き出す人は少ないであろう早朝の時間帯に、4人は別れを告げるためそこにいた。旅立つのはトウヤとN、それを見送るのはシャガとアイリスだ。それ以外は誰も彼等の旅立ちを知らない。
トウヤとNの2人がこのシャガ邸に世話になってから約1ヶ月。トウヤの傷は完全に癒えた。懸命なリハビリにより、ほとんど元の感覚を取り戻したといっていいだろう。再び旅に戻るのには申し分ない。

「この通用口から出て裏の山を回っていけば、人目につくことなく市街へ出れるだろう。……だが、政府の警戒は今まで以上に厳しいものになっているだろう。くれぐれも慎重にな」
「……本当に、何から何までありがとうございます。移動手段まで用意して頂いて。本当にありがとうございます」
Nはシャガに向かって深々と礼をした。トウヤもそれに続く。
シャガは2人のために最新型のバイクを手配した。トウヤの要望を聞き入れ、隅々まで改造を施したオーダーメイドの2人乗りバイクである。トウヤとNがこれから先の逃亡生活に不自由しないようにというシャガの配慮だった。勿論、バイクには食料を始めとした生活必需品も携帯されている。トウヤはこれ以前に乗り心地を試したことがあったが、申し分の無い性能だった。
どうお礼を言ったらいいか……と俯くNに対し、シャガは気兼ねするなと笑った。

「私がやりたいようにしたのだから構わんよ。……その代わりと言っては何だが、レジスタンスの件は忘れずにおいてほしい。もしこの先、我等の力が必要になったならいつでも呼んでくれ。惜しみなく手を貸そう」
「ええ。必ず」
差し出されたシャガの右手を強く握り返す。揺るぎない信頼の証だ。2人の旅はまだ続くだろうが、その先で彼等レジスタンスと共に戦う未来が確かに見える。そう遠くはないうちにまた出会うことになるだろう。そんな予感がする。

「……っ!!」
それまで目を伏せて肩を震わせていたアイリスが、急に耐え切れなくなったように顔を上げた。目に涙をいっぱい溜めたまま、両手を広げてNに抱きついた。
「えっ、えぬさん!またね!また会おうね!!ぜったいだからね!」
「……うん、約束するよ。アイリスもその日まで元気でね」
「アイリス、げんきでいるよ!Nさんも、トウヤおにいちゃんも、げんきでね!」

わあわあと泣きじゃくる幼子の姿に、青年たちと老人は皆一様に目を細めた。普段ならこの時間帯は、アイリスはまだぐっすりと眠っているはずの早朝だ。けれども彼女は、2人との別れをしたい一心で早起きの新記録を達成した。ここまで慕われて嬉しくないはずがない。僅か1ヶ月の滞在とはいえ、Nは愛着を感じ始めていたのだ。別れはやはり寂しかった。

しかし、旅立たなくては。自分が真に成すべきことを見つけ、その意志を貫くために。
別れがたい思いを振り切り、ゆっくりとアイリスの手を離す。Nのアイコンタクトを受けてトウヤはバイクのエンジンをかけた。
「この1ヶ月、とてもお世話になりました。……それじゃ、また」
「……ああ」
言葉少なに別れを告げてバイクに乗り込む。手を振って見送られる視線を背中に感じながら、2人はまた新たな旅に出た。
シャガの言うように、これからの旅は今まで以上に困難を極めるかもしれない。だが2人ならば――トウヤと一緒なら乗り越えていけるとNは思った。根拠や証明など何もない不確かな信頼、それこそが何よりも強い繋がりだった。





(いつか終わりが来るのなら、その瞬間までふたりでいよう)





2013/05/19


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