ネオメロ10/水天彷彿


「Nさんっ!きょうもお勉強おしえてー!」
「いいよ。昨日出した宿題はやってきたかい?」
「もっちろん!ほらっ!」
「……うーん……自信たっぷりの割には、ちょっとした計算ミスが多いかな……」
「うそー!?」

柔らかな日差しが差し込む談話室で、青年と少女が楽しげにやり取りしていた。青年は少女に簡単な数学の基礎を教えているようだった。一桁から三桁までの数字と、四則の演算記号が白い紙の上に踊っている。
少女は鉛筆を握り締めると、これでどうだとばかりに勢い良く式を書き連ねた。幼い子供特有の、一つずつがやたら大きくいびつな文字だ。その一方で青年は、細く流麗な筆跡でそれに朱を入れていく。途中で迷走してしまった計算式も、青年の手にかかればみるみる内に丁寧に整えられていくのだ。その鮮やかな過程を見て少女は歓声を上げた。

「わああ……!Nさんってやっぱりすごいんだね!魔法みたい!」
「魔法なんかじゃないよ。ちゃんと順序立てて考えていけば、キミにだって簡単に解けるはずだ。……さあ、この通りやってごらん」
「うん!」

2人の歳の差はかなり開いているはずだが、それでも、先生と教え子というよりは仲の良い兄妹のように見えた。
――シャガの孫であるアイリスが、Nに勉強を教えてほしいと頼んできたのは、今から1週間ほど前に遡る。
Nたちは追われる身であるため、大病院で治療を受けるわけにはいかず、シャガの私邸で世話にならざるを得なかった。怪我の治癒と安全のため外出もままならない。その間にできることと言えば、数独を解くか、読書をするか、気晴らしに邸内を散歩することくらいだ。

その退屈な状況を察してか、アイリスは事あるごとに客人であるNの部屋を訪れるようになった。はじめは他愛のないやり取りを繰り返すだけだった。しかし、いつだったか、アイリスが数独の問題に興味を示したのをきっかけにして、数学の基礎を教え始めた。アイリスは大喜びでNに教えを請い、Nもそれに応えた。
当初は三桁の加法すらおぼつかない状態だったが、それは単に考え方が分からなかっただけらしく、Nが彼女に合った解法の導き方を教えるとみるみるうちに力を伸ばしていった。アイリスの飲み込みの早さはNですら驚くほどだ。今もケアレスミスこそ多いが、思考の過程は明確である。

学ぶことが多いのはアイリスだけではない。N自身も、アイリスへの教授を通して、人に分かりやすく物事を伝える術を身につけていった。今まではうまく伝えられなくてもトウヤが全て汲み取ってくれていた。だがこの世界にはトウヤと自分しかいないわけではないのだ。そんな当たり前のことを、Nはアイリスとの交流によってやっと実感した。
ふたりきりの閉じた世界が、ゆっくりと外側に向かって拓けて行く。新鮮な空気を吸い込むようにして、アイリスやシャガ、世話をしてくれる人々との関係を築いていく。長い歳月を地下の牢獄で過ごしてきたNにとって、徐々に広がる人の輪はとても心地よいものだった。優しくて、あたたかくて――けれど時々、思い出す。

「……Nさん?」

アイリスが手を止めてNを見上げた。どうしたの?と不思議そうに顔を覗きこんでくる。
「ああ、いや、なんでもないよ」
慌ててそう答えるが、勘の鋭い彼女には取り繕ってもすぐに気付かれてしまう。アイリスはしばらくNの目を見つめて何か考えていたが、数秒の逡巡の後、手にしていた鉛筆を膝の上に置いた。それにつられてNも赤色のペンを手から離す。

「Nさん、いつもぼーっとしてばっかりだよ」
「……ウン」
「そんなに、あの黒いおにいちゃんのことが気になる?」
「……、」

アイリスの言う「黒いおにいちゃん」とはトウヤのことだ。初めて遭遇したあの時に全身黒い服を着ていたから、そのイメージが強いのだろう。
「気になるに決まってるじゃないか。あんな怪我をしたんだから」
「それはしってるよ。おにいちゃんの目がさめるの、あんなに待ってたもんね。……なのに、会いにいってあげないの?」
はっと息を呑み、それからゆっくりと唇を閉ざした。瞳の奥が揺れている。
アイリスの言葉通りだった。Nはあれから一度もトウヤと顔を合わせていない。会いに行こうと思えばいつでも会えるはずだ。だが、トウヤのいる病室へ行こうとする度に、足がすくんで動かなくなる。

Nは自由の利かない左腕をかばうようにして、ペンを手にした右手を軽く握った。骨折した左腕はギプスこそ外れたものの、未だ包帯と布で固定した状態だった。動かせないこともないが痛みがある。近年になって目覚ましく発達した医療技術でも、完全に治癒するのにはある程度の時間を要する。
この怪我を負ってから既に2週間近くが経とうとしていた。Nはあちこちの骨を折ったが、今では多少の不便はあるものの日常生活を普通に送れるまでになった。 だが、トウヤはその限りではない。瀕死の重傷を負い、一時は生死の境を彷徨ったのだ。そう簡単に回復できるものではなかった。

だからこそ、励ましの意味も込めて彼に会いに行くべきなのだろう。そうすることで彼の怪我の治りが早まるわけではないが、精神的にはずっと楽になるはずだ。
それが分かっていて――自分自身もトウヤに会いたいと切望しているのに、体はいつまでたっても動こうとしない。トウヤの病室に続く道がひどく長く感じる。僅か十数メートルにも満たないその距離を、Nはこの2週間行ったり来たりするだけで消費した。

「自分でも分からないんだ。本当は会いたいはずなのにね……」

自嘲気味に笑う。自分の情けなさが嫌になる。むしろ何も考えずにいた方がよかったのかもしれない。トウヤを生かすことだけしか頭になかったあの時は、待っているだけで自分の使命を果たすことができた。だが今は、余裕が生まれた分考えることも多くなりすぎたのだ。
トウヤを生死の縁まで追い詰めたのは、自分の身勝手な我侭に他ならない。敵をも傷付けまいとするあまり、自分たちの身すら満足に守れなかった。全てを救おうという傲慢さが、結果として全てを失いかねない事態を招いた。

アイリスは不思議そうに首を傾げた。真っ直ぐすぎる少女には、この葛藤はきっとまだ理解できない。
「あいたくても、あえないってこと?」
「ウン。いざ会いに行こうと思うと、なんだか怖気づいてしまって。すぐそこにある扉をノックできなくなる」
「……こわいの?」

トウヤの眠るベッドの横で、ただひたすらに待ち続ける夜の冷たさを知った。恐ろしかった。身が引き裂かれるほどの恐怖。たったひとつの喪失を何よりも恐れた。あんな思いは二度としたくない。
――そう、思っているはずなのに。何故自分は、未だ愚かな願いに縋り付いているのだろう。失う恐怖に怯えながら、何故それを引き起こす傲慢さを捨て切れずにいるのだろう。
トウヤを前にしたら、きっと何も隠し切れなくなる。自らの内に巣食う愚かな願いを全て曝け出してしまう。Nはそれを恐れていた。「加害者」たる自分が、あの出来事を経ても精神的には何一つとして変わっていない事実。

「ああ。少しだけ……怖いんだ」

手の震えを誤魔化すように、Nはアイリスの頭を撫でる。この少女には決して悟られてはならない。こんな――こんな、願いなど。





名も知らぬ小鳥たちの囀りで目を覚ました。窓の外では日が高く上っている。怪我を負って以来、トウヤの体は回復のためにひたすら睡眠を選んでいた。本能に任せたままにすると、一日の大半をベッドの上で寝て過ごすことになる。そうならないよう頭だけでも起きていようとするのだが、気がついて目が覚めると昼になっている日も少なくない。
ベッドの脇には、Nとアイリスが作った色とりどりの紙の鳥が連ねて飾られている。センバヅルという名で、病気快癒を願うものらしい。

瀕死の重傷を負ったトウヤだったが、少しずつ体を動かせるようになっていた。回復速度はかなり早い方のようで、普通なら起き上がるまでに数ヶ月かかるところを、この僅か2週間で達成したために医者はかなり驚いていたようだ。それでもまだ旅を再開できるようになるには程遠い。あとひと月……いや、半月だ。旅立てるなら早いほうがいい。いつまでもシャガの好意に甘えてここに留まるわけにはいかない。
トウヤは少なからず焦りを感じていた。自分の体がを思うように動かせないもどかしさ、政府の手がいつここまで届くか分からない焦燥、そして何より――Nに会えないということ。あの夜から一度も会っていないが、Nはなぜトウヤとの面会を避けるのか。その理由はトウヤも朧ながらに分かっていたが、敢えて気付かないふりをした。

コンコン、とノックの音がする。
咄嗟にNが来たのかと思って身構えたが、扉の向こう側にある気配でそれがNではないことを知る。それに落胆してしまった自分を愚かしく思った。
肯定も否定もせず沈黙していると、病室の扉がゆっくりと開けられてシャガが入ってきた。視線だけで彼の入室を受け入れる。

「直接顔を合わせるのは初めてだな。無事に意識が戻って安心したよ。君は――トウヤといったか。Nがそう呼んでいるのを聞いた。……私はシャガ。監察機関の長であり、ソウリュウの街を治めている者だ。私の独断により君達を保護させてもらった」

椅子に座り、真っ直ぐにトウヤを見つめてくる目は為政者のそれだった。孫ほどの歳の差があるトウヤに対しても、決して見下すことなく対等に向き合おうとする。トウヤは職業柄このように人の上に立つ人間を数多く見てきたが、シャガはその中でも異質と言えるほど善良であると感じた。
だからといって最初から全幅の信頼を寄せられるわけではない。

「助けてくれたことは感謝する。あのままでは俺もNも行き倒れていた」
「いや、礼を言われるようなことではない。人として当然の責務だからな」
「……それで?」
トウヤはシャガに向ける視線を鋭くした。声も一段低くなる。警戒心を強めたのだ。
「それで、とは?」
「俺達に聞きたいことがあるんだろう。監察機関の長官殿が、わざわざ世間話をしに訪ねて来るとは思わない」
その言葉を受けて、シャガは遠回しに話を進める必要がないことに気付いたようだった。「分かっているのなら話は早い」と呟き、彼は改めて居住まいを正した。

「君と同行しているあの青年――彼がかの数学者Nであることは存じている。今は政府に追われる身であるということも。故に、申し出たい。我等が率いるレジスタンス組織に加わる気はないか?」

トウヤはきゅっと眉を吊り上げた。深く刻まれた眉間の皺は不信の表れだ。
――現状、政府が国の絶対的な権力を握っているのは周知の事実である。そしてその分、政府に反発する人間も少なくない。半ばディストピア然としたこの社会を変革するため、近年になりレジスタンス組織が現れ始めたのも論のないことだった。現時点では各組織はバラバラに動いており統一性を持っていない。それらがひとつにまとまれば、国を動かす程の力に成り得るだろうが、まだ絵空事の範疇だった。……だが、そこに政府内の組織である監察機関が加わるとなれば、話は大きく変わる。

「監察機関は絶対中立を守る組織のはずだ。……まさか政府に抗うつもりか?」
「ああ。監察機関の大多数の人間からは既に同意を得ている。……フウロという少女を知っているだろう。彼女も監察機関の一員だが、レジスタンスと手を組むことを真っ先に提案したのは彼女なのだ。『あの二人をみすみす殺されるわけにはいかない』と言ってね。無論、その『二人』とは君達のことだ」
「フウロが……」

空が似合う赤髪の少女。この廃墟に金色の花を一面に咲かせるのだと言って笑った、あの姿は今も鮮明に覚えている。以前旅の途中で出会ったきり音沙汰はなかったが、まさか彼女がそのような行動に出るとは。
「彼女の語る君達二人の話は、政府と決別することを迷う我等に一筋の希望を与え、大きな決断をさせた。すなわち、政府に反旗を翻し、一丸となってこの国を変えると」
そのために、君達にも協力を仰ぎたい――とシャガは語った。その瞳には真摯な光が宿っている。本気なのだ。
「Nが独自に築き上げた『ハルモニア理論』の功績は知っての通りだ。もしNが、それ以外にも有益な数式を発見し、まだ世間に公表していないのであれば……」
「……冗談じゃない」
トウヤはシャガの言葉を遮った。声は静かだが、彼の周囲には怒りが渦巻いている。

「Nの数式をまた争いに使うつもりか?そうやって尤もらしい『正義』を翳して、自分の主張を押し通すために。杓子定規の善悪なんか俺達には関係ない。Nを利用しようとするなら、あんた等だって政府の人間と同じだ――!」

湧き出る怒りを押さえることなく、トウヤはそのまま上体を起こし、腕を伸ばして、シャガの襟に掴みかかろうとした。その拍子に、ベッドの脇に飾られた花瓶がぐらぐらと揺れる。
だがトウヤの腕はシャガに届かなかった。勢い良く筋肉を収縮させた影響で、引き裂かれるような痛みが全身に走ったためだ。刹那、トウヤは低い唸り声を上げて胴体を抱き込んだ。浅い呼吸を何度も繰り返す。

「……やめておけ。無理に動けば傷に響く」
激情に流されかけたトウヤとは対照的に、シャガは至って冷静な態度を崩さなかった。こういった場面に遭遇することは稀ではないのだろう。その冷静さはトウヤの苛立ちを余計に煽ったが、ここで無闇に事を荒立てても何の利益も生み出さないことはトウヤ自身が一番よく理解していた。唇を噛み締め、シャガを鋭く睨みつけるだけに留めた。

「……今のは確かに不心得な発言だったな。すまなかった。……釈明させてもらうならば、我等が君達をレジスタンスに迎え入れたいのは、我等の目的のために君達を利用しようという意図だけではない。第一に君達の身の安全を考慮してのことなのだ」
トウヤは未だ警戒を解かなかったが、シャガの言葉を遮ることはなく、ただ黙って聞いている。
「いくら君という優秀なボディガードがついているとはいえ、二人だけで政府から逃げるのは無謀な話だろう。今まではそれでもやっていけたかもしれんが、いつまた今回のような窮地に陥るかも分からない」
「……」
「トウヤよ。もし君が動けない状態になったなら、誰がNを守るというのだ?」

トウヤは沈黙を続ける。シャガが言わんとしていることは、彼も痛いほど自覚していた。自分の力だけではNを守り切れない。
これまでの彼は、自分がNを守ることに何の疑いも抱いていなかった。だが今回の出来事は、その「当たり前」を突き崩すものだった。仮にトウヤが命と引き換えにNを守ったとして――その後、Nはどうすればいいというのだろう。今回は奇跡的に運が良かっただけだ。いつもいつも、シャガやアイリスのような理解ある人間が都合よく助けてくれるわけはない。更なる追手が来ればそれで終わりだ。

「我等ならば、君達をそのような目には遭わせまい。全力を挙げて政府から君達を隠そう。安全は絶対に保障できるはずだ。……その上で再び問う。我等レジスタンスの一員となる気はないか?」
シャガの申し出は理に適うものだった。本当に身の安全を考えるなら、政府が介入できない組織へと身を寄せるのが最善だろう。トウヤとてその選択は始めから考えていた。――だが。

「……それを決めるのは、俺じゃない」

トウヤは首を横に振る。自分にできるのは選択肢を出来うる限り広げること。最終的に選ぶ権利を持つのはNなのだ。
「俺はNの意志を尊重する。Nがレジスタンスに加わると言うなら俺もそうするし、旅を続けたいと言うなら共にここから離れる。俺達の今後を問いたいのなら、まず先にNに訊くべきだ。……あいつはきっと、その誘いを断るだろうけどな」
決定権がNにあることは、おそらくシャガも知っているはずだ。それでも先にトウヤへ問いを向けたのは、Nには真っ先に断られるであろうことを見越してのことだったのだろう。まずはNよりも容易に囲い込めそうなトウヤに打診したといった所か。結局、それも徒労に終わってしまうのだが。

シャガは最初から半ば諦めていたようで、やはりな、と小さく溜息をつくだけに留まった。
「……そう返されることも想定済みだったよ。君達の存在は我等にとって希望だが、無理に引き入れようと考えているわけではないのだ。我等は君達無しでも独自に動く」
それよりも、と彼は続けた。
「君に訊きたいことがもう一つある。むしろこちらが本命だ。……君が治療に専念していたこの2週間、勝手ながら我等の方で君の素性について調べさせてもらった。政府の厳重な包囲網を逃れられる人物が、そうそういるわけはないと思ってな。その調査で得られた結果はただ一人だった。……トウヤ。君は暗殺者『ブラック』か?」

――暗殺者『ブラック』。その名を知るのは裏の世界を生きている者だけだ。
4年ほど前からここイッシュを活動の拠点とし、国内外に渡り数々の政府要人や権力者を暗殺。成功率は100%を誇り、何一つとして痕跡はなく、ただ標的の死という事実だけを残して去っていく。まるで影のように与えられた仕事をこなすその暗殺者は、自らを『ブラック』と名乗った。その名は畏怖を伴って裏の世界に広まっていった。
だが彼自身の姿形を見たことがある者は誰もいない。彼は依頼主との接触の一切を拒み、データのやり取りでしか依頼を請け負わないのだ。徹底的に素性を隠す故に、暗殺者『ブラック』が実在するかどうかすらも疑念の声が上がるほどである。

逃走を続ける天才数学者N――その傍らには常に、黒いコートに身を包んだ影が寄り添っているという。数々の追っ手を振り切ってきたのはこの者の力に拠る所が大きいと。
シャガ自身も『ブラック』の名は聞き及んでいたが、それがNの脱出に手を貸した人物だとは思えずにいた。しかし、二十年の長きに渡って秘匿されてきた天才数学者を外へ連れ出すという芸当ができるのは、国中を探してもその者しかおるまい。
……だが、それでも信じ難いのだ。今こうして目の前にいる彼が、件の暗殺者であるということを。
シャガにしてみれば孫と呼んでもいいほどの子供だ。年齢にそぐわない大人びた目をしているが、外見はまだ成人前に見える。そんな子供が、凄腕の暗殺者として名を知られるほどの存在だと?

否定されることを心の隅で願いながらも、シャガはトウヤを見据えた。その視線を受けてトウヤは一度だけ瞬きをした。
「あんたの言うそいつが俺自身のことかどうかは知らないが――俺のコードネームは『ブラック』だ。少なくともそれに間違いはない」
「……! そうだったか……」
トウヤの返答は曖昧にぼかされていたが、それでも自身がシャガの指し示す『ブラック』であることを認めていることと同然だった。
シャガはしばらくの間、呆気に取られたように固まって動かなかった。正体について見当がついていたとはいえ、改めて肯定されると衝撃は大きい。

だがトウヤにとって、自分の素性を今更知られたところで痛くも痒くもなかった。Nとはもう出会う前から既に正体を暴かれてしまっていたのだ。あれ以来、自分を覆い隠すことが馬鹿らしくなった。今ではもう、コードネームどころか本来の名も隠そうという気にならない。元暗殺者を名乗るのもおこがましい位だった。
こんな心境に至れたのも、きっとNのおかげなのだろう。いつもと変わらず凪いでいる心がそう言っている。

十数秒の沈黙の後、シャガはやっと落ち着きを取り戻して息をついた。
「噂には聞いていたが、まさかこれほど年若い者があの『ブラック』だとは……しかし君が凄腕の暗殺者だというのであれば、今まで政府の目をかいくぐって来られたのも頷ける。……となると、元々は暗殺のためにNに接触したのか?」
トウヤは肯定も否定もせず、白いシーツの皺に視線を落とした。Nと出会ったあの地下での出来事が脳裏に浮かぶ。死を望む穏やかな瞳、訥々と語られた過去、誰かの記憶に残りたいという願い。その全てを引き連れて、トウヤはNを外の世界へと解き放った。

「……どんな経緯があろうと関係ない。今はNを生かすための道を作る、それだけだ」

家畜のように尊厳を奪われて生き長らえる道と、隣り合わせの死に脅かされながら行き急ぐ道、どちらがNにとって救いのある選択だったのかはトウヤには分からない。それでも選んでしまったのだ。戻ることはできなかった。
Nの運命を変えたのはトウヤに他ならないが、共に旅をすることを請われたあの時から、トウヤは自らの運命をNに委ねていた。
だからこそ。Nが望むままに道を歩き続けていけるよう、トウヤはNと共に在る。それだけは確かだった。

シャガはそれからしばらくトウヤに視線を注ぎ、やがてゆるやかに頷いて笑った。
「なるほどな。実にシンプルな答えだ。それさえ分かれば十分だよ」
質問に対する返答としてはお世辞にも十分とは言い難い内容だったが、シャガは納得したらしい。トウヤの瞳の奥に、言葉以上のものを読み取ったのだろう。
トウヤは肩に入れていた力を緩めた。ふ、と微かに息が漏れる。……安心、したのかもしれない。

「……あんたは、俺が暗殺者だと知っても警戒しないんだな」
自分が今、相当に無愛想な表情をしていることは自覚していた。だがトウヤは他人に対して神妙になることに慣れていない。礼の言葉を言うのは簡単だが、それを態度に表すのは、射撃訓練で自己スコアを更新するよりも難しい。どうしても険のある声になってしまうのは、ひとえに彼の不器用さ故だった。
するとシャガは微笑みを目元にだけとどめた。

「警戒などするはずがあるまい。あのNが、ぼろぼろになりながらも助けようとした君なのだからな」
「……、」
「先程、君はNを生かすための道を作ると言ったが、私が君達を見つけた時は逆のように思えた。あの時のNはまさしく、君を生かすための道を作ろうと必死だった。即物的な言い方をすれば――彼にとって、君は命を懸けて守るに値する人間だということだ。少なくとも私にはそう見えたよ」

君は知らなかったかもしれんがね、とシャガは続け、ベッドの脇に飾られたセンバヅルに目をやった。病気や怪我が早くよくなるおまじないだと、アイリスがそう言ってトウヤに差し出してきたものだった。「Nさんといっしょにつくったんだよ!」と笑顔で――その時も、Nはトウヤの病室を訪れることがなかったけれど。
トウヤが目覚める前も、Nは薄暗い病室でこの紙の鳥を作り続けていた。祈るように、信じるように。そうやって折られた紙でできた鳥たちは、トウヤが眠るベッドの上で、白いシーツの波を縫いながら泳いでいた。

あの崖下で意識を失ってから目覚めるまでの出来事を、トウヤは人伝いに聞かされる断片的な情報としてしか知らない。Nが如何にして二人分の命を繋ぎ止めたのか、その懸命さも。今こうして確かに生きている事実が全てを物語っているのだとしても、もどかしい思いは尽きなかった。
シャガはそんなトウヤの思考回路を見抜いたのか、「だから、いつまでも彼が会いに来ないからといって、気に病む必要はあるまい」と一言付け加えた。

「君が彼について、嫌う嫌われるという次元で考えているのなら、話は別だがね」
「別にそんなんじゃ……」
「ああ、分かっているとも。君はNを信じて待てばいい」

トウヤがNを守り切れなかったことを悔やむように、Nにもまた同じような感情を抱かせてしまったのだろう。Nがいつまでもこの病室を訪れないのはそのためなのだと、トウヤは漠然と理解していた。Nは他人に負の感情の矛先を向けることを知らない。ただ自分自身を責める。きっと今日もまた、何かしらに理由をつけては負い目を感じて、罪悪感に苛まれているのだ。
せめてまともに自力で歩けるまで回復できれば、今すぐにでもNの元へ行くというのに。未だギプスで固定され、自由の利かない脚を見ては焦燥に駆られる。

「焦る気持ちも分かるが、今は傷を癒すことに専念するべきだ。それに、君の驚異的な回復力なら、歩けるようになるまでそう時間はかからないだろう」
シャガはトウヤの枕元に視線を落とし、「リハビリも既に始めているようだしな」と苦笑する。
「……こんなもの、リハビリにもならない」
トウヤは枕元に置いていたハンドグリッパーを手に取り、軽く弄んだ。動けない間筋力が急速に落ちていくのはどうしようもなかったが、せめて今できることはやっておきたいという一心で、握力維持のために用意してもらったのだ。ギュッ、ギュッ、と軋んだ音を立てるたびにグリッパーが開閉する。
ベッドの近くには、グリッパーだけでなく、ダンベルを初めとしたトレーニング用の器具がいくつか置いてあった。ベッドに張り付けられている間、読書やパズルなどを勧められはしたものの、やはりこうして少しでも体を動かしている方が落ち着くのだ。

「しかし、君の回復速度には驚きを隠せないぞ。普通の人間なら間違いなく即死の怪我だというのに、君はなんとか一命を取り留めたのだからな。いや、それだけではない。まさかたったの2週間でここまで回復するとは奇跡としか言いようがない。医者は君の経過報告を見て顎を外していたよ」

医者が出した診断書では、日常生活を遅れるレベルの回復まであと数年はかかる上、元のように動けるようになるのはまず無理だという結果のはずだった。だが、シャガがつらつらと話している間にも、トウヤは50kgのダンベルを片腕で軽々持ち上げていた。
医師や看護師たちはトレーニングをしようとするトウヤを全力で止め、せめて20kg以下で抑えてくれ、そこまで強い負荷を腕にかけてはならない、と縋り付いたのだが、トウヤはこれでいいと言って聞かなかったのだ。
事実、トウヤは50kgのダンベルでもなお物足りないような顔をしている。まだ傷が癒えていない状態でこのレベルなのだから、全快したらどれほどになるのか、シャガは考えるだけで戦々恐々となった。体を鍛えることを日課にしているシャガでさえ、彼に勝てるかどうか定かではない。

まだ幼さの残る青年に何故ここまでの力があるのか。この年齢で暗殺者という道を選んだ理由は何か。そしてこの、常人ではありえないはずの回復力はどこから来るのか。彼について知る度に、シャガの疑問は膨らんでいくばかりだった。
だが、トウヤはシャガの驚嘆にもそれらしい反応を見せず、素っ気なく呟いた。

「……『そういう体』、だからな。奇跡でもなんでもない」

彼は自身の体について何の興味や関心もなかった。人並み外れた怪力も、自然治癒の域を超えた超回復力も。それが彼にとっての当たり前なのだ。暗殺者としての業も軽く受け止めてしまえるほどには。だがトウヤの認識の割に彼の口はいつになく重く、無意識の内に詳しい明言を避けていた。
シャガはその隙間を見逃さなかった。トウヤが暗殺者『ブラック』だと知った時から、シャガの推測は確信に変わりつつある。

「トウヤ、もう一つ訊いてもいいだろうか。もしや君は、研究機関の――」

「おじーちゃんっ!としょしつのカギどこー!?」

その後に続くシャガの言葉は、少女の明るい呼び声によって掻き消された。ぴょこん、と大きなリボンを揺らせて、アイリスが駆け足で部屋へと入ってくる。だが、その場の空気が糸を張ったように緊張しているのを感じ取ると、アイリスは咄嗟に身を縮こまらせた。声も自然と小さくなる。
「……あれ、ごめんなさい……おとりこみちゅうだった?」
不安そうに二人を交互に見やる。本来割り込んではいけない場だったのだと本能的に察知しているのだ。
シャガは緊張の糸を緩め、安心させるように笑った。

「いや、大丈夫だよアイリス。今丁度おいとまをしようとしていた所だからね。鍵なら私が持っている。帰り際に図書室を開けてあげよう」
「ほんと!?あのね、Nさんがもっと本を読みたいっていうから……!」

アイリスの表情は一瞬でぱあっと明るくなり、楽しげに話し出した。Nと図書室に行って本を読もうとしているらしい。トウヤは部屋の外にNの気配を感じたが、敢えて気付かないふりをした。Nがまだ顔を合わせたくないというなら、無理にそれを強要しようとは思わない。
Nに向けるはずの感情をすべて仕舞い込み、その代わりにトウヤはアイリスに対して薄く微笑んだ。そのトウヤの表情を見てシャガは驚いたように目を見開いたが、すぐに元の穏やかな顔に戻る。彼の表情にもまた、緊張を解いた後の安堵にも似た微笑みが浮かんでいた。

「トウヤ。君に関する話題は無闇に詮索しないでおくことにしよう。大事なのは君が歩んできた過去ではなく、その蓄積の上にある現在であり、これから歩もうとする未来なのだから。……きっとNにとっても同じだろう」
「……ああ」

深く詮索されずに済んだのは、トウヤにとって有り難いことだった。自らの出自も、力の正体も。まだNにすら――いや、Nにだからこそ、言えないことがある。
ひとり取り残された病室で、トウヤは長い溜息をついた。随分と長く喋りすぎてしまった気がする。人との会話、とりわけ自分のことを話すのは得意ではないのだ。それでも今までNとの旅が成り立っていたのは、ひとえにNがトウヤの深い領域まで踏み込んで来ないからだった。命を懸けるほど守りたいと願いながら、大切なことは何ひとつ自分からは語らず、ただNに委ねている。
このいびつで優しい関係をまだ壊したくはない。たとえ、どれだけの秘め事を重ねたとしても。



彿

(別離を告げる道だけは、選べない)





2013/05/06

水天彷彿:海上遠く、空と水面とがひと続きになっていて境界がはっきりしないこと。


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