ネオメロ09/月迷残響


「普通なら間違いなく即死の怪我で、なんとか一命を取り留めたことは奇跡としか言いようがないでしょう。怪我に関しては我々も最善を尽くしました。……このあと目覚めるか否かは、本人次第です」

数時間に渡る手術を終えた医者は、疲労の残る顔でそう言い残すと、一礼して去って行った。手術室の前の廊下にはNとシャガだけが残された。Nは椅子に腰掛けたまま自分の膝をじっと見つめている。
まだ安心はできない。このままトウヤが目覚めない可能性も十分に考えられるのだ。しかし、最悪の事態は避ける事ができた。それだけでもNにとっては希望が見える未来だった。

「……ありがとう、ございます。見ず知らずのボクらにここまでよくしていただいて」
「礼には及ばない。人として当たり前のことをしているまでだ。……それに、まったく見ず知らずの他人というわけでもないのだ。私は君を知っている。――君はNという名なのだろう?」

Nはぴくりと反応した。静かな目がシャガを見上げる。動揺の色は見えない。助けられる過程で漠然と察していたのだ。
「知っているのなら尚更です。ボクたちは追われる立場にある。それにも関わらずあなたはボクたちを助けてくれた。……本当に、感謝してもし切れない……」
細い指を組んで顔を覆う。この偶然の出会いを感謝せずにはいられなかった。あのまま誰にも見つからずにいれば、時を経ずしてトウヤの命は途切れていただろうし、Nとて無事では済まなかっただろう。政府に捕らわれるよりも酷い結末に成りかねなかった。きっと不幸中の幸いというのはこういうことなのだ。
……あとは、トウヤさえ目覚めてくれてば何も言うことはない。

Nはゆらりと立ち上がった。その拍子に体が悲鳴を上げたが、自力で歩けないほどではない。
「……Nよ、どこへ行くつもりだ?」
「どこへって、決まっているでしょう。トウヤの病室です」
「何を言っている、君とて重傷を負っているのだぞ?疲弊の色も濃い……彼が心配なのは分かるが、休息は君にこそ必要だ」

シャガの言葉は最もだった。Nはギプスで固定された自分の左腕に目を落とした。診断を受けるまでまったく気付かなかったが、全身の打撲と擦過傷に加え、左腕の骨や肋骨などを何本か折っていたらしい。とにかく生き延びることに必死で、骨折など気にも留めなかった。少しばかり心の余裕が生まれた今になって、やっと痛みを自覚する。そして疲れもだ。ひと一人を背負って何時間も歩き続けた結果、その負荷は予想以上にNの体にかかっていた。今も体が重い。全身をきりきりと引き絞るような痛みも絶えず襲っている。
本来なら忠告通りに休むのが最善なのだろう。本能は休息を求めている。だが、Nはそれに従うつもりはなかった。

「……今は、トウヤの傍にいさせてください」

敢えて顔を伏せたままそう言った。他者の気遣いを無下にするのは心苦しい。それでもNは自分の望みを優先させたかった。トウヤの傍にいたいという、ただそれだけの望みを。
シャガはそれ以上何も反論しなかった。Nとのやり取りを通して、彼にとってトウヤがいかにかけがえのない存在であるかは身に沁みて分かっている。無理を言って引き離そうとするほど、シャガは非情にはなりきれなかった。この世界には理屈よりも大切なことがいくらでもある。
「……ならば好きにするといい。だがその間も休息はしっかり取るよう処置させてもらうぞ。君の病室に置いてある物資も移動させよう。あたたかい布団と飲み物、……それに、座り心地の良い椅子もな」
安心させるようにシャガは口髭の奥で笑った。それにつられてNも微笑む。本当に良い人に助けてもらったと心の底から思う。

トウヤの病室へ向かおうとするNの背中に、またシャガが声をかけた。
「明日、アイリスが君に会いに行くだろう。私の孫娘だ。礼を言うのであればあやつに言ってくれ。……君達を真っ先に見つけたのはあの子なのだ」
「……ええ。覚えておきます」
Nは振り向かずに応えた。トウヤを助けられたのは自分の力ではない。数えきれないほどの偶然と、多くの人々の助けがあって今がある。どうすればその恩に報いることができるだろうか。





病室はひっそりと静まり返っていた。トウヤが眠るベッドの横で、Nは目を閉じて二人分の心音に耳を傾けていた。
シャガの用意してくれたブランケットが暖かい。少しでも気を緩めればまどろんでしまいそうだった。だが、トウヤの目覚めを待つと決めた。視界がぼんやりと霞むと、Nは何度も瞬きを繰り返して意識を覚醒状態へと戻す。目尻には隈が薄く刻まれていた。

何も考えず頭を空っぽにしていたいと思うのに、脳裏には数々の思考が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。トウヤが目覚めたら最初に何と言おう?目覚めてくれて嬉しい?何もできなくてごめん?それとも――もし目覚めなかったら?どんな考えも最後にはそこに辿り着いてしまう。そのたびにNは慌てて首を左右に振り、暗澹とした未来の想像を打ち消すのだった。
眠りにつくトウヤはとても静かだった。心音も呼吸も、耳を澄まさなければほとんど聞こえない。まるで息をしない人形のようだ。Nは数分おきにトウヤの呼吸を確認する。そうしてトウヤの微かな息を聞き取ると、やっと胸を撫で下ろす。そうでもしないと安心していられなかった。

「トウヤ……」

椅子に腰掛けたまま、右手をトウヤの頬へと伸ばす。あの時の冷たさを思い出して一瞬躊躇ったが、震える指先でゆっくりと触れた。
依然として冷たいままだが、あの時ほど絶望的な感覚ではない。弱々しくても確かに生きているのが分かる。Nは小さく安堵の溜息をついた。

生きているという実感がこれほど人を安心させるのだということを、Nはこの一日で痛切に思い知った。当たり前のように生き長らえ、真綿で首を絞められるようなあの地下での生活は、命の価値を破綻させるのには十分すぎた。生きる実感もわかず、ただ必要だからと生かされていた日々がどれだけ無意味だったか。牢獄を抜け出して世界に解き放たれてからは、自由と引き換えに生きる痛みと苦しみを味わった。それさえも、Nにとっては幸福と呼べるものだった。トウヤの隣で生きていけたからこそ。

トウヤが引き受けた痛みをNが知ることはできない。しかし同様に、トウヤを失うかもしれないという恐怖に曝されたNの痛みをトウヤは知らないのだ。身体の痛みと心の痛みはまったく別の次元にある。二人が感じる痛みを共有することはできないのだろうか。それぞれに痛みを分割して、互いの知らない部分を分かち合う――夢物語のような考えだ。けれど本当にそうできたらいいのにと思う。

自分たちが生きるこの世界は不公平で満ちている。一人に降り注ぐ痛みは決して等量ではない。生まれ落ちたその時から将来の成功を約束されている者がいれば、一生を貧困と苦しみのうちに終える者もいる。両者の生き方は決して交わることはない。
トウヤとNも正反対の生き方をしてきた。生きるために他人の命を奪ってきたトウヤと、いつか誰かに殺されることを夢見ながら生きてきたN。二人の生きる道が交差したのは偶然か、それとも最初から決まっていたのだろうか。そんなこと分かりはしない。けれど今、二人は同じ場所で息をしている。守り守られながら生きて、微かな命の糸をかろうじて繋げている。

Nは唇を噛み締めた。溢れる感情を押さえ込むために。
……知っているのだ。こうしてトウヤの糸が途切れそうになっているのは、自分が彼に背負わせた約束のせいなのだと。

『俺は、誰も殺さないし誰も傷付けない。……約束する』

かつてトウヤはNにこう言った。人が傷付くことを嫌うNのために、無理を承知で頷いたのだ。
人を殺して生き延びるのは簡単だろう。トウヤは暗殺者だ。人を殺す技術には誰よりも長けている。その分、彼は人を殺さない技術にも長けていた。巧妙に急所を外し、最低限度の傷で相手の動きを止める。そうやってトウヤは今まで、Nを守りながら敵すらも守っていた。
だが、殺さずにいるのは殺すことより何倍も難しい。誰も傷付けずに逃げ切れるわけがない。傷付けずにいようとすれば代わりに自分が傷を負うだけだ。だからトウヤは今、死の際に立たされている。最初から殺すつもりでいたなら、あんな追手も簡単に殲滅できていたはずだった。……殺さないようにしていたから、トウヤはここまで追い詰められた。Nとの約束を頑なに守ろうとして。

Nが人の傷付く姿を見たくないのは、他者の痛みを思ってのことではなかった。Nが恐れていたのは自分の心が傷付くことだけだ。あの約束をした時から何も変わってはいない。自分のことしか考えないまま「約束」をトウヤに強いて、結果としてトウヤの命すら危険に晒した。
「約束」はトウヤの自由を奪う鎖だ。容易に開けたはずの道をも閉ざす無意識の束縛だ。

何故あんな約束をしてしまったのだろう。あの約束さえなかったら、トウヤは今こんな所で生死の境を彷徨ってはいないはずなのに。後悔が胸の内側にぴったりと寄り添って離れない。Nの肩が震えた。手を白くなるほど握り締めても震えは治まらない。無力な癖に身勝手な我を通してばかりいた自分への怒りと、トウヤを失ってしまうかもしれない恐怖が次から次へと溢れ出てくる。
もしトウヤがこのまま目を覚まさなかったら、きっと自分は自分を一生許せなくなる。自分を憎み、死の運命を憎み、そして世界すらも憎むだろう。そうなってしまった後の自分が容易に想像できてしまうのが、怖い。

「お願いだ、トウヤ……早く、目を……」

助けを請うように、Nは小さな悲鳴を零す。その声を聞く者は、この病室には誰もいない。





「おはよーっ!!」

長らく静寂に支配されていた空間に、少女の叫び声が鳴り響いた。まるで早朝の鶏だ。
それまでトウヤの顔を見つめることに終始していたNは咄嗟にびくりと肩を震わせた。振り返って見る間もなく、少女は病室へと駆け込んでトウヤの眠るベッドの横を通り過ぎた。
「あさだよ、あさ!ひとはおひさまの光をあびるとげんきになれるんだって!だからほら!」
掛け声と共に勢い良くカーテンが開けられる。瞬間、眩しい朝の光が、網膜の隙間を縫って頭の中を直接照らした。Nは眩しさに目を細めた。暗闇に慣れ切った目には些か刺激が強すぎる。「へやのなかが明るいほうが、ケガもはやくなおるよ!」と笑う少女は朝の光よりもなお眩しく感じられた。
窓の向こうで小鳥のさえずる声が聞こえる。ずっと闇に心を溶かしていて気付かなかったが、もうすっかり朝が来ていたのだ。

「キミは……アイリス、だね。お祖父さんから話は聞いているよ。ボクたちを真っ先に見つけてくれたのはキミだと。……ありがとう」
「えへへ、あたし目がいいから!……えっと、おにいさんは……」
「ボクはN。眠っている彼はトウヤだよ。よろしくね」
「うん!こちらこそよろしくね!」

少女につられてNも微笑んだ。まだ心の底から笑えるほどの状態にはなかったが、子供特有の純粋さと無邪気さに救われる部分は大きい。
Nの表情を見て、アイリスの顔が僅かに曇った。心配の色が差す。
「……あのね、朝ごはんもってきたんだ。Nさんといっしょにたべようとおもって」
そう言って窓から離れると、アイリスはぱたぱたと足音を立てて病室の外に出て行った。すぐ食べられるように用意しておいたのだろう、間もなくして朝食の乗せられたトレーが運ばれてきた。その間にNはもう一人分の椅子を自分の隣に置いて待っていた。アイリスは再び病室に入ると、今度はベッドを通り過ぎることなく、その横に座るNの隣へと腰を落ち着けた。

「はい、朝ごはん。Nさんきのうから何もたべてないでしょ?」

差し出されたトレーには、パンとサラダ、そしてコーンスープがあった。アイリスの言うように、確かに昨日から何も口にしていない。だが空腹かと問われると違う。そんなことに気を取られているほどの余裕はなかったのだ。
Nは目の前に出された食事を見て戸惑った。こんな状況で悠々と食事ができるわけがない。
「あの、今はちょっと食欲がなくて……」
角が立たぬような断りを試みたが、言いかけた言葉はすぐさま遮られることになる。

「だめっ!おなかがすいてなくても、朝ごはんはちゃんとたべなきゃいけないんだよ!」
「でも……気を緩めるのはトウヤが目覚めてからにしたいし……」
「それがだめなの!Nさんが今しなくちゃいけないのは、朝ごはんをしっかりたべて、げんきになっておくことだよ!……黒いおにいちゃんが目をさましたときにNさんがげんきなかったら、お兄ちゃんもがっかりしちゃうもん。だから、Nさんのげんきなかおを見せて、お兄ちゃんのこと安心させてあげないと!」

アイリスの言葉に、Nは二の句が継げなかった。目を大きく見開き、眉を歪め、ただ絶句する。胸を抉られるような心地がした。
彼女はトウヤが目覚めることをこれっぽっちも疑っていない。その上で、目覚めた先のことを当たり前のように考えている。目覚めるか目覚めないか、その間で不安定にぐらぐらと揺れ動いているNの心とはそもそもの前提が違うのだ。

「信じる」ことと「疑わない」こと。どちらも同じに見えるが、両者は根本から本質を違えている。
Nはトウヤが目覚めることを信じていた。だがそれは本当に絶対的な信頼の上に成り立つものだったろうか――そう、正確に表現するならば、Nはトウヤの目覚めを「信じようとしていた」だけに過ぎない。目覚めてほしい、目覚めてくれ……そんな弱々しい祈りと願いの延長にしか存在しない。
一方で、トウヤと挨拶すら交わしたことのない少女が、トウヤの目覚めを疑わずにいる。ともすればそれは「信じる」ことよりも強い絶対的な信頼の現れだ。一切の思考の余地も挟まずに、相手を信じる自らの決意を肯定する。それが疑わないということ。

アイリスの瞳はどこまでも透き通っていた。疑いを知らぬ子供の目だ。世界を疑い続けてきたNには持ち得ない光がある。
Nは心の中で白旗を振った。そして同時に、トウヤを信じ切れなかった自分の弱さを恥じた。きっと自分はこの少女には決して勝つことはできないのだと思う。
次に零れたのは笑みだった。もう涙は流しきってしまったけれど、もし泣ける状態であったなら間違いなく泣いていただろう。今のNの表情は、泣きながら笑う人間のそれだった。

「――そうだね。トウヤを安心させなくちゃ」

降参だとでも言うように、Nは差し出されたトレーを受け取った。アイリスも満足気に笑い、トレーを膝の上に乗せて朝食を食べ始める。
久しく口にした食事は驚くほど美味に感じた。コーンスープの温かさに涙が出そうになる。何ということはないごく普通の朝食にも関わらず、だ。Nはようやく自らの空腹を自覚した。食欲がないと思い込んでいたのは脳内だけだったらしい。

「あ、そういえばね、びょうきやケガがはやくよくなりますようにっていうおまじないがあるんだけど……、」

もぐもぐとレタスを頬張りながら、アイリスはNと話がしたくて仕方ないという様子で喋り続ける。Nはそれを微笑ましげに横目で見守る。
眠る怪我人を前にして、青年と少女が談笑しながら朝食を食べている光景は、この上なく奇妙に映るだろう。だが、これでいい。トウヤがいつ目を覚ましてもおかしくないと、二人とも疑わずにいるのだから。

















くらいくらい闇の中で、身動きもせずただ立ち尽くしていた。辺りは一面の黒、黒、黒。他色の混在を許さない黒である。
ここは何処なのだろうと考えた。どこでもない場所なのだろうとすぐに思考を打ち消した。この闇の中では考えるだけ無駄なのだ。入り口も出口もない。茫漠たる闇だけがすべてを包み込んでいる。心地よさは感じなかった。だが不快でもない。このまま生きることも死ぬこともなくこの闇と共存しろと言われても、今の自分は素直に受け入れてしまう。
あまりにも昏いので自分の輪郭すら見えない。手足の感覚は僅かにある。考えることもできる。しかしそれもいつかは闇に融けて、ゆるやかに消えていくのだろう。

ふと、掌に違和感を覚えた。左手だ。自分の手が存在しているであろう場所に視線を落とすが、闇の中なので何も見えない。これは本当に手か。分からない。だが自らの感覚を頼るしかあるまい。
見えないが、やはり違和感がある。あたたかいのだ。温度を感知できることに少なからず驚く。
いや、それよりも。このあたたかさは何だ。どこから来ている。分からない。分からない。……分からないが、あたたかい。優しい。この感覚は何だ。自分は――『俺』は、このあたたかさを知っている。幾度となく感じてきた温度だ。

あたたかさは、次第に掌から腕へと伝わっていった。そして気付けば全身がそのぬくもりに包まれていた。闇よりもなお柔らかく、優しく。
闇が形を失っていく。自分の輪郭が明瞭になっていく。――ああ、そうだ、知っている。このぬくもりの名前を。もうずっと前から心に刻みついていた。

(……N、)

声にならない声で、その名を呼んだ。








ゆっくりと重い瞼を開けた。目の前に広がるのはやはり闇だ。新たに遭遇したその闇も同様に黒で覆い尽くされていたが、あの闇よりは深くないようだった。
思考が散逸していきまとまらない。何かを考えようとしてもすぐに中空を彷徨って消える。頭の中がどろどろに溶けたような感覚だ。何か大切なことを思い出さなくてはならないはずなのに、それが何であるかが浮かんでこない。
ぼうっと目の前の世界を見つめる。見覚えのない景色だ。闇の中に浮かび上がる白は天井の色だろう。これと似たような色を昔よく見たことがあったような気がする。だがこの天井とは微妙に細部が異なる。だからここは、記憶に残る景色とは違う場所なのだ。

手足はぴくりとも動かない。いや、動かせないという方が正しいか。まるで鉛を飲んだかのように全身が重く、その重量に耐えるので精一杯だった。
試行錯誤の末、かろうじて目だけは動かせるようになった。それでも微々たる動きだ。動け動けと懸命に意識を集中させても、せいぜい数ミリ程度視界が移動するだけだった。だがまったく動かないよりはましだろう。恐ろしいほど長い時間をかけて、視線を下に持っていく。

すると天井のそれとは違う色が視界に入った。より鮮やかで濁りのない白。おそらくこれはシーツの色だ。自分は今、ベッドに横たえられているのだろう。そしてその上に、赤や黄色、青や紫といった様々な色が散らばっている。よくよく注視してみると、その鮮やかな色彩たちはどれも同じ形をしていた。自分の目に間違いがないのであれば、それは鳥のような形をしている。色紙で作られた鳥。それらがシーツの上に何羽も乗せられているのだった。
一体これは何を意味しているのだろうか。考えてみるものの答えに辿り着かない。この視界で得られる情報はこれだけだった。

仕方なく再び視線を移動させる。段々こつを掴んできて、前よりも少し早く目を動かせるようになった。左へ左へと視界を拡張していく。
少しずつ闇に慣れていく目が次に捉えた色は緑だった。とても懐かしく感じる。緑は好きな色だ。――何故?

(大切なものが何かを、思い出させてくれるから)

一筋の思考がまるで電流のように頭を貫いた。緑。大切なもの。大切な存在。
そして同時に、あの闇の中で感じたぬくもりが、依然として左手に残っていることに気付く。この温度は失われていない。闇の中から掬い上げてくれたように、今もまた自分を世界に繋ぎ留めてくれている。これは。このぬくもりは。

(――N)

忘れるはずのない名が喉の奥で形を持った。声にはならず、ただ空気の出入りする音だけが鳴る。
揺らぐ瞳はとうとうその姿を視界にとどめた。トウヤの左手を握ったまま、緩やかな寝息を立てて眠るNの姿を。
白い肌は月の光を受けてぼんやりと滲み、緑の髪も闇の色と溶け合うようにしてシーツの上に波打っている。左手のあたたかさはNの体温だった。触れ合った場所からぬくもりを分け与えるように、強く優しく包み込んでいる。どんな思いでNはこの手を握ったのだろう。どんな願いを指先に込めたのだろう。
わからないから、名前を呼んだ。教えて欲しくて、名前を呼んだ。相変わらず唇は音のない空気しか紡ぐことはできなかったが、それでも呼び続けた。

聞こえないはずの声はNに届いていたのか、それとも単なる偶然か。その長い睫毛が不意に振動した。やがて、睫毛の下に隠された淡いブルーグレイの瞳が、音なく柔らかに光を宿した。目覚めたばかりの瞳はゆらゆらと揺らぎ、焦点を求めて彷徨う。
その視線を呼び止めた。吐息だけが漏れる。だが届いているはずだ。トウヤがNを呼んだ瞬間、その瞳に鮮やかな閃光が走った。

「……っ!?」

息を呑む音と共にNが勢い良く顔を上げた。目はいっぱいに見開かれ、驚愕に似た色がありありと浮かんでいる。
「ト……、」
掠れた声がその名を求めていた。何度も何度も呼び続けて、しかし今まで返事を請うことができなかったその呼び名。
「トウ、ヤ……?」
おそれるように、よろこびのように、そして確かめるように、Nはトウヤを呼んだ。声が震えている。いや、声だけでなく全身を震わせていた。
ああ、そうだ、この声を求めていた。あの深い闇の中で触れていたのはNの体温だった。そして求めていたのはこの声だった。「トウヤ」という平凡な名前を、まるで世界にただひとつしかない特別な名であるかのように呼んでくれる優しい響きを、何よりも必要としていた。その願いが叶った今、トウヤがするべきことはただ一つだ。……すなわち、その呼び声に応えること。

――「N」、と。希う声は微かな音を伴って世界に生み落とされた。
そしてそのたった一言は、Nの瞳に涙を溢れさせるのには充分すぎたのだ。

瞬間、Nは大粒の涙を瞳から零した。ぼろぼろという音が聞こえてきそうな程に。もう涙はあの崖下で流し尽くしてしまったと思っていたが、トウヤの前ではこんなにもあっけなく決壊してしまう。
「トウヤ、トウヤ、トウヤ……っ!」
顔をくしゃくしゃに歪めて、Nはトウヤのために泣いた。
……ずっと、泣いてほしくないと思っていた。涙を見なくて済むのならそれが一番いい、Nが自分のために泣くくらいならこの存在そのものを消し去ってしまった方がいいと。それなのに今、Nの涙はトウヤの心にあたたかな光を灯している。
透明な雫は色を持たない。だが、トウヤにはその無色の色こそが何よりも綺麗だと思えた。Nが生み出す色はとても美しい。

Nは両手でトウヤの左手を強く握り締めた。冷たい掌を溶かすようにして、熱い涙がその上に落ちていく。体温よりも更に熱い。これが命の温度だ。トウヤもNも生きている。――生きることのよろこびに、涙を流している。
ああそうだ、生きているのだ。あの闇を抜けて、月の光を受けて再び生まれた。生きているから感じられるあたたかさがある。彼のぬくもりをもっと感じていたい。涙の流し方など忘れた自分が、声を上げて泣きたくなるほどそれを求めていた。

握られた左手に力を込める。それだけで腕どころか全身が引き千切られるような痛みが走ったが構いはしない。Nの手を解いて、ゆっくりとその頬へと指を伸ばす。Nの頬は涙に濡れて月の光を反射していた。それに自分の手が触れるのは途轍もない罪悪であるように感じられた。しかしNは何一つ抵抗を見せずトウヤを受け入れてくれる。……だから、許されるような気がした。
震える指でNの頬をなぞる。直に触れた涙はとても熱い。Nはトウヤのために――涙を失ったトウヤの代わりに泣いている。今だけは、この涙は自分のものなのだ。たとえNの涙が世界に遍く全ての悲しみのためにあるとしても、今この一瞬だけは。

「……N」
先程よりも少しだけ輪郭のはっきりした声になった。大丈夫だ、これならNに伝わる。
「もう一度、俺を呼んでくれないか」
その願いは、おそらく想定の中にはなかったものなのだろう。Nは驚きで僅かに睫毛を瞬かせた。無音の光が部屋の中を照らす。
どのくらいの間そうしていたか分からない。永遠によく似た一瞬が流れる。二人は囁くように見つめ合った。

……やがて、まるで花の蕾が開いていくようにゆっくりと、Nは瞳に涙を湛えながら微笑んだ。月の光を受けて涙の跡がきらきらと光り輝いている。優しく、柔らかく、慈しみに満ちていた。すべてを許すような眼差しだった。
声はない。唇も動かない。だが呼ばれていると感じた。Nはその微笑みをもって、心の限り呼んでいる。トウヤは息をすることも忘れてその顔に見惚れた。
そして彼は確かに思ったのだ。その表情をとても――愛しい、と。





(今はまだ、月の裏側に沈めておこう)





2013/02/10

【BGM】呼吸/ランクヘッド


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