ネオメロ08/白の誓願


名前を呼ばれた気がしたのだ。音もなく、唇も動いてはいなかったが、トウヤは確かにNを呼んでいた。
けれど、もう、聞こえない。トウヤの瞳がゆっくりと閉じられる。そして命すらも。
「トウヤ……?」
Nは小さく言葉を零した。ただただ呆然と、その青ざめた顔を見つめる。握っていた手から体温が奪われ、冷たくなっていく。僅かに残っていたぬくもりさえ消えようとしている。命の核となるべき部分が急速に失われていく感覚が、実感として目の前に立ち現れていた。
声だけではない。心音も、呼吸も、Nの耳に届かなくなった。生きる者としての音がどこにも聞こえない。

「トウヤ……トウヤ……!」
震える唇が彼の名を呼ぶ。認めたくない一心で何度も何度も繰り返す。途切れ掛かる糸を必死で繋ぎ留めたかった。
「駄目だトウヤ、死んではいけない、キミはまだ生きなくては……っ!」
冷えきった彼の手を、両手で握り締めた。少しでも自分の体温が彼に伝わるようにと。彼の冷たさに反して、Nの頬を流れ出る涙はひどく熱い。生きている者と、死にゆく者の温度の差はこんなにも大きい。
失われゆく体温に触れたところで何もできない。Nは自らの無力さを呪った。何が天才数学者だ。たったひとりの命を救うことすらできない人間に何の意味がある。絶対的な生と死の境界の前では、ただ祈ることだけがNに許される行為だった。

彼の体温は何故奪われなくてはならないのか。何故、彼でなくてはいけないのか。……そんなこと分かりきっていた。彼はNを守ろうとしたのだ。本来Nが負うべきはずだった傷も痛みも、トウヤはすべて自らの身体に引き受けてしまった。これがその末路だ。Nが傷らしい傷も受けない代わりに、トウヤは命を差し出した。Nが生きる道を作るためならば、平気で自分を犠牲にしてしまう。それがトウヤ自身の命の使い方だった。あまりにも優しすぎる。
Nはこのような結末を望んではいなかった。たとえ重い傷を負ったとしても、トウヤと痛みを共有できるのならばどんな痛みにだって耐えられるというのに。

「お願いだトウヤ、どうか生きて……戻ってきてくれ……!」

ぎゅっと目を瞑ってトウヤに呼びかける。無駄なことだと嗤われてもいい。彼が戻るためならば何と引き換えにしても構わない。
どうか叶うのならば、この命を削り取って彼に与えてほしい。彼に守られたこの命は、もう彼なしでは生きていけないのだから。
Nはひたすらに祈った。祈ることしかできないのなら、今はただそれに懸けよう。彼の命を繋ぎ留めるために、どうか、どうか。

――とくん。

それは、微かな音だった。今が無音の闇の中でなかったなら気付かなかっただろう。しかしNは確かにその音を――鼓動を、聞いた。心臓が脈打つ音、命の音を。そして今のNにとっては希望の音に他ならなかった。
その音を聞いた瞬間、Nは両眼をかっと見開いて顔を勢い良く上げた。その拍子に瞳から涙が弧を描いて宙に舞った。
「トウヤ!」
一言鋭く叫んで、Nはトウヤの左胸に耳をあてた。とくん、とくん。本当に、本当に微かだが、失われたはずの心音が確かに聞こえる。ひどく不安定で、いつ消えてもおかしくない程の弱々しさだ。だけど生きている。ここに、確かに。――生きて、いる。

Nの瞳は再び大粒の涙を溢れさせた。月光を受けて輝く涙はしかし、もう悲嘆に暮れることはなかった。
「……っ!」
歓喜に震える唇をぎゅっと引き結び、掌で目を擦った。泣いている場合ではなかった。生きようとしている命がここにあるのだから。

「トウヤは、ボクが死なせない……!」

死なせない。死なせるものか。再び紡がれた命の糸を、決して途切れさせはしない。必ず未来へと繋げていく。
トウヤは生きる。ボクと生きる。そのために。二人で生きる未来のために、ボクが生かす。トウヤの生きる道はボクが作る。
ここで諦めた末に待ち受けるのは再びの孤独。キミの優しさを知ってしまったボクは、きっとこれからの未来をキミなしで生きていくことはできないだろう。キミの不在が与える痛みを思えば、こんな苦しみなど比べるまでもない。

涙を拭ったNの瞳は、強い決意の光を湛えていた。頭上に輝く月を睨む。死の運命になど負けるものか。
着ていた白衣を引き裂き、トウヤの傷へとあてがった。布はすぐさま赤に染まった。応急処置としては心許ないが、何も無いよりはましだ。トウヤの頬はまだ冷たい。かろうじて繋がっている命が、まだ予断ならない状況であることを示していた。……早く手当てができる所へ行かなければ。
ここから一番近い街まででもあと数キロはあるだろう。移動手段は徒歩のみ。それも意識のないトウヤを運びながらだ。だが迷っている暇など無かった。Nはトウヤの着ている重いコートを脱がせて身軽にし、下からその身体を支えるようにしてトウヤを背負った。

「くっ……」
生身の人間一人を抱えて歩けるほどNは鍛えられていない。全身にのしかかる重みを支えきれずに膝が震えるが、ぎりぎりで何とか踏みとどまった。額には汗が滲み、呼吸も荒い。だがNは決してトウヤを離さなかった。ここで倒れてしまえばトウヤが助かる保障はない。その事態だけは絶対に避けねばならなかった。Nは決して諦めるわけにはいかなかった。
この身体が悲鳴を上げて軋んでも。この命が擦り減っていこうとも。――絶対に。

砂の上に血の跡を残しながら、Nはトウヤと共に前へと進む。二人の背には淡い月の光が降り注いでいた。





月が眩しい夜である。老人は一人、書斎の中で黙々と作業を続けていた。老人は名をシャガという。ここソウリュウの街を治める長だった。
毎日積み上げられていく書類に目を通すだけでも一苦労だ。日常の業務に加え、最近では監察機関の一員としての仕事も増えてきてる。内容はもちろん、ここ最近政府の上層部を騒がせている例の数学者脱走事件についてだ。政府も相当焦っていると見える。発見次第捕縛せよとの通達が来ているが、そもそも今の政府に従う気はなかった。

「おじーちゃん、まだお仕事してるの?」

鈴を鳴らすような声と共に、書斎の扉が開けられる。彼の孫娘が、眠い目をこすりながらそこに立っていた。
「おやアイリス、起きていたのか。私はまだ仕事が残っているからまだ休めないが、お前はもう眠りなさい」
「えー……おじーちゃんが寝ないならアイリスもまだ寝ない……」
「そんなことを言ってないで、ほら」
「やだあ、まだ起きてるもん!」
孫娘――アイリスは、ぶんぶんと首を横に振って「おやすみなさい」の7文字を頑なに拒む。眠そうなのは誰が見ても明らかだが、一緒の時間に寝ると言い張って聞かない。早く寝かせようとするシャガの態度が気に入らないのか、不機嫌そうに頬を膨らませて書斎に入ってきた。

「おじーちゃんのお仕事がおわるまで、アイリスここにいる!」
そう言って、アイリスは窓の近くに置いてあった椅子にどっかりと腰を下ろすのだった。
シャガはやれやれと溜息をついた。今のうちはそうやって元気にしているが、どうせすぐにうつらうつらとしてしまうに違いない。その時になったらブランケットをかけて、静かに寝室に運んでやらなくてはならないなと思う。孫娘の行動パターンは大体把握済みだ。

「わあ、きょうは月がきれいだね!」
アイリスは歓声を上げた。それにつられてシャガも窓の外を見る。今夜は満月、眩しいほどの光だ。
シャガは自らの住む屋敷を街の外れに造った。街中の喧騒を嫌ったためである。ソウリュウは各都市の中でも特に発展している街だが、この屋敷のある地域一帯は他に民家もなく、夜でも静かだった。シャガはここに屋敷を建ててよかったと、夜に仕事をするたびに思う。特にこの書斎は屋敷の一番高い場所なので月がよく見える。月を見ながら仕事をするのも悪くはない。

「これくらい明るいと、外はライトを持たなくても出歩けるだろうな」
「そうだね、ほんとおさんぽしたいくらい!……あれ?」

不意にアイリスが不思議そうに首を傾げた。何度も瞬きを繰り返して窓の向こうの景色を見ていたが、しまいには窓ガラスに張り付いた。さすがにシャガもぎょっとして、書類にサインをする手を止めた。
「なんだろ、あれ……」
「どうしたのだアイリス、何か気になるものでもあったか?」
「うん、あのね、ずうっととおくに、ひとがあるいてるの」
「……人?こんな夜にか」

シャガはアイリスのいる窓に近付き、同じように窓の外を見た。しかし彼の目に見えるのは、月の光に照らされたいつもと変わらない景色だけだ。見ようによっては遠くに豆粒のような影が見えないこともないが、おそらくそれは目の錯覚のようなものだろう。
アイリスはその生まれのためか、普通の人間よりも遥かに視力が良い。シャガには見えなくても、目の良いアイリスには見えているものがあるのかもしれない。
だが、ここ一帯は昼間ですらほとんど人が近付かない地域だ。何も用事がない限り、こんな場所を夜に通る人間など普通はいないはず。裏を返せば、今アイリスが見ているのは、こんな場所を通らざるを得ない人物だということだ。シャガの体に一瞬の緊張が走る。まさかこの屋敷を狙う侵入者だろうか。

「ひとりじゃないよ、たぶんふたり……ちょっとずつちかづいてる……でもまって、なんだかおかしい……?」
独り言を呟きながら、アイリスは懸命に目を凝らしている。シャガは孫娘を緊張の面持ちで見守る。万が一のことを考えて自分も双眼鏡で確認すべきか――とシャガが立ち上がりかけた時、アイリスが「あっ!」と大きな叫び声を上げた。
「たいへん!あのひと、ひどいケガしてる!たすけなきゃ!」
それは悲鳴にも似た叫びだった。アイリスは急に険しい表情をして椅子から飛び降りた。そのまま書斎の扉めがけて弾丸のように全力疾走する。驚いたのはシャガだった。
「あっ、こらアイリス、どこへ……!?」
「きまってるでしょ、たすけにいくの!おじーちゃんはお医者さんを呼んで!すぐにだよっ!」

そう言い残し、アイリスは書斎を出ると目にも留まらぬ速さで階段を駆け下りていった。一度こうと決めた後のアイリスは誰にも止められない。たとえ祖父のシャガであってもだ。
こういう時のアイリスの直感は信頼できる。彼女が助けると決めたのなら、きっとそれは絶対に救うべき人物なのだろう。シャガは慌てて内線で部下に連絡を取り、至急医者を呼ぶよう命じた。そして既に屋敷を飛び出しているであろう孫娘を追って、自らもまた階段を駆け下りるのだった。





「おじーちゃん、もっとはやく!まにあわないかもしれないんだよ!?」

車の助手席でアイリスはきゃんきゃんと喚いていた。だから自分で走った方が速いのに!と文句を言っている。どうやらアイリスは徒歩で向かう気満々だったようだが、さすがにこの距離を自力で走るというのは無理がある。何しろ、目的地はアイリスの視力ですら小さくしか見えない距離の場所なのだ。
シャガは走るアイリスを途中で拾い、小型車で夜の道を駆け抜けている最中だった。助手席に座るアイリスは尚も速く速くと急かしてくる。もう2キロ近くは走っただろうかという所で、シャガの目も前方に人影を捉えた。確かに二人だ。

車を停止させると、アイリスはすぐさま車を降りて二人の元へと駆けた。シャガもそれに続く。
「ねえっ!そこのひと、だいじょうぶ!?」
二人とも、まだ若い青年だった。緑髪の青年は、もう一人の黒い青年を背負ってぜいぜいと息を上げている。その様子から察するに相当長い距離をここまで歩いてきたのだろう。しかももう一人を抱えてだ。
シャガにはその緑髪の青年を見て、妙な胸のざわつきを覚えた。こんな夜に、こんな酷い怪我をして歩いているのは何故か?何か重い事情を抱えていることは明らかだ。そう、例えば、何者かに命を狙われたとか――

そこまで考えてシャガははっと顔を上げた。先日政府から回ってきた「脱走者」の情報は、この目の前にいる人物と当て嵌りはしないかと。
一人は白衣を着た緑髪の男、政府が追う最重要人物、「天才数学者」のN。もう一人は黒いコートを身に纏った身元不詳の男、Nのボディーガード役だと考えられるが恐ろしく強い。現在までの目撃情報によると、今はソウリュウ付近にいる可能性が高い――政府から与えられた情報はそれきりだ。しかしシャガには充分すぎるほどの情報だった。服装にいくらか違う部分はあるが、彼等こそが件の脱走者に間違いない。
シャガはこの偶然に体を震わせた。まさかこんな所で出会うことになるとは。

しかし彼の驚愕など知る由もなく、アイリスは二人に駆け寄って声をかける。
「ねえおにいさん、あたし、おにいさんたちを助けにきたんだよ!ああっ、こっちのひとなんてすごいケガ……!」
アイリスが緑髪の青年――Nの腕を掴んで揺さぶる。Nはそれにも気づかないのか、虚ろな目で前を見据えたままだった。「助ける、助ける」と独り言をぶつぶつと呟きながら、黒の青年を半ば引きずるようにして前へ前へと進もうとしている。アイリスの声も聞こえていないようだった。それほどに必死なのだ。
シャガはNの鬼気迫る様子を見て呆気に取られたが、すぐに気を持ち直してNの傍へ近付いた。

「君、聞こえているかね。私達は君らを助けたい。助力させてくれまいか」
極力落ち着いた声になるよう努めて、シャガはそう言った。果たして彼に届くかどうか。
するとNはシャガの声を聞いた瞬間にぴたりと動きを止めた。虚ろな目にふっと光が戻り、焦点が合う。目を見開いて唇を震わせた。酸素を求める魚のように何度も口を開閉させるたび、喉から掠れた声が漏れた。その掠れ声は徐々に音声を伴っていく。

「た、すけ……」
「たすけ、て……くださ……、」
「トウヤを、どうか、たすけてください」
「おねがいします、トウヤを、……どうか、トウヤを……助けて、ください……っ!」

絞り出された声はあまりに悲愴だった。顔をぐしゃぐしゃに歪め、乾き切った唇が切れて血が出るのも厭わず、ただひたすらに「助けてください」と繰り返す。
アイリスとシャガは思わず息を呑んだ。これほどまでに必死に助けを請う人間を初めて見たからだ。彼の端正な顔は血と泥で汚れ、疲労の色がありありと浮かんでいた。だが自分の苦しみなど彼は一切考えていないようだった。彼が願うのは「トウヤ」の命を救うことだけだ。

アイリスは何度も頷いてNの手を握った。
「うん、たすける、絶対たすけるよ……!」
するとNは僅かに安堵の表情を浮かべ、小さく「ありがとう」と呟いた。泣きそうになるが、かさかさに乾いた瞳にはもう涙を流すだけの余裕もなかった。

「必ず彼の命は助けよう。……我等に任せてくれるか?」
シャガの言葉にNはこくりと頷き、今まで背負っていたトウヤの体をそっと預けた。彼等にならば任せられると分かったのだ。
立ち上がろうとするとアイリスがNの肩を支えてくれたが、Nは首を横に振って「一人で大丈夫」と断った。これ以上力を借りるわけにはいかない。ふらつく足取りで砂の大地を踏みしめた。





(キミが生きるための道を、ボクは切り開けているだろうか)





2013/02/03


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