ネオメロ07/墜落世界


真珠のような満月が青白く世界を照らす中、二人の逃走者は、背後から迫る追跡者の目を掻い潜るように闇の中を駆けていた。追っ手は5人。徒歩以外の移動手段を持たないトウヤらには圧倒的に不利だった。なんとかその状況を打開すべく山の中に逃げ込んだ。深い茂みを掻き分け、脇目もふらず進む。追っ手は山の悪路に手を焼いたのか、それぞれの乗り物を捨てて追ってきた。ここまでは思惑通りだった。しかし。

「なかなか撒けないね……」

トウヤに抱きかかえられる体勢のまま、Nは苦い顔で呟いた。もうかなりの時間を走っているが、追っ手は諦めることなく後をついてくる。
どこかで身を隠すことも考えたがリスクが大きい。それよりは、このまま走り続けて人の多い場所に紛れる方がまだいい。だがNがどう計算しても、次の街まではまだ相当な距離があった。こんな時ばかりは、高性能のパソコンも天才的な頭脳も何の役にも立たない。信じられるのはトウヤの暗殺者としての経験と勘だけだ。

「……、」
不意にトウヤは立ち止まり、険しい表情で「囲まれた」と呟いた。その言葉にNもまたはっと息を呑む。……いくつかの気配が四方を取り囲み、距離を縮めるようにじりじりと近付いてくる。
気が付けば二人は山際に追い詰められていた。背後には高い崖。逃げ場は無い。トウヤは己の失態に唇を噛んだ。
この場所で戦闘を繰り広げるのは危険だと、今までの経験が告げている。藪の中であれば敵の不意を突いて攻撃することも可能だろうが、ここは見晴らしの良い崖だ。一つの的を狙ってくる敵には絶好の場所だろう。

やがて、茂みから追っ手が這い出してきた。その視線は真っ直ぐにトウヤとNに注がれる。
トウヤはNを背後に庇った。右手と左手、両方に銃を持ち敵に向ける。Nだけは絶対に守らなければならない。
「……もう逃げられん。大人しく身柄を差し出せ」
5人のうち、リーダー格であろう最年長の男が低い声で言った。自分たちの優位を確信しているようだった。
その問いには答えず、トウヤは周りを取り囲む敵を注意深く監察した。全員がプロの暗殺者だ。同じ世界で生きる人間だということは、目を見ればすぐに分かる。殺しに慣れ切った目。ここで素直に降伏したとしても、気を緩めた瞬間に脳天を撃ち抜かれるのが関の山だ。自分が向こうの立場にいてもそうするだろうとトウヤは思った。
即ち、ここで取るべき行動は一つだけ。トウヤは銃を握る力を強める。

「断る、と言ったら?」
「――無論、その命奪うまでだ!」

男の一言と共に、敵が一斉に銃を発砲した。だがトウヤはそれよりも尚速い。男たちが引き金を引く僅かなタイムラグを突き、両手撃ちで彼等の持っている銃を撃ち抜く。
「なん……っ!?」
男たちは目を見開いて一瞬棒立ちになったが、すぐさま次の武器を取り出して再度攻撃してくる。トウヤはそれにもすぐに対応しすかさず叩き落とした。
敵の武器の破壊。それが何よりも最優先すべきことだった。できる限り血を流さないと、Nに約束したからだ。決して殺さず、傷付けず、武器だけを奪って無力化させる。だが、これほどの人数相手にその約束がどれだけ貫けるだろうか。

激しい銃撃戦が続く中、敵の一人が撃った弾がトウヤの腹部に命中する。
「ぐっ……、」
防弾チョッキは着ているがそれでも足はよろめく。トウヤは低く呻いた。しかし銃を撃つ手は止めない。なんとかその場に留まり、唇を噛んで痛みに耐える。そうしている間にも、肩や頬を銃弾が掠める。
「トウヤ!」
背後でNが悲鳴に似た叫び声を上げた。トウヤの血を見て動揺しているのだろう。
早く終わらせなければ。その一心で、戦闘方針を「武器を奪う」から「敵の動きを止める」に変えた。敵の手足を重点的に狙い、動きを封じることに専念する。敵の血は流さないとは言っていられない状況だった。

4人は既に気絶させた。残すはあのリーダー格の男だ。しかし、リーダーというだけあってなかなか沈まない。脚を撃ってもなお食らいついてくる。
撃たれた肩に激痛が走った。まだ耐えろと強く言い聞かせるが、どうしても動きが鈍る。銃弾を受けた箇所からの出血で視界が霞む。敵がそれを見逃すはずはなく、次から次へと攻撃を仕掛けてきた。
「くそ……っ!」
トウヤが舌打ち紛れに放った一発は、パアン!という軽い音と共に男の額へ吸い込まれていった。刹那、赤い血が頭から吹き出る。そのまま男の体はぐらりと傾ぎ、崩れ落ちた。――殺したのだ。
約束を破ってしまった。トウヤがそう思うより先に、背後の気配が揺れた。咄嗟に後ろを振り返ると、Nが肩を押さえてよろめく姿が視界に入った。
「え……?」
N自身もたった今起こった状況が理解できないというように目を丸くした。その肩には血が滲んでいる。
……撃たれたのか。しかし何故。敵は今しがた全員再起不能にしたはずだ。
辺りを見回すと、敵の一人が上半身だけを上げて銃を手にしていた。先程気絶させたうちの一人が意識を取り戻していたのだ。男は憎しみと共に呪いの言葉を吐く。

「ハッ……、地獄に、落ちろ……!」

すかさずその男の頭を撃ち抜いたがもう遅い。Nの体はふらつき、そのまま――崖の下へと落ちて行った。
「N!!」
トウヤは全速力でNの元へ駆け寄りその手を掴もうとした。だがその手はNの細い腕を掴めずに、ただ空を掻くばかりだった。Nは呆然とした表情で、夜の闇に浮かぶ満月を瞳に映した。ああ、綺麗な月だ――そんなことを思いながら。……落ちて、ゆく。

トウヤは何の躊躇いも迷いもなく、Nを追ってその身を崖へと投げ出した。両腕を限界まで伸ばす。
届け届け届け!必死になって念じた。Nを守るという一事しか頭の中にはなかった。とうとうその手はNに届く。地面はもうすぐそこにまで迫っている。
落下のショックで気を失っているNの体を強く抱き締めた。
――どうか、Nだけは。存在を信じてもいない神に祈る。Nを助けてくれるなら誰でもいい。痛みが全て俺だけに降り注ぐよう。このちっぽけな命の代わりに、どうかNだけは掬い上げてくれ。

祈りが聞き届けられたことを確かめる間もないまま、それきりトウヤの意識は闇の中へと消えていった。





薄く視界が開ける。淡い月の光が頭上を照らしていた。
「う……、」
右肩に刺すような鋭い痛みが走った。同時に全身が鈍く痛む。ぼんやりとしていた意識はその痛みによって一気にクリアになる。

(ボクは何を……)

朧げな記憶を繋ぎ合わせていく。先程までは追っ手の目を逃れ、山の中へと逃げ込んだ。崖に追い込まれ銃撃戦になって――痛みが広がる右肩は、その時に撃たれたのだ。そして足元を見失い崖から落ちた。
あの崖は、軽く数十メートルはあったはずだ。普通なら即死か、かろうじて死は免れても重傷を負うことは間違いない。だがどうだろう。全身に鈍い痛みはあるものの、あの高さから落ちたとは思えないほど傷が少ない。意識もはっきりしている。

何故だろうか……と考えを巡らせ始めた途端、Nは大きく目を見開いた。
「トウヤ!」
そうだ。意識を手放す直前、トウヤが手を伸ばしてきたことを思い出した。それ以降の記憶は曖昧だが、おそらくはトウヤが――

「……え?」

身を起こし、振り向いて、傍らに横たわるそれに目を向けた瞬間、Nは思考を止めた。
死人のように青ざめた顔。生気のない唇。ぼろぼろになったコート。そこに滲む黒ずんだ赤。地面に広がるその色。濃い血の臭い。

――死んでいる、と思った。

それほどに生の実感がなかった。呆然とする頭の片隅で、もう助からないと冷静に囁く自分がいた。
Nは「彼」の姿を見て悟ってしまった。自分が崖から落ちた後に何があったのか。何故自分にはこれほど怪我が少ないのか。

トウヤが取った行動、それは。
Nが受けるはずだった痛みも傷も、全てをその身に引き受けること。

「トウヤ……!」
Nは悲鳴を上げてその名を呼んだ。彼の頬に手を触れる。恐ろしいほどに冷たかった。
Nを守るようにして抱き締めていた腕も、今は力なく地面に投げ出されている。彼の体から流れ出るのは血だけではない。その命ごと奪い去られようとしている。
「い……いやだ、トウヤ、どうして……どうして、こんな……っ!」
狂ったように何度もトウヤの名を呼んだ。しかし何度呼び掛けても反応がない。恐怖が全身を襲う。かけがえの無いものがゆっくりと消えて行く感覚がある。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

「トウヤ……!お願いだ、目を開けて……返事をしてくれ……!」
涙が次から次へと頬を伝った。何故ここで涙が出るのだろう。何を恐れて泣くのだろう。命が失われゆくことへの悲しみか、それとも孤独への恐怖か。そんなことは分かりはしない。
溢れた涙がトウヤの頬に落ちていく。ああ、この涙の熱が、彼の体を伝わって体温を取り戻させてくれたならいいのに。

その時だった。
「…………、」
Nの呼びかけに応えるように、トウヤの目が薄く開いた。焦点が合わずに彷徨う。
「トウヤ!」
ひときわ大きく名前を呼んだ。この世界に彼を繋ぎ留めるために。トウヤはゆらゆらと視線を揺らがせて、やがてゆっくりとNに焦点を結ぶ。……目が、合った。
「トウヤ、ごめん、ボクのせいでこんな……ボクは守られてばかりで、いつもキミだけが傷付く……」
本当はこんなことを言うべきではないと頭では分かっているのに、唇から紡がれるのは懺悔の言葉だった。だが他に何が言えるだろう。別れなど絶対に認めない。認めたくない。心が頑なに別れの言葉を拒絶する。だから違う言葉で空白を埋めようとしていた。たとえ意味などなくても。




トウヤは涙を流すNをただただ見ることしかできなかった。体がぴくりとも動かないのだ。指一本動かせない。薄れゆく意識を掻き集め、頭でいくら体に命令を出しても声すら出ない。かろうじて目だけが僅かに動かせるだけだった。しかし、それすらももう不可能になりつつある。
自らの命が急激に擦り減っていく感覚。この感覚を経験したのは一度や二度ではない。常に死と隣り合わせで生きてきたのだ。死の際など見慣れているはずだった。

しかし、何故だろう。トウヤは自分の中に、今まで経験したことのない感覚が湧き出ているのを感じていた。いや、「経験したことがない」というのは誤りだ。より正確に表現するならば、「忘れていたはずの」感覚。それは恐怖と呼ばれるもの。
傷を負うことを恐れてはいない。死が恐ろしいわけでもない。ただ、置いていくのが怖いのだ。Nを置き去りにして、自分ひとり死んでいくことが。
自分が死んだら誰がNを守る?誰がNと生きていく?誰がNの生きる道を作る?――彼の「恐怖」はそのすべてがNという存在に帰結していた。Nと出会ってから、長らく忘れていたはずの恐怖を思い出した。こんな……こんな、時に。

「トウヤ、トウヤ……っ!」

Nは泣いている。その端正な顔をくしゃくしゃに歪め、青みのかかった硝子球のような目いっぱいに涙を溜めて。
Nを守ると決めたのではなかったか。その瞳を悲しみで曇らせまいと、今まで必死に守ってきたのではなかったか。ならば何故Nは泣いている?何のために?誰のために?

(……俺の、ために?)

泣かせているのは自分なのだ。今こうして、彼を守るために死のうとしている自分が、Nの綺麗な目から涙を零させていた。
Nを守って死ねるのなら本望だと、いつか考えたことがある。本当にそれが叶うのなら、きっと幸せだろう。あの時の自分は浅はかだった。Nのすべてを守り切れるつもりでいた。だが違う。何も守れてなどいない。Nを守ると言った舌の根も乾かぬうちに、その優しい微笑みも何一つ守り切れぬままに命を削り取られていく。

(……泣くな、N)
(どうか俺のために泣かないでくれ)

本当なら、体を持ち上げ、両腕を広げてNを抱き締めてやりたかった。この指先でNの目から溢れる涙を拭ってやりたかった。けれど体はちっとも反応してくれやしないのだ。悔しくてたまらなかった。動いてほしい時に動かない体など何の意味もないというのに。
徐々に視界に靄がかかっていく。何度も自分の名を呼び続けているのであろうNの声すら、もう雑音のようにしか聞こえない。ただ、頬に落ちてくるNの涙のあたたかさだけが確かな感覚として残っている。

(……N、)

ひっそりと閉じていく意識の中、トウヤは最後に大切な人の名前を呼んだ。





(お前を守れない俺を、許さなくていい)





2013/01/31


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