首筋の記憶


いやだ、いやだ、いやだ!どうしてそんな、ただ、ぼくは、

こわい たすけて

何も思い出せないのに よみがえるのは恐ろしい記憶ばかり

痛くて苦しくて ねえどうして どうして




(あいしてくれないの?)



「――っ!!」

そこでボクは飛び起きた。必死に呼吸を整える。背中を冷たい汗が伝った。たった今見た夢の内容は目覚めた瞬間に頭の中から抜け落ちて、ただどうしようもないくらいの体の震えだけが残っていた。心臓の鼓動が嫌に激しい。
(いや、だ)
悲鳴すら出ない。怖かった。得体の知れない恐怖がざわざわと背筋を伝う。苦しい。何度荒い呼吸を繰り返しても肺が十分に空気を取り込んでくれない。首が、喉が、熱い。この夢を見た後はいつもそうだ。
ふらつく足で鏡の前まで歩いていく。真っ青な顔をした自分が映し出された。
(……ああ、やっぱり)
首元を押さえてボクは鏡の前でうなだれた。ひとりでいたくない。



その日は夜になっても激しい雨が降り続いていた。問答無用で毎日のごとく家に押しかけてくる彼は、今日に限っていっこうに来る気配が無かった。なんだか調子が狂う。いつもなら雨が降ろうと雷が鳴ろうと家の扉は叩かれるはずなのに。確かに毎日家に押しかけられるのは迷惑だけど、来ないなら来ないで少しは寂しいものなのだ。
だからって、こんな深夜まで起きて彼の来訪を待っている自分もどうかと思う。家の外で物音がすると即座に扉と窓を開けて彼が来ていないか確認しては溜息をついた。何やってるんだろう俺は。
別に毎日会うことを約束していたわけでもないし、会わない日が一日くらいあってもおかしくない。自分自身にそう言い聞かせて寝る準備を始める。
するとその時、家の扉を強く叩く音がした。その音が耳に入った俺は即座に顔を上げ、光の速さで扉に向かい、鍵を開ける。

「……やあ。ごめん、こんな夜遅くに」
彼は弱々しい笑顔でそう挨拶すると、俺の胸に倒れ掛かってきた。間一髪で体を支える。彼の体温の低さに驚いた。
「ちょっと……どうしたんだ、こんなびしょ濡れで。まさか傘も差さずに来たんじゃ」
「うん」
彼はその場から動く気力も残っていないようで、仕方なく俺が引きずる形でリビングまで運んだ。俺が浴室からバスタオルを持ってくると、彼は小さく縮こまってソファーに寄りかかっていた。小刻みに震えている。全身濡れているようではタオルで拭く意味もないかもしれない。俺はシャワーを浴びて温まるように言った。彼はまた力なく頷くと、浴室の方向へよろよろ歩き出す。かなり頼りない足取りではあったけど、シャワーくらいなら一人でも大丈夫だろうと思って俺はキッチンに向かった。

Nのためにホットココアを用意しながら考える。彼のあんなに弱々しい姿を見たのは初めてだ。いつもへらへらとした笑顔でいる彼の劇的な変化に少し狼狽した。彼をそこまで変える何かが、俺のいない間にあったのだろうか。彼の過去については多少なりとも知っているつもりだったけど、俺が想像もつかないような辛い出来事を経験していたのかもしれない。その傷が未だに彼の心に深い影を落としているなら、俺は彼の隣に立つ者としてその傷と向き合わなければならない。
でも、一体何が――

ガシャン!

そこで俺の思考はあっという間に掻き消された。浴室から聞こえた大きな音。Nに何かあったのか。やっぱり彼を一人にしてはいけなかった……!
「N!」
焦りと後悔を抱えて一目散に浴室へ向かう。勢いよく浴室の扉を開けると、そこにはびしょ濡れのまま床に座り込んで震えているNがいた。シャワーが湯を出しながら放り出され、石鹸や洗剤が入っている棚が崩れている。さっきの音はこれだったようだ。彼は震えながら首を両手で押さえていた。まるで何かを隠そうとするかのように。

「N、一体何が……」
「触るなっ!」

彼の肩に触れようとしたら、強い拒絶の言葉と共に手を弾かれた。たった今この目で見たものが信じられず俺は呆然とする。
「見るな……お願いだから、見ないでくれ……!」
涙で顔を濡らしたNが声も微かに懇願した。細い身体を折り曲げて、慟哭。彼の嗚咽が浴室の中に響く。

彼が左手で俺の手を弾いた時、俺は見てしまった。彼の首筋にくっきりと浮かぶ、紅い蝶のような痣を。どうすればあんな形の痣ができるのかを俺は瞬時に悟ってしまった。
あれは――あれは、首を絞めることでできる痣だ。両親指は触覚、左右四本ずつの指は翅。両手でその形を作ることによって紅い蝶は生み出される。けれど、普通はあれほど鮮明に痣が残るはずがない。殺そうという明確な意志を持って首を絞められない限り。
……ならば。彼は、誰かに殺されそうになったとでもいうのか。痣が残るほどきつく首を絞められ、未だにその時の記憶に怯えるほどの恐怖に襲われて。

「N」
もう一度彼に近づくと、今度は拒絶されずに触れることができた。シャワーを浴びていたはずなのにその体はひどく冷たい。少しでも落ち着かせようと、濡れるのも厭わずに背中を撫でてやる。
「大丈夫、もう大丈夫だから……何があったのか、ゆっくりでいいから教えてくれないか?」
Nは俺が傍にいることで安心したようだった。鼻を啜って、俺の服の裾をぎゅっと掴みながら途切れ途切れに話し始めた。
「夢を、見たんだ。とても怖い夢」
「……どんな?」
「覚えてない。ただ、怖くて、痛くて、苦しくて……死にたくなる夢」
彼はそこで言葉に詰まった。何かに耐えるように息を呑んだ後、再び口を開く。
「その夢を見たあとは、必ず首に赤い痣が浮かぶ。しばらくしたら消えるから、いつもは服で隠してるけど……さっきここの鏡で痣をもう一度見たら、また思い出してしまって……」

あんなに取り乱すほど恐ろしい夢だったようだ。なのに内容をまったく覚えていないのが疑問に思った。記憶はなく、恐怖の感覚だけが残る夢などあるのだろうか。
「もしかして、今までに何度も同じような夢を?」
「……うん」
Nがまた震えた。彼がいつも首元が隠れる服を着ている理由をこんな形で知りたくはなかった。いたたまれなくなった俺は彼の首に残る痛々しい痣に触れて――意識が飛んだ。

――いやだ、やめて、いたい、いたい、くるしいよ、どうして……!

頭の中に次々と映像と音が飛び込んでくる。首に手を伸ばそうとする誰かの影、幼い子供の悲鳴、痛みと苦しみ。
……なんだ、今のは。見たことのない映像だ。けれど俺はあの映像の中に見知った人物を捉えていた。彼と同じ緑の髪、他者を嘲り見下す瞳。……あれは。

――歪で不完全な人間。
――人の心を持たぬバケモノ。


思い出したくもない声が甦る。

「まさか」

無意識のうちに声に出していた。まさか、まさか。たった今俺が見た映像はNの記憶なのか。あの男は今でも彼を悪夢の中に縛り付けているというのか。
……結局、あの時から何も変わっていないじゃないか。
震える彼の体を抱きながら、俺は唇を強く噛んだ。


(彼は未だ鳥籠の中)




2010/10/01


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