唇が赤くなっている。空気が乾燥しているせいで水分が飛び、せめて気休めにと舐めたのがまずかった。まさかこんな風に荒れるとは思わなかったし、これの上手な対処法も知らない。私一応女の子なんだけどなぁ、なんて思いながら冷たい自分の指先で熱を持った唇を冷やした。

「ううん」

ヒリヒリする。無意識に唾液で潤そうとするせいか、最初よりも乾燥が酷い。荒れたせいで変に熱を持っているために唇の違和感が気になって気になってしょうがない。
でもそれは、今日がきっと一日中ずっとずっと暇だから。今までが忙しかったからなのか、何かにずっと気を取られていて時間の流れを感じる余裕すら無かったように思う。

ぱたん。ベッドに倒れ込む。目に見えない埃が舞っているのだろうな、と無意味なのを分かっていながら目を凝らす。見えたらすごいよ、なんて自分に言い聞かせてみるが、顕微鏡や特殊な機械を使わないと見えない物を期待しているために当然肉眼で見える訳がない。
そんなの、わかっている。しかしなんだか悔しいのでベッドの表面を叩いて見えない埃を宙に舞わせる。

「そんなやってたら、吸わなくていい埃を吸ってしまうよ」

そんな声が聞こえた気がして、私は思わず飛び起きる。

「…伊作?」

返事はない。だか、彼がいるわけがない。いまはもう、私一人なのだ。

唇がまたヒリヒリ言い出した。私にどうしろっていうんだよ。乱暴に手の甲で擦ると、荒れた唇がちくちくする。地味に痛くて、私はとにかく冷やそうと台所へ行こうと立ち上がった。グラスに氷と水を入れて、冷たくなったグラスの表面を自分の唇に押し付け、熱がじわじわと引いていくのが分かる。心地が良い。

「……」

なんだかこじんまりした地味な部屋だな。カーテン変えようか。そしたら多少は色味が出て部屋も明るくなるだろうか。薄い水色に白い糸で刺繍を施された清潔感のあるカーテンを見ながら思う。

「本当に、センスがないなあ」

かたん。グラスを置いて目を細めながらため息を吐く。嫌に響いた自分の声が山びこのように返ってきた気がした。

センスないのは私だ。

本当は鮮やかな色に溢れていたこの部屋は、いつの間にか陽に褪せたような悲しい色ばかりになっている。それも、所々、誰かさんのよく居た場所ばかり。

「荷物は全部まとめたから。でももし何か残ってたら捨ててもいいから、」

うっかり目を閉じてしまった私に部屋に鎮座した静寂が私にそう告げた。無意識に小指で薬指の付け根に触れる。つい最近までそこに合った暖かい温度が見当たらない。

思い出す、なんてものじゃない。最早記憶にすらなれないこれらはずっとここに居るのだ。現在進行形で、私の存在を無視して笑う姿が苦しい。あんなに暖かかったのに、右手で触れたままのグラスのように冷たい空間が私をただ嘲笑う。

「唇が荒れちゃって、名前みたいに、リップクリームを持ってないときは蜂蜜を塗るといいんだよ」

蜂蜜の瓶が私に自分の姿を主張した。殺菌効果があるんだっけ。もし間違って舐めても大丈夫なんだよね。前にそんなことも、言っていたかもしれない。小ぶりな瓶を手に取って蓋を回した。

「でも今度、リップクリーム買いに行こうね」

蓋を取ると同時に溢れて出てきた困ったように笑う顔が、蜂蜜を指に纏わせて私の唇に触れる人差し指が、そのあと必ず重ねた唇が、ひどく褪せて滲んで見えて、そしてつめたかった。


「      」


そのあと、頬を少し染めた貴方が、必ず言う言葉が思い出せない。前が滲んで、改めて口にする言葉もなければ、私の荒れた唇が潤うこともない。

ポケットに居場所を移していた冷たいリング。それを蜂蜜の中に沈めて、同時に何もかもを押し込んで閉じ込めてしまおうと蜂蜜の瓶にキツく蓋をした。その上から蓋をセロハンテープでぐるぐる巻きにして、冷蔵庫の上に乗せて鼻をすする。

悲しいけれど、新しく生きる私を見守っていてほしい。まるで神棚にするように私は両手を合わせた。

きっと前よりも、私は強くなれるはず。だからまずは、この部屋の大掃除から始めよう。

蜂蜜の瓶の中、ようやく底に到達したリングが一瞬だけ輝いて見えた。




20121211
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