さよならで終わる最後をどうしても想像できなかった。
ついに会話すら無くなったこの空間に私がなんでこの場にいるのかさえも理解出来なくなってきた。小さく息を吐いただけで空気は白く染まってしまい、時折吹く風はまるで肌を針で刺すような冷たさである。冷たいのは風だけではなく、いま私が手を置いている手すりだってそうだし、一歩分の距離を開けた向こう側にいる能勢久作も、そうだった。後者の場合、少なくとも私が思うに、感じるには、だが。
ギギ、と海の波が穏やかに揺れる度に波に合わせて動く船やヨットが音を立てた。不思議なことに海の匂いがしない。遠い向こう岸には明るい電気がいくつもあってキラキラしている。時折灯台の光がこちらに向き、水面を照らしていた。その瞬間が今の楽しみだ。
相変わらず私達の空間には温度が無くて会話も無く、小さく息を吐こうとしたときにようやく彼の方が口を開いた。
「…前に来たのはいつだっけ」
「いつだったかな」
すぐに答えを口にした私に関心しつつ、ようやくこの場に温度が灯った気がした。でもそれはまた一瞬の出来事で、すぐに先程と同じように冷めきってしまう。ああもうダメなのかな。心の隅でポツリと呟く。いつの間にか温度を持った手すりから手を離して、自分のトレンチコートのポケットに新しく居場所を与えた。さっきよりもずっとあたたかい空間になった私のポケット。ほんの一歩向こうにいる彼は白い息を吐きながら両手を擦っている。こういう時の彼はちょっとだけ強情なのだ。自分が海に行くって言って来たから、寒いって言い辛いんだよね、なんて考える。
「寒いね」
だから私はわざとそれを口にするのだ。久作はようやく私の姿を目に映して、擦り合わせていた両手を自分のポケットの中に収めた。
「急に海を見に行こうって言ったからな、悪い」
「ううん。静かだからいいの」
そう、酷く静かな空間だった。たまに船やヨットの軋む音や波の音がするだけのこの空間が私は好きで、真っ黒な海は怖いけれど一番明るい星や欠けた月の光が海面に映って綺麗だ。
灯台の光が一瞬だけ海面を照らして消えた。
ふと空を見上げれば、思いの外たくさんの星が飾られていて目が離せなくなる。ちょっと町から外れたこの場所は街灯が少なく、薄暗いからたくさんの星が見えるのだろう。まるでプラネタリウムに来たみたいだ。素敵。
「覚えてる?」
「唐突だな」
「私達、ここから始まった」
「…覚えてるよ、」
私の目にはまだたくさんの星が映っている。隣で空を見上げる久作の気配がしたが、実際は本当に見上げたのかは分からない。同じ空を見上げているけれど、きっと違う星を見つめている。
「あの日も久作が、いきなり海を見に行こうって言ったね」
ん、と呟くよりも小さな声の返事が聞こえて、私は目の乾きを感じて瞬きをした。
「ねえ久作、寒いよ」
コツン、久作の革靴が地面を鳴らした。先程まであった一歩分の距離が無くなったのだろうか。しかし確認するつもりはなかった。
「久作」
「うん」
先程よりもはっきり聞こえた返事。するとトレンチコートの左ポケットに入っていた左手が抜かれ、冷たい外気に触れた。ポケットの中で温まっていた私の指と絡んだ久作の指があまりにも冷たくて私は久作の顔を見る。私の体温が久作に奪われていき、いつの間にか同じ温度を共有していた。温かくも冷たくもない。ただ時折吹く風が冷たくて、風が私達の繋がれた手を撫でる度にお互いにほんの少しだけ力を込めた。
「また、改めてここから始めよう」
真っ直ぐな目が私の目から脳味噌の反対側までを迷いなく射抜いた。私は瞬きすら出来ずに、言葉の意味を理解しようと久作の目の奥を覗いた。
「終わらせる、つもりはないよ」
「…」
「またここから始めよう。新しく、」
彼の、ポケットに収まったままの左手が動いた。すると絡めたままだった指を私の左手から緩く解いていく。久作はそのまま、薬指だけを摘まむようにして私の左手を支えた。また彼の左手がポケットの中で動いている。ごそごそと、まるで指先で何かを触っているような動きだ。
すると久作の左手がなにかを握った状態のまま出てきて、次の瞬間、すっかり冷えてしまった私の左手の、それも薬指に何よりも温かい温度が優しく光った。
涙だけは止まらなかった
それでも、私の中の空白と寂しさ、なにもかもが優しい温度を持って満たされている。
title/確かに恋だった
20121203