今思えば、わたしと彼の物語は、至極普通のものだったのかもしれない。
出会いは、高校2年生の時。初めての席替えで、隣になった能勢くん。授業中どころか休み時間も真面目に予習をしちゃうような男の子で、黒縁のメガネがとても似合っていた。最初はなんにも思ってなかったけれど、たまたま隣の席の人と話し合ってください、なんていう機会があって、彼の発した「苗字さん」という自分の名前が別物のように聞こえて、どきりとしたのを今でも覚えている。
彼のことを好きだと意識したのは、高校3年生の春。また同じクラスで、今度は同じ委員会になった。2年生のときも彼は図書委員で、能勢くんは本が好きだと、風の噂で聞いたことがあった。もしかしたら一緒になるかもしれないと興味本位で選んでみた委員会だったのだけれど、これが思った以上に大変だったわけで。「苗字さん、こっちの高い棚はいいから、向こう頼むよ」そう言ってそっとわたしの仕事を肩代わりしてくれた彼に、温かい気持ちになって、ああ、好きなんだと気づいた。
彼に告白したのは、高校3年生の夏。好きだと思ったらいてもたってもいられなくて、体育祭の打ち上げの日、そっと呼び出して思いを伝えた。能勢くんは本当に驚いていたけれど、「ありがとう」と言ってくれた。「付き合うとか、正直よくわからないから傷つけてしまうこともあるかもしれないけど、俺でよければ」良くないわけがないよ、といったら、笑われた。
初めて喧嘩したのは、高校3年生の冬。初めてのクリスマスなのに、友人である池田くんたちに誘われたクリスマスパーティを断りきれなかったと言われたからだ。ずっと楽しみにしていたのに、といえば「こんなイベントに踊らされなくたっていいだろ」と言われて、泣いた。能勢くんは困った顔をして、「ごめん、意地張っただけだ、来年は一緒にケーキ食べよう」そう言って、抱きしめてくれた。
大学受験は、能勢くんと同じところを志望していたから、特に問題はなく過ぎた。2人とも無事に受かって、初めて電車に乗って遠出の旅行に出かけた。初めての風景を能勢くんと見られて嬉しいといえば、「俺も」と短い言葉が返ってきて、こっそり覗きみた能勢くんの顔が赤かったのを見ながら、わたしはこの人が愛しいとこっそり思ったのである。
そしてその帰り道、「なまえ」と初めて名前で呼ばれて、キスされた。付き合い始めて半年経った頃だ。ずっとしたかったけれど、恥ずかしくて言えなかった。まさか能勢くんからしてくれると思わなかった、半泣きでそういえば、「俺も男なもので」と照れたように笑った能勢くんの顔が何よりの思い出だった。
「一緒に暮らさないか」そう言われたのは、大学4年生の時。真面目な能勢くんからまさか同棲の話が出るなんて思いもよらず、それでも嬉しくて二つ返事で返したのはそんなに遠い記憶ではない。能勢くんはわたしの両親に、頭を下げて同棲の許可をとってくれた。「お父さんに殴られたらどうしようかと思った」疲れた顔で能勢くんがそんなことを言うので思わず笑ったら、悔しそうにほっぺたをつねられた。
―――そして、今。
「なまえ」
わたしを呼ぶ声が聞こえて振り返れば、フロックコートに身を固めた能勢くんの姿。すっとわたしの方へ歩いてくる姿は、とても様になっている。
「わあ、似合ってるね!」
「………」
「?…どうしたの?」
「…いや、あまりに綺麗だから」
「!」
手の甲で口元を隠しながら、斜めを向いてしまう能勢くんに、わたしの顔は真っ赤になってしまう。普段あまり甘い言葉を言わない彼が吐く甘い戯言は威力がありすぎるのだ。あまりの恥ずかしさにどうしようと視線を彷徨わせれば、落ち着いた声が、耳元に落ちてくる。
「ごめん、柄にもなく」
「そ、そんなことない!ありがとう、嬉しいよ能勢くん!」
「ストップ」
「え」
「能勢くんて、なまえの苗字はなんだっけ?」
「―――あ」
能勢くんが、呆れたように笑う。ああ、またやってしまった。そうだった。この間、わたしと能勢くんは、同じ苗字になったというのに。何度も空気を吐き出して、やっと口にする、答え。
「………能勢、です」
「よくできました、能勢なまえさん」
恥ずかしくてうつむいてしまったわたしの顔にかかるベールを持ち上げて、能勢くん、もとい久作くんが悪戯っぽく笑う。せっかく綺麗にしてもらったのに、そういえば、あとで直せばいいよ、なんて久作くんにしては非現実的な答えが返ってきた。そして、わたしに魔法をかけるのである。
「愛してるよ、なまえ」
手順通りに溶けていく
(そしてこの一瞬が、また素敵な思い出になるのでしょう。)
(12.12.21 塔)
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