朝日と五等星 | ナノ




ああ、こんなにもきもちのわるいものはないだろうな。

どろどろとしたものを身に纏ったまま学園の風呂へ向かう。生徒の姿はない。皆寝静まった時間なのだから、当たり前なのだが。
変色し、少々水分を含んで重量感を感じていた頭巾を乱暴に剥ぎ取り、顔を隠していた覆面をも取る。ようやく自由になった呼吸。深々と吸った空気のなかに忍術学園の匂いを感じ、自分が生きていることに、ここまで帰って来れたことに安堵する。

風呂に入っても、身体中に付着した感覚が拭えない。皮膚が赤くなるまで擦り洗い、痛みを感じてようやく手が止まった。
湯に溶けた赤黒いそれが、排水溝に流れる。いつの間にか伸びきってしまった髪が水滴を落としていく様をただ見つめながら、震えだした両手で髪を掻き上げた。

眠って、忘れてしまおう。

ただそれだけを考えて、覚束かない足取りで自室へ向かう。何も敷いていない畳の上に倒れ込み、隅に置かれた座布団を抱き寄せて今日はこれで我慢しようと目を閉じた。疲れが溜まっていたのだろう。私はすぐに眠りにつくことができた。起きたらきっと、今までと同じ日常なのだ。

そう言い聞かせるように、私は眠りにおちた。






―――ぱたぱた、
控えめな足音で目が覚めた。朝が来たらしい。 自室の扉から光が漏れている。
畳の上に直に寝たせいか体が痛い。今まで抱き締めていた座布団を小脇に抱えて扉を開けた。

「わ、びっくりした」
「あ、なまえ先輩!すいません!」
「なまえ先輩おはようございます!」
「おはよ、なんか騒がしいみたいだけどどうかしたの」

この時間から長屋に足音が絶えないのは珍しい。寝間着のまま、ましてや寝癖もそのままで部屋の扉を開けたせいか、後輩達の顔が苦笑いしている。

「最近、町の有名な髪結い師が編入したらしいんです」
「へぇ、それは珍しい」
「噂だと格好いいらしくて!」
「いま丁度、食堂にいるらしいんです」

らしい、ね。二人共噂話ばかりを口にする。引き止めて悪かったね、と言うと彼女達は失礼しますと軽く会釈して足早に駆けて行った。
皆が皆して見に行くことはないだろうに。でも、この忍術学園に編入してくること事態が珍しいことなのだから仕方ないだろう。しかも髪結いなら、くのたまも食い付くはずだ。上手く行けばわざわざ町まで出掛ける手間が省けるのだ。使えるモノは利用しなければ。忍の性分がここでモロに出たな、なんてね。

着替えを済ませて私も朝食をと部屋の外へ足を向けたが、寝癖のまま行けば仙蔵にまた嫌みを言われてしまうと踏み止まる。体を方向転換させて、普段あまり利用しない化粧台の前に座って鏡を覗く。


「…今日は、頑張った」

数分粘ったのだから大丈夫、と言い聞かせる。普段と変わらないように見えるのは気のせいだし、お腹も空いたし早く朝ご飯を食べたい。そういえば昨日の昼から何も食べてなかったな、気付いてしまったためにさらにお腹が食べ物を欲し始めていた。


「今日はやけにくのたまが多いな」
「私に言われても、理由は答えかねますよ」

食堂へ近づけば近づくほど、くのたまの姿が多く見られた。その様子をいつの間にかそばまで来た仙蔵が不思議そうな顔をして見ていて、隣にはあからさまにイライラしている潮江文次郎もいる。

「…あ、たしか最近編入生入ったらしいね。それじゃない?」
「なるほど、それか」
「ふん、くだらん」

まあ、文次郎の意見には賛成である。朝ぐらい普通にゆっくりご飯を食べたいのだけど、これじゃあきっと無理だ。
食堂に入るといつもより混雑しているのがよくわかる。入った瞬間、文次郎の眉間のしわが濃くなるのが見てわかった。


「有名な髪結い処の人だとかなんとか朝から後輩達が言っていたけど」
「詳しくは知らんが、歳は私達と同じだそうだ。たしか、四年生に編入したらしい」
「ふうん。あ、おばちゃん私B定食をお願いします」
「…お前は色気より食い気か。私も同じものを」
「俺もB定食を」

ざわざわといつもよりもうるさい食堂内にうんざりする。思ったより早く出てきたB定食を一番先に受け取った私は、席は空いてるだろうかと辺りを見渡す。

「伊作たちが先に来ているはずだが…」
「おおお!なまえー!こっちだこっち!」
「ああ、いたいた」

伊作を探していると少し奥に居た小平太がこちらに気付き、立ち上がって仙蔵の言葉を遮るくらい大きな声を上げて手を振ってくれている。伊作や留三郎、長次も一緒にいるようだ。
小平太が立ち上がったときに伊作が味噌汁を溢してしまっていたのはあえて見てみぬふりをする。

先に行っているよ、と仙蔵と文次郎を振り返る。同時に聞き覚えのある、しかしこの場に居るはずのない人物の声が私の名を呼んだのだ。聞き間違えだったら良かったのに、と何度思ったか。

「なまえ?もしかしてなまえちゃん!?」

驚いて振り返れば見覚えのある眩しく輝かしい金髪頭が立ち上がってこちらを見ている。

「やっぱりなまえちゃんだー!」
「タカ丸さん、なまえ先輩のこと知ってるんですか?」

タカ丸、斉藤タカ丸?
一緒にご飯を食べていたらしい一年は組の三人組の一人、乱太郎が言った名前が頭に響き渡る。

学園生活リタイヤ五秒前。私の今まで通りの日常生活はどうなってしまうのだろう。


title by 酸素
20120921

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