※若干の暴力表現があります。割りと冷たくて女にも容赦しないオペラ先輩の話です。
 


さあ、と血の気が引いていく。

ぴちゃり、ぴちゃりと水滴が滴り廊下にゆっくりと水溜まりを作っていく様を真っ白になった頭で眺めるしかなかった。恐る恐る伏せた顔を上げると真正面にはあのバビルスいち恐ろしい悪魔が濡れた髪と服をそのままに、何の感情も映さない表情で私を見下ろしている。
ああ、私、死んだ。
 
何か言葉を発しようとうっすらとオペラ先輩の口が開いたのが見えた瞬間、私は床を蹴り上げ死に物狂いでその場を離れた。捕まったら死ぬ、あの恐ろしい先輩に自販機で購入したジュースをぶちまけてしまうなんて阿呆もいいところだ。
喉が乾いて教室まで待てずに廊下で紙パックを開けてしまったこと、廊下に転がっていたゴミを踏んづけて滑った瞬間にそのパックをぎゅう、と握り潰してしまい中身がびゅるびゅると飛び散ってしまったこと、そこにたまたまオペラ先輩が居合わせたこと、どれか一つでも無ければこんなことにはならなかったのに。

教室まで辿り着けばナベリウスくんとバラムくんが居る。ナベリウスくんなら実力的にオペラ先輩に対抗できそうだしバラムくんに対してはあの先輩は甘いらしいと聞いたので、大して仲がいい訳でも無いがもうそこに賭けるしか私の生存ルートは無い。

あと一歩で教室に入れる、という所で足が床を離れて体が宙に浮く。それから視界がぐるりと回り背中に鈍い衝撃を受けた。床に投げられたのだ、と気付いた時にはオペラ先輩の恐ろしい形相が目の前にあった。床に背中が打ち付けられた衝撃でゴホ、と咳き込むも、痛いとかそういう感情は吹き飛んでいた。
私は、バビルスいち恐ろしい悪魔に廊下の隅に投げられ、のし掛かられ、恐怖の床ドンをされているのだ。

「さっき、私に何をしましたか?」
「………じゅ、っ……す、を……こぼ、してしまって、………その、」

ぽたり、と頬に件の真っ赤な雫が落ちてきた。まるで返り血のようなそれが次々に滴り落ちてくる。
恐怖のあまり震える体を抑えるためにぎゅ、と拳を握り、なんとか声を絞り出すのだがやはり震えた途切れ途切れの言葉しか出てこない。

つい二日前も、この悪魔が上級生数名を完膚なきまでに叩きのめしたと噂に聞いたばかりである。どうしたら逃げられるか、どうしたら怒りを収めてもらえるかとぐるぐる頭の中で考えた、が、答えなどいくら考えたところで出るはずもなかった。

「おかしいですね、私は耳が聞こえなくなったんでしょうか」
「………は、」
「謝罪の言葉が一言も聞こえなかったと思うんですがあなたはどう思います?」
「ひっ………、す、みま、……せん、でした」

そうだ、そういえばこの悪魔が恐すぎて一番始めに言うべき言葉を私は忘れていたような気がする。謝りもせずに逃げ出した私だ、今更謝ったからといって許してもらえる訳では無いのだろうが、震える声を再び絞り出した。

すると絶対に逃がすまいとばかりに私の顔の両側に置かれていたオペラ先輩の腕があっさりと離れていく。まさか、これで許してくれるのだろうかとほんの少し、淡い期待をしたのも束の間だった。

「ちょうど、何でもお願いを聞いてくれる可愛い後輩が欲しかったところなんですよねえ……きみ、やってくれます?」

恐ろしく綺麗に笑った悪魔の表情と、有無を言わさないほんのりと圧の篭った言葉、要するに許すつもりは無いということはよくわかった。
 
 


 
私がまず始めに命じられたのは先輩が食べるお昼ご飯を調達することだった。昼休みに上級生の教室へ呼び出されたかと思えばパンを買ってきてください、と一言言われてお札を一枚渡される。それだけ。

この悪魔が一体どのくらい食べるのか、パンと言ってもどんなパンを食べるのか、私は全く知らないのだがいくら待っても次の言葉は無い。

そっと表情を窺うとやはり無表情で私を見下ろしていて、恐ろしくて問うこともままならない。諦めて私は廊下へ出て購買へと向かい、足りなくて怒りを買うよりはいいだろうと渡されたお札で買えるだけの数と種類のパンを買った。
再び上級生の教室へ戻るとオペラ先輩の姿はどこにも無い。狼狽える私を不憫に思ったのか、先輩のクラスメイトらしいひとが屋上ではないかと教えてくれた。そのまま屋上へ向かうと、屋上へ繋がるドアに背を預けて座っているところをようやく見つける。階段を昇りきり、パンが詰まった袋を二つ渡そうとすると、オペラ先輩は思い切り顔をしかめた。

「馬鹿ですか?」
「……え、」
「こんなに食べると思うんですか」
「………」

オペラ先輩の冷えきった表情と言葉は、つい先日廊下に投げつけられた時の恐ろしい記憶を甦らせた。
反射的に顔を伏せてごめんなさい、と小さく絞り出す。一体どんな仕置きをされるのだろうかと震えていると、袋が両手から離れていった後しばらくして「どうぞ」と突き返された。

視界に入った袋にそっと両手を添えて受け取る。顔を上げると既にオペラ先輩はパンの袋を開けており、私の視線に気が付き顔を上げた。

「食べないんですか?」

それは単に食べきれないから私にパンをくれただけなのだろうが、オペラ先輩に対して恐怖心しか無い上にやはり感情の乗っていない声色、なにより私はまたもや失態をしている訳で、これを真に受けて素直に受け取ってもいいものなのか、また怒りを買うのではないかと足がその場に縫い付けられたまま動けない。
痺れを切らしたらしい先輩が私の腕を掴んで引っ張るまで私は結局少しもそこを動けなかったのだ。

この日から、私はオペラ先輩が食べるお昼の調達と、何故か隣で一緒にご飯を食べることを強要されることとなった。
 

次に命じられたのは校内に居る間は時間が空いたらオペラ先輩の元へ行くということだった。私は先輩のお願い事もとい命令を聞く使い走りなので、傍に私が居ないのでは意味がないということらしい。それで基本的に授業以外の時間はオペラ先輩の元へ走りオペラ先輩の隣で過ごす。恐ろしくて逆らえないので仕方がないのだがこれがまた地獄であった。

オペラ先輩の「お願い事」とは基本的にお昼の時のように食べ物や飲み物を買いに行かされたり、たまに授業等で使う資料探しを手伝う程度で無理難題を命じられる訳ではない。思っていたよりも軽い命令ばかりで少しほっとするも、使い走りになってから一週間が経ち、二週間が経つと、先輩の用事よりもただ隣に座っているだけの時間が圧倒的に長いことに気が付いた。

もしかすると、もしかしなくても、この悪魔は便利な使い走りが欲しかったわけではなく、単に自分に粗相をしでかして怯える後輩を隣に置き精神的に嫌がらせをしたいだけなのではないか? この恐ろしい悪魔の隣に居るくらいなら使い走りでもなんでもやるので用事を言い付けてくれた方がマシである。

先輩は授業以外の時間のほとんどを図書室や資料室、研究室など静かな場所で過ごしている。本を読んでいることが多いがふと気が付くと眠っていることもある。勿論、オペラ先輩と私の間に会話など無い。いつ何をされるか分からないのでひたすらにじっと息を潜めて怯えながら時が過ぎるのを待った。
 
 


 
ひと月ほどが経ったある日の事であった。
午前の授業が終わったのでいつものようにオペラ先輩のところへと急いでいると、階段の踊り場で何かに躓き下へ転げ落ちそうになった。

幸いにも、誰かが私の首根っこを掴んだお陰で落ちることは無かったのだが、助けてくれたらしいひとの方へ振り返ると背筋が凍り付いた。そこにはどこかで見たことのある上背の大きな上級生が居て、こちらを見てニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。お前、最近アイツの周りでチョロチョロしてる奴だろう、と言われて、ああ、多分このひと、私に足をわざと引っかけたんだと確信を持った。

いつかこういう時が来るのではと思っていたのだ。オペラ先輩は周囲の悪魔達から恨みを買っているため次々に強者悪魔が現れては先輩に襲いかかるのを私も何度も目にした。その度に先輩から返り討ちにあい、中には再び恨みを募らせる者も居る。多分、この悪魔もそう。

私はただの先輩の使い走りであるし人質の価値など全く無い。私がどうなろうとオペラ先輩は痛くも痒くも無いのだけれど周りから見ればどう見えるかはわからないし、単に腹いせをしたいと思っていたのかもしれない。

こういう時のために念のため用心していてよかった、とスカートのポケットに手を突っ込み中に入っている小瓶の蓋をそっと開ける。首根っこを掴まれたまま踊り場の方へ引き摺られて壁へ向かって投げ飛ばされたので、私はポケットから引き抜いた小瓶をニヤつく顔に向かって思い切り投げ付けてやった。
思惑通り、小瓶の中身が目に入ったようなのであと数秒もすれば効果が表れるだろう。やがて苦しそうな呻き声が上がり始め、私を襲った悪魔は目の辺りを両手でかきむしるように押さえて床にのたうち回る。私なんかにやられるようではオペラ先輩には一生かかっても敵わないのではと少し不憫に思った。

「あの薬品、きみが調合したんですか?」
「調合という程では……、ただの激辛魔辛子と、」

掛けられた言葉に、は、と気が付き振り返るとオペラ先輩が後ろで私の体を抱き抱えるようにして支えていた。そういえば私は壁に向かって投げ付けられたはずで、来るはずの衝撃が無かった。言わずもがなオペラ先輩が壁との間に入って受け止めてくれたのだろうが、先輩が私を庇ってくれたのだということが信じられずしばらくぽかんと呆けた。

「………なんで、」
「可愛い後輩を助けるのは先輩の役目でしょう」

よくもまあそんな事が言えるものだ。私が毎日怯えて震えていることを知っているくせに。澄ました顔に言い返せる筈もなくぎゅ、と唇を結んだ。

「でも意外ですね、てっきりいつものように何も出来ずに怯えているばかりかと思いました」

何が可笑しいのかオペラ先輩はくつくつと楽しそうに笑っていた。私がいつも怯えているのは誰のせいだと思っているのだろうか。バビルス中のどんな悪魔も貴方ほど恐くはありません、と心の中でだけ言い返してそっと先輩の腕の中から抜け出た。小さくお礼を言うのも忘れずに。
 
 


 
オペラ先輩の私に対する態度が何となく軟化したのはたぶんこの頃からだったと思う。何を考えているのかわからない冷たい無表情や圧のある笑み以外の表情が時折表れるようになった。当初からは考えられないが小さく、緩やかに微笑むこともある。

今日は資料室で読書に勤しんでいたオペラ先輩の隣の椅子にそっと座り邪魔をしないように縮こまる。暖かくなってきたとはいえまだ少し寒いな、と窓の外を眺めているとぴん、と髪を一束引っ張られた。そのままくるくるとねじられ好き勝手に遊ばれている。恐る恐るオペラ先輩の方を窺うと、既に本を読み終えており、もう片方の手で机に頬杖をついてこちらを見ていた。こういうふうに、なんの気なしにじ、と視線を送られることも増えた。

「私が恐いですか?」

突然問い掛けられてぱちりとまばたきをした。
そりゃあ恐い。もうふた月になる。これだけ一緒に居ても何を考えているのかわからないし、何をされるかわかったものではない。何か粗相をすれば今度こそ殺されそうな気がするしオペラ先輩を恐ろしいと思う気持ちはあの日から変わっていない。

そう考えてふと気が付いた。私はこの先輩の隣に居て、窓の外なんか眺める余裕があっただろうか? と。

オペラ先輩の使い走りになってふた月ほど、当初恐れていた物理的な制裁は一度も無く、会話こそほとんど無いが、先輩に言い付けられて買ってきたものを気まぐれに分けてもらったり、私に何か危害が及びそうになればそれとなく助けてくれたり、たまの言葉は冷たいしその存在がバビルスの恐怖の象徴であることに変わりはないのだが、私の中にあるオペラ先輩への恐怖心はゆっくりと、確実に薄らいできている。
そのことに気が付いた途端に言い様のない不思議な感覚が腹の底からじわりと湧き出した。じゃあ、このまま、先輩の隣に居続けていたら私はどうなるのだろうか?

不意に、髪を弄っていた指先が止まり顎に添えられる。するり、するりと遊ぶようにそこを撫でられ、それからオペラ先輩の顔が近付く。目を合わせたまま少しも動けずただひたすらに艶やかな瞳を眺めた。

こつ、と額同士が小さくぶつかる。そこでぴたりと近付くことを止めたオペラ先輩はふふ、と意地悪そうに微笑んだ。

「きみはそういう顔も出来たんですね」

その柔らかな笑みに心臓がぎゅ、と潰されそうになる。このまま先輩の隣に居続けたら私はどうなるのだろうか、その問いの答えはこの時既に出ていたのだと思う。

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