「あ、平尾さんだ!おはようございます!」
「佐藤くん、おはようございます。……みょうじさんもおはようございます」
「………お、はようございます」

打ち合わせが終わってエレベーターに乗ろうとすると上階から降りてきたらしい平尾さんとばったり会った。首を少し横に倒して入間くんの後ろに居た私の方を覗くように見た平尾さんに挨拶を返す。

入間くんがドアを押さえて私に先を譲ってくれたので先に乗り込んで平尾さんの斜め後ろに立ち、入間くんは平尾さんの隣に立った。ボタンの【開】を押してくれていた平尾さんが人差し指を離すとエレベーターの扉がゆっくりと閉まる。

「平尾さんお久しぶりですね〜、よかったらまたお昼ご一緒しませんか?この間、すごく楽しかったです!」
「ええ、こちらこそぜひ。私も楽しかったですよ佐藤くん。社長に話したら何故誘ってくれなかったのかと拗ねていましたよ」
「あはは、そうなんですね。去場社長ともご一緒できたら僕も嬉しいですけど少し緊張しますね〜」

入間くんが平尾さんに話し掛けたかと思うとそんな会話をし始めたので私は思わず目を開いて入間くんの方を見てしまった。入間くん平尾さんとも繋がってるの?コミュ力高すぎない?
私だって職場柄、別にコミュ障というわけではないが入間くんの場合は上も下も横も壁が無さすぎる。彼のコレは最早天性の才能だよなあ、そんなことを考えながら二人の後ろ姿を見ているとエレベーターが止まり扉が開いた。

「あっ、僕校閲部の方寄っていきます! それじゃあなまえさん、また後で!」
「あぁ……うん」
「お疲れ様です」

再びゆっくりと扉が閉まるとエレベーターの中には私と平尾さんだけが残された。

「みょうじさん、昨日はありがとうございました」
「あ、はい……こちらこそ、ありがとうございます。色々ご迷惑おかけして申し訳なかったです……」
「謝るのは無しにしましょう、私は何も気にしていませんよ。それにとても楽しかったですから」
「……ありがとうございます、私も楽しかったです……」

蘇るのはまだ記憶に新しすぎる昨日の出来事、編集長によって設けられたお見合いの席のことであった。
昨日はまあ……、平尾さんには諸々ご迷惑をおかけしてしまったわけだが結局そのまま一緒に食事をし、その後はわざわざ私の家の近くまで送ってくださった。話をするのは昨日が初めてだったけれど、ものすごく丁寧で紳士的な人、全くのイメージ通り、それが私が平尾さんに持った印象だった。

何となく緊張して斜め上の方に視線をやるとエレベーターがすぐ下の階で止まった。ドアが開くとそのフロアでもどこかの部署が打ち合わせをしていたのか思ったより沢山の人がエレベーター内に入り込んでくる。とっさに後ろへ下がろうとしてパンプスのヒールがマットに埋まり少し体がよろけてしまう。すると、腕を引かれて体が反転し、人でぎゅうぎゅうになったエレベーターの中、ふわりと花みたいな香りが鼻腔を擽った。

「大丈夫ですか?」
「あ……すみません……、」

視線を上げるとこちらを見下ろした平尾さんと目が合い、気遣うような小さな囁き声に思わず肩が跳ねる。エレベーターのボタンのパネルを背にした私の正面には平尾さん。密度が高いから仕方がないのだが、体がくっつきそうなほど近い距離に私は下を向いてひっそりと息を飲んだ。
やがてエレベーターが止まり別部署の人達が一人残らず降りていく。私もここで降りなければ。何となくほっとしたような気になり平尾さんに軽く会釈をした。

「ありがとうございました、助けていただいて……それでは私はここで失礼します」
それからエレベーターを出ようとすると、不意に手首を掴まれたので驚いて振り返った。

「すみませんみょうじさん、また今度お誘いしても?」
「えっ、はい………?」

また今度、それが社交辞令なのか真に受けていいのかわからなくて平尾さんを見上げると、透き通るような赤みがかった瞳が私をじっと見詰めていてドキリと心臓が鳴った。






***

「で、平尾くんとどーなったの? あれから結構経つけど?」
「どうって…………、普通ですよ、食事に誘っていただいたりはしてますけど……」

その日は編集部の集まりで行きつけの小さな居酒屋に行くことになり、みんなよりも遅れて入った私は座敷の隅に座ってドリンクメニューを見ていた。周りは既に出来上がっており、左の方を見ると入間くんが編集長に絡まれていた。うっかりその編集長と目が合ってしまい、私を見付けるとにやりと笑って隣にやって来た。ああ、何か突っつかれそうだなと思ったら予想通りだった。

「またそんな素っ気ないこと言って………照れ隠し〜?まあ上手く行ってるんだね? よかったじゃん。このままゴールイン、ってね」
「はっ? いや待ってください、ゴールインってそんな……、確かにお見合いという形でしたけど平尾さんだって別にそこまで考えてらっしゃる訳じゃないですよ……」
「前から思ってたけどさあ、なんでみょうじちゃんそんな消極的っていうか自信なさげなの? 結婚したいんじゃないの? だからお見合いしたんでしょ? もっとアグレッシブにいきなよ!!」

ばしり、と背中を叩かれたのでジト目で編集長を見た。

お見合いの日からひと月ほどが経っている。社交辞令でも何でもなく、あれから私は平尾さんに誘われては度々食事を共にしていた。畏まったフレンチだったりカジュアルなイタリアンだったり、ある時はランチに誘われたこともあり、平尾さんと二人で会う機会は私が思っていたよりずっと多い。
そりゃあ楽しいし嬉しいしついでにドキドキしたりもする。しょうがないじゃん私だってミーハー女なんだもん。

「………でも………やっぱり平尾さんに私じゃ釣り合ってなくないですか?」
「ま〜〜たそんなこと言って! 平尾くんから色々聞かなかったの?」
「色々って……、」
「フッフ〜。平尾くんはね、みょうじちゃんが思ってるよりずっと君のこと好きだと思うよ」
「………」

ニヤリと笑う編集長を見てドキリとしてしまい何となく下を向く。思い出したのはお見合いの日の平尾さんの言葉だった。
平尾さんは私のことをずっと知っていて、それでずっと私と話したいと思っていて、少なからず何かしら好意を持ってくださってはいるのだろうと思う。
このひと月、平尾さんが時折向けてくれる柔らかな笑顔を思い出す度にじわじわと熱が上がっていくような感覚が何度もした。そりゃあ………本当にそうなら嬉しい、すごく。どうしよう、私ってこんなに単純だったっけ?
どうにも堪らなくなり俯きながら隠すようにはあ、と溜め息を吐き出すと、隣で編集長がやけに明るい声を出した。

「あっ、平尾くん呼んじゃお!」
「はっ?」

その言葉と同時に顔を上げて編集長を見ると、編集長は既にスマホを操作し終え耳に当てていた。

「もしも〜し平尾くん〜〜? ねえねえ今から来れな〜い? いつものトコ〜、そうそ〜、ウン、ウン、なんかねえ、みょうじちゃん酔っちゃっててさあ、一人で帰らすの危ないなって思ってんだけど僕幹事でちょっと動けないし他は男ばっかだし〜?」
「はい!?」
「あっほんと? ちょーどイイじゃん! んじゃあヨロシク〜〜ごめんね〜今度なんかお礼するからさ!」

編集長の白々しい口調と虚言に驚愕していると、スマホを耳から離した編集長がぽんっと画面を押して通話を終える。

「平尾くんちょうど近くに居るって。な〜にポカンとしてんの、みょうじちゃんはほらほら、帰り支度〜」
「えぇ?ちょっと待ってくださいよ!嘘ですよね?平尾さん来るんですか?ここに?大体私酔ってなんかいませんしまだ一口も飲んでませんけど!?」
「そうだったね〜はい飲んで飲んで!平尾くんが来る前に酔っとかないと!」
「そんな適当な!騙すようなことできないですしそもそも迎えに来てもらうなんてありえな……ぐっ、」

そこら辺に置いてあった、おそらく誰にも手をつけられず忘れ去られてしまったのであろうジョッキの飲み口を宛てられて変な声が出た。編集長がそのままジョッキを傾けてくるので慌てて受け取りひとくち口の中に流し込む。危うく溢すところだったじゃないですか。お酒が変なところへ入りむせていると編集長の視線が私の後ろの方へ流れた。

「あっ平尾くん、早いね〜!」
「こんばんは擅編集長。………みょうじさん大丈夫ですか?」

振り返るとそこにはいつも通りの冷静沈着な平尾さん、片やビールのジョッキを片手に盛大にむせているアラサー女。反射的だったとはいえこんな醜態、振り返らなければよかったと心底後悔した。







***

「本当にすみませんでした………、編集長を止める間もなくて……」
「構いませんよ、丁度社長を自宅へ送ったところでしたので空いていましたし。お一人で帰るつもりだったのでしょう? それでしたら今回のように連絡をいただいた方がこちらも安心できます」
「平尾さん………お優しいですね。いつも気遣ってくださって………振り回してしまってばかりで本当に申し訳ないです……」

編集長が作り上げた「みょうじちゃんが酔っている」という設定に合わせて私が酔ったふりなど出来るはずもなく、明らかに素面なのに平尾さんは何も突っ込んで来ない。気付いていないのか、気付いていて何も言わないでいてくれるのか………いや、平尾さんだから後者のような気がする。この人は多分編集長のこともよくわかっているのだろうから。

「それでは私はここで。お休みなさいみょうじさん」
「お休みなさい、………本当にありがとうございました」

そして平尾さんはこんな無茶振りをされたというのに今日もきっちりと私の住むマンションの近くまで送ってくださった。
送り届ける場所が自宅の前ではないのはこれも彼の気遣いなのだろう。どこまでも紳士的な振る舞いに頭が上がらず、それからどうしてこんなによくしてくれるのだろうかと少しだけ胸の奥が苦しくなってしまう。
でも、嬉しかった。少しだけど同じ時間を過ごせた。現金だとは思うけれどずっと密かに憧れていた人とこんな風に隣に並べるのはどうしたって心がふわりと浮き立つ。図々しいかな、と少しだけ苦笑いをしながら視線を落とすと、ふと、視線を感じて俯けていた瞼を上げた。まだそこに立つ平尾さんはしっかりと私を見下ろしている。

「………平尾さん?」

「……いえ、少しの時間でしたがみょうじさんにお会いできて嬉しかったなと思いまして」

それから少しの間の後、柔らかに微笑んだ平尾さんがそんなことを言うので胸の奥がきゅう、と苦しさを覚えるのを感じた。

会えて嬉しかった、 なんて、それは私の方で、そんな言葉は私には勿体ない。平尾さんが私にこんな風によくしてくださること自体も私にとってはまるで夢みたいなのだ。
じわじわと込み上げてくるのは戸惑いなのか、嬉しさなのか、少しの熱も感じてどうしてかこのままここで分かれたくないような気になってしまう。

少しだけ、言ってみてもいいだろうか。どうにも沸き上がるこの感情を、少しだけ言葉にしてみても。

「あの、平尾さん……!」
「……はい?」

「…………あの、お時間が大丈夫でしたら………寄っていきませんか? その………お茶でもどうかなって………、」

マンションの方をそろりと指差し、段々と小さくなった私の言葉を最後まで聞いた平尾さんはしばらくの間ぽかんと固まる。

「あ………いえ、すみません………その……、」

……しまった、これ、言い方を間違えたかもしれない。いや、言い方じゃなくてそもそもこんな時間に家にお招きするってどうかしてる。もしかしなくてもとんでもなくはしたないことを言ってしまったのではないかと堪らなくなってそろりと視線を落とす。

「……みょうじさん」
「……………は、はい、」

「みょうじさんは、先ほど私を優しいと仰いましたがそんなことは全くないのですよ」
「…………は、い………?」

「今日、私がみょうじさんの元へ来たのはみょうじさんが心配だったから、それが半分です。それから誰かに貴女をお送りする役目を奪われたくないのが四割ほど。………残りの一割は下心です」

「……し、たごころ………」

「……はい、下心です」

辺りはすっかり静まり返った夜、どうにも平尾さんには似つかわしくない言葉が飛び出してきたことに驚いて思わず視線を上げる。
どういう、意味だろう。どう返せばいいのかわからず少し視線がさ迷う。

「あ、はは…………平尾さんも冗談とか、言うんですね……」

「いえ、冗談ではありません」

私がようやく言葉を返せば、いつの間にか平尾さんは私のすぐ目の前に来ていて、そっと指先が伸びてくるので少しだけ息を飲む。

「…………ひ、らおさん………?」

横髪を分けるように、平尾さんの指が優しく頬に触れる。そのまま少し屈んだ平尾さんの影がゆっくりと落ちてきたかと思うと、赤みかがった両目が私を捉えた。まるでキスでもするみたいな近すぎる距離に、捉えられたまま目が逸らせない。

「…………お言葉に甘えて、お茶をいただいても?」

「……………は、………はい………」


私はもしかしたら本当に、とんでもないことを言ってしまったのかもしれない。


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