「あれ、なまえ?」

マジカルストリートから一本外れた路地を歩いていると聞き覚えのある声に呼び止められて反射的に振り向いた。そこには今では年に一度会えばいい方の旧友が居て思わず目を丸くする。前に会った時よりも伸びた白い髪、身体はまた少し大きくなったような気もする。

「え……シチロウ? 久しぶり、シチロウが外にいるなんて珍しくない? 相変わらず研究室に閉じこもってるんじゃないの?」
「いや……僕も外くらい出るよ、まあ確かに籠ってることは多いけど……。それにしても本当に久しぶりだね、前回は確か一昨年の年末だったよね、カルエゴくんと三人で」

大きな身体にしてはふんわりとしたどこか柔らかな雰囲気は学生時代から変わっていなくてすごく安心する。シチロウの言う通り、前回カルエゴも交えて会ったのは一年以上前のことだった。
つい私もつられて笑顔になるとふと、シチロウが何か思い出したような顔をした。

「あっ……、そういえば聞いたよ、オペラ先輩と結婚するんだってね、おめでとう。そのうちカルエゴくんとお祝いしたいと思ってるんだけどなまえの予定はどうかなあ。式の準備とかあるだろうし色々忙しいとは思うけど……」

にっこりと微笑まれてそんなことを言われたので思わず私は固まってしまった。結婚、式、その単語に戸惑いつい怪訝な表情をしてしまうとシチロウが不思議そうに首を傾げた。

「待ってシチロウ……結婚なんてしないし式もやらないよ!」
慌てて否定すればシチロウが目を丸くする。

「あ……そうなの? でも先輩からはそう聞いたしもう一緒に住み始めたとも聞いたんだけど……」
「…………あの男………」

シチロウの言葉に、飄々とした顔でピースサインをする赤い髪の悪魔を思い出したので少し眉を寄せて視線を斜めに落とした。

確かに私はひと月前、サリバン邸を訪れ初めてその中へお邪魔した。オペラ先輩に促されたからというのもあるが、今まで先輩と曖昧な付き合いをしてきただけに一度も理事長に御挨拶をしたことがなかったからだ。

そうしてその日、早速その場で理事長に婚姻届を渡され、オペラ先輩には筆記用具とどこから用意したのか私の家名の判子を手渡された。挙げ句計ったようなタイミングで実家の両親から「あんたどうして結婚のこと黙ってたの?この間オペラさんとサリバン様がご挨拶に来てくださったのよ、あんたはこっちにはいつ来るの?」 等と電話がかかって来たので恐らく根回しをしたのであろうしらっとした顔をした先輩を三度見くらいしてあまりの手際の良さに引いたところだったのだ。

初めてそういう意味でご挨拶したばかりなのに、結婚なんていくら何でも早急過ぎる。ついこの間まで、先輩とこれ以上どうこうなるつもりなんて無かったというのに理事長に会った途端に色々な話が進んでしまいこっちは着いていけず困惑しっぱなしなのだ。

サリバン邸を訪れる心の準備はしてきたけれど、結婚なんて、急過ぎて私はそこまでの心の準備は出来ていない。

「とにかく……、お祝いは大丈夫、結婚も式も決まっている訳じゃないし」
「ええ……? でも同居はしてるんだよね?」
「それはそうだけど………、同居もとりあえずっていうか………先輩と理事長に押し切られて………。両親も完全に盛り上がっちゃってるし………でも結婚は………まだ………保留っていうか………やっぱり急過ぎて、まだ気持ちが追い付いてないっていうか………」
「……」

言っていて段々と恥ずかしくなり少し俯きながら私が言うと、シチロウは目を丸くしたあとにっこりと微笑んだ。

「なぁんだ、そういうことか。なまえもちゃんとそういう気があるんだね。よかった、また拗れでもしてるのかと思った」
「は!?何それ、またって?」
「だってなまえは昔から素直じゃないっていうか意地っ張りでさあ〜、先輩のこと好きなくせにツンケンしてるし」
「………ツンケンって………」

先輩のことは……好き、それはきちんと言えるし(本人には言わないが)今さら先輩とのことを曖昧にしたりするつもりもない。
でも、それだけでじゃあ結婚しますだなんて簡単に言えるようなものでもない。

私は先輩と恋人同士になる勇気すら無かったのだ。立場の差や位階の差、それに伴う先輩への負荷、先輩は私が気にしていることを理解して、それでも私と一緒に居ようとしている。私だってもしそうなれたらと思ったことがなかった訳じゃないけれど。

「色々思うことはあるんだけど……、とりあえず先輩に負担はかけたくない……。先輩と同等になるのは無理だけど少しでも釣り合いが取れるようにならないと一緒には居られない……。先輩に迷惑がかかるのは嫌なの、だから自信が持てるまで結婚なんてしない、ていうか出来ない……」

ぽつりぽつりと気持ちを吐露していくとシチロウは少し目を丸くした後ぽん、と頭の上を撫でてくれる。昔からそうだった、シチロウは優しいから何でも話してしまいそうになる。

「なまえ、なんか変わったよねえ」
「何が……?ちょっと笑わないでよ」
「ふふ、ごめんごめん。でも僕はそんなこと思わないけどなあ、なまえは十分頑張ってきたし自信持っていいと思うよ。ほら、誘惑学の成績ほんとすごかったよねぇ、学校に残らなかったの惜しまれてたでしょ。勧誘もまだ来てるんじゃないの?」
「…………シチロウまで先輩と似たようなこと言わないでよ」

とりあえずその話は本当に置いておいて欲しい。眉間に皺を寄せると、俯いた私の頭を柔らかに撫でていた手がふと止まった。

「あ、オペラ先輩」

シチロウの言葉に反射的にがばりと頭を上げてぐるりと振り返ると思っていたよりすぐ近くに、というより目の前にオペラ先輩が立っていたので私は驚き過ぎて肩を震わせた。一歩後ろに下がるとシチロウがさっと横に捌けたのが視界の端に映った。

「バラムくん、こんにちは」
「先輩こんにちは、今ばったりなまえと会ったんですよ。それじゃあ僕は失礼しますね」
「はい、それではまた」

………相変わらずフェードアウトが素早くて学生時代からこういうところ、本当に変わってないなと思う。予想通りあっさりと去ってしまったシチロウの方を縋るように見詰めていたが、先輩からの視線を感じて顔を前に戻した。

「そういうことだったんですね」
「………何がですか」
「結婚を保留にされたので私は悲しみに暮れていたんですよ、でも理由がわかってよかったです」
「………はぁ………、やっぱり聞いていたんですね………」
「ええ、私は想像以上になまえさんに愛されているようで嬉しかったです」
「本当にポジティブ思考ですね………シチロウにはああ言いましたけど本音は違うかもしれないんですよ」

こっちの気も知らないで。先輩が面白そうな顔をして笑うので悔し紛れに思い切り睨み付けて、我ながら可愛くないことを言ってみればぱちりと目を丸くされた。

ふと、腕を掴まれたかと思うと腰に緩く腕が回り引き寄せられる。驚いて見上げると、先輩は何を言うわけでもなくじっとこちらを見下ろしていた。

「………先輩……?………っ、ちょ……っと、………」

少しだけそういう予感がしていた。
さすがにこれだけ長い間一緒に居れば先輩の行動も何となくわかるようになる。顎に指先をかけられたかと思うとそのままキスをされた。人目も憚らず長く、長く押し当てられた後、ゆっくりと唇が離れていく。

「…………先輩………、ここが何処だと思ってるんですか………」

いくら小さな路地だとはいえ誰か通るかもしれないのに。震える声で咎めるように言えばオペラ先輩は少しだけ眉を下げて表情に影を落とす。それから指先を動かし私の頬をそうっと撫でた。

「なまえさん、私をこんなに貴女の虜にしておいて今更捨てるつもりなんですか?」
「………は?」
「先程の話は本音ではないかもしれない、というのは何ですか?私と一緒になることに何か不満が?」

珍しく弱気にも見える表情と、少し憂いを帯びた声色にどきりと心臓が鳴る。

「…………べつに………そういう、訳じゃないですよ……、さっきのは冗談で……、」
「……そうですか、では結婚はしていただけると?」
「………まあ、………いずれは……」
「………いずれは、とは?」
「……………とりあえず、ランクをもう一つ上げようと思っています。難しいのはわかってますけど、少なくとも………そこまでは………」
「成る程、そうなればなまえさんは私と結婚してくださるのですね」
「………私は別に………この先ずっと先輩と結婚しないとは言ってないです………私だって、ちゃんとそのつもりでいて………」

いちいち何度も確認するように聞いてくるので、少しの恥ずかしさが沸き上がってくる。

今までずっと気持ちを伝えずに来た。それは先輩とどうこうなるつもりがなかったというのもあるし、今更伝えにくいというのもある。
ただ、そのことを今は少しだけ後悔している。先輩もこんな風に不安気な表情をすることがあるのだと初めて知ったのだ。一度視線を落としてからこくりと飲み込んでまたオペラ先輩を見上げた。

「ちゃんと………好きですから………先輩のこと………」

ぽつり、と初めて溢した先輩への想い。独り言みたいに小さくて聞こえるか聞こえないか、そのくらいの声だったと思う。

不意に先輩の腕が私から離れていく。少し熱くなった顔で見上げると先輩は手に持った何かのスイッチをカチリと押した。

「……………先輩………?」
「はい」

「一応聞きますけどそれは何ですか?」
「ボイスレコーダーですね」
唖然として思わず口をぱかりと開ける。

「っは?録音してたんですか………!?信じられない!」
「はい、言質は取りましたので必ず私と結婚してくださいね、なまえさん」
「ちょっと………!今すぐ消してくださいよ!」
「嫌です、思わぬ収穫もあり嬉しかったので」
「……収穫って……」
「もちろんなまえさんの愛の告白ですよ。オートキープが必要ですね、これは永遠にとっておきます。しかし惜しまれるのは映像が無いことですね……。やはり録画機能付きのものを用意するべきでした……」
「っ何なんですか本当に………!嫌がらせにも程があるんですけど!?」

口元に手を当てながら尻尾をぱたぱたと振る先輩を今度こそしっかりと睨み付けると、そんなことは気にした様子もなく柔らかに微笑まれる。

「ランク昇級には私も最大限協力します」
「………は、」
「さて、それでは帰りましょうか。なまえさんとあんなことやそんなことがしたくなりましたので」
「はあ……っ?………、ちょ、………っと待ってください!それ消してくださいって言ってるじゃないですか………!!」

ゆらゆらと機嫌よく揺れる尻尾を慌てて追いかける。
証拠なんか残す必要もない。私はオペラ先輩に、とっくの昔に負けているのだから。


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