まずいまずいまずい。長い廊下をすり抜け、どこに身を隠そうかと思案する。昼休みに入って数分ほどの廊下は、昼食を摂ろうと食堂へ向かう生徒達でごった返していた。
 
 自習室はこの間すぐに見つかってしまったしもう少し奥まったところで誰も来なそうなところがいい。ぐるぐると考えて思い付いたのは図書館横の小さな資料室だった。キョロキョロと辺りを見回してからこそりと扉を開けて中に忍び込む。お腹は空いているし私だってすぐにでも食堂へ行きたいけれど、背に腹はかえられない。

「おや、なまえさんではないですか」
 資料室の本棚を背もたれのようにして備え付けの丸椅子に座っていたのは、ここ最近私を見つけると嬉々として追い回してくるオペラ先輩だった。

 少しの警戒心から思わず一歩後ずさると、読んでいた本をぱたりと閉じたオペラ先輩が立ち上がりこちらへ真っ直ぐに近付いてくる。

「オ……ペラ先輩、偶然ですね、何故ここに?」
「ああ……、少し時間が余ったので。ただの暇潰しですよ。ここ、静かで気に入っているんです」

 まだ昼休みに入って数分しか経っていないのにいかにもここにずっと居ました、という風だ。サボりか。そういえばオペラ先輩が授業にあまり出ていないらしいと聞いたのはついこの間のことだ。実は一度だけ、校内で素行の悪い他の大勢の生徒を伸している先輩を見たことがある。悪魔としては明らかに優秀な能力だし勿体無いとは私も思っているのだけど。というか、サボりというか……このひと、まさかまた誰かを伸してきた後なんじゃ……

「……どうして逃げるのですか?」
「いや、あのですね、オペラ先輩こそなんで近付いてくるんですか?」
「なまえさんが逃げるからですね」

 無意識に後ずさっているとじわじわと壁際に追い詰められてしまい、どうしたものかと考えながらとりあえず作り笑いをした。
 
 先日の一件以来、オペラ先輩は私に会うたび執拗に頭を撫でたり顎を撫でたりハグしたり、まるでペットを可愛がるかのように過剰なスキンシップを強制的にとっては私の反応を見て面白がってくるのだ。

 私はパシリにされる訳でも無ければ荷物持ちにされる訳でも無いので、カルエゴと違ってオペラ先輩に対して畏怖の念を抱いている訳ではないけれど、こんなふうに至近距離で見詰められたり触れられたりするとさすがに心臓が持たなくて困る。

 私の経験の無さも悪いが、オペラ先輩は自分が見目のいい悪魔だということをわかっているのだろうか。この先輩の場合わかってやっているのかもしれないからそこが恐ろしいところなのだけれど。

「カルエゴくんですか?」
「え、」
「もうすぐここへ来ますよ。多分ですが」
「ええ、何でわかるんですか!」
「何となくです。どうせまた彼から逃げているのでしょう。今度は一体何をしてしまったんですか?」

 資料室へやってきた理由を言い当てられてしまい、ぐ、と苦い顔をしつつも、とりあえずこの場を凌げるならばなんでもいいと思い、カルエゴが教室の隅で大切に育てていたサボテンの鉢を割ってしまったことを少し口ごもりながら正直に答えた。

 先日の論文に引き続きの失態、呆れられるかと思いきや、オペラ先輩はおやおや、と楽しそうに笑うだけだった。後輩の不幸を喜ぶなんてこの先輩も大概悪趣味だと思う。

「そうでしたか、ではこちらへどうぞ」
「どこへ行くんですか?」
「カルエゴくんに見つからないよう隠れた方がいいのでは?」

 そう言ったオペラ先輩は私の手を引き資料室の奥へと促した。猫耳は楽しそうに動いているししっぽもゆらゆらと機嫌良さそうに揺れている。
 
 資料室の奥、窓際のカーテンを引いたオペラ先輩は私をカーテンと窓の隙間に押し込んだ。床まであるカーテンの長さであれば確かに身は隠せるがちょっとベタ過ぎないだろうか。まあオペラ先輩は協力してくれるつもりのようだし適当にカルエゴを追い払ってくれるだろうと思っていると、何故かそのオペラ先輩まで私のすぐ後ろに潜り込んできた。

「………あの、オペラ先輩が隠れる必要あります?」
「面白そうなので」
「ていうかこれじゃすぐに見つかっちゃうと思うんですけど……!」

 私だけならまだしも二人もカーテンの中に入ればそこそこの膨らみができる。

「見つかってしまうくらいが面白いんじゃないですか」
「見つかったら私は困ります……!」
「まあまあ、ほら、カルエゴくん来たみたいですよ」

 振り返って抗議をした私の肩をどうどう、とポンポン叩いていたオペラ先輩が、しっ、と人差し指を唇に当て、それから片手で私の腰を引き寄せた。

 すぐに廊下に響き始めた忙しない足音が資料室を通り過ぎた、かと思えばその足音は再びこちらへ戻り、次の瞬間バンッと勢いよく出入口のドアが開かれる。ひっ、と息を飲んで思わずオペラ先輩の制服の胸元を掴んだ。
 
 足音は真っ直ぐにこちらへやって来た。隠れた意味など全く無かったのである。カーテンはあっさりと開けられてしまった。
 
 驚いたようにぱちりと目を見開いたカルエゴと目が合い一秒、二秒、そしてカルエゴはオペラ先輩の方へ視線をずらした。

「……オペラ先輩、あなたはまた何をやっているんですか」
「おやカルエゴくん、どうしたんですか。こんなところで道草をくっていると昼休みが終わってしまいますよ」
「とぼけないでください、なまえに用があるので返してもらいますよ」
「男女の逢引に割って入るなんて野暮過ぎません?」
「またそんな事を……、あなたとなまえはそういう関係じゃないでしょう」
「果たして本当にそうでしょうか? ほら、なまえさんの顔をよく見ていてください」

 よくわからない攻防が繰り広げられているうちにどう逃げたものかと考えていると、腰に緩く回っていたオペラ先輩の腕に力が籠り、さらに先輩の方へ押し付けるように引き寄せられた。

 そこではた、と気が付く。ちょっと待ってほしい、カルエゴが怖すぎて意識が行っていなかったけれど、この体勢はまずくないだろうか。最早私は完全にオペラ先輩の両腕に抱きしめられており、そのあまりの密着具合に気付いた途端、心臓が忙しなく動き始めた。腰に回った両腕に全意識が集中してしまう。おまけにもぞ、と動いたオペラ先輩が私の首筋に顔を近付け唇を寄せた。触れ、てはいない、ギリギリで。

「ほら、顔真っ赤ですけど。少なからず私は意識されているのでは?」

 いや、あなたにこんなことをされたら誰だってこうなると思いますけど。経験値の無い私ならば尚更である。恥ずかしさのあまり、赤くなった顔を先輩とカルエゴから隠すようにしてできるだけ背けた。声には出せずにぷるぷると震えていると何やらピリリとした気配が肌を刺したのでふと顔を上げる。視界に入ったのはこれでもかと眉根を寄せるカルエゴの不快に満ちた顔とケルベロスであった。

「カルエゴ!? 何でケルベロス出してるの!」
「うるさい。キサマもいつまでそうしているつもりださっさと来い」
「ごめんってば、鉢植えを割っちゃったのは本当に申し訳ないと思ってて……!」

 慌てて弁解の言葉を伝えれば睨み付けられチッと盛大な舌打ちをされる。本当に悪かったとは思っているけれど、こんなに機嫌悪くされたらオペラ先輩の腕の中にいた方が安全なのではないかとすら思える。けれどここでカルエゴが実力行使をしたとしてオペラ先輩は実力的に無事だろうが私はひとたまりもない。先輩が私を助けてくれるとは限らないのだ。
 やっぱり穏便に済ますにはカルエゴにひたすら謝るしかないのではないか。
 
 以前に比べれば最近のカルエゴは少し優しくなったというか、私たちの日々の些細な喧嘩は格段に減ったし、成績が思わしくない私の勉強だって嫌々ながら見てくれるようになった。私がオペラ先輩に絡まれていれば助けてくれるし、あたりが柔らかくなったというか、何となく今までそうではなかった女扱いをされている気になって少し嬉しかったのだ。
 カルエゴの大事なものを壊しておいて誠意をこめて謝らなかったことを今更ながらに後悔した。今までとほんの少し変化したこの関係を、何となく壊したくないような気がする。恐いけどちゃんと謝ろう。

 そう決めてオペラ先輩の胸元を押して腕から抜け出し、カルエゴの手を掴んだ。後ろを振り返る。

「オペラ先輩、私やっぱり………カルエゴにちゃんと謝ろうと思います。その、匿ってくれてありがとうございました、ご迷惑をお掛けしてすみません」
「……そうですか、それがいいでしょうね」

 思いのほか、すんなりと私を解放したオペラ先輩がちらりとカルエゴを見やる。

「それにしても、カルエゴくんは随分感情豊かになりましたね。どなたのお陰でしょうかね」
「………」

 カルエゴを見上げるとぴきりと青筋が立っていたので、先輩に頭を下げてから慌ててカルエゴの手を引っ張り廊下に出る。ちゃんと謝って許してもらったら、シチロウがまたお昼も食べずに研究室に籠っているだろうから何か買っていってあげよう。

 廊下の端まで来たところで足をゆるめてさっきからだんまりのカルエゴの顔をちら、と盗み見る。何とも言えないバツの悪そうな顔をしていた。

「……あの、本当にごめん、わざとじゃなかったんだけど大事な鉢植えを壊しちゃって本当に悪かったと思ってる」
「……それはもういい、そもそも教室で謝っていただろう」
「だって追いかけてきたじゃない、まだ怒ってるんじゃないの?」
「……お前が逃げるからだ。別に初めから怒ってなどいない。追いかけたのは………、お前を一人にするとまたオペラ先輩に絡まれるかもしれないと……、」
「え」
「……シチロウが心配していたからだ」
「あ……そうなんだ」

 視線を明後日に逸らしたままのカルエゴはこちらを見もせず全然目が合わない。鉢植えのことを怒っていないのならば、じゃあ何故さっきはあんなに怒っていたのか。そう考えた時に私はやはり一つの答えに行き着く。

 ここのところの、私がオペラ先輩に捕まっている時のカルエゴの言動を見ているとそれはヤキモチを妬いているようにも思えるのだけれど、毎度本人が違うと言い張るので私はそういうことにしておいてあげている。ぎゅ、と眉根を寄せてしばらくの間黙っていたカルエゴがふう、と息を吐いてこちらを見た。

「……お前、本当にあの人と何も無いのか」
「あるわけないでしょ、先輩だって私で遊んでるだけだし寧ろ困ってるくらいなのに!」
「困っているという顔には見えない」
「それは……、そういう免疫が無いから仕方ないじゃない……。別にオペラ先輩が特別ってわけじゃなくて、」

 そう言うとはあ、と深くため息をつかれてしまい私は俯く。でも本当のことだ。

 不意に、視界に影が覆い被さる。顔を上げるとかつりと足音を立てて一歩、カルエゴがこちらへ距離を詰めていた。

「……お前はそう言うが、オレではオペラ先輩のようにはならないだろう」

 小さく、ため息をこぼすように呟いたカルエゴにじ、と見詰められる。
詰められた距離分、後ろへ下がるとすぐに背中が壁にぶつかってしまった。掴んでいたままだった手をカルエゴが遠慮がちに握り返してきたことに驚いた。びくりと肩が揺れる。オペラ先輩にされたように抱きしめられている訳じゃないけれど、視線を絡めとられたまま私は動けなかった。

「……そんなに見ないでよね」

 カルエゴの視線に耐えきれなくなった私はふい、と顔を背ける。カルエゴは私にこんなことをして「ほら見たことか」、とでも言うつもりだったのだろうか。
 カルエゴはたまに恐いけど、なんだかんだ面倒見はよくていい奴で、シチロウと同じく私にとっては仲のいい友人なのである。
 けれど一度意識してしまえば簡単に体は反応してしまうのだから、お願いだからそんなに見ないでほしかった。

「………お前、」
 驚いたように、ぽつりとカルエゴが溢す。

「だから言ったじゃない、免疫無いって……!」

 赤く染まっているのであろう顔を見れば私の言い分の方が正しいのは一目瞭然である。心臓がやけに早く脈打っていた。


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