novel | ナノ



馬鹿な私を
 
朝日が昇る少し前。あたしはお酒でくらくらする頭と一緒に、アパートの階段を上っている。エレベーターがあればいいんだけど、生憎このおんぼろアパートにはそんなお洒落なものはない。それに、このアパートは3階建てだからそもそもエレベーターなんていらない、普通の人には。つまり、あたしのようにキャバクラに勤めていて、毎晩(毎朝)お酒でくらくらする、階段を上るときの音と振動に頭ががんがんするような人以外にはいらないってこと。
あたしは3階まで上ると、今度は突き当たりの部屋まで歩いていく。かばんの中をあさって、鍵を取り出す。がちゃん、と鍵が開いて、ドアを開けると、あたしは玄関に倒れこんだ。冷たい床が火照った体に心地いい。
今日のお客さんはあたしのお得意様の内の一人で、だからいつも以上に気を遣った。しかもその人は隙あらば体を触ってこようとするし、汗臭いし、ていうか汗で年中てらてら光ってるし、何というか、最悪。でもお金持ちだから、その気にさせればいくらでも金をつぎ込んでくれる。一回絞り取れるだけ絞りとってみようと思ったのだけれど、あきらめた。だって財布の底が無いみたいにお金を使いまくるんだもん…。
「ただいまぁ……」
魂の抜けたような声で言う。勿論返事は期待していない。彼氏と住んでるけど、その彼も今は寝ているだろうから。
5分くらいそのままつっぷしてたら、寝室のドアが開いて歩く音、トイレに入る音がした。少しして流す水の音がして、またぺたぺた歩く音がした。その音がまた寝室に向かうんだろうと思っていたあたしは、しかし一向にドアを閉める音がしないし、むしろこっちに近付いて来てるようだったので拍子抜けした。
「おかえり」
足音はあたしの近くで止まって、見上げると部屋着姿の彼があたしを見下ろしていた。
「ただいまぁ、ウルキオラ」
あんまり働かない頭で、ぼーっとしながらへらへら笑って言うと、ウルキオラは呆れた顔で言った。
「そんな所で寝てたら風邪引くぞ。早くシャワー浴びて化粧落として寝ろ」
「んん〜」
ねむいんだもん。あとちょっとだけ。
ウルキオラはため息をついてあたしに手を伸ばした。
「いつまでそうやってる気だ。ほら、起きろ」
ママみたい。
貸してくれた手に掴まって立ち上がる。あ、まだ靴脱いでなかったや。もっかい座るのもめんどくさくて、ぽいぽいって脱ぎ捨てて風呂場に向かった。
「今日は随分飲んだんだな。得意客だったのか?」
「うん。えっと、宇津木さん…じゃなくて、田中さん?いや、木戸さんだったかなぁ…。忘れちゃったけど、ちょー金持ちなんだよ。氷水のごとくってあのことだね」
「…それは湯水の如くじゃないのか」
「ううん、まあそうともゆうかも」
ぐらぐらしながらなんとかウルキオラに手伝ってもらって、やっと風呂場に着いた。
「足滑らせるなよ」
あたしを無事に送り届けてドアを閉めながら言った。
「うん。あのね、あたしのこと待ってないで寝ちゃっていいからね。ウルキオラはお仕事忙しいし、風邪引いちゃうから」
そう言ったら、ウルキオラはふんって鼻で笑った。
ほんとにウルキオラは優しい。あたしがこんなぐでんぐでんな日は、あたしを介抱してくれて、その上シャワーを浴び終わるまで待っててくれる。なんでこんな馬鹿な女にそんなにしてくれるんだろう。
あたしは髪を後ろで結わいて、湿らせたガーゼにメイク落としをつけて化粧を落とし始めた。今日は仕事だったから、いつもの倍ぐらい化粧が濃い。つけまもばさばさだし、ファンデもてんこ盛りでチークも真っ赤、香水もこれでもかってくらいつけてある。
全部落とし終わってから服を脱ぐ。暖かいあたしの体温の残った服を脱ぎ捨ててついでに髪もほどいて風呂桶に入ってカーテンを閉めて、熱々のシャワーを出す。熱いシャワーは頭から肩へ、胴と足を伝って、あたしの体を優しく解きほぐしてくれる。蒸気も暖かく包んでくれて、幸せーって微笑んだ。
全身洗って、タオルを体に巻き付けて風呂場から出る。風呂上がりでも、冬はやっぱり空気が寒い。早く着替えなきゃ、と寝室へ向かう。リビングからテレビの音が聞こえる。やっぱりウルキオラ起きてたんだ…。早くしなきゃ。
部屋着に着替えて、歯磨きをして布団に向かうと、ウルキオラに後ろから声をかけかれた。
「髪は乾かしたのか」
「ないー。もう眠いんだもん」
頬を膨らませて振り返ると、ウルキオラは言った。
「髪痛むぞ」
「もう何回も染め直してて痛んでるからいいの」
「ドライヤー持ってこい」
「でも」
「いいから持ってこい」
有無を言わせない口振りに、あたしは渋々従った。
ウルキオラは持ってきたドライヤーのコンセントを差し込んで、あたしの髪を乾かしてくれた。
「…ごめんね」
ぶおお、というドライヤーの音に混じってあたしは言った。
「あたしこんなんで、ほんとにごめんなさい。ちゃんとした仕事、明日オフだから探すね」
いつだったかお得意様に貰った真っ赤な指輪をいじくりながら喋る。ウルキオラは後ろで何も言わずに聞いている。
「あたし馬鹿だから何もできないし仕事も見つからないかもだけど、でも頑張る。それにちゃんと自分のこと自分でできるようにする。だから、」
「大丈夫だ」
「…え?」
ウルキオラはドライヤーをかけ終わって、コンセントを抜いて片付けていた。洗面所に置いてきて、戻ってきてもう一度「大丈夫だ」と言った。
「何が?だってお金とか」
「それなら心配ない。お前は俺に任せっきりで知らないだろうが、これが」
ウルキオラは机の引き出しを開けて通帳をあたしに差し出した。
「え、これって」
「俺たちの預金額だ」
ゼロ何個あるんだろ。いち、にい、さん、し、ご、ろく…めっちゃたくさんある。あたしだって日給で時給も良いのは分かってるけど、それにウルキオラが優秀で大企業に勤めてるの知ってたけど、こんなたまってたのなんて知らなかった。
「言ってなかったが、この前昇格して給料も上がった。これだけあれば生活していけるだろう」
そう言ってウルキオラはあたしの目を覗きこんだ。
「何も心配するな。お前は何も心配しなくていい」
「でも…」
ウルキオラはため息を小さくついて、「こんな場面で言うはずじゃなかったんだがな」と呟いてからあたしを真っ直ぐ見つめた。青緑の綺麗な瞳があたしを射抜く。
「名前」
「は、い」
何だか、力んでしまう。
「名前、

結婚しよう」
…え。ええっと。頭んなか真っ白だよ、どうしよう?
「こんな、客から貰った指輪なんか外せ」
ウルキオラはあたしの左手の中指から真っ赤な指輪を外してゴミ箱に投げ捨てた。
「俺の、この指輪をして、俺の妻となってくれ」
「…っ、はい」
「今の仕事も、嫌なら辞めろ。それで専業主婦にでもなればいい」
「うん」
真っ赤な指輪のあった場所には、ダイヤモンドの指輪がはめられている。
「これ、ダイヤモンド?」
「そうだ」
めちゃめちゃ高かったに違いない。輪っかは捩れてて、ダイヤモンドが何粒かついている。
「綺麗ね」
そう言って、あたしはウルキオラがこれを買っているところを想像して思わず頬を緩ませた。
「ねえ、贅沢言っていい?」
あたしはウルキオラが頷くのを見て言った。
「あのね、結婚指輪はエメラルドがいいの。緑のやつ。小さいのでいい、だけどウルキオラの目と同じ色がいいな」
ウルキオラは小さく微笑んで、分かったと言った。あたしとウルキオラはいっしょの布団で寝て、抱き合って眠った。

朝、トイレに起きたら調度ウルキオラが仕事に行くところだった。
「いってらっしゃい」
新婚夫婦みたいにいってらっしゃいのキスをして、玄関で見送りをした。
布団にもぐって寝直そうとしたけど、幸せで胸がいっぱいで、何だかそわそわしちゃって眠れなかった。だから布団をしまって朝御飯を食べようとした。でもなんだか、いつもはたくさん食べれるけどお腹いっぱいで、結局ブルガリアヨーグルトだけ食べた。片想いしてたときみたい、そう独り言を言って一人で笑ってしまった。
そのあと、勤めてる店に行った。今日はオフなのにあたしが来たもんだから、オーナーはびっくりしたみたいだった。それに加えてあたしが辞めたいって言ったもんだから、もっとびっくりしたみたいだった。この店を選んだのは時給がよかったからで、なんとなくずっと勤めてたけど特に思い入れもなかったから、名残惜しくなんてなかった。むしろスッキリした快感を味わっていたほどだった。

帰り道、背の高いビルに切り取られた空を見上げて、あたしは胸に熱い涙みたいのがうずくまってるように感じた。
「はやくウルキオラ帰ってこないかなあ」
特に話すことも何も無いけれど、なんだかいつもよりウルキオラが恋しかった。