novel | ナノ



どうか醒めない夢を
 
謀反者の三人が尸魂界を去ってから、何日間かが経った。あたしたちはショックから立ち直りつつあるけど、胸にぽっかりあいた穴はふさがらない。虚は実際に穴が開いて、それは仮面になるという。だったらあたしの胸にあいたこの穴はどこへ行ったのだろう。彼が持っていってしまったのだろうか。

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まただ。苗字くんは気づいていないのかもしれないけど、彼女は執務をするとき、ちらちらと隊長の席へと目を走らせるのだ。普段は顔に出さないし、仕事に支障をきたすこともないけれど、たまに彼女は市丸隊長の名残のある場所を見つめている。
僕は、まだ市丸隊長のいらっしゃったときに、苗字くんが隊長に好意を寄せていることを知っていた。彼女に言われたわけでもないし、噂で聞いたわけでもない。苗字くんは隠し事をするのがうまいが、それは彼女に限ったことではない。僕だってそうやって生きてきたのだ。だから僕は彼女の好意を知った。そして、市丸隊長も苗字くんの気持ちを気付いていらっしゃったと思う。あの人は人間観察が趣味で、人の胸の内を探るのがうまかったから。だけど、珍しく彼女に手を出すことはしなかった。普通は自分に好意があると分かるとひとしきり遊ぶのだけれど、苗字くんにはしなかった。彼女に魅力がないのだろうかと思うがそうでもない。艶のあるさらさらと流れる髪、薄い唇、細くくびれた腰など、特別に美人というわけではないが女性として充分に魅力的だと思う。確かに目は鋭く冷たいし、胸もお世話にも大きいとは言えない。が、通りすがる度にかおるユニセックスな香りだとかしなやかな手つきだとか、美しいと感じるのだ。隊長のあの態度は何だったのだろうと、今でも思い返すと首をかしげる。本人に聞けばいいのだけれど、市丸隊長はもうここにはいない。はぁ、と気の重くなるため息をついて、こんなときにも積み重なっていく書類との格闘を再開した。

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執務室の窓は閉まっていて、外の音は聞こえない。いい天気だから外はきっと賑やかなのだろう。気が滅入ってしまうほどに。
「僕ちょっと他の隊に用があるから」
吉良副隊長はそう言い残して、執務室から出ていった。その間ちょっと休憩しようと、お茶を淹れるために席を立った。こうして一人になるとどうしても市丸隊長のことを考えてしまう。あのさらさらした銀色の髪だとか、いつもは細いけれどたまに開くと覗く空色の目だとか、飄々とした立ち回りだとか、何考えてるんだか解らない笑顔だとか。あの骨ばった指も、すらりとした体躯も。全部、恋しくてたまらない。こんなことになるって知っていたら、気持ちを伝えていたのに。市丸隊長は多分、あたしの気持ちに気付いていた。だけど、ちゃんと口で言いたかった。結果がどうであろうと、きっと後悔はしなかったにちがいない。はぁ、とため息をついて、湯飲みを手に席に戻ろうと振り返った。

「…え?」
湯飲みが手から滑り落ちた。そんなことが、あるはずがない。あたしの目は狂ってしまったのだろうか。市丸隊長に会いたくて、その気持ちが見せた幻覚?
今、こんなところに隊長がいるわけがない。
「なん、で」
「あれ、迷惑やった?」
窓が開いて、風が部屋の重たい空気を一掃した。
あのいつもの笑みを顔に浮かべ、市丸隊長はゆっくりと近づいてくる。
「いえ、そういうわけでは」
「なら、なしてそないな顔するん」
「それは、失礼いたしました」
「ああ、ええんよ。名前ちゃんが謝ることとちゃうし」
隊長は、あたしの目の前で止まった。初めて、こんな近くで市丸隊長を見たかもしれない。覚えず、涙が床に落ちた。
「名前ちゃんが泣くなんて珍し。泣くほどボクんこと嫌いなん?」
そう言って、隊長は顔をしかめた。そんなこと思ってないくせに。あたしのことなどどうでもいいんでしょう?貴方はあたしで遊びに来ただけ。
「ちがい、ます」
少し開いた瞼の奥で、空色の瞳がゆらめいている。
「あたし、隊長のこと好きでした」
あたしの気持ちは、脳を通ることなく衝動的に口からとび出した。自分の言ったことに驚いた。
隊長の目は大きく見開かれた。どうして?あたしの気持ち、知ってたんじゃないんですか。なんでそんな目をするんですか。

あたしの目の前で、隊長の口が、何かを伝えようと開いた。
「ボクは、」




ぱちり。あたしは目を開けた。市丸隊長はどこにもいなかった。あたしはイスに座っていて、机に顔を伏せて眠っていたらしい。体を起こすと、涙で頬と机がくっついていた。

…夢だったんだ。
机を見ると、あったはずの湯飲みがなくて、床に落ちて割れていた。窓は閉まったままで、吉良副隊長の姿はない。
「夢、だったんだ」
声に出して言うと、切なくなって涙がぼろぼろ目から落ちた。普段なら泣くことなんてないのに。泣かないようにって思ってるのに。涙はとめどなく流れ落ちる。あたしは腕の中に顔をうずめて、肩を震わせて泣きじゃくった。口を押さえても嗚咽が漏れて、こんなに悲しいのは初めてだった。
あのまま夢の中にいれたらと願う。そしたら、市丸隊長と会って話せていたのに。だけど、そんな願いは叶うはずもなく。時間も、もはや戻りはしない。どこを探しても市丸隊長は見つからないし、タイムマシンはない。
ああ、神様、もう一度だけ彼に会わせてください。