novel | ナノ



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佩名前は、となりの妹を見やって胸の内でため息をついた。どうしてこう頭が悪いのだろう。いや、頭の良し悪しは別にどうだっていいのだ。頭が悪くたって、誰かを殺したって、どうでもいい。どうでもいいから、自分に関係のないところでやってほしかった。
父の、彼女と妹への説教は延々と続いている。その間彼女は微動だにしなかった。ただ父親の後ろの壁の一点をじっと見つめ、返事もろくにしなかった。だから彼女は、たまに聞いているのかと頬を殴られた。それでも彼女は顔色ひとつ変えなかった。
「いいか、お前たちは佩家の者だ。したがってゆくゆくは四楓院家に―――つまり死神となって二番隊にお使えするのだぞ。二人とも佩家である自覚が足らん!」
今週、この言葉を聞くのは何度目だろう。出来の悪い妹と、しょっちゅう屋敷から逃げ出す名前のせいで、名前たちは頻繁に怒られていた。彼女にはそれがいやでいやで仕方が無かった。中流貴族で、しかも成金の家なのに、それを振りかざす父親が大嫌いだった。それに、自分の生まれを自分で選んだ訳でもないのに、佩家に生まれて嬉しいという演技をしなければならないのも気に入らない。彼女は、幼少の頃にそれを悟っていた。そして、それから数年すると彼女は家に逆らい始め、次第に屋敷を逃げ出すようになった。名前は自由になりたいと願った。流魂街は家ほど治安がよくないにしろ、自由が得られるだろうと思った。どうせなら、生まれてすぐに、流魂街のどこかに捨ててもらってもよかった。でもそうしたら今頃自分は自分を捨てた父と母を恨んでいるだろうなとぼんやり考えた。
半刻ほどして、彼女たちは解放された。部屋を出るとすぐに、名前とは逆の方向へ向かう。名前は父親同様に妹のことも嫌いだった。自分とは正反対で、誰にでも媚びる、猫を被った女。名前はこれが嫉妬というものではないと理解していた。その嫌悪感を前面に出したことは無いが、妹とは常に距離を置いている。妹もそれを知ってか、無駄に近付いてくることはない。何か話しかけても沈黙しか返ってこないのもあるだろうが。
名前は屋敷の外に出ると、行くあてもなくぶらぶらと歩いた。
「っ!?」
いきなり、衣文を誰かに引っ張られる。振り向きざまに肘を食らわせようとしたが、それもよけられた。
「オマエかァ、佩家の変わりもんゆうんは」
「…誰」
彼女は衣文を掴んでいる人を見上げた。
「アンタん子守頼まれた五番隊隊長平子真子や。よろしゅう」
名乗った彼は、およそよろしくとはかけ離れた表情で名前を見下ろした。
「誰に頼まれたの」
ぱし、と衣文を掴んだままの手を払いながら彼女は問う。
「アンタんとこの親父さんや。うちの子ぉえらいアホなもんでーゆうてうちの隊に頼みに来たんやで。なんでうちの隊やねん思おたけどお貴族様やからなァ」
「じゃあ帰って」
「は」
平子は彼女にべらべらと喋ったことを後悔した。なにしろ彼女の父親や女中が口をそろえて「あの子は頭が悪い」と言うものだからそれを鵜呑みにしてしまったのだ。まさか事情を話して「帰れ」と言うような子ではないと思っていた。
「あいつに言われて来たんでしょ。あいつは私のことなんか何も分かってなんかない。あいつがどう言ったって私は子守なんかいらないから、帰って」
彼は名前の言葉にしばらくぼうぜんとしていたが、慌てて気をとりなおして彼女に声をかける。
「そーゆー訳にもいけへんねんで。まーとにかく家入ろうや」
平子はそう言うやいなや、名前を担ぎ上げて玄関に向かう。彼の動きが速すぎて見えなかった名前は目を見開いた。
「おろして!私――」
「ええから掴まっとき、アンタん部屋行くんやから」
「…くそっ」
しばらく暴れていた名前だったが、やがて敵わないと知って悪態をついておとなしくなった。

平子は女中の案内で名前の部屋に行き、担いでいた名前を降ろした、が、袖をがっちりと掴んだままだ。
「放して」
「アカン。今俺が放したらアンタ逃げる気ぃでおるやろ」
名前は舌打ちをして、男を睨んだ。元々鋭い目が一層鋭くなるが彼はひるむ様子を見せない。それもそのはず、平子は護廷十三隊の隊長なのだから。
「アンタ名前なんてゆうんやっけ」
「…」
「無視すなや。俺名乗ったんやからアンタも名乗らなアカンやろ」
「…」
名前は無視を決め込んだらしい。平子の頭上の壁をじっと見つめ、口を固く結んだまま動かない。
平子はため息をつくと、名前を聞き出すことを諦めた。
「…なして外出よぉすんのか分からんけど、折角貴族に生まれたんやから家ん中で好きなことしたらええんとちゃう。もし頭悪いん嫌ならもっと勉強せえ。したら後でちゃんとええことあんねんで?」
彼女は平子の手を振り払った。平子の言葉に何を思ったか、名前はぎろりと彼を睨んで口を開いた。
「あんたは何も分かってない。頭悪いのは私よりむしろ妹。私は人並みにはできるはず。
それに、貴族に生まれたんだからって、それ本気で言ってんの?貴族に生まれたから好きなように出来ないの。私は自由が欲しい。自分の好きなように生きたい。将来は二番隊に行って、なんて決め付けられた未来は嫌なの。何も知らないくせに偉そうに説教なんてしないで」
そう言うと、彼女は挑むように平子を見た。平子はしばらくの間何か考え込んでいたが、やがて口を開いてこう言った。

「ならうちの隊来いや」
その言葉に、名前は目を見開いた。全く予想外の言葉で、彼女の脳がその言葉を理解するのにはかなりの時間を要した。
「アンタんとこの親父さんが言うてたわ。来月には真央霊術院入学するんやろ?したらこの家出ぇ。真央霊術院寮あるんやし、寮入って苗字も変え。ほんで卒業したらうちの隊来い。俺が面倒見たる」
名前は呆然とした。彼が何故、そう言ってくれるのか分からなかった。彼女の周りに、今までそんな人はいなかった。だから、まずは彼を疑った。
「…あの親父に金でももらったの」
「ハァ?そら子守代はもろたけど。アンタもう子守ゆう年やなさそうやけどなァ」
「そうじゃなくて、今の話」
「あァ、んな訳ないやろ。今の話親父さんなんかに聞かれてみい。俺殺されるわ」
おー怖ァ、とおどける彼を見て、名前はならば何故、と問う。
「んーせやなあ…なんや分からんけど。アンタ俺に自由欲しいゆうた時必死やったやろ。霊圧めっちゃ揺れとったし。俺そーゆーん弱いねん」
いい人ぶんな、と思いたかった。しかし、心のどこかがそれにストップをかけている。彼を信じてみようと言っている。こんなことは今まで周りに敵しかいなかった名前にとって初めての経験だった。彼女は戸惑った。その戸惑いを察して、平子が言った。
「まあ今決めんでもええねんで。苗字どないするかはあと二週間あるんやし、うちの隊来るかどうするんか決めるんは長くてあと六年はあるんやし。ゆっくり考えや」