それはほんの気まぐれだった。退屈な夜の暇潰しとして、偶然見つけたなまえ相手に器のふりをしてみただけで、別段他の目的はなかったはずだった。
戦闘での失敗を一人悩んで、人目につかない場所で目を腫らしながら取り憑かれたように戦術書を読み込むなまえがとても愚かで、たかが人間の一個体のくせに数多の命を全て抱え込んだ気になっている傲慢な思考を悪戯に解してやろうと思った、ただそれだけだった。
だというのに、まさか──


「ルフレ、いつものことだけど本当にごめんね。出来れば、今日のことで指導をお願いしたいです……」

果たしてこの目の前の男が器のふりをしているだけのギムレーだと気がつくか試して、適当に話して切り上げるつもりが、無駄に話を引き伸ばされていくうちに戦術指南まで仰がれることになるとは思わなかった。
声を掛けた当初こそ赤くなった眦を隠そうとしていたが、それにわざと触れてやってからはすっかりと隠すことをやめたようで、泣き腫らした目でギムレーを見つめるなまえは、付箋だらけの戦術書を両手で不安そうに抱える。
当然ながらギムレーには他者に教えられるような戦術の知識などない。器──ルフレならばこと戦術においては専門分野であるようだったが、今のギムレーでは生憎と器の記憶を意識して覗き見ることはできなかった。
ギムレー自身も戦闘の際は己の好き勝手にやりたいように暴虐を尽くしたり、稀になまえの指示に従ってあげたりしているだけで捻った戦略を思案して動いたことなど特にはない。
ルフレは戦闘の前にも戦略を考えてそれをなまえに進言したりとしているようだが、ギムレーはルフレとは違う。しようと思えばギムレーも提示こそはできるだろうが、理性的に計画を立てるよりも本能のままに破壊し尽くす方が彼の性に合っていた。
──本当は、このような展開になった時点で正体を明かすなりなんなりしてもよかった。先述したように戦略戦術はギムレーの知るところではない。素直に、自身がルフレではなくギムレーだとばらした上でなまえを嘲笑ってやる方がずっと面白かったし楽だったろう。
だが、どうしてかこのままあっさりとルフレではないと明かして去ることに気が引けたのだ。

(この目、非力な人間のくせに無駄に光を宿す輝きが大嫌いだ。抉りとってやろうか、それもいいな)

赤く腫れた瞼は憐憫を煽るのに、眼窩に嵌め込まれた柔そうな瞳からは、いっそ痛々しいとさえ哀れんでしまう程の輝きが失われることはない。過去を振り返り、それに一時は囚われながらも踏みしめて前に進む強さを持っているそれが──闇に堕ちることを拒み、その闇さえも呑み込んでしまおうとする、人の身にしては過ぎた希望が甚だ気に食わない。
そう内心では毒づきながらも、彼は優しいルフレのふりをし続ける。いつかその希望に押し潰されてしまいそうな迷える小間使いのために。ここで手助けしてやった方が、彼女が絶望に屈した時の愉悦が尚増すと言い訳を連ねて。
これは気まぐれ、単なる暇潰しのための余興に過ぎないと己に言い聞かせながら。

「相手にペガサスナイトが多かったからって、弓使いを選出しすぎたのがやっぱりだめだったのかな……」

そうぼやくなまえを横目に、ギムレーは昼の戦闘を思い返す。
弓使いを中心にパーティを組んだと彼女が言った通り、確かにギムレー以外はタクミ、ジョルジュ、レベッカと部隊には弓兵が多数占めていた。
だが、それ自体は悪手ではなかったはずだ。事実、敵はペガサスナイトやドラゴンナイトを中心とした飛行隊で攻めてきていたからだ。飛行騎兵は、地形に縛られない機動こそその強みだが、空を駆るが故に撃ち落とされればこれ以上にないダメージを負うリスクと隣合わせである。従って、ペガサスやドラゴンを地に引き摺り落とすことのできる弓兵こそ抜擢する面子であり当然の人選だ。
まずそこにミスはない、むしろ妥当な選定であると言える。であれば、着目すべきはその後の展開であろう。
他を省みることもなく己が意のままに敵兵を殲滅していたギムレーにとって、他者の動向など気に留める必要のないものだったため、思い出すのには密かに難儀したがどうにか想起して、思い至ったことを言葉にする。

「序盤は堅実に一騎ずつ撃ち落とす作戦で、悪くはなかったよ。ただ……中盤、飛行故の機動力に少しこちらの隊列が乱されていたね。あのままだと逆にこちらが敵陣の中に誘い込まれていただろうから各自散開させたんだろうけど──あそこはむしろ、固まるように指示したほうが四方をカバーすることができたんじゃないかな」

「そっか……。確かに、ルフレの言う通りかも。乱れた隙を突かれやしないかと焦ってあんな指示を出してしまったけど、なるべく固まってあらゆる方向に対応できるようにしてもらうべきだった。改めて反省するけどやっぱり私の指示が悪すぎたね、ありがとうきちんと指摘してくれて」

指南することに慣れていないが故の拙さを表に出さぬように取り繕って、なんとか形にしながら伝えたのだが、なまえはギムレーのアドバイスに真剣な顔をして頷くと、戦術書に先程ギムレーが述べた反省点を書き込み始めた。
ついさっきまで弱々しい人間らしく悲哀に満ちていたというのに、もう学びながら前進する強さを取り戻している。早く堕ちればいいものを、堕ちてこの邪竜にみっともなく縋ればいいものを。力にこそ頼りはするものの、決して搦めどることを許しはしないそんな姿が忌々しい──しかし、嫌悪すると同時に確かに眩しくもあった。
反吐が出そうなほどに眩しい、何よりも憎く嫌悪する人間共の希望の輝きそのもの。ギムレーにとってそんな光はただの煩わしきものとしてかき消すだけの対象だったというのに、どうしてかそれを今ここで摘み取ってやろうという気にはなれなかった。

「なまえ、自己反省もいいけれどもう遅い。明日に差し支えるだろうし、休んだ方がいいんじゃないかな」

「でも、まだまだ詰められるところは詰めないと──」

「君は指揮官なんだから、寝不足で鈍った頭で戦場に出るとそれこそ今日の比じゃないミスだってするかもしれない。軍の要は君なんだから、出来うる限り万全の状態でいないと」

予定よりも長くなまえに付き合っていたが、ただでさえ夜更けだったのだ、恐らくはもう日付もとっくに変わっているだろう。これより先の刻は、人間ではなく人ならざるものの時間だ、物の怪達の蔓延る夜闇こそがギムレーには相応しい。周囲を無粋に照らす光がその中を闊歩していればそれこそ、闇に潜むもの達にとっては格好の獲物である。特に指揮官であれば尚のこと、いくらここが自分達の領土内だとはいえこうも無警戒に外を出歩いていればいい暗殺の的だ。
それに加え、単純に人間の身体で起きていることは推奨されない時間帯でもある。ギムレーにとってはさして必要としない睡眠だが、人間は寝溜めをすることができない生物だ。非効率なことに、毎日一定の時間の睡眠を摂らねば満足に活動することができない。ただでさえこの戦乱の中では休息が必要とされる、それが司令塔という重要な役割を担っているなまえならば尚更だ。
ルフレの真似事でそう諫めはしたが、ギムレー自身の忠告も混ざっている。なので意図を察せずに食い下がろうとしたなまえに有無を言わせぬよう押し通せば、漸く彼女は諦めたのかこくりと頷いた。
これで話も一段落した、なまえの憂いも多少は解消されたようだ。ここで別れを告げようとも特に不自然ではないだろう。そう思案しながらギムレーは立ち上がったのだが──

(僕にしては、珍しくここまで付き合ってあげたんだ。……だったら、最後まで器のまま居てあげるのも一興か)

気まぐれに気まぐれが重なっただけ、憐れで愚かしい小間使いに対して欠片ばかりの慈悲を寛大に賜らせただけ。いずれこの慈悲はそれを上回る破滅で返してもらう。そう、ただそれだけのこと。云わば遠くない未来のための仕込み、他に理由などない。
執拗に何度も何度も自身に言い聞かせていることには気が付かないまま、──あるいは見て見ぬふりをしたまま、ギムレーは優男の仮面を被り続けてなまえへと手を差し出す。

「ほら行こう、部屋の前まで送っていくよ」

視界にちらりと映り込むだけでも虫酸が走るかの聖王へと器が向けていた笑み、それを模倣して、人当たりのよい暖かな微笑みを口元に浮かべる。なまえが以前、本物のルフレに対して好きだと言っていた笑顔でもあるそれを思い出せば、それほど難しいことではなかった。
案の定なまえは、ひどく安心したように微笑みながら手を重ねると、戦術書と筆記具を小脇に抱えて立ち上がった。
そのまま道中を、密やかに小声で談笑しながら歩く。邪竜に相応しいとは到底言えない穏やかな時だが、どうしてか差程居心地が悪いとは思わなかった。
やがてなまえの自室の前へと辿り着いたので、供はこれ以上不要であると判断して今度こそギムレーは去ろうとする。

「それじゃあなまえ、また明日」

「うん、また明日」

ふわりと、リラックスしたように笑うなまえがまるで月のようだと脈絡もなくそう感じた。
主張は激しくはないがしっかりと在るべき場所に鎮座して、柔らかな光を以て地上を包み込む夜空の月。
我ながら陳腐で詩人めいた例えをするものだと、器の真似事の裏で邪竜はせせら笑うが、この月が照らすものは邪竜ではなく人間の器だけに過ぎないという考えがふと頭に過ぎると、どうにも面白くないと感じた。
──ドロリとしたものが、ぼとりぼとりと胸中に落ちてくる。憎悪とも違う、破壊衝動でもない、しかし泥のように粘性があってべとりとへばりつくようなこれの名前を、単なる"不快なもの"以外の呼び名があるなどとギムレーはまだ知らない。嫉妬、というものを抱いたことがない邪竜にはこれは初めての感覚だった。
自身に起こる違和に首を傾げながらも、それを表面に出すことはせずに優男の仮面を被り続ける。
そして、その泥と微かな苛立ちを胸の内に仕舞いこんだまま踵を返して消えようとしたのだが──

「待って!」

数歩歩いたところで唐突になまえに呼び止められた。まだ何かあるのかと、モヤモヤした何かを抱えながら大人しく振り向くと、部屋の前から離れたなまえがすぐ後ろに立っていた。
わざわざ追いかけてきてまで何の用だろうか。「どうしたの?」とあくまで優しく問い掛けると、なまえはばっとギムレーの手を取る。
それには流石に驚いて、反射的に手を振り払おうとしたが──今は器のふりをしているのだからと寸での所で抑え込んだ。
ギムレーは人間に触れられることに耐性がない。それはそうだ、忌まわしい人間に触られるなど考えただけでもおぞましいからだ。
唯一、小間使いであるなまえにだけは、どうしても必要に駆られた場合にのみ渋々許可を出したが、彼女も人間だからか触れられてあまり気持ちのいいものではなかった。
今だってそうだ、ギムレーは、人間に手を握られているという事実だけでも自然に嫌悪が湧き出てくる。これがなまえ以外の人間ならば、その時点で即座に喰い殺していたであろう程度にはだ。

「いきなりどうしたんだい?」

「私、やっぱりどうしても貴方にお礼を言いたくて。……あ、ごめんね。つい手を掴んじゃって」

なまえは眉を下げてそう謝罪すると、握っていた手を離した。人間特有の気味の悪い体温の暖かさが薄れていくことに安堵、──しかし、どこかで残念だと落胆する気持ちが入り交じっていることに疑念を抱く。
何故、なまえが手を離したことを名残惜しいなどと感じてしまったのかと自問自答してみるが答えは出ない。思えば、なまえと会ってからずっとこの調子だ。なまえと接したこの短時間で、理解不能なものを幾つも植え付けられてしまったものだとギムレーは内心で辟易した。まるで呪術でも掛けられたかのように、ギムレーの心境には今までになかった変化が怒涛の如く現れていた。──だが、それは決して厭うべきものばかりではなかった、心底認めたくはないがそれは真実だ。
たとえ、本来は器自身に向けられるべき行動で、器が享受すべき感情だったとしてもだ。ギムレーが受けるべきでも知るべきでもなかったことだとしても、一夜の気まぐれにしては十二分に満たされた。後はこのまま、ルフレとして今夜を終えればいい、それだけだったのに。

「"ギムレー"、ありがとう。相談に乗ってくれて、ここまで送ってくれて」

「!」

──だから、この人間のことは特別に嫌いなのだと邪竜はその端正な顏をぐしゃりと歪める。最初から正体を知っていた癖に、軍師ルフレではなく邪竜ギムレーだとわかっていたくせに、器に対するものと同様の態度で接し続けたなまえが嫌いで、それでもやはりどうしてか放ってはおけずに、その在り方を追ってしまうのだから。




月が綺麗だと気付かせないで
(嫌いだ、嫌いだ、嫌いな筈だ。彼女が入れ物ではなく我自身を見ていたことに、心地良いなどとそんなもの)



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