Pedal | ナノ

「黒田くんってさ、運動不足っぽいよね」

 なんて、黒田雪成という人物を知っている人なら十人中十人否定するであろう言葉を何気ない顔でしれっと言い放ったのはまともに話した事もない、ましてや同じクラスになったこともない同級生「らしい」。
どうしてそんな肝心な所が曖昧なのかといえば、黒田がその言葉を泉田越しに聞いたからに他ならない。
確かに意味は分からなかったが、わざわざ知らないやつ相手に問いただす事もないだろうと「そいつ、随分と人を見る目がねーんだろうな」なんて相手の事なんてこれっぽっちも知らないくせして自然と口からは悪態が出ていた。
思ってもいないことだと泉田は分かっているのか否定も肯定もせずにただ曖昧な笑みを浮かべていた。


***


 体育の授業中、サッカーでハットトリックを決めた黒田を周りは持て囃した。敵チームにいたサッカー部員は「うちの部来てくれよ」なんて本気で声をかけてきたし、入る気なんてさらさらなかったが「手伝いにだけだったらいつでも行ってやるよ」なんて誇らしげに求められる優越感に浸った。
ひとつの部活に熱中しなくとも黒田にはそれで十分満足だった。それでよかった。
そんな事を考えていたら「黒田、危ねぇ!!」クラスメイトの声がして、刹那、見当違いな方向に蹴られたであろうサッカーボールが飛んでくる。

「っぶねェ!」

真っ直ぐに自分へと向かってくるボールを避けるために多少無茶な体勢をとる。
ボールには当たらず、無事避けることができたが身体だけでなくどうやら無駄に足首まで捻ったらしい。
周りに大袈裟に心配されながら少し痛む右足を庇うように、けれどみっともない姿は見せたくないため違和感のない歩き方をしようとびっこはひかず重い足取りでゆるゆると保健室へ向かった。

***

「…先生ならいませんよ」

本来保健教諭が座るべき椅子に悠々自適に腰掛け、カバーのかかった文庫本から目を離すことなく淡々と言葉を紡いだのは、ごくごく平凡、というべきか特筆すべきこともない女子生徒。
あまりに予想外な状況に何も言えず黒田はただ入り口に立ち尽くすことしかできない。
それに気付いた女子生徒はようやっと重い頭を気だるげに持ち上げて「ケガ?」短い言葉を吐いた。
呼応するように ああ、と端的な言葉で返せば机の上の一角を指差される。

「そこ、名前とかケガについてとか書いて…そしたらそこ座って」

我が物顔、というか教諭の居ない今保健室は彼女の城、らしい。
先生が任せてるならまあいいか、なんて考えることも億劫になり指示されるままリストに名を連ねる。
黒田雪成、と自分の名前の上にあったのはみょうじなまえ、来室理由の欄には体調不良、という文字だった。

黒田くんってさ、運動不足っぽいよね。そう言い放った、張本人。
知る限り同じ学年にみょうじなんて名字の女子は2人といなかった筈だし、きっとそうなのだろう。そこまで思い至ったところで目の前で用紙を回収される。

「右足首捻挫、ね。じゃあそこ座ってくれる?」

 言われるがままに椅子に腰掛け、素直に足首を差し出せばするりと靴下を脱がされ、ぺたぺたと冷たい手が触れる。
時たま少し力を入れては「痛い?」などと聞いてくる。痛い。
ふむ、と軽く唸ったあと立ち上がり棚をごそごそと漁ったかと思えばその手には湿布と包帯。
患部に湿布を貼り付けられ、小さな手が白い包帯を上手い具合に弄ぶ。
あっという間に巻かれたそれに感心していれば動かしてみて、と。

「さっきより大分マシだ」
「そう、それはよかった。軽い捻挫だから大丈夫だとは思うけどもし痛みが引かないようだったら病院行ってね」
「ああ…つーかお前、みょうじ…だよな?」

 唐突な問いかけに一瞬だけ面食らったような顔をしたけれど、すぐに元の冷静な表情へと戻る。

「…そうよ。人気者の黒田くんが、私なんかの事知っていてくれたなんて光栄ね」

 思ってねーだろ。その言葉は飲み込みつつ、こいつに会うことがあったら聞いておこうと思っていた疑問を投げかける。

「なぁ。これは単なる興味なんだけどよ」
「ええ」
「みょうじ、お前はどうしてオレのことを運動不足だなんて、例えたんだ?」

 怒りだとか、憤りだとか。そういったものを通り越してその疑問は黒田の中でただ純粋な興味に変わっていた。
その質問を受けたみょうじは上手く言葉が見つからないようで、少し口を開いては視線を彷徨わせ、閉口したかと思えば瞳まで閉ざす。やっとのことで出てきた言葉が、

「ここ、が、運動不足なのよ」

 細い指が、とん、と黒田の左胸あたりに触れる。その視線はまっすぐに黒田の瞳を射抜き、一瞬だけ息が詰まる。

「…ううん。ごめんなさいね、きっと単なる嫉妬なんだわ」

 そう言えば胸の上にそのまま手のひらを添える。
いきなりの行動に不意に高鳴る心臓に、この鼓動がバレてはいないだろうかと一抹の不安が募るが、みょうじはさして気にした様子はない。

「私ね。生まれつき身体が弱いから体育の授業もまともに受けられないのよ。だからきっと、何でもできる黒田くんに嫉妬してたの」
「みょうじ…?」
「だって黒田くん、どんなスポーツだってできるのに、何かに心底熱中してる姿って私、見たことがないの」

 だから、「心が運動不足」。羨ましくて、ついそんな例え方しちゃったのね。なんてことのないように紡がれる言葉は、ひどく黒田の根底を揺さぶって、自分がいかに無意識下で目の前の女子生徒の心を踏みにじっていたかをまざまざと見せつけられる。
無論、そんなことは黒田の知ったことではなかったし、今こうして話を聞くまで自覚もなかった。みょうじもそんなことは分かっているから責めもしない。
謝ったところでどうもならない、どうしようもない。
それが分かるからこそ開いた口から言葉は出ない。

「だからね、我儘だって分かってるんだけど…聞いてくれる?」

 みょうじの縋るような目線、声色、すべてに惹き寄せられて自分でも知らないうちに「ああ」なんて返事をしていたことに動揺を隠せなくなる。

「もし…もしも今後、黒田くんが全てを賭けてもいいような物事に出会うことができたら、少しでもいいから、私のこと…思い出してほしいんだ。こんなやついたな、程度でいいから」

 それだけが私のお願い、なんて眉根を寄せながら苦笑するものだから、胸の上に置かれていたそのちいさなちいさな手を掴んで、世迷言のようなことを言ってしまったんだと思う。

「だったらその、オレが心の底から熱くなれるような物が見つかるまで、みょうじ、オマエがオレの横にいろよ。そうしたら一番に教えてやれるし、なんなら、同じ景色を見せてやる!だから、」
「………黒田くん、」

 なんか、それ、プロポーズみたいで照れるね、なんて頬を赤らめるものだからその熱が移って黒田の顔まで赤くなってしまったのも、致し方ないことだ。

「じゃあ、それまで、隣にいてもいいかな」
「おう。見つかるかどうかはわかんねーけどな」
「なら、一緒に探せばいいよ。」

 無邪気に笑うみょうじは出会ってからいちばん明るく、眩しく見えた。
これはみょうじの言う「心の運動不足」とやらが解消される日も遠くないかもしれない、なんて高鳴る胸を抑えながら体育の授業が終わるまで、他愛もない話をしながらお互いの親睦を深めた。


***

「あれ?みょうじさんも進学、箱根学園なの?」
「あ、泉田くん。黒田くんから聞いてなかった?」
「ユキは知ってたんだね」
「ていうかその、黒田くんにプロポーズされたから。オレの横にいろーって」

「おいテメェみょうじ誤解招く言い方はやめろ!」
「酷い、あの日の言葉は全部嘘だったのね?」
「ははっ、随分仲良くなったんだね」
「開き直ってからめんどくせーんだよみょうじは!」