「おねえちゃん、雪」「そうだね」「初雪だよ」「そうだね、初雪だ」「うれしいね」「うれしい?」「うん」「そっか、よかった」
窓から手を伸ばして、舞い落ちる雪のひとひらを掌で受け止める。そのまま口元へ。溶けきる前に、急いで口に含む。「なにしてるの?」「ちょっとね」今年の雪は、また一段と度数が高いようだ。
この街の雪は、他の地方の雪とは違う。この街はワインセラーと称されるほど酒造で有名だが、どうしてだか白ワインの雪が降る。それも上等な。
この街の冬は長く、雪も多い。だから雪の多い冬の盛りや、春が近づいて雪が解けだす頃など、町中がほろ酔い状態で、どこか楽しげな雰囲気を醸し出している。
そういうものだと思って育っていたから、2年ほど街の外で暮らしたときには驚いた。
雪が白ワインになる理由はわからない。ただずっと昔に誰かが戯れに雪を溶かして、飲んでみたら白ワインだったというだけの話だ。ここのように閉ざされた街では、外界との差異はあまり大きな問題ではない。
「おねえちゃん、お母さんがいる」
この街にはもう一つだけ、不思議なことがある。
「ねえ、お母さんだよ」「どこ?」「あの木の下」「ああ、あそこ」「お母さんだ」「よかったね」
不思議な不思議なこの街の雪には、さらに不思議なことに幻覚作用がある。
雪に酔う、ここの人たちはそう表現する。
その現象を幻覚と言い切ってしまう人もいれば、普段は見えないもう一つの世界が、酔いを介して目に見える形で現れるのだと、そう言う人もいる。
この街では、冬の間だけまぼろしが見える。
失ったもの、大切だったこと、愛していた人、今も思い続けているもの。
そういったものが、冬の間だけ目の前に現れるのだ。それもまるで、現実のものであるかのように。
長い長い忍耐の冬。雪に酔った人だけに見える、やさしいせかい。
やさしい冬の街。そんな評判が広まったこの街には、外からたくさんの人が集まる。
失った人、悔やむ人、恋しがる人、愛し続けている人。
春夏秋と、何事もないかのように笑って暮らす人も、祈るように冬を待っている。
この街がワインの特産地でありながら酒の消費量が少ないのも、そこに関係している。
うっかり飲みすぎてアルコールへの耐性がついてしまえば、それだけ雪にも酔いづらくなってしまう。
まぼろしを望むこの街では、酒はあくまで時折飲むものでしかないのだ。
だからこの街の人々はだいたいがあまりお酒に強くない人で、お酒に強い人というのはほとんどいない。
「おねえちゃん、お母さん、しあわせそう」「そうだね」「よかった」「よかったね」「ちゃんと見てる?」「見てるよ、しあわせそうだ」「うん!」
3年も前にこの世を去った母だ、本物でないことは弟も知っている。
ただ、目に見えるまぼろしが、本当の意味で幻でしかないことを、弟はまだ知らない。
幸せそうに見えるのは、そうあってほしいと"こちら側"が願っているから。
そう教わったのは去年の冬で、教えてくれたのは勤め先の上司だった。
やさしい冬の街は、雪に酔った人の心を映す。
人の心を反映するからこそ性質が悪いのだと、吐き捨てるように言っていた。
どんな幻でも所詮幻と切り捨てられないこの街は、病んでいるのだと。
まっすぐに伸びる指の先の、そんな真実を弟はまだ知らない。
弟だけではない、この街のまぼろしに縋る"こちら側"の人々は皆おそらく知らないだろう。
けれどそれでいい、その慰めを得るために、私たちはこの街に留まった。
裏の路地に一歩入れば、頭を垂れて懺悔の言葉を繰り返す人がいる。
許してくれと、叫びながら命を絶つ人もいる。
雪が見せる幻覚はやさしいものばかりではない。
まぼろしは、自分の心を映し出すから。
「引っ越さなくて、よかったねえ」「そうだね」「冬になれば、毎日お母さんに会えるもの」「そうだね」「お父さんは、どうして出て行っちゃったのかな」それはね、父さんが、母さんを殺したからだよ。「なんでだろうね」
実は、初雪程度の雪に酔ってしまう人は、この街にもあまり多くない。
お酒に強い人と同じくらい、全く飲めない人も少ないのだ。
弟は、アルコールに酷く弱い。
そして父も、同じようにアルコールへの耐性がなかった。
罪の意識を抱えたままに見る雪景色は、父に何と言ったのだろう。
それを知る手立てはなく、父は逃げ出すようにこの街を出た。母がいなくなって、一度目の冬のことだ。それから春になっても、父は帰ってこなかった。
「ほら、そろそろ寝る時間だよ」「えー、まだ起きてる」「だーめ」「…明日もお母さんに会える?」
窓の外を見る。雪はもう止みかけている。「明日は、無理かもね」「だったら起きてる」
弟が口をへの字に曲げた、こうなると聞かない子だ。けれど今は切り札がある。
「お母さん、遅くまで起きるって言ってるの聞いてどんな顔してる?」
「…かなしそう」「そうだね」頭を一つ撫でる。やさしい弟。「どうする、まだ起きてる?」「ううん、今日は寝る」「良い子。おやすみ」「うん。おやすみなさい」
お母さんも。そういって窓の外に向けて弟は手を振る。
弟の目に映る母は、手を振り返したのだろうか。
弟を部屋へ送り出して、それから窓の外を眺めた。
私の視界にも母が現れるような気がして、窓辺の椅子から、ずっと。
初雪はしぶとく朝まで降り続けたが、結局空が朝焼けに染まっても母は現れなかった。
当然だった、初雪で酔えるほど、私はアルコールには弱くない。
今日も仕事なのに、馬鹿な徹夜をした。
けれどおそらく、この街の大人たちは、きっと皆私と同じような夜を過ごしただろう。
それはここが、幻を与えてくれる街だから。
やさしい冬が、今年もまた始まる。
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こちら【#リプで貰ったキーワードやモチーフを使って世界観や世界を作るよ】より
まぼろし/白ワイン/雪/朝焼け でした。